第34話:あの子は次のページをめくる

 親父は、ある意味で楠木あやめという女性の内面を本当に一新したのかもしれない。

 改めてあやめの顔を見る。

 流石に親父直伝とあってメイクは完璧だ。顔の作りだって、大きな黒目がちの瞳は潤んでいるようで、鼻梁はすっとしていて、唇も主張の激しすぎないルージュに薄く彩られていた。

 可愛い、と、思う。

 思うんだけど、やっぱり何かが違う。


 詩日さんじゃない。


 いくらあやめが可愛くなろうと、心を入れ替えようと、詩日さんじゃない。


「俺なんかのために、そこまでしてくれたのは、有り難く思うよ」

 我ながら情けない声だった。

「でも俺、今……」

 あやめはすっと視線を上げて俺を見る。

「凄く、その、惹かれる女性に出会ったんだ。あんなこと言っといて、と思うだろうけど、その人は見た目に頓着しないタイプで、ノーメイクだし髪もばさばさだ。だけどその人はその、俺はその人の眼が……、すまん、なんか、なんで俺、……ごめん、こんな話聞きたくないよな……」

 あやめは少し唇をキュッと締めてから微笑んだ。その笑顔は強がりだったかもしれないけど、以前より瞳が輝いて見えて、ああ、もし詩日さんに出会う前だったら俺はこのあやめを好きになれたかもしれないな、なんてことを茫洋と考えた。


 でも、出会ってしまったんだ。

 ダメなんだ、俺は、詩日さんじゃないとダメなんだ。

 詩日さんのことを考えると、色んな記憶や感情が湧いて出てくる。

 初対面の時の、あの絶対零度の瞳。冷たい人かと思ったけど、詩雨を思いやる良き姉だった。それから瞳の色が変化したこと。暉隆のことで悩んでいた俺に時間を割いてくれる意外で強引な優しさ。生まれて初めての相合い傘、あの時の会話や、靴が水溜まりを踏む感覚はまだ忘れてない。奇妙な言動、俺の話を聞いてくれたこと、変な詫び状。突然キスをしても動じない、よく分からない価値観……。

 それらがフラッシュバックみたいに脳裏にちらついて、俺の中は詩日さんで満たされてしまう。他の要素が入りきれないほどに。なのに俺は恍惚としてしまう。


 よく分からない人だ。実の弟にまで『変な生物』とか言われてる。最初は確かに好奇心だったかもしれない。でも詩日さんは少し接して全貌を捉えられるような人じゃなかった。まだまだ、俺の知らない詩日さんがいるはずだ。俺はその全てを知りたい。ワケが分からない人、でもワケが分からないからワケ分かりたい。この欲求は止まらない。止めることはできない。完全に、俺のコントロール外に行ってしまった。


 俺は詩日さんが好きだ。


「凄い、ね」

 唐突にあやめがそう言ったので俺は現実に帰還してその顔を見た。手元のカップを見ているあやめは、少しだけ、目元が濡れていた。

「あーもうダメだね! 今、香坂くんがその人の話してる顔見ちゃったら、なんか笑えるくらい『勝てないな』って思っちゃったよ。もちろん悔しいし辛いけど……、私は好きな人には本当に幸せになって欲しい。だから……」

 そこであやめはパッと顔を上げて俺の眼を真正面から見た。

「香坂くんがそこまで想える人に出会えたのは、矛盾してるけど、私もなんか嬉しいんだ。今の香坂くんの表情を見られたから、引きずらないで前に進めるような気がしてきた」

 その瞳の輝きは以前とは比べものにならないほど眩しかった。とても快活で、生き生きとしている。

 恋愛ビギナーの俺でも、想いが報われなかったとなればどれだけ凹むか、想像を絶するほどキツいことだと思う。だが、あやめはいい意味でそれを自分のエネルギーに、バイタリティに変えてみせた。前回も、そして今回も。

「強いな、おまえは」

「強くないよ。そう思うなら、それはみちる師匠のおかげ。まだ決まった話じゃないけど、坂口さんっていう人が……あ、これは内緒だった。とにかく、今の私には香坂くんのことを忘れるくらい夢中になれるものが必要だと思って、色んなことに挑戦していきたい。私、なんか凄く燃えてきちゃった! じゃあ、もう行くね。今までありがとう」

「は? 俺は何もしてないし、むしろ謝らないといけないような……」

「はいはい、分かった分かった」

 あやめはすっきりとした表情で、俺の背中をパンと叩いた。

「じゃあね」 

 まだ半分くらい残っているジャスミンティーのカップを持って、あやめは立ち上がった。

 その背筋は真っ直ぐで、その歩みに迷いはなかった。

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