第5話:特に必要性のない罪悪感と自由な母、言葉の海

 自室に戻って、簡単な宿題をササッと済ませてしまう。これは小学校の頃からの癖だ。やるべきことはなるべく早めに済ませておかないと、親父がまた突拍子のないことを始めたらそれどころではなくなるからだ。

 幸い、しばらく親父は海外だ。夕食に呼ばれるまで、本を読むことにする。


 こう見えて俺は読書家である。世の中には猛読家と呼ばれる人種がいて年間三百冊とか余裕で読むらしい。俺はそこまでではないけど、猛読家の『も』くらいには当てはまるかもしれない。

 昨日読んでいた本の続きを、とベッドに乗る。これは俺の悪癖だが、枕元に本を積んでしまうのだ。子供の頃親父が買ってくれた大型のスライド式本棚が埋まってしまってから久しく、現在、俺の本は二階の空き部屋に保管してある。


 ちなみにこの時親父は俺の読書のために二階を改築しかけたが、当時中学生だった俺が止めた。書斎や読書部屋はいらないから、その代わり本を買う金をくれ、と。


 そんなわけで、昨日まで楽しんでいた文庫本を手に取り、そのままベッドに横になった。ル・クレジオの随筆「物質的恍惚」、かなり難解だが、本の世界に入っている間、俺は何もかもを忘れて、香坂輝であることや暁みちるの息子であることも忘れることができる。ただただ言葉の海の深い所で水流に身を任せるような、甘美なひととき。


 が。


 突然、楠木あやめのことを思い出した。

 悪意はまったくなかったが、泣かせてしまったのは事実。今更ながら、明日学校で顔を合わせるのが、いや顔を合わせるどころか一日中隣に座るのが、えらく恐くて気になって色々邪推して、文章が頭に入ってこなくなってしまった。

 ちょうどその時、階下から母親が夕食を食べに降りろと声をかけてくれた。素晴らしいタイミングだ。俺は本を置いて部屋を出た。



 俺の母は、格別料理が上手いとか、綺麗好きとか、家事に長けているわけではない。料理の腕前も、掃除の程度も、オール普通である。

 今宵のメニューは和風ハンバーグと野菜の炒め物、味噌汁と漬け物だった。

「あのさぁ、輝ってさぁ、彼女いないの?」

「母さんの絶品料理で気分が回復したのにたった今崖から突き落とされた」

 母はあら〜、とか言ったが、この人はこれで引くような善人ではない。

「ごめんねぇ、フラれた直後とか分かんなくて。でも大丈夫! 輝は私とまーくんの子だから、すぐいい人が見つかると思うよ!」

 勝手な勘違いをしてやたら熱のこもった眼で母は言ったが、まあこんな人でも一応女性である。ちょっと聞いてみよう。

「あのさ、もし母さんがフラれたとして、その後もその相手と一緒に過ごさないといけない状況だったらどうする?」

 母は目をぱちくりさせて、今度は食い入るように俺を見た。

「可哀想な輝……相手は学校の子なのね?」

「いいえ違います母上、拙者がフッた側で候」

「あらぁ! もしかして輝モテるの〜?」

「質問に答えてよ」

「質問って何だっけ」

 まったくこの人は。俺は再度、簡潔に質問を繰り返した。

「えぇ〜、それって人それぞれなんじゃないの? 相手の女の子の性格にもよるし、その子と輝がどれくらい親密だったかもポイントじゃん?」

 確かに……。

「母さんは恋愛体験少ないからそこまで力になれないけどさ、輝がその子に対して誠実に接してたら、相手も納得するんじゃないかなぁ」

 誠実、ねぇ。

 マイペースな我が母は息子の恋バナに飽きたのか、すぐに皿をまとめてキッチンに行ってしまった。ごちそうさま、と言い残して自室に戻る。

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