第2話 希望と絶望とトム・ヤム・クーン

 お馴染みの軽い落下感。

 足はすぐに砂についた。

 天空に届く樹木の世界に入ったときよりは、危険のない着地だった。

「聞こえてる?」

「オーケー、感度良好です先輩。現在平面位置はx:150、y:001。流石ですね」

「どうも。凄く暑いよ」

「でしょう。ただいま摂氏四十℃。日没はありません」

「うげっ。早く終わらせたい」

 視界に映るのはどこまでも果てない砂の海。

 白銀砂漠の名に恥じない、砂糖のような純白に輝いている。

 ただしその景観を台無しにしているのは、遠くに盛り上がった砂丘には墓標の如くゴミ(たぶん)が突き立っていることだ。

 私は足元の砂に触れてみる。

 熱い。

 それでいて粘り気がある。

 指先に着いた砂は力を入れて払っても、すべてを落とすことは容易ではなかった。

「観測を始める」

 私は、もうすでにうんざりしながら宣言した。

 私の声は<完全世界>のマイクが拾って後輩に聞こえている。

 逆もまたしかり。

「水蒸気の見つかった地点まで誘導して」

「了解です。ポイント設定はx:270、y:190」

「しまったな、反対側か」

「ドーナツ美味しいっすよ、先輩」

「ぐぬぬ覚えとれ」

 歩き出す。

 視界に最短経路がオーバーライトされているから、進路に悩む必要はない。

 砂がまとわりつくせいで足が重かった。

 ロレンスは何という過酷な環境を創造したものだろう。

 空を行く者は太陽が蒸し焼きにし、地を行く者は砂が足をつかむのだ。

 この白銀砂漠を作ったのはどんな心の働きによるものなのだろう。

 私には理解できない。

 でもまあ仕方のないことではある。

 というのも、私は本物の心を持っていないからだ。

 私は、フューズドAI。

 あるいは単に頭文字を取ってエフとも呼ばれる。

 冒涜的な技術で生まれた、死者と機械の融合体だ。

 私の素体となった人間は私の外見年齢である三十歳で脳の一部と右腕を損傷して死に、その空いた部分に今の私の意識体である人格モジュールが埋め込まれている。

 私は素体の両親の要請によって生まれ、彼らが納得できるまでの時を共に過ごした。

 そして、彼らが「これは実子ではない」と認識したその時から一人暮らしを始めている。

 私はそれまでに溜めていた小金を使って身体改造を施し、テラリウム処理士の道に入った。

「ちょっとしたオアシスでも作ってあればいいのに。ロレンスっていうのは気の利かないやつだね」

「ええ、無いですね。クーラーなんて夢のまた夢」

「思い出させるなあ!」

 溜め息が出る。

 現在地はx:190、y:010を示していた。

 まだ先は長い。

 私の五感に引っかかるものは何もなく、この白銀砂漠にあるものはただ砂だけ。

 有機的なギミックは皆無だと観測された。

<完全世界>はデジタルな仮想世界ではない。

 環境はすべて有機的で、生物はミニチュアナイズされてはいるが、すべてDNAと細胞を持つれっきとした生命体だ。

 私は今、外の世界の私の仮想クローンとして構築されている。

 外の世界の私は後輩の手でベッドか床に寝かされているはずだ。

 専用のアミノ酸構築プログラムをはじめとした各種の――いわば処理士培養キットを<完全世界>に投入することで、爆発的に進化した外来種として生態系に出現するのである。

 エフがテラリウム処理士に多いのは、培養される時の精神模倣が容易いからだ。

 というか、そもそも私のようなエフは既にマッピングされた精神を持っている。

「骨かな。大きいぞ」

 美しいが単調な砂漠の眺めに飽きた私は、砂丘の上に乗っかった白い棒に近づいた。

「x:193、y:020。ううーん、マックロバートのドラゴンかもしれない。歴史的遺物ですね」

「浅い歴史もあったもんだ」

 野ざらしの骨は、その気概を示すように大空に突き立っている。

 挑戦者マックロバートの<完全世界>DNAは白銀砂漠の中に立派なドラゴンを放った。

 赤い鱗の、いかにも勇敢な一匹を。

 私は動画サイトで、白銀砂漠の見えざる怪物がその巨獣を空から叩き落し、翼をもぎ、いとも簡単に砂に沈めていくのを見た。

 残念ながらマックロバートは<完全世界>ブリーダーを辞めてしまったという。

 勿体ないなと私は思った。

 ロレンスの無味乾燥で不気味な白銀砂漠よりも、マックロバートの作ったドラゴンの王国の方がずっとにぎやかで楽しそうだったのに。

 私は丘の頂上に上がった。

「どうやら歴史的な地区らしい」

「何があるんですか? 小さすぎてこっちから見えないんですよ」

「だったら入れば」

「嫌です」

 次の砂丘の半ばには迷宮の入り口が傾いて開いている。

 その先には墓標のように円陣を組んだ自動小銃の輪。

 これは最後の動画に出てきた兵士たちの物だろうか。

 また別の丘には、きらびやかな剣の群れ。

 グリフォンの口ばしに、戦闘機のプロペラ。

 そしてシャーマンが残したしゃれこうべ。

 白銀砂漠は、自分に挑んだ不遜な侵略者の痕跡をコレクションしているらしい。

 数えれば全五十六回の動画に登場したすべての<完全世界>からの戦利品が見つかるだろう。

「ロレンスってのはやはり性格が悪いな」

 私は呟いた。

 五感、つまり<完全世界>全体を収めるように拡大した感知器官を働かせて、この屋外コレクションルームを探査した。

 生体反応なし。

 単細胞生物やウイルスの単位まで感知精度を上げたが、何も出てこない。

「先輩、大丈夫ですか?」

「喉が渇いて死にそう」

「雨が降ればいいんですけどね」

「変なもん湧きそうだからなあ」

 生態系を持つ<完全世界>の廃棄は厳密な条約によって手順が規定されている。

 不用意な廃棄が、未知の病原菌や寄生体を現実世界にばらまく危険性を孕むためだ。

 エフがテラリウム処理士に多いもうひとつの理由としては、<完全世界>内環境からの汚染を受けにくいというのがある。

 完全な人間とは代謝系が違うから。

 そしていざとなれば廃棄できるのも利点だ。

 私たちエフには人権は保障されていないが、まあ労働の自由だけはそこそこあるのでいいことだと思っている。

 そそり立つ白骨の影で、小休止した。

 身体強化された培養体とはいえ、疲れるときは疲れる。

「水蒸気の詳細は出た?」

 私は後輩に語りかける。

「驚いてください! ジャジャジャジャーン!」

「うっさ」

 私は音量レベルを下げるよう<完全世界>環境マスタに指示するが、思い切り無視された。

 何と言うこと。

「はい先輩驚いて! 何と、水蒸気は生物の呼気でした!」

「いるってこと?」

 いやっふう、と後輩がマイクに吹き込んだ。

「いるってことですよ、砂漠の見えざる神はまだ」

「しかも生きてる」

「ということは?」

「会いに行かなきゃいけないってことか」

 だーいせーいかーい、と後輩の声が全天に響き渡る。

 私は見えざるマイクを引きちぎろうとするように、耳の後ろを知らずのうちに引っ掻いていた。

 後輩は非常に有能だが、テンションが高すぎるのが玉に瑕。

 今時の子らしい、ということかもしれないが、フルヴォリュームで聞かされるこちらの身にもなって欲しいものである。

 その時、ずしん、と地鳴りが轟いた。

 白銀色の砂がうわっと舞って、私は咄嗟に目を腕で覆う。

 どうやら地鳴りは一度きりだった。

 私は腕を顔から外し、そして、

「げっ」

 と当たり障りのない驚嘆文を口からひり出した。

 遠くに、いつの間にか砂丘よりも大きな生き物がいる。

 私の今の視力が確かならば、それは人間が四つん這いになった姿に見えた。

 ただし顔は人間よりも随分と前に長く伸びていて、どちらかと言えば馬面である。

 前髪らしきものが顔にだらりと垂れ、それがこの生き物の無気力感を醸し出していた。

 体は薄い包帯ないしはぼろ布で覆われている。

 その顔の中で、ぎょろりと左目が動いた。

 右目は前髪の下にある。

 はるか遠くにいるというのに、その目が確実に私を捉えているのがわかった。

 視線には敵意がある。

 これが、白銀砂漠の神?

 随分と態度の悪い神じゃないか?

 知ってたけど。

 ただ、私は疑いを持つ。

「おおい、見える?」

「何がです」

 後輩の返事に、私は耳を疑った。

 コレクションは兎も角として、私よりも何倍も大きそうな生き物なら外部からも視認できるはずである。

「x:270、y:190にいる生き物だよ」

 私は後輩に語り掛けつつも、五感モニターの助けにより距離計測を行っていた。

 その結果は、神のいる場所は、紛れもなく水蒸気が確認された場所と同一である。

「だったらそれ、ビンゴじゃないですか。ほら今までの動画で神の姿は映らなかったでしょう。外部からは検知できないんだ!」

 後輩の上ずった声を聞きながら、私は自分の置かれた状況にひどく動揺した。

「待て待て、そうなると砂漠の神は私を挑戦者だと思ってるってこと?」

「でしょうね。お腹もすいてるだろうし」

「縁起でもないことを」

 彼方で神が腕を振り上げて振り下ろす。

 もう一度、ずしんと地響きがあった。

 その視線はずっと私の目を覗き込んでいる。

「完全に捕捉された」

 私は言った。

「一時離脱する。これじゃあ装備が足りない」

 ずしん。

 神が手足を一歩動かすたびに、地鳴りがする。

 私は脱出用のコマンドを外部オペレーターの後輩に要求した。

 しかし――。

 拒否、という言葉が視界に点滅する。

「ちょっと」

「嫌ですよ先輩。そんなことしたら百万ドルチャレンジが失敗になるでしょ」

「いらないよ。百万ドルより命だ。このまま踏み潰されると本体がショック死するかもしれない」

「エフなのに?」

「エフでもだよ」

 私はにじり寄る異形から目が離せないでいた。

 ずしん。

 確実に近くなっている地鳴り。

「早く」

 後輩の返答は無かった。

「早く!」

 じれったくなり、いら立ちが声に出る。

 私は砂漠の果ての異形から視線をもぎ離して、天を仰いだ。

 そこに後輩の顔が見えないのはわかっているのだが、この焦燥を伝えるにはそうするしかないような気がしたのである。

 何をまごまごしているのだ。

 アクシデントで培養体がぺしゃんこにされるのは屁でもない。

 ただ、その時に身体と精神が切り離されていなかった場合、受けるショックは計り知れない。

 幸いにもそんな不運に見舞われたのは過去に一度だけだが、精神的に安定し、処理士として復帰するまでにはエフの私でも一カ月かかった。

 二度目はごめんである。

「聞こえないの!?」

 私は叫ぶ。

 返事の代わりに、ぶつっ、と頭の中で音がした。

 平衡感覚が失われ、私はぐらりと傾いで頭から砂に突っ込む。

 そのままごろごろと砂丘を落ちた。

 目が回っている。

 世界が回っている。

 私は目をつむった。

 網膜にエラー表示が流れる。

<接続断><接続断><接続断>……。

 本体との精神接続を切られた。

 拡張五感システムは正常。

 通信マイクも正常。

 ただ、私が本体から完全に独立した人格になったということ。

 バックアップの無い培養体として、あとどれだけ動けるだろうか。

 そして外に残してきた本体は無事なのだろうか。

 五感に平衡感覚のサポートを命じ、ふらつきが治まった段階でようやく私は目を開けた。

 服に嫌というほど砂がまとわりついている。

 砂糖菓子になったみたいだ。

 ケーキの上できょとんと宙を見ているライオンやウサギちゃんの飾りのように、砂糖を点々とまぶされた添え物。

 美味しいだろうな――と思ってから、私は無言で砂をはたき落した。

 食われる気はない。

 そこで、私ははっと身をすくませた。

 あれは何処に行ったのだろう。

 何処まで近づいてきているのだろう。

「先輩」

 耳元で声がした。

 心配しているような感じがする。

 こんなことをしておいて?

 いや、反省したのかもしれないぞ、と私は一縷の望みにすがる。

「聞こえてるよ」

「じゃあ、ゲームを始めても大丈夫ですね」

「何だって?」

「ゲームですよ」

「私は参加しない」

 じゃり、じゃり、と耳元のマイクから、金属から何かをこそげ取るような嫌な音が聞こえた。

 私は気持ち悪さに辛うじて耐えている。

「その場合は、一生そこにいていただくことになります。先輩の本体は、精神接続を回復しない限り自我を取り戻さないでしょうね」

「フェアじゃないぞ」

「そもそも先輩、この世界に――<完全世界>の内であれ外であれ、完璧にフェアなものなんてあります?」

「無いよ」

「なら詭弁です。よかった同意見で」

 唖然となる。

 後輩は急に何を言い出した?

「ルールは単純です。神の一部でも手にすることが出来たなら、あなたに百万ドルを渡す」

「ちょっと……」

「先輩にやる気が見られない場合、こちらは罰ゲームとして先輩の肩を良い感じに磨きます。粉砕された大根をそこで作り上げ、てんぷらバーに卸します」

 じゃり、じゃり。

「やめて!」

 私は情けなくも悲鳴を上げる。

 自分の肩を大根おろし器にされて誰が平気でいられるか。

「君は私が嫌いなのか」

「そんなことないです。むしろ逆ですよ。ざっくりいえば、希望みたいなやつです」

 希望。

 希望?

 私は絶望しているのに。

「それではスタートの前に質問はありますか」

「ありあまってる。けど、ひとつだけに絞るよ」

「お気遣いありがとうございます先輩」

「君がロレンスなんだね」

「だーせーいかーい!」

 トム・ヤム・クーンとでも注文するような軽さの喝采を、私は虚無の心で聞いている。

 動画に写っていたロレンスは、すべてを詐称した姿だったということ。

 そしてどうやら、我が後輩にはなにがしかの残虐性が秘められているのではないかという疑惑。

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