失墜するアトラース
古月むじな
エピローグ
間違っていることだろうな、と薄弱した理性で考える。
どんな無理筋でも弁明不可能な、正当性皆無のやつ当たりである。普段の彼――半年前の
――“まず、間違いなく”か。斎波はひとり笑った。半年前の自分は、はたして正しいのか。今の結果が他の誰かのせいでなければ、それは斎波自身の責任となる。過去の自分がやらなかった、やるべきだったことが積もり積もって今の自分の背にのしかかったのだ。ならばきっと、斎波はずっと間違い続けていたのだろう。
「いつから間違えていたのかな、俺は」
口に出してみるとなんだかおかしくてたまらなくなり、斎波はけらけらと笑った。すれ違った若いスタッフがぎょっとしたように振り向いた。
十一月二十一日、午後八時。舞台『五十フランの泥』最終公演終了直後。舞台裏のスタッフ達はほっと気が抜けたような安心感、あるいはやり遂げた達成感を胸に後片付けに励んでいた。その横をふらふらと歩き回る斎波の姿を見咎めた者はいなかった。
たとえ気に留めたとしても、彼がどす黒い感情を胸に秘めているとは気づけなかっただろうが。
憎々しい。
恨めしい。
殺してやりたい。
誰でも良かった、と思う。特定の誰かに向けた感情ではなかったのだから。しかし――最初に浮かんだのは彼の顔で、だから斎波の足は彼の楽屋へと向かっていた。
彼にしよう、と心に決めた途端、肩に乗っている何かが少し軽くなった気がした。きっと自分は、彼のことが嫌いで嫌いで仕方なかったのだ。
「――斎波さん?」
ノックもなしに突然扉を開けたから、彼か驚くのも無理はなかった。カーテンコールが終わって、ようやく楽屋に戻ってきたばかり、舞台衣装に袖を通したままだ。ああ、そうか。自分達はついさっきまで舞台上に居たのだ。自分が纏うぼろ切れのような衣装と見比べ、他人事のように思う。
「お疲れ様でした。何か御用ですか? 打ち上げにはまだ早いですよね……?」
困惑の表情はシームレスにねぎらいのものへと変わる。善意、優しさ、親しみ、その他すべての“良いもの”だけで作られたような顔だ。……今の自分はそれに微笑み返すどころか、さらなる苛立ちしか感じることかできない。
テーブルの上に花瓶があった。ちょうどいい。無造作に掴んで逆さにする。零れた水で袖が濡れ、生けてあった花かばさばさと床に落ちた。彼の表情が再び困惑へと変わる。
「斎波さん――」
罪の意識は、なかった。
良心も、正義も、まるですべてが斎波のからだから抜け落ちてしまったようで。
ただ衝動に突き動かされるままに、斎波は花瓶を振り上げ――
――
ブルートループ団員間暴行未遂事件。
劇団ブルートループの若手スターとして注目を集め、主演ミュージカル『五十フランの泥』のヒットによりさらなる活躍を期待されていた斎波正己が起こしたこの醜聞は、業界内外で大きな波紋を生んだ。
公明正大、正義感の強い青年として知られていた彼が何故このような事件を起こしたのか。嫉妬か、恋愛トラブルか――様々な憶測が語られたものの、しかし彼が動機を語ることはなかった。
そして彼はこの事件以降、数年に渡って文字通り表舞台から姿を消すことになる。
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