第17話 止まった背中を蹴飛ばして
小村くんの背中はあっという間に見えなくなった。わたしは一人、息を切らせて走っていた。どこへ行ったかも分からない人を追いかけて。
走っているうちに鼻緒で擦れた指の間が痛くなる。慣れない運動は体を苦しめる。人にぶつかっては怒鳴られる、怒られる、そして時には突き飛ばされる。そんな人ごみの中を、わたしはひたすらごめんなさいと頭を下げながら駆け抜けた。
そうしてやってきたのは、祭りの喧騒の端っこで。いい加減痛む足を引きずって、膝に手をついて折しもその瞬間に一息入れたその瞬間。
わたしは路地ともいえない、建物と建物の間にできただけの狭苦しい隙間にその人の姿を見つけた。
小村くんはコンクリートの壁に背中を預けてうずくまっていた。夕方が死んで夜へと脱皮するその瞬間に、彼は引き裂かれるような苦しみをまとって両腕に顔を押し付けていた。きっと、涙をこらえるために。
からん、ころん、からん、ころん。痛む足とは裏腹に、下駄は相変わらずの景気のよい音を立てる。祭りの太鼓や笛の中を歩けばそれは陽気な打楽器になるけれど、鬱屈とした心の痛みには少しその音は痛すぎる。
黙って歩み寄ったわたしは、何も言わずに小村くんの隣にそっと腰を下ろす。くぐもった泣き声をさらに押し殺そうとして余計に痛ましくなったうめき声が、闇よりも静かに聞こえてくる。
その苦しみにわたしは何も言えなかった。ただただ黙って、寄り添うだけ。
きっとわたしが小村くんなら、そうしてほしいと思うから。
そうして五分か十分か。それぐらいの時間が過ぎたんじゃないかな、って。多分それほど長い時間ではなかったと思う。小村くんが口を開くまでに要した時間は。
「……どうしたんだよ」
掠れたような声はまだ少しだけ湿っていた。
「……小村くんが、とても寂しそうにしていたので」
「何それ。わけ分かんねえ」
と言いながら小村くんは鼻をすする。
そんな彼の隣にわたしも黙ってしゃがみこんだ。
「笑っちまうよな。あれだけ美咲さんにでかいこと言って、告白しろとか、やる気出せとか、そんなようなこと言ってた俺がさ。こんなところでうずくまって、傷ついて、ずたずたになって、ぼろ雑巾みたいになっているなんて。バカみてえっつーかさ、人のこと言えねえっつーかさ。ほんと……情けねえっつーかさ」
「……」
「イギリスだぞ、イギリス。まさか本当に、テニスにそんなに入れ込んでたってのかよ。俺はテニスよりも下なのかよ。どんなに頑張っても、俺は葵の一番にはなれねえのかよ」
違う、とは言えなかった。小村くんはそんな言葉を求めていなかった。
「誰の、何の一番にもなれねえのかな、俺。このまま寂しく萎れて、いつまでも、いつまでも……冬耶の背景扱いされんのかな」
小村くんの言葉に滲むのはやるせないまでの劣等感なんだと思う。及川さんは一緒にいるだけで人の劣等感を刺激してしまうから。
近くにいることができるからといって、小村くんが切り刻まれないなんてことはなかったんだ。ただ彼は少しだけ、他の人よりも強すぎて、優しくて、自分が傷つく以上に及川さんが痛みを抱えていることを知っているだけだったんだ。
「葵はさ……俺のこと、背景扱いしないでくれたんだよ。冬耶のことも、俺のことも、ちゃんと平等に見てくれてたって思うんだよ。だってあいつは俺のことを凄いって言ってくれたんだぜ。いつも冬耶の誤解とか、冬耶に対する逆恨みとか、上手に解いて回ってて凄いねって。そんなことに気づいたの、あいつだけなんだよ。葵だけなんだよ。だってのに!」
彼はもしかすると、ずっと誰かに自分のやっていることを見てほしかったのかもしれない。自分が及川さんの引き立て役なんかではないと、主張したかったのかもしれない。だからそれに気づいてくれた葵さんに恋をして、そのせいで傷だらけになっている。
「だってのに……なんだよ。告白さえもさせてくれないのかよ……」
「……」
「……ごめん。俺、変なこと言ってるな」
なんて、小村くんは明るい声を無理やり作ったりなんかして。その優しさでまた自分を殴りつけてるっていうのに、無理をして。
「はは……すまん。忘れてくれ。情けないとこ見せたな」
そして彼は笑うのだ。強い仮面を貼り付けて、『大丈夫だ』と人に思ってもらうために。
そんなことをできる人は、実はなかなかいないのだろうと思うから。だからわたしも傷を晒すことにした。
「……わたし、人殺しなんです」
「……!?」
それは誰にも明かしたことのない一番柔らかく痛いところ。触れたらきっと凍えるぐらいに熱く熱く痛む場所。
「正確には、親殺し。……この世界で一番深い罪を犯した人間なんです、わたし」
「それって、お前……どういう」
突然の告白に混乱しているのか、小村くんの声が動揺に震えている。けれどもわたしはそんなことを気にする余裕なんてない。ただ必死で、自分のことを語ることで精いっぱいだった。
「このカメラ、お母さんの形見なんです」
「形見……」
「はい。川に流されて、そのまま亡くなって……わたしの代わりに」
その日のことを今も覚えている。
写真が好きだったわたしのお母さん。
「美しく咲きなさい。あなたの名前はそういう名前よ」と何度も言ってくれたお母さん。
そのお母さんは流されてしまった。山へ草花の写真を撮りに行った時、川で遊んで流されてしまったわたしを助けて。
あの時、お母さんはわたしを抱きしめてくれた。抱きしめてしまった。そうやって守ってくれたけれど、代わりにあの人が遠いところへ行ってしまった。
「だからずっと、わたしはわたしの中で価値のない存在でした。自分が生きるために母を殺した、卑しい女だって思っていました」
「美咲さん……」
シャッターを押すたびにわたしは母の顔を思い出す。もう二度と見ることの叶わないあの笑顔を思い出す。
だからなんだろう。人を撮る時、未だに指先がしびれるのは。
けど。でも。このカメラは最近、別の意味を持つようになった、と思う。そんな確信があるから、わたしはカメラを取り出して今までに撮った画像を小村くんの目の前に差し出した。
「けれど、そんなわたしと、最近一緒に笑ってくれるようになった人達がいるんです。温かく包み込んでくれる人達が、いるんです」
一枚、また一枚と画像をスクロールさせていく。わたしと葵さんのツーショット、小村くんと葵さんとうさぎさん、さっき撮ったわたしと及川さん。
「ねえ、小村くん」
わたしはその画像を見せながら、今までにない気持ちで彼に語りかけていた。きっとこの暖かさは、どこか慈しみにも似ているのだと思う。指先で触れれば熱いくせに、遠く離れたら寒くて孤独で仕方のないところなんかが。
「――わたしに価値を与えてくれたのは、あなたなんですよ?」
そうして、わたしは、そう言った。
不意に思い出すのは葵さんの言葉。
『みさきちは――みさきちは、何をどうしたい?』
祭りの前に、確かに彼女はそう言った。
わたしがどうしたいかなんて、そんなの、決まってる。
「わたしに価値を与えてくれたあなたが、無理やり友情を押し付けてきてくれたあなたが、踏み出すことの大切さを誰よりもわたしに口うるさく言ってきたあなたが――」
――こんなところで足踏みして、寒さに震えて、怖気づいてていいんですか?
それはとても偉そうな言葉だと思った。何様だ、と言われるかもしれないと思った。自分のことを棚に上げた無責任な言葉だと思った。
だけどどうしたいのかなんて決まってる。背中を、押したいのだ。その姿を、見せてほしいのだ。好きな人に告白する、そんなありきたりで偉大なその瞬間を見せてほしいのだ。
わたしが勇気を抱けるように。
「葵さんが海外に行くだとか、そういう風に変化はどうしたって起こるんです。心の変化も、環境の変化も、生きていれば絶対に免れることはできない」
いつか言われたことを反芻してわたしはその言葉を口から紡ぐ。
「よくも悪くも変わってく。これは小村くんがわたしに言ったことです」
「……だからなんだってんだよ」
「分からないですか? 分からないなら言いますよ。つまり小村くんは、泣いて叫んで葵さんを引き留めることもせず、ただ茫然と彼女がイギリスへ行くのを見送って、どこか知らないところで勝手に好きな人が誰かのものになっても平気でいられるのかってわたしは聞いているんです。そういう『変化』が起こってもいいのかってわたしは言っているんです」
「ッ、そんなの……そんなの、いいわけねえじゃねえか」
軋んだ音は、小村くんが奥歯を噛み締めたものだろうか。痛々しい胸の内を彼は無理やりひねり出す。
「いいわけねェ、嫌に決まってる……けど、怖ェんだよ。よくも悪くも人は変わる。俺の心だっていつかは変わる、かもしれねぇ。その時いつの間にか、葵に抱いてた気持ちがきれいさっぱりなくなってるかもしれねえじゃねえか」
「……小村くん」
「それが怖くて怖くて、たまらねえんだよ……」
遠くにいる人をずっと想い続けることができる自信がなくて。及川さんの背景扱いされてた過去をなんだかんだで振りきれなくて。もしかすると強くなった振りをして、今も必死に足掻いてる。
だけどそんな彼に、わたしは言わなければならない。恩知らずにもほどがある、とてもとても残酷な言葉を。
「じゃあ小村くんはどうしたいんですか?」
「ッ」
「小村くんが望んでいるのはなんですか? 今ここで、こうしてうずくまっていたいんですか? それとも……」
それとも、葵さんの下へと走って、想いを伝えたいんですか?
「わたしは忘れないですよ。たとえ何があったって、小村くんが葵さんに恋してたことを。切ない想いがあったことを。たとえ小村くんがどう変わっても、わたしはそのことを忘れないでいたいって、そう思います」
「好き放題言いやがって……」
いらだったような声音と共に、小村くんがそう吐き捨てる。
「どうしたいかなんて、そんなの、そんなの……」
決まってんじゃねェか、と小村くんは呟いて。全身を震わせながら立ち上がる。
「俺は……俺は葵が好きなんだからッ」
まるで誰かに宣言するみたいに彼はそんな言葉を叫ぶ。そうしてわたしに向き直り、「ありがとう」だなんて言ってくれる。
「目が覚めたよ。まさか、美咲さんにこんなこと言われるなんてな」
「そんな……偉そうに言ってごめんなさい」
「いや、そんなことは別にいいんだ」
首を振って小村くんが歩き出す。わたしも立ち上がってその背中を見送った。
「思えば俺は、どこか自分を美咲さんに重ねてたのかもな。自分に自信が持てなくて、うずくまってることしかできなくて、だけど違う自分になりたいって思ってるところがさ。昔の俺と重なって……助けてやりたくなったのかもしれない」
小村くんのその言葉に返す言葉をわたしは持ち合わせていなかった。
だってこういう時に言うべきセリフは、きっとたったの一つだけ。
「いってらっしゃい、小村くん」
そう、その一つがあれば、人はきっと走り出せる。
「ああ、ありがとう。……行ってきます」
小村くんのように。
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