第18話 そして――告白
小村くんが立ち去った後、わたしはゆっくりと歩き出す。鼻緒で擦れた指の間がまだジンジンと痛いから、走ることはできそうにない。
だからのんびり、のんびり、からん、ころん、からん、ころんと歩いて歩いて道を進む。
向かうところなんて決まってる。小村くんのあとを追い、わたしも想いを告げるのだ。好きな人のその心で思いきり響くような愛の言葉を。
心はいやに穏やかだ。静かにそっと凪いでいる。
こんな時でも持っている生徒手帳を取り出して、挟んだ写真を取り出した。そこには赤い鉢巻を巻いて、慌てたような顔で写っている及川さんの姿があった。
一年前の体育祭。
その時に撮影した一葉の写真は、今もわたしの心の中で、優しく優しく息づいている。
写真をじっと見つめて、わたしはふっと頬を緩めた。生徒手帳に写真はしまい、夜空を思いきり仰ぐようにして見上げた。
空に咲く花はまだまだ終わる素振りを見せない。祭りは始まったばかりなのだ。
だからきっと、わたしの探している人がいる場所だって決まっていて。
そうしてしばらく歩いただろうか。わたしは先ほど送り出した小村くんに追いついていた。
「……小村くん?」
ただ立ちすくんでいる彼は、わたしの声に反応してゆっくりとこちらを振り返る。
「葵さんは、どうしたんですか?」
「……告白して、そして、保留された」
「保留、ですか?」
「ああ」
なんだか少しだけさっきよりすっきりした顔をしているのはわたしの気のせいだろうか。気負った様子のないその瞳に揺れているのは、次々と打ちあがる空の花が放つ輝き。
「今すぐ答えを出せないって。イギリスから帰ってきたら、改めて返事がしたいって」
「そう、ですか」
「ったくよー。都合のいい話だよな。何年待たせるつもりだよ」
なんて言いながら、小村くんの声は少し明るい。それはきっと、いい加減な返事をしたくないって葵さんが思っているのを分かっているからなんだろう。だって彼女は言っていた。たとえ海を越えることになったとしても、ほしいものは手にしたいって。
だからもしかすると、葵さんは確実に小村くんを自分のものにするために保留なんて選択をしたのかもしれなかった。
わたしよりも葵さんと付き合いの長い小村くんのことだ。彼女のそんな気性だって、理解しているに違いない。
小村くんがわたしに向き直る。
「で、美咲さんはいいのか?」
「何がですか?」
「告白。冬耶にするんだろ?」
その言葉にわたしは居住まいを正した。着ている浴衣の乱れを直して、小村くんのほうへ体を向ける。
「……そうですね。わたしも好きな人に告白しなければなりません」
「……だよな。冬耶なら、この先にいるはずだぞ。だから美咲さんも――」
「――好きです」
わたしは心の奥底から取り出した、苦しくなるぐらいの想いを言の葉に乗せて小村くんに伝えた。
「わたしは、小村くんのことが、好きです」
「……なっ」
「ずっとずっと、好きでした。前よりも、今のほうが、ずっと」
一か月前よりもさらに前、小村くんの手が差し伸べられるそれ以前から、わたしは小村くんのことが好きだった。
「ずっと言えなくてごめんなさい。けど、わたしは、本当は、告白するつもりなんてなくて……ただあの時声をかけられたのが嬉しくて、そのきっかけを手放したくなくて」
「…………」
「そしたら小村くんが手を差し伸べてきてくれて、だからわたしはただ近くで見ていることができればよかった。それだけで幸せなんだと思った。……でも、もうこの気持ちを抑えることなんて、できません」
「な……んで、美咲、さん?」
小村くんは驚きもあらわにわたしを見つめる。予想外の出来事に、もしかしたら考えが追いついていないのかもしれなかった。
「どうして、俺なんだよ。冬耶のことが好きだったんじゃねえのか?」
「いいえ」わたしは首を振る。「わたしが好きなのは、ずっと想いを寄せているのは、及川さんではなく小村くんなんです」
「なんで、なんで俺なんだよ。だって、みんな冬耶のこと……」
「……けっこう、その思い込み、引きずってるんですね」
それが少し面白くて、思わずくすりと笑みが漏れる。
「いい名前じゃん。綺麗な名前だ――って、あの頃の小村くんは言ってくれましたよね」
「あの頃って……」
「中学生の時、小村くんが夜遅くまで公園で練習していたのをわたしは知っています。一生懸命ラケットを振っていた、あの頃の小村くんを知っています」
中学生だった頃、時々夜中にわたしは散歩をしていた。
家にいるのが息苦しくて、夜眠ることもできなくて。
そうやって出歩いては夜空を見上げ、自分の心を慰めていた。
そんな時に出会ったのだ。夜の公園で一心不乱に、ラケットの素振りをしていた小村くんに。
「あの夜、一度だけですけど……わたしは小村くんと出会って、そして恋に落ちてたんですよ」
「美咲さん……」
「だから同じクラスになった時、小村くんのことにはすぐ気づきました。見た目の印象が変わっても、優しくて一生懸命な目だけは全然変わってなかったですから」
「……すまん。俺は、全然気づけなかったよ」
言いながら、小村くんは気まずげに視線を逸らした。
でも……小村くんは悪くない。
だって、たった一度しか会ってない。夜で、暗くて、月明かりじゃ顔だってはっきりとは見えなかっただろう。
「でも……でも、それならなんでだよ」
それでもまだ小村くんは声の震えを抑えられない。
「ならどうして、生徒手帳に挟んであった写真が俺のじゃなくて冬耶のやつなんだ?」
「そ、それは、その……」
「冬耶のことが好きだからだろ?」
「ち、違うんです! これは!」
わたしは必死で訴える。
「これは! あの、去年の体育祭での二人三脚で、わたしは小村くんを撮ろうとして、そのシャッターを切った瞬間に……転んだんです」
「……転んだ?」
「はい! それでフレームから小村くんの姿が消えて、代わりに及川さんが映りこんできて、ええと、その」
やばい。どうしよう。情けない理由すぎて、あんまり言いたくないけれど、きっと正直に言わなければ誤解を解くことはできないんだろうなあと思うと説明せざるを得なかった。
「あのですね、ええとですね、その、小村くんを撮るのに失敗して、それであっさり心が、ええ、挫けてですね……わたしなんかが小村くんのご尊顔を撮影することは許されないのかと思うと、はい……」
「……は?」
「あ、でもですね、この写真にも小村くんが写っていないなんてことは実はなくてですね、ええと、あの」
再び写真を取り出して小村くんの目の前へ突き出す。
「この……写真の右下の、これ、なんですけれど」
「……何これ。黒い線?」
「小村くんの後ろ髪です」
「は?」
小村くんの表情が固まった。
「あ、あう、あの、あう」
「オットセイのマネ?」
「ち、ちないます! ええと、そう、この後ろ髪をですね、見るたびにわたしの心は癒やされて……」
あ、小村くんがわたしのことを凄い白い目で見てる。
「し、仕方ないじゃないですか! わたしなんかが小村くんのご尊顔を拝することさえおこがましいことだなんて、このころのわたしは思っちゃったんですから……」
「……あのな」
「ですので、その、わたしが幸せを感じるためには後ろ髪だけでも十分すぎたと言いますか、その、ええと」
どうしよう。なんだか小村くんから物凄い威圧感を感じる。怒っているのか、それとも呆れているのか。だんだんわたしの声もしょげていって、次第にうつむきがちになっていって。
その時だ。小村くんが言ったのは。
「ったく。しゃーねえな……」
盛大な溜息ひとつ、彼はついたかと思うと面倒くさそうに頭を振った。
「やっぱ美咲さん、どっか放っておけねーわ。あんまりにも危なっかしすぎて」
「……え?」
「地味で内気で引っ込み思案で、クソみたいなぐれえに卑屈で弱気で、ウザいぐらいにウジウジ虫ですぐに自分を卑下するうっとうしさで」
「あ、あう……」
「オットセイにはすぐになるし、はっきり言いたいことも言わねえし、自分じゃ何も決められないくせして他人が関わると自分を犠牲にしてまで相手のためになるようなことをしようとするし」
「えと、あの、……うぅ」
「根っからのお人よしで、呆れるぐらいにダメなやつで、そのくせ一生懸命なのに空回りばかりで」
なんで、なんでわたしは告白したのにこんな風にダメ出しばかりされてるんだろう。グサグサと痛いところばかりを的確に突かれ続け、思わず小さく縮こまる。
そんなわたしの頭をポンと叩いて、小村くんは締めくくった。
「だからそんな美咲さんだから、近くで見守っていないといけない気分にさせられんだよ」
「……へ?」
「勘違いするなよ。美咲さんの告白を受け入れたわけじゃない」
「うっ……そ、そうですよね……」
「けどまあ、勇気を出して言ってくれてありがとう。嬉しかったよ」
と言って小村くんは背を向ける。きっと今だけは、わたしに悲しむ時間をくれるために。
だけどわたしは今にもこみ上げてきそうな泣き声を無理やり押し込んで、その背中に声をかけた。
「小村くん!」
決意の言葉は高らかに。湿った泣き声は似合わないから。
「わたしは、わたしは頑張りますから! 小村くんに振り向いてもらえるぐらい魅力的な女の子に、なりますから! 葵さんからわたしへと……きっと振り向かせてみせますから……!」
今度こそ美しく咲いてみせる。本物の
だってこの先、何年もあるのだ。わたしが勝負できる期間は。きっと昔のわたしなら、太刀打ちなんかできっこないと思っていた。でも今は違う。小村くんが教えてくれたのだ。人は変われる、と。
小村くんは振り返ると、口元に皮肉っぽいような、少し意地悪な笑みを浮かべながら、わたしに向かってこう言った。
「やれるもんなら、やってみろよ」
「……はい!」
これは与えられたんだろう。挑戦権というものを。
遠ざかっていく小村くんの背を見つめながら、頬を流れる一筋の涙を感じながら。
わたしは生まれて初めて、挑戦の一歩を踏み出したのだった。
足踏みはもうやめて――。
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