第36話:密室、実験

 俺と詩日さんは、駅まで少々足早に歩いた。

 途中でまた女性陣のヒソヒソが発生し、


……え? 今度は光る方?……

……大学生かなぁ……

……なんかがさつっぽい人だね……


「輝くん」

「何でしょう」

「詩雨から聞いたことがある。きみと先ほどの早川くんは何とかコンビと呼ばれていて女子生徒から絶大な人気を誇る、と」

「ああ……ええ、はい……恥ずかしながら」

「そうか……どうりで周囲の視線に殺意がこもっているわけだ」

「え、すみません! 店に入ればあんなヒソヒソやら殺意やらはないですから!」

 勢いでそう言った俺は、思わず詩日さんの白くて細い腕を掴んで一歩踏み出した。


 あ。


「失策だったみたいだねぇ」

 詩日さんは早足に歩きながら呑気にそう言った。  


……見た?! 光る方から行ったよ?!……

……えー、ダブルライト両方彼女持ちってことか……

……まあ目の保養にはなるけどさぁ…… 


 掴んだ詩日さんの腕を、失礼でない程度に下ろし、俺も心持ち大股で歩き続けた。



 駅まで何とか到着し、一度駅舎に登ってから北口に降りた。暉隆の言う通り、目の前がカラオケボックスだ。すぐ入店し、90分のオーダーで手続きをした。

 

「随分手慣れているね。流石は若者」

「はあ……」

 詩日さん用の灰皿とマイクが入った籠を手に、俺たちは三階の部屋に向かった。

 指定の部屋のドアを開けてみると、とんでもない展開が俺を待っていた。


「随分と窮屈な部屋だなぁ。まあいい」


 詩日さんですらそう言うほど部屋は狭く、二人で並んで座ったらそれ以上何も載せられないサイズのソファがあり、正面のカラオケ機器は最新のヒット曲を紹介していた。

 これは……危険だ。


「もっと大きな部屋に変えて貰いましょうか、こ、ここだとその、身体が密着してしまいます」

「ん? それはレッスンができないってこと?」

「いえ、その……」

「私は問題ない。ところで今日は”s”と”sh”の発音について質問があって」

 詩日さんはすでに教材を取り出していて、俺はもうどうにでもなれと思い、詩日さんの隣に座った。


……体温が、伝わってくる。


 動悸がする。頬が熱い気がする。なのに頭は何だかぽかぽかしてて平穏だ。嬉しさもあるのだろうか。


「そうですね、”s”はもっと、口を縦に開ける感じで、大して”sh”は口をいーっとした状態で声を出します」

「ふむ……。スィ、シ、スィー?」

 やべぇこの距離で見るといつもよりさらに可愛い。

「”s”はお上手です。”sh”の方が日本語の『シ』に近いですが、そこはあまり意識せず、あくまで英語の発音として覚えてください。この二つの区別化ができなければ、割と大変なことになります」

「大変なこと」

「はい、汚い言葉ですが、”shit”という単語は非常に下品な意味で、”sit”は座ることを意味します。ですからこれを誤用すれば、会話が成立しないどころか悪印象になります。もっと危険な発音もありますよ。”l”と”r”は……」

 そこまで言ったところで声が続かなくなった。

 詩日さんが身を乗り出して俺の顔を見ているのだ。あの時みたいに。

「ち、近いですね……」

「さっきの早川くんときみはどちらがよりモテるのだろうか」

 容赦ないスルースキルを発揮して詩日さんは言った。無表情だから恐い。

「お、俺は親父のことがありますから、暉隆と比べるのは不可能というか。で、でも暉隆は男が見てもかっこいいタイプですよ。俺なんかは単なる優男で……」

 詩日さんは俺が適当にまくし立てる中、さらに接近してきた。ヤバい、耐えろ俺。

「実は前々からしてみたかったことがあるんだが」

「は、はいなんでしょう?」

「ちょっと失礼」

 詩日さんはそう言うと一度身を引き、ソファに膝を立てて俺の方へ向いた。


 何が起こるんだ?


 若干震えながら俺は硬直していた。

 詩日さんは右腕を伸ばし、俺が追いやられている側の壁に手のひらを置いて、無表情なまま、俺を見下ろした。


「ふむ……。よく分からないが、そうか」


「な、何がですか……?」

「や、以前から『壁ドン』というものが話題だが、私には経験がなくてだね、ちょうどきみが近くに座っていたから体験したくなって実行した」


 唖然。


「……し、失礼ですが詩日さん、一般的に言う『壁ドン』は、男性が女性を壁まで追いやって、男性が壁に手をつく行為というのが定説です」

「そうなのか、男女で役割があるとは知らなかった。じゃあ頼む」


 はい?


「私がここまで下がるから、輝くん、こっちの壁に手をドンとやってくれるかな」


 な、何を言っているのだこの人は。


「かなり至近距離になりますが、よろしいでしょうか」

「いいよ、減るもんじゃないし」

「減ります」


 もうここまで来たらヤケだ。

 俺は頭がバクバク、いや、心臓がバクバクしたまま、腕を伸ばし、壁に右手の前腕を置いた。少し頭を下げれば、詩日さんの顔はすぐそこにあった。


「ど、どうですか」


 詩日さんは目をそらし、しばし固まっていたが、


「確かにこれは面白い感情を引き出す行為だ」


 とだけ言った。その頬が若干桜色に見えるのは、この密室の照明のせいか何なのか、俺には分からなかった。

 

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