第16話 逃げた背中

 もうすぐ花火が始まる時間だ。このお祭りでは、川の中州から毎年花火を上げている、らしい。だからみんなこの時間になると、橋の欄干にもたれながら花火を見上げるのがお祭りの常でありもっとも盛り上がる瞬間だった。


 まだ小村くんと葵さんは見つかっていない。きっと今ごろ、二人の時間を仲良く過ごしているんだと思う。合流したら、小村くんなんかは少し不満を感じるかもしれない。


「とりあえず橋まで行こうか。勇作達とそこで合流できるかもしれないし」


「あ、はい」


 というわけで二人して橋へと向かうことに。全体的な人の流れも、なんとなくそちらの方へ向いているように感じた。


 ぽつりぽつりと話しながら、時々沈黙も挟みつつ……しかし及川さんとの間ではそれがそんなに苦痛じゃない。なんとなく話したいことを話して、相手が話している時はそっと耳を傾けて。そういうことができている、そんな気がするから。


 別に楽しい会話でもない。笑える話なんかでもない。それでもどこか、心を和ませる落ち着いた話ではあると思った。


 そんな風に和やかな時間を過ごしているうちに、わたし達は橋へとたどり着く。車を四台並べて泊めてもまだ幅の余るその橋は、すでに人でごった返していた。


「美咲さん。こっち」


「あ……」


 不意に手を掴まれて、わたしは頬が赤らむのを感じた。見上げると及川さんとわたしの手が繋がれている。


 及川さんは顔を赤くして、わたしからふいっと顔を背けた。


「その……はぐれたら大変だから」


 ちょっと緊張したようなその声にこっちまで恥ずかしくなってしまう。思わずうつむいて、「……はい」と答える。声は震えてなかっただろうか。


 そうして手を繋いだまま歩いていると、不意に知っている声が耳に飛び込んできた。


「あの……俺。俺さ」


 その声の聞こえてきたほうへとっさに顔を向けると、欄干に腕をもたせかけながら隣り合って話している小村くんと葵さんの姿が見えた。


「あの二人……」


 及川さんの耳にも小村くんの声は届いていたらしい。そんな風に呟くのが後ろから聞こえた。手はつないだまま、わたし達はそっと寄り添って二人の姿を見守る。


「なんか、邪魔しちゃ悪い雰囲気だね」


「そうですね……声をかけるのは少し待ちますか?」


 とわたし達はうなずき合う。


 再び小村くん達へと目を向ける。こちらの頬が熱くなってしまうぐらいにいい感じの雰囲気だった。肩をそっと寄せ合って、互いに互いを見つめ合って。触れそうで触れない指先が、なんともいじましくも甘ったるくて。


 葵さんの横顔だって、きっとまんざらじゃないって顔してる。他の誰にも見せないような、少しはにかんだような、そのくせ喜びに満ちているような笑顔は、きっと小村くんしか正面から見ることはできないんだろうって思う。


「俺さ、葵に憧れてテニス始めたんだよ。すげえ、かっこよくてさ。ああなりたいって本気で思って、ずっと追っててさ」


「知ってるよ。だってユウ君にテニス教えたのあたしだもん。必死でいつも食いついてきてさ、ほんと、かっこいいって思ってた。誰よりもあたしの目には輝いて見えてたよ」


「……いや、それはさすがに言い過ぎじゃねえか?」


 葵さんの言葉に喜びを隠せないくせして、ついそんなことを言ってしまうのは小村くんらしいなと思ってみたり。


「言い過ぎなんかじゃないよ」


 という葵さんの声は、凛として響いて聞こえた。


「あたしに追いつこうって、あたしばっか見て必死になってる男の子がいたらさ、かっこよく見えるに決まってるよ」


「葵……」


「ユウ君は誰よりもかっこいいよ。少なくともあたしの目にはそう見える。断言したっていい」


 葵さんの言葉に迷いはなく、だからこそ力強かった。目に見えて小村くんの表情が輝く。その瞳に喜びが満ちる。こんなに嬉しそうな彼の顔は初めて見た。


 一つの恋が実る瞬間を今わたしは見ているんだろう。それはきっと、きらきらと光り輝くそれよりも尊い、温かい温度に満たされている。想いと想いが繋がるのはなによりも嬉しいことなのだろうと思うから。


「じゃあ……じゃあ、葵」


 小村くんが前のめりになるみたいにして言葉を紡いだ。


「葵、俺と、その……俺の」


「だからさ、ユウ君」


 しかし小村くんが言い終える前にそれを葵さんが断ち切った。そこにはどこか、問答無用な空気さえも感じられて。異様なその雰囲気に小村くんが黙り込むや否や、


「あたしも頑張るよ。ユウ君に負けないぐらい」


 いつの間にかすっと懐に踏み込まれていたことに、多分小村くんも、はたから見ていたわたし達も気づいていなかった。葵さんはその刃を、いったいいつから構えていたのだろう。


 いや……もしかすると気づけるはずもなかったのかもしれない。それはきっと、彼女がずっと心に秘めていたもののはずだから。



「あたし、イギリスに行くんだ。夏休みが終わったら、すぐに」



 その言葉の意味が闇に溶けて消える前に、小村くんの表情には絶望が満ちた。言いかけた言葉は尻すぼみになり、やがて葵さんの顔を見ていたはずの視線は地面へと向けられ、発した返事はただ一つ。


「……そうか」


「うん。――やっぱりさ、あたしテニスが大好きみたい。もっともっと上手くなりたいって、いつかは本場でトップを目指せるプレイヤーになりたいって、そう思うんだ」


 続く言葉は、なおも小村くんを切りつける。


「後ろめたくてずっと言えなかったけど……でも、ようやく伝えられる。向こうで何年踏ん張ってくるかとか、そういうのはまだ分かんない。ずっとかもしれない。でも……この街じゃこれ以上強くなれないと思ったから」


「……」


「だからユウ君にも応援してほしいなって……ユウ君?」


 葵さんが怪訝な顔をしたのも無理はない。だって今、小村くんはすべてを押し殺したような、あまりにも不自然な笑顔を浮かべているから。心の奥底で沈殿する澱を葵さんに見せまいと。


「そうか、うん、頑張れよ、うん」


 言いながら、もうすでに小村くんは踵を返している。


「応援……してやるからさ」


 だなんて。気丈なことを口にするくせに。小村くんはまるで葵さんから逃げようとするかのようにその場から駆け出した。


 わたしは……わたしはそうやって逃げ出す小村くんの背中を思わず追っていた。繋いでいたはずの及川さんの手も振り払って、今度こそは慣れない下駄でも転ばずに、カランコロンと地面を蹴立てて。


 背中を突き飛ばすような感情に追い立てられ――。

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