第23話:どこまでも自由な彼女を

 結局どの本も選べないまま、俺は書店を後にした。

 向かいには分煙のカフェがあって、詩日さんはその店で待っている、らしい。

 おそるおそる入店し、周囲を見渡しても詩日さんはいない。

 もしかして俺の勘違いとか幻聴だったのではないか、なんて思っていると、『Smoking Room』と書かれたガラスドアの向こうに、ペーパーバックを読んでいる詩日さんを発見した。喫煙者か。

「あの、すみません、お待たせしました。俺、飲み物買ってくるんで」

 そう声をかけると、詩日さんはペーパーバックから目をそらさずにテーブルに置いてあったメンズの黒財布を掴んで俺に突きつけた。

「え、あの、自分で払いますけど……」

 詩日さんはずっと腕を空中に差し出していたが、ふと我に返った様子で、

「年上からのおごりを断るのは場合によっては失礼だから。すまん、ちょっと読み始めたら意識が本の中に行ってしまって」

 それは分かるが限度あるだろう。

「あの、読書されるなら俺は退散しますよ?」

「きみ、悪いことがあった顔してる。私はそれを無碍にできるほど人間を捨ててない」

 俺は言葉を失った。

「詩雨や他の友人、脳内彼女、三親等、といった人に言えないこともあるかもしれない。その点私は知人で、友人の姉。いい距離感だと思うけどね。私はこう見えて聞き上手だと言われるよ?」

 今後はあごが落ちた。なんだ脳内彼女って。しかも何そのラインアップ。俺はそれにツボって笑い出してしまった。

「お、笑った」

 詩日さんは俺を見てどこか嬉しそうな顔をしていた。

 俺はドリンクを買ってきて、詩日さんの前に腰を下ろした。詩日さんも、本を置き、じっと俺の眼を見た。

 その時俺は気づいた。

 

『絶対零度』じゃない。


 詩日さんの瞳には、なにかピンクに近い赤味があるように感じられた。その瞳は、決して熱っぽくはなかったが、だからといって全てを凍らせるあの冷たい色でもなかった。

 それは名状しがたい感覚だった。詩雨の家で話した時は、詩日さんは俺を目に映しながらも俺自身を見ていないような眼をしていた。だが今目の前でアイスコーヒーをすすってばさっと黒髪を掻き上げる彼女は、確かに俺の存在を認識していた。

 何だか、ようやく同じ立場で会話ができるような、妙なくすぐったさがあった。



「なるほど、友人の二股疑惑か」

 名前は伏せ、詩雨にも言わないと約束した状態で、俺は大雑把に状況を説明した。

「でもそれ、私は違うと思うけど」

「え?」

「だって今まで親しくしてた女子も、きみがさっき目撃した女子も、同じ高校で同じ学年でしょ? 私の認識としては、二股なんて行為はバレないようにやるもんだ。だが現にきみはそういう疑惑を持つに至る現場を目撃した。というか他の生徒もおかしく思うだろう。その友人はなかなかできた人間だときみは言う。おそらく頭も切れる。そんな子が、衆人環視の学校内でそんなに分かりやすく二人の女性と過度に親しくするのはナンセンスだし、もっと言えば、別の目的があるのかもしれない」

 表情をまったく変えずに、詩日さんはそう言った。

 しかし俺は半開きになった口を閉じることができなかった。

「そ、その通りですね……。詩日さんのおっしゃる通りです。二股と考えるにはおかしな状況と環境ですし、俺の早とちりだったのかもしれません。いや、そうであって欲しい、です」

 詩日さんは片眉を上げてタバコを取り出し、ジッポで火を付けた。かしゃん、という独特の金属音が妙に耳に残った。

「……あの、別の目的っていうのがあいつにあるとすれば、それはどんなものでしょう」

 詩日さんは軽く首を振って白い煙を吐き出した。

「そこまでは私も分からないよ。ところで話は変わるけど」

 ここで変わるのか、と俺はまた詩日さんのフリーダムっぷりに笑いそうになった。

「見ての通り私はタバコを吸うのだけど、輝くんは煙平気?」

 今度こそ、俺は噴き出して笑ってしまった。この人は本当に謎だ。

「ごめん、なんか変なこと言ったかな」

「い、いえ! はは、今更だなぁと思ったんです!」

「む?」

 詩日さんは頭にはてなマークを浮かべていたが、俺は、これまでに抱いたことのない感情というか感覚というか、とにかく大きなものが自分の胸の内に発生したのを知覚した。


『この人のことを、もっと知りたい』


……え?


 俺は胸の真ん中にあるそれを理解して、自分でわけが分からなくなった。

「どうしたの? 煙ダメだった?」

 聞こえる声が妙に甘く響いた。

「おーい、輝くんよ。おいおい」

 多分、硬直していたのだろう、詩日さんが俺の眼前で手を振っている。白くて小さな手だった。

 思い切って頭を上げ、詩日さんを見る。

「お、再起動したか」

「……し、しました」

 何とかそれだけ言えた。

「あんまり思い詰めない方がいいよ、何事も。ご友人の件、丸く収まるといいね」

 軽く頷くことしかできなかった。俺がまたフリーズしている間に、詩日さんはバッグにタバコとペーパーバックを仕舞って、すぐ起ち上がった。

「じゃあ、私は行くよ。あ、そうだ」

 重そうなトートバッグを肩にかけながら、詩日さんは思い出したように言った。

「この前渡した書き物だけど、私は勘違いしてた。あれは下書きで、清書したものが後から出てきて喫驚した。恥の上塗りで申し訳ない」

「え」

「じゃ、失敬」

「え?」

 迷いなく、詩日さんは店から出て行った。

 残された俺、呆然と、しばし硬直した後、店を出たのは一時間後だった。

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