第24話:『それ』はもはや恐怖にも近く

 電車から降りて、ようやく我に返った。店を出たところまでは覚えている。俺の足はしっかりとホームのアスファルトを踏んでいた。

 何だか頭がぼーっとする。あのカフェでもだったけど。俺の足はまるでプログラムを着実にこなすマシンのように改札を出て自宅まで歩を進めていた。


 何なんだ、これは。


「あ、てるぅ? おかえり〜遅かったね」

「ん」

 母親に生返事を返して階段に足をかける。

「あれ、ご飯は?」

「ん、今はいい」

 母も何か察したのか、分かった、とだけ言ってリヴィングに戻っていった。


 自室に戻り、着替えて、課題も何もせず、俺の中の『ぼー』は、徐々に別の方向へと転化し始めた。

 何が起こったか確認しようと思うと、まぶたの裏にタバコを指に挟んだ詩日さんの小さな手が浮かぶ。いや、タバコは関係ない。うん。

 あとは……何を話した?

 そうだ、暉隆の二股疑惑について、意見を貰った。

……どんな意見だっけ? 

 ああ、二股は隠れてするものだから校内で堂々とするもんじゃない、と言われたのだ。暉隆には何か意図があったはずだ。いつものように俺に言わないだけで。

 と親友のことを考えているのに、頭の中のスクリーンに映るのは、詩日さんのフレームレスのメガネだったり、真っ黒な髪の一房だったりして。


 俺は恐くなった。


 これはおかしい。俺の中で何かが明らかに誤作動を起こしている。

 思考は思考にならず、試しに課題を取り出して机に戻ってみても何も頭に入ってこない。ならばと思って本を手にベッドに横になって読もうとしたら、『詩日さんもこの本を読んだだろうか?』というフレーズが脳内に浮かんできた。


 ちゃんと考えられない。何か、何かは分からないけど、絶対に俺の中で悪さをしているものがいる。そんな気分で、恐怖ばかりが募り、これが終わらなかったらどうしようとか、今夜俺は眠れるだろうかとか、明日もきちんと生活できるだろうかとか、詩日さんは今何をしているかなとか、もしかしてどこかが悪くなっていて病院に行った方がいいんじゃないかとか、詩日さんは化粧っ気がないけどもしメイクしたらどんな風になるだろうかとか、とにかく頭がぐちゃぐちゃの滅茶苦茶、頭は痛みとは別の方法で俺を痛くするし、心臓は馬鹿みたいな猛ダッシュでマラソンを始めた。


 それでも寝支度をしてベッドに入ってみた。部屋を真っ暗にして、何も考えない、何も考えない、と己に言い聞かせながら入眠を試みた。眼をぎゅっと閉じているのにまぶたの裏には様々な人の顔や情景が浮かぶ。教室で詩雨に声をかけた日のこと、詩日さんの絶対零度の瞳、美味しかった具だくさんカレー、階段から転げ落ちてきた詩日さん、相合い傘をしている時に気にかけた歩くテンポ……。



 俺はガバッと身を起こした。時計は午前三時半を指している。

 やっぱりこれはおかしい。まともな思考回路は一体どこへ行った? しかも睡魔はまったく来ない!

 肩で息をしながら俺はばふっとベッドに倒れ込んだ。

 何だか胸の奥が苦しい。

 心臓はドクドクと音を立てて温度の高い血液を身体中に流し込んでいる。全身に熱感のようなものがあり、これは風邪で発熱しているのではないかと考えた。早速部屋を出て、薄暗いリヴィングの置き薬、消炎解熱剤を嚥下した。

 風邪ならこの週末寝て過ごせば治るだろう。

 よしよし、と納得し、階段を登る。



 午前五時半。

 結局一睡もできないまま、窓の外から控え目な朝日が入ってきた。薬を飲んだのに眠れないのが俺の懸念をさらに悪化させた。不眠症とかいうやつになってしまったんだろうか。しかも身体の熱はあらかた落ち着いたが、胸回りと頭はまだぼんやりとしていて動く気になれない。


 少し逡巡した後、俺は暉隆にラインした。


『こんな時間に悪い、今何してる?』


 驚いたことに、すぐに返信が来た。


『おまえんちの近く走ってる。もうすぐ三丁目公園に着く』


『じゃあ、ランニングの邪魔じゃなければ会えねえ?』


『いいよ、俺もおまえに話したいことあるし』


 持つべきものは早朝ランニングをするイケメン水泳選手の友人である。

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