第37話:失う恋と書いて『失恋』
ど、どうしよう……。
俺は右腕が凍り付いたかのように、同じポジションを保ち続けていた。
ダメだ、腕を引いて詩日さんを解放しなければ。でないと、自分が何をするか分からない。
でも。
このまま伏し目がちの詩日さんをずっと見ていたいという気持ちや、解放したくないという幼稚な想い、今度こそ無意識ではなく自分の意志で唇を重ねたいという妙な意志、それらが総掛かりで俺を金縛りにしている。
「輝くん、大丈夫かい?」
詩日さんの声でハッと覚醒した。
「もう、『壁ドン』なるものは理解できたから、元に戻ってもらって構わないよ。それに、何だか具合が悪そうに見える。今日はここまでにしようか」
「え?」
「ちょっと失敬」
詩日さんは俺の腕の間に頭を突っ込みそのまま俺の腕の中から抜けてしまった。
「会計はこのレシートを持っていけばいいはず。払っておくから、休んでから帰るといいよ」
言いながら詩日さんは無表情に教材をバッグに詰め込み、伝票を手に立ち上がった。
「え、え?」
「お大事にね。では失礼」
カラオケ特有の重いドアを少し開け、詩日さんはその隙間を抜けて退室してしまった。
……なんで……?
いや、なんでじゃねぇし!! 俺が調子こいて壁ドン状態に恍惚としたせいでドン引きされたんだよ! それ以外に思い当たることなんかない!!
どうしよう、嫌われたかもしれない。
俺は、さっき詩日さんが暉隆に向けていたあの絶対零度の瞳を思い出して震え上がった。
折角ここまで仲良く、というか、それなりの関係を、まあ若干のショートカットはあったものの構築してきたのに、まさか、それが、ここで終わるのか……?
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
俺は両手で口を覆った。涙が出そうだった。
恋愛って、こんなに感情の振れ幅があるのか、と、頭のどこかで俺は考えていた。
でも今の俺には、
『絶望』
という名の気持ちしかない。
もう、何もかもが終わった気がした。自分自身も、この世の全ても。
どうやって帰宅したかも、晩メシを食ったのかも覚えていない。
母によると、何も食べずに部屋に戻って、母が眠る時も電灯が付いていた、とのことで、俺が翌朝アラームで奇跡的に起床すると、俺は制服のままベッドに大の字で寝ており、電灯は煌々と光っていた。
だけどもう、本当に全てがどうでもよかった。
学校なんか知るか。もう終わったんだ、嫌われてしまったんだ。俺の初恋はここで塵となりました。どんなツラして詩雨と顔を合わせればいい? 暉隆は慰めてくれるかもしれないけど、いくら暉隆という親友でも、この暗澹たる絶望を一掃してくれそうにはなかった。
失恋って、こんなに、四肢を引き裂かれるように胸が痛いんだな。
俺は今まで自分が交際を断ってきた女子たちを思い、無意味な罪悪感に囚われた。
「てるぅ〜、朝ご飯は〜?」
廊下から母の呑気な声がした。『いらない』と返答する気力もなかった。
ノックの後、母が顔を覗かせた。
「もう時間が……、ってあんた、制服で寝たの?!」
「……今日休むかも。体調悪い」
「え、風邪? 頭痛? 腹痛? 陣痛?」
「陣痛以外全部」
「じゃあ病院行かなきゃ」
「いいよ、置き薬飲んでちょっと寝れば治る。と思う。風邪の前兆だと思うから、葛根湯でも飲むよ」
俺は言いながら身を起こした。
すると、
「輝? 何かあったの?」
この女性のここまで緊迫した声を聞くのは何年ぶりだろう、なんて、俺はぼんやり思った。
「目の周り腫れてるし真っ赤だよ? 昨日泣いたりしたの?」
「……してない。風邪のせいだろ」
「でも——」
「ほっといてくれよ!」
自分でも分かってたけどこれは単なる八つ当たりだ。母は一瞬厳しい顔をしたが、
「私もまーくんも、いつも輝の味方だから、困ったことがあれば、何でも、言う、言って、いいぜよ、っていうことを、ゆめゆめ忘れるで、ないぞ」
と、途中から明らかに言葉に詰まった感満載の台詞を残して母は出て行った。
ドアが閉まるのと同時に、スマホが鳴った。そういえば昨日あれから見ていない。
詩日さんのアカウントもあるからあまり見たくはなかったけど、暉隆や詩雨の可能性もあるから、と思ってスマホを手に取りラインを開いた。
詩雨からだった。
『輝くん、おはよう! 朝からごめんね。
昨日、姉さんとレッスンしたのかな? 元から変な生き物だけど、昨日帰宅してからまた部屋に籠もってて、さっき起きてきたらいつにも増して言動が変なんだ』
目の前が真っ暗になった。
流石に詩雨に『俺のせいです』と言うのは抵抗があった。
『どんな風に変なの?』
考えあぐねた結果、これだけ送信した。
『それは直接話したいから、とにかく学校で待ってるよ』
これは……行った方がいい、の、だろう。責任は俺にあるのだから。
しかも詩雨がラインではなく対面で話したがるようなことだ、詩日さんはそこまで傷ついてしまったのか。いや、俺が傷つけてしまったのか。
ぐるぐると考えながら、それでも俺は着替えて家を出た。いつもより10分遅い電車に揺られる間も、俺はまるで肺の中に鉛でも入れられたかのように気が重かった。
「輝くん!」
ホームルームが始まるギリギリの時間に教室に入った俺に、詩雨が声をかけてきた。
「えっと、大丈夫? 目の下、くまできてるけど……」
「いや、平気平気。オールで本読んでただけ」
詩雨は一瞬目を伏せたが、すぐにいつもの顔に戻った。俺にはそれすら痛かった。まったく関係のないところで被害妄想が繰り広げられる。
「それで、その、詩日さんは……?」
名前を口にするのも辛かった。
「それが——」
「輝くん! マズいことになった!!」
前のドアからダッシュで入室してきたのは、細身のスーツにアタッシュケースを持つ、三十代後半の、見慣れた顔。
「たぐたぐ?! どうしたんだよ! また親父、やらかしたか?!」
その瞬間、クラス内が大きなどよめきに包まれた。
……暁みちる……光る方の父……え、マジで……あのめっちゃ美人な……
「違うんだよ、輝くん! リッチーがもうそこまで来てる!!」
「は?」
「リッチーだよ! リチャード・ダンスタン!! 狙いは輝くんだ!!!」
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