第14話:人生初は、突然に

 校舎の角を曲がって誰もいない空間に入った途端、詩雨が声をあげて泣き始めた。なんだなんだなんだ。

「おい詩雨! どうした?」

「ぼ、ぼく……」

 詩雨はメガネを外し、腕で涙を擦りながら何か言おうとしている。

「……そんな、誰かに、友達とか、まして親友だなんて……言われたことが、なくて……」

 一瞬混乱したが、これはアレか、嬉し泣きという解釈でいいのか?

「迷惑だったか?」

「何、言ってるんだよ……恐いくらい嬉しくて……だって輝くんが……」

「まあ座って落ち着けよ、何なら五限フケてもいいし」

 肩で息をしていた詩雨は、建物の段差に腰を下ろし、俺もその前に座り込んだ。

 そしてようやく涙が止まった頃、詩雨は語り始めた。

「ぼく、中学でいじめられてたんだ。輝くんも知ってるようにぼくは目立つタイプじゃないし、平穏に本を読んでいたかった。でも……、クラス内で人気の女の子がある日、ぼくが読んでた本を見て話しかけてきて……」

 その後の展開は大体想像できた。

「他の男子たちに呼び出されて、殴られたり蹴られたり、たまにお金を取られたりもして、でも親には言えなくて……。あいつら、見えない所ばっか狙うから、暴力を振るわれても親も気づかなかったんだ。姉さんは気づいたけど、あんたは頭が良いから自分で解決策を見つけられる、って言われて……」

 詩雨の姉、詩日さん。俺はほんの一瞬、あの『絶対零度の瞳』を思い出す。

「だから高校に入ってからは、目立たないようにして、クラスの上位にいる人たちとは絶対に関わらないように、そうやって、きて……」

「じゃあなんであの時、図書館で俺に声をかけたんだ?」

 詩雨は視線を泳がせながら答えた。

「だってル・クレジオの初期作を読む同世代なんていないよ。もちろん、輝くんのことは知ってたよ、すっごい人気で、お父さんのこともあって。でも自分でもよく思い出せないな。ただ、今もしあの時の自分にひとつ言うとすれば」

 ペットボトルの水をぐっと飲んでから、詩雨は言った。

「おまえの選択は大正解だった。こんなぼくに、友達が、親友とまで言ってくれる友達ができた。だから、ありがとうって」

 そう言うと、詩雨はようやく微笑んだ。



 それから何日か、暉隆とは学校最寄り駅まで一緒に行き、そこで俺は詩雨を捕まえ、暉隆は例の徳永と登校するようになった。電車内で一緒になって話す時も、休み時間にマンガの話をするのもこれまでと何の差異も感じられなかったが、昼休みと放課後は別々となった。『ダブル・ライト』離婚か、なんて馬鹿が言っていた。

 詩雨といえば、段々と教室でも俺と話すようになり、他の女子が寄ってきても俺が『こいつはすげえ読書家で俺の師匠だ』と笑顔で先手を打っていた。最初詩雨は恐縮して顔を真っ赤にしていたが、徐々に他の生徒とのやりとりにも慣れてきている様子だった。


 だから、週末に泊まりに来ないかと言われた時も俺は快諾した。親父はもう少しアメリカで仕事があるとのことだったし、母親はあの通りの人だから、菓子折を持たせてくれたこと以外は別に普通、『土日泊まって月曜一緒に学校行けば〜?』なんて洒落なのか真面目な意見なのか判断しがたいことを言っていた。


 それにしても友人の家に泊まりに行くなんて本当にいつぶりだろう。

 金曜の放課後、一度家に帰って寝間着やら歯ブラシやらを大きめのバッグに詰め込みながら俺は自分が恐ろしく興奮していることに気づく。

 詩雨の親父さんはどんな人だろう。詩雨は生真面目で寡黙だと言っていたが、親父さんの蔵書がなければ詩雨も、そして姉の詩日さんも読書や文学に目覚めなかったはずだ。そもそもネーミングセンスがいい。


 あ。


 その時に気づいた。詩雨の家に泊まるということは、詩日さん、あの眼を見て会話をする可能性があるということだ。

 何故だろう、俺はその事実に妙な緊張感を覚えたが、特に深く考えずそのまま詩雨の家に向かった。電車内で、この本は詩雨が気に入るだろうか、見せてくれる約束の古書はどんな内容だろう、とウキウキと想像を膨らませていた。


 だから改札で待っていたのが詩雨ではなく詩日さんだった時、俺はすっかり油断していた。今日は前髪を下ろしていて、また部屋着のようなTシャツにダメージデニムというラフな格好。だがメガネの奥で鋭く光る絶対零度の瞳、たじたじとしながらそれを直視した俺は、まるで静かな視線に胸を貫かれたように感じた。恐怖ではない。多幸感とも違う。

「連絡行ってなかった? 詩雨は買い出し行ってて、代わりに私が来たんだけど」

 慌ててスマホを取り出すと、確かに詩雨からその旨が送られてきていた。

「すみません、気づいてなくて」

「いいよ。きみは詩雨の読書仲間なんでしょ? だったら私とも話ができると思うな」

 すでに歩き始めながら、詩日さんは言った。

「私もたまには構造読解とか文学史云々より、純粋に小説について語りたい日もあるっての」

 意外な発言に俺は目を見開いた。

「ああ、私文学部なんだ、大学」

 と俺には一瞥もくれずに言った。

 駅舎を出てみると、小雨が降っていた。俺は傘を持っていない。

「あー、こりゃ急いだ方がいいな。はい、これ」

 詩日さんはそう言って折りたたみ傘を小さなバッグから取り出して俺に突きつけてきた。

「……え?」

「これ持って。私よりきみのほうが背が高いんだからきみが持った方が合理的でしょ」

 難解な数式を解説するような口調で、詩日さんは言った。

「あ……、はい」

 言われた通り、俺は黒い傘を広げ、左手に持った。小柄な詩日さんは何の感情も見せずに自然と俺の横に並んだ。


……あの……距離が……近くてですね……。


 生まれて初めての、異性との相合い傘は、そんなサプライズショーみたいに起こった。ずっと、憧れていた。正直言うと。中学辺りから同学年のカップルが相合い傘で登下校するのを見るたびに、おそらく俺は自分で認識しきれていないほどの強い憧憬を抱いたのだろう。

 だって、そうでもなきゃ今のこの俺の尋常でない高揚感は説明できない。

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