テセウスの船のジレンマ

 五月初旬にしては日射しが強く、心なしか志島家の墓石も暑がっているように見えた。

「遅れて、すみませんでした」

 合掌する斎波さいなみの腕にも汗が伝う。こんなに暑い日は、きっと先生はビールを飲みたがっただろう。

 ――花のついでに買ってくれば良かったな。

 もう大人になったつもりでいたが、まだまだ考えが足りていなかった。自分に苦笑しなから墓前に花を飾る。

 劇団ブルートループの創立者、志島青児しじませいじの急逝から二年余り。代替わりした劇団もようやく軌道に乗りだした。今回の墓参りはその報告を兼ねたものである。劇団の役員でなければ志島家の親族でもない、ただの一団員にすきない斎波がそんなことをするのは、本来筋違いなのだろうが……。

 斎波正己まさきは今年で二十三歳になる舞台俳優である。世間的にはまだ若手と見られるだろうが、ブルートループに所属したのは中学生の頃――もう十年も俳優業を続けていることになる。演劇に半生を捧げてきた斎波にとって、ブルートループは第二の家であり、師であった志島氏のことは父のように慕っていた。

 とはいえ、命日を大幅に過ぎてまで墓参りをするのはやや変わった感覚であることは斎波自身も承知していた。頻繁に墓参りに行くことをよく知人からネタにされてしまっている。そんなに愛してるなら婿養子にでも入ったらいいのに、と――余計なお世話である。

「さて――」

 ひとしきり墓前に近況報告をし、供え物を片付けていると、ポケットの中で着信が鳴った。志島氏の長女であり、ブルートループ現代表の志島亜理愛ありあからである。

「斎波君、今どこ?」

 スピーカーからは刺々しい声が聴こえてくる。

「墓地だが」

「墓地って……まさかうちの? ちょっと、今日の予定は忘れてないでしょうね?」

「ああ、二時にスタジオに集合、新入団員の紹介だろう? ここからスタジオまで電車で一時間半、問題なく間に合う」

「そうだけど……! 重要な通達もあるって言ったでしょう!? わざわざ今日に行かなくったって良かったじゃない!」

 電話越しの声はヒステリックで耳につき、ついつい返す言葉が冷たくなってしまう。

「団長とはいえ、君に私のスケジュールにまで口を出すいわれはないと思うが。休日くらい好きなように時間を使わせてくれ」

 亜理愛が沈黙してから、語気が強すぎたことに気づく。昔なじみと話しているとついつい口が滑ってしまう。

「……すまない、言いすぎた」

「いいえ……とにかく、ちゃんと来てちょうだいね。劇団の今後がかかっている話だから……」

「ああ、わかった」

  通話が切れ、斎波は志島家の墓を再度見た。劇団の今後、か。新入団員を紹介するにしては大袈裟な言いようである。

 個人としての亜理愛はさておき、代表としての彼女とはどうもそりが合わない。高圧的な物言いに辟易している団員は斎波だけではないだろう。もちろん、それがトップに立っている責任や重圧から来るものであろうことは理解しているのだが。

 長年の付き合いで、彼女が決して他人に見られているほど高慢で意地の悪い人間ではないことはわかっている。だからこそ、志島先生がまだご健在で、亜理愛が代表を継がなくて済んでいたら――などと詮のないことを考えてしまう。

「あの頃に戻れたら、な」

 口にして、まるで随分歳をとったような自分の口ぶりに少し笑う。

 亜理愛が入れた新しい団員は、いったいどんな人達だろう。顔を合わせるのが少しだけ不安だった。




 午後一時二十分頃。ブルートループ事務所兼スタジオ。斎波が軽めの昼食を済ませて会議室に向かうと、既に先客がセッティングを始めていた。

「あらっ、斎波くん久しぶり! 今日はフリーなの?」

 先輩団員の葉原ははらがオフィステーブルを運ぼうとしているのを反対側に回って手伝う。

「はい。ようやく一段落したので、しばらく羽を伸ばせそうです」

「お前もよくやるよなあ」

 奥でテーブルを運んでいた枯木かれきが半ば呆れたように言う。

「テレビドラマにローカル局のバラエティに、よそ様の公演に出たり? 忙しいなあ。こないだのイーグレット航空のやつにも行ってたんだろ」

 先週末まで劇団イーグレット航空の舞台公演があり、斎波は端役として参加していた。イーグレット航空とは先代団長の頃から縁があり、代替わりでごたついたときも随分助けられた。

「そうねえ。仕事熱心なのは良いけれど、ちょっと詰めすぎじゃない? あんまり頑張りすぎたら体壊しちゃうわよ?」

「カンベンしてくれよなあ。お前さんはウチの大黒柱なんだからな。万が一お前が倒れちまったら終わりだよ、屋台骨ごと崩れて全壊だ」

「大丈夫ですよ、体調管理には気をつけています」

「そう? でも、お陰で本当に助かってるわあ。斎波くんがあちこち行って宣伝してくれるから、うちの名前もだいぶ広まってきたし。ほんとに頼りになるわあ」

「おい」

 と――あからさまに無愛想な声が会話を遮った。

「椅子を持ってきた。置いていくぞ」

 カッターシャツの上にパーカーを取った、鋭い目つきの少年。名前は確か真鉄まがねだったか。正式な団員ではないが、数年前から劇団内を出入りしていて、こんな風に裏方の手伝いをしている。確か、まだ高校生のはずだが……すっかり曜日感覚を忘れていた斎波は今日が休日だったことを今思い出す。問題のある言動が多いが、授業はサボタージュしていないらしい。

「ありがとう。手伝わせちゃってごめんなさいね。あとはあたし達がやるから、自由にしてていいわ」

「ふん」

 葉原の労いには鼻を鳴らすだけで応じ、真鉄は枯木をにらみつける。眼差しに気づいた枯木の顔も険しくなる。

「なんだよ、ボウズ。ガンたれるくらいなら口で言え」

「枯木くん、そんな言い方……」

「他の柱に頼りきりで自ら働くつもりもない支柱がいるとはな。たかだか柱の一本折れた程度で崩れるような組織なら、さっさと解体してしまえばいい」

 次の瞬間真鉄の口から飛び出した暴言に枯木が立ち上がる。

「おい、お前――」

「真鉄君」

 今にも怒鳴りつけそうな枯木を制し、斎波は真鉄に静かに言う

「君に意見があるのはわかったが、そんな言い方では反感を持たれて不用意に敵を増やすだけだ。年功や上下関係を強要はしない。だが、最低限言葉遣いには気を使ってほしい」

「身の程もわからず、聞く耳のない奴らに使ってやるような“気”はない」

「君も自分の立場をしっかり見つめ直すべきだな。そうやって自分を不利に追い込むことは賢いことだとは思えないが」

 真鉄はしばらく斎波をにらんでいたが、やがて諦めたように踵を返して会議室を出ていった。噛みつき癖のある少年だが、こちらが冷静に対処すれば大事にはならない。

「――かあっ! ホント生意気なガキだな! そのうちマジでシメてやらなきゃだろ、アレは」

「枯木くん、相手は子供よ」

「にしたってイキりすぎだろ。口の利き方だけなら城戸きどよりひでえぞ。ほっといたらそのうちろくでもないことしでかすぞ、あれじゃあ――」

「枯木さん、その話はまたあとで。今はまず、セッティングを済ませてしまいましょう」

 時計を指しながら言うと、枯木がぐう、と言葉を詰まらせる。集合時刻まであと二十分。そろそろ他の団員も集まりだすだろう。

「……はあ。まったくなんつうか、可愛くねえんだよなあ」

 枯木は一つ溜息を吐き出すと、再び作業を始めた。

 五分前には準備も整い、団員達もほとんど集まっていた。

「ええっ!? じゃあ葉原さん達が全部やってくれたんですか!? すみません、手伝いもしないで…」

「いいのよ、薄川うすかわちゃんはまだ慣れてないんだから。そんなに大変なことでもないんだし」

 会議室に用意された椅子に座っていく団員達。その数はお世辞も多いとは言えず……顔ぶれの半分はこの一、二年で入ってきた“新入り”である。口さがない者が見れば『落ちぶれた』と言われてもおかしくない状況だった。

 二年前――先代の死後、亜理愛が代表就任を表明したことで劇団内は大いに荒れた。他に後継を名乗り出る者こそいなかったが……組織のトップを務めるには、当時二十代前半だった亜理愛は若すぎたのだ。

 代替わりを認めなかった古株達が脱退していったの皮切りに、多くの団員が辞めていき、抜けた穴を埋めようと奮起する亜理愛が高圧的だとさらに人望を失い――気づけば団員数は全盛期の四分の一にまで減っていた。葉原や枯木、そして斎波は、そんな中でも劇団に残り続けた数少ない古参なのだった。

 あの頃を思えば、今こうして劇団が存在していることは奇跡に等しい。のみならず、新しい団員が入ってきてくれる程にまでなったのだがら、素直に喜ぶべきであるのだろう。

「斎波くん、どうしたの? 浮かない顔ね」

「え、ああ、いや……」

 複雑な心境が表情に出てしまっていたらしい。隣に座っていた葉原に心配されてしまった。

「今日入ってくるのは、一体どんな人でしょうね」

「さあ……こんなにもったいつけるってことは、有名な人なのかもねえ。アイドルとか、どこかのタレントとか?」

「流行りのイケメン俳優かも、なんてさっきスタッフの子達がウワサしてましたね」

 葉原の向こう側に座る薄川が会話に加わってくる。要領の良いタイプなのだろう、斎波とそれほど歳の変わらない若手女優の彼女は、気づけばあっという間に劇団になじんでいた。斎波も時折、彼女が新入りであることを忘れそうになる。

「ああ、だとしたらメディアからの注目も集まりますね。取材も来るだろうな」

 だとすればこの仰々しさも頷ける。現在のブルートループの大多数は若い団員である。メディアからの取材に対して不用意な発言をし、それが“炎上”の火種になってしまうことも考えられる。そういったリスクについての言い含め、あるいは口止めも今ここでなされるのだろう。

「万が一売れっ子なんかが入ってきたら、中も外も大騒ぎになっちゃいますよね。触発されて入団希望者が殺到したりして」

「ロッカールームが狭くなっちゃうわねえ」

「トラブルまで増えなければ良いんですが」

「ああ、だから心配してたのね。そうよねえ、また騒動が起きて沢山脱退されちゃったら元の黙阿弥だもの。せっかくここまでみんなで一丸となって頑張ってきたのに」

 斎波ははは、と笑って領く。しかし斎波の不安は、葉原の指摘からは少し外れたところにあった。

 人員が増えると、その分組織の様相も変わる。単純に構造も変わるだろうし、入った分抜け、抜けた分入るといった新陳代謝も起こる。それが正常な、健全な組織の在り方なのだろう。

 そうしてブルートループが新生していく度、かつて斎波が育ち過ごした昔の面影が失われていく――それが、斎波が密かに厭うていることなのだった。

 ――まるで子供のわがままじゃないか。

 口に出して言えるようなことではない。言ったところで笑われるか、失望されるだけだ。斎波自身、自分の幼稚さに呆れてしまう。この期に及んで、こんな浅ましい考えに囚われるとは。

「斎波さんって結構心配症? まさか、そんなこと何回も起こらないでしょう。呪われてるんでもあるまいし」

「そうかな。そうだろうか……」

 返事に窮してると、志島亜理愛が会議室に入ってきた。カジュアルながらも品のあるまとまった服装の、気の強そうな顔立ちの美女。笑えばそれだけで人を惹きつける容姿だが、代表としての彼女が笑っているところを斎波は未だ見たことかない。

「全員、揃ってるわね」

 つかつかと中心まで歩いてきた亜理愛が団員達を見回す。途中、斎彼と目が合うか、斎波が反応する前に視線が外れた。

「OK。じゃあ早速始めるわね。先に伝えていたように、今日は新しい団員を紹介します。みんな、入ってきてちょうだい」

亜理愛の合図で新入団員達が入ってくる。全部で四人。いずれも若い。と、その中の一人に対して団員達の中から歓声が上がった。斎波もその姿を見てはっとする。

「静かに! ……じゃあ、まず伊櫃いびつ君から、自己紹介して」

「はあい」

 呼ばれた男性がややすねたように返事する。歓声が自分以外の人に向けられたものであることが気に食わないのだろう。四人の中では一番若く見える、もしかすると未成年かもしれない。

「伊櫃築也きずやです。大学一年、ダンスが得意です。早く最前線で戦えるように頑張ります」

 なるほど、見るからに上昇志向が強そうだ。細い目をぎらぎらさせて、威嚇するように団員達を見る。城戸と似ているな、と斎波は現在療養中の知人を連想した。

「じゃあ次、吾風あがかぜ君」

「……」

「吾風君?」

 亜理愛の再度の呼びかけに、伊櫃の隣でぼうっと立っていた男がびくっと肩を震わせた。

「……おー、おれ?」

「あなたよ。早く自己紹介して」

 あからさまに苛立っている亜理愛を意にも介さず、男はへらへらと笑う。亜理愛と同じくらいか、やや歳上か? しかし仕草や表情は子供のようで、いまいち年齢が掴めない。ふにゃふにゃと柔らかすぎる、悪く言えばだらしがない立ち姿に、斎波は軽い嫌悪感を覚えた。

「吾風ユウジでーす。よろしくー」

「…… 吾風君はキャスト希望ですが、演技の経験はないそうです。近々他の若い子と一緒にレッスンを受けてもらうから、よろしくお願いね」

「えー、おれレッスンやだなー」

 とても成人しているとは思えない発言に亜理愛が頭痛をこらえる仕草をする。隣の伊櫃も心底軽蔑したように吾風をにらんでいた。……大丈夫なのだろうか、この男。

「次に行きましょう。生越おごせさん、お願い」

「私も前座か。ま、仕方ない」

 次に前へ出てきたのは、四人中唯一の女性だ。一番最後に回された男程ではないが、彼女もなかなかの有名人だ。すらりと長い手足にぱっちりした瞳、可愛らしい容姿をユニセックスなファッションで包んでいる。

「生越たつみです。 テアトル・パピヨンから移籍してきました。顔なじみな人もいると思うけど、改めて、初めまして。よろしくお願いします」

「きゃあっ、たつみさん! 大好きですー!」

「ありがとう」

 黄色い声を上げる女性スタッフに優しく微笑みかける姿は彼女が単なる“若手人気女優”ではないことを感じさせる。老舗の歌劇団テアトル・パピヨンで異例の若さで主演として男装の麗人を演じて以来、幅広い世代の女性に人気を集めている……という評判は斎波の耳にも届いている。

「ありがとう、生越さん。じゃあ、最後に宍上ししがみ君」

 生越と立ち位置を入れ換える、斎波と同じくらいの年齢の男――たとえ彼のことを知らなくとも、その端麗な顔には釘付けにされていただろう。細い身体に涼やかな目元。男にしては少し長い髪もまるで違和感を覚えさせない。彼に色めきたっていた女性達も、彼が前に出て来た途端水を打ったように静まり返った。昂揚が彼女達のロから言葉を奪ったのだろう。

「キミドリプロから移らせていただくことになりました、宍上紅蓮ぐれんです。舞台でのお芝居はあまり経験がないので、皆さんの足を引っ張ってしまうかもしれませんか……どうかお手柔らかにお願いします」

 宍上が一礼すると、それを皮切りにきゃあっと歓声が爆発した。今度はなかなか収まらず、亜理愛も制止を諦め困ったように髪をいじっていた。

 テレビドラマや地上波のバラエティ番組を押繁に見ていれば、宍上紅蓮の名を知らぬ者はいないだろう。子役時代から大河ドラマ出演など着実にキャリアを積み上げていき、十九歳の頃主演した映画の大ヒットをきっかけにブレイクした若手人気俳優――もちろんその人気は彼の端正な外見から来るものが大きいのだろう。しかし何回か共演した斎波は、彼がその美貌に驕らずしっかりと実力を身につけていることを知っていた。

「うわ、本物……顔キレイすぎ、ウソでしょ……!?」

「信じられないわね……うちにまさか宍上くんが来るなんて」

 予想だにしない展開に斎波も動揺していた。飛ぶ鳥を落とす勢いである宍上が、所属事務所を抜けてまでブルートループに入って来るとは。全盛期ならまだしも、現在のブルートループは決して大手ではない。どころか、つい最近まで困窮していた有り様だったというのに。

「どうして――」

 思わず洩れた疑問符とともに宍上を注視していると、彼の視線がこちらを向いた。

「!」

 笑った――ように見えた。明らかに、斎波に向かって。

 いや。斎波は思い直す。せいぜい、目が合ったから愛想笑いをされただけだろう。面識があると言っても、向こうは人気スター、かたや中小劇団の青二才。顔を覚えているかも怪しいような間柄だ。らしくもなく浮き足立ってしまっている自分を戒める。

「――知っての通り、宍上君は今大注目の人気俳優です」

 黄色い悲鳴が収まりきった頃、亜理愛が話し始める。

「本格的な舞台のお芝居をしたい、ということで、所属事務所のキミドリプロダクションさんと協議を重ねた結果、うちへ来てくれる運びとなりました。メディアへの対応やファンの方々の混乱を考えて、正式発表は後日行うことになっています」

 先程葉原や薄川と話していた予想と大差ない内容だった。発表されるまではSNSやブログなどインターネット通信も含め、非関係者への口外は一切厳禁。発表後も、メディアからの取材には個人で応じることはしないこと。宍上含め、新入団員に対しては節度を持って接し、過度にプライバシーに関する質問をしないこと……などなど。

「そんなの今時子供でも知ってるよ」

 伊櫃が宍上をにらみながら毒づく。吾風はいかにも眠たそうに大あくびをしている。亜理愛は咳払いをして続けた。

「長くなってしまったけれど、最後にもう一つ。今年の十一月、キミドリプロの助力を受けて、大規模な公演を企画しています。内容は未定で、まだ詳しいことは話せませんが……今後の当劇団の明暗が決まる大舞台となるでしょう。誇れる公演となるよう、全員気を引き締めて携わってください」

 亜理愛の発言に場が再びざわめいたか、彼女はそれ以上語ることなく解散を告げた。――大手芸能事務所の力を借りた、大舞台。本来、宍上の入団以上の大ニュースのはずだが……実態が不明のプロジェクトよりも目の前の美男美女に気が行ってしまうのが人の性か。亜理愛が去った会議室では、早くも宍上や生越を囲む輪が形成されていた。

「たつみさん! 『夕なぎ』見ました、もう本当最高で……!」

「本物だあっ! すっごいサラサラ、目おっきいー!」

「ふふ、ありがとう。あなたも可愛いよ」

「宍上くん、このあと予定ある? どっか食べに行かない!?」

「フレンド登録しよ! これから色々業務連絡とかあるし!」

「え、えっと、ちょっと待ってくださいね……」

「すげー食いつきだな。池のコイかよ」

 離れたどころから騒ぎを見て、げんなりとした表情で枯木が言う。一方、伊櫃と吾風はほとんど相手にされずにぽつんと立っている。見かねて斎波が向かうと、苦笑いを浮かべた葉原もついてきた。

「初めまして、そしてお疲れ様だな。私は斎波正己だ、よろしく」

「葉原地広ちひろよ。大変ね、初日からこんなことになっちゃって」

 葉原の言葉に、伊櫃が「まったくだよ!」と不満を露わにした。

「別に熱烈に歓心しろなんて言わないけど、何これ!? みんなしてイケメン様と美人さんに夢中になっちゃって、こっちには挨拶もないんだ! 最悪!」

「タイミングが悪すぎた。彼らは有名人だ、仕方ない」

「そうだよ、あんなのと一緒にされたら誰だって霞んで引き立て役にされるに決まってる! 動物園のおサルにもわかるようなことなのに、あの女シャチョーさん、何考えてるの!? 頭おかしいんじゃないのっ!」

 怒り心頭になるのももっともな、あんまりな扱いだったのは事実だ。しかし、それにしてもよくロが回る。叱りたくなるのを、まだ彼は入りたてで、無闇に威圧すべきではない、とぐっとこらえる。

「そうねえ。団長にもあとで言っておくわ。でも、あんまり大きな声で悪口を言っちゃ駄目よ? 伊櫃くんのこと誤解されちゃうわ」

「フン!」

 と、伊櫃はろくに返事もせず大股歩きでその場から離れていった。葉原と顔を合わせ、肩をすくめる。

「吾風くんはどう? くたびれたでしょ」

「うん、疲れたあ。おれ、喉乾いちゃった」

 吾風はまるで疲れた様子もなく、へらへらと笑っている。

「どっかにジュースとかない?」

「向こうの扉を出て、左に真っ直ぐ行った先の休憩室に自販機があるわよ」

「マジかー。よーし……あっ」

「どうかしたのか?」

「おれ、サイフ忘れちゃった。お金貸して?」

「……ちゃんと返してね?」

 絶句していると葉原が自分の財布から小銭を出し、吾風に渡した。

「わーい、サンキュー」

 子供のように走っていく吾風を見ていると嘆息せずにはいられない。

「大丈夫……なんでしょうか」

 呟いた言葉に、葉原か少し困ったように微笑んでくる。

「さあ……でも、そんなに心配することないと思うわ」

 大丈夫、なのだろうか。彼も、これからの劇団も。

 相変わらず止まない歓声を聴きながら、斎波は言葉にできない不安を抱えていた。





「ああ、いた! 斎波さん!」

「宍上君?」

 二時間後――日課の自主トレーニングを終え、ロッカールームで帰り支度をしていた彼を呼びめたのは宍上だった。長時間質問攻めにされていただろう宍上はすっかりくたびれた様子だったが、斎波の姿を見るなり嬉しそうな顔になる。

「お久しぶりです。覚えてますか、僕のこと」

「あ、ああ……いつかの映画の時以来か、久しぶりだな」

 覚えていたのか……どころか、向こうから会いに来られるとは。次から次へと予想外に見舞われ、斎波は面食らう。

「すみません、本当はもっと早く挨拶したかったんですけど、なかなか抜け出せなくて」

「君は人気者だからな。それに、今日から同じ劇団の仲間なんだ、気を遣ったりしなくても良い」

「ありがとうございます。でも……やっぱりちゃんと会っておきたくて」

 以前話した時と同様、来上は真面目な好青年だった。眩しい笑顔がチャーミングで、女性から好かれる理由が理解できる。

「僕が舞台のお仕事を意識するようになったのは、斎波さんと話してからですから」

「そう、なのか?」

 宍上と出会ったのはとある連続ドラマの撮影でのことだった。漫画が原作のミステリードラマで、宍上は主人公の少年探偵役を演じていた。斎波はいわゆるゲストキャラクターで、とある殺人事件に巻き込まれた高校生――実はその事件を起こした真犯人役で共演した。

 テレビドラマにはあまり出演せず、同年代の若手俳優と接する機会が少ない斎波は、そのとき出会った宍上と意気投合したのをよく覚えている。若手としての将来の不安や、イケメンとしてもてはやされることへの不満、そして何よりも演技に対する情熱で、驚くほどに話が盛り上がった。また話してみたいと思っていたが、相手はテレビに映画に引っ張りだこのスター。プライベートで会うことも難しいと思っていた。

 それが、まさか。

「はい。斎波さんとお話してたら心が動いちゃって……舞台もやってみたいし、斎波さんと一緒にお芝居もしたくて、それでここに入れてもらったんです。……こんな考えで入団するなんて、不真面目ですかね?」

「いや、いいんじゃないか? 動機は人それぞれだろう」

 一体、何かどうなっているのか。自分がきっかけとなって人気スターを劇団に呼びこんだ? お世辞にしたって大袈裟なのに、宍上はそんな社交辞令を感じさせない純真な笑顔を浮かべている。冷静に対応できている自分が信じられない。

 彼が言っていることが本当なら、こんなに嬉しいことはない。

「そんな風に言われると面映ゆくなってしまうが……君のような人が仲間になってくれて嬉しい。心強いし、本当にありがたい。これから、一緒に頑張ろう」

「はい! どうかよろしくお願いします」

 宍上と握手を交わす。驚かされることは多かったが、宍上の入団が喜ばしいと思ったのは本心である。実力と人柄を兼ね備えた彼なら、ブルートループを支えてくれる新たな柱になってくれるに違いない。

 そして――斎波の頼れる友人になってくれるだろう。彼になら背中を預けても怖くないと、そう思った。

 宍上は穏やかな笑みで斎波の手を握る。斎波は胸に押し隠していた不安を忘れかけ、宍上に心から笑いかけた。

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