第15話 二人は友達
その後、わたしはなぜだか葵さんに連れられて彼女の家を訪れていた。濡れた服の代わりを貸してやるからと押しに押されて、しまいには肩に担ぎあげられ連行されてしまったのだ。
「あの……それで代わりの服って……なんで浴衣なんですか」
「え? だってお祭り、一緒に行くでしょ」
屈託のない顔で葵さんがそう言った。
「約束してたじゃん。四人で行こうって」
確かにその約束はしたけれど、まだ有効だったとは思っていなかった。わたしはずっと葵さんたちのことを避けていたし、もう仲間からは外されていると思っていたから。
だというのに葵さんは、避けてた理由を聞いてきたりしない。無視したことを責めてきたりもしない。
「……何も聞かなくていいんですか」
後ろめたい気持ちを抱えていたわたしは、そんなことを口にしていた。
「ん、分かるよ。なんとなく。女子って面倒くさいもんね」
葵さんのその言葉は、多分きっと、わたしがどうして距離を置いたのか知っているような口ぶりだった。
「みさきちは気にしなくていいんだよ。他の誰がなんて言おうと、友達だもん。仲良くしてたら楽しいもん。一緒にいたら嬉しいもん。それでいいじゃない」
「わたしは……そんな風に考えられません」
「あたしやユウ君達と一緒にいるのがつまらないってこと?」
そう問われてわたしは首を横に振る。全然、そんなわけじゃない。そういうことを言いたいんじゃない。
「わたしは……一緒にいることを許されるような人間である自信がないんです。自分にそんな価値なんて……」
「価値なんて気にしてたら立てないよ。だって世界はこんなに広くて大きいんだよ。ちっぽけだからうずくまってちゃ、未来に向かって踏み出せない」
世界だなんて、そんなスケールの大きい話なんてわたしに分かるわけもなく。葵さんの言葉にわたしはただ押し黙るだけ。
そんなわたしを見て気遣わしげに葵さんは微笑む。そういう笑顔を向けられているということが、なんだか無性にやるせない、そんな気がした。
「あたしはさ」
葵さんがわたしの頭をそっと抱きしめる。ぬくもりが静かに心に沁み渡る。
「ほしいものは何が何でも手に入れたいだけ。たとえ海を一つや二つ超えることになったとしても、この手に収めるまでは諦めることができないだけなんだよ」
「……」
「だからね。みさきちのこともそうなんだよ。せっかく仲良くなったのに手放すなんて、そんなことしたくない。だから全部、あたしのわがまま。みさきちが気にすることなんて、どこを探してもないんだよ」
その言葉はあまりにも温かくて、優しくて。
「あたしはあたしのやりたいことを、ただやるの。みさきちは――みさきちは、何をどうしたい?」
だからそれだけに、わたしの心を痛めつけた。
* * *
お祭りの会場は混み合っていた。結局葵さんから逃れることができないままに、赤い浴衣を着せられたわたしは葵さんと二人で小村くんと及川さんを待っていた。
けれど、正直……まだわたしは二人に会うことを恐れていた。
「あの、やっぱりわたし帰りま……」
「ダメだよみさきち。それはちょっと許せないかなあ」
……やっぱり帰ることは許してもらえないみたいだった。
そうして二人で待っていると、小村くんと及川さんがやってくる。
「あ、美咲さんっ」
わたしの姿を認めた及川さんが、嬉しそうに顔を綻ばせる。とっさに顔を背けると、一転して彼の表情が曇る。そんな顔にさせるつもりはなかったから、わたしの心も少しだけ痛む。
「なんだ。てっきり来ないもんだと思ってた」
「む、ユウ君のその言い方は少し意地悪だと思うんだけどー?」
「俺らんことを無視ってたそっちが悪い。こういうこと言われたくなけりゃ心配させるようなことをすんな」
それは小村くんなりの気遣いの仕方なんだと思う。口が悪いふりして、この人はきっと誰よりも優しい。そのことが分かるからこそ、わたしは及川さんの目を見れなかった。
告白すると約束した、今日この日。けれどもわたしは、その決意を固められないでいる。
告白だなんてそんなこと、わたしがしていいものだとはどうしても思うことができなかったから。
四人で連れ立って歩き始めると、祭りの喧騒はますますわたしの体を飲み込んでいく。きっと誰もが今この瞬間を楽しんでるんだって、そう信じたくなるような空気が周りにはあふれている。それがわたしの心にまで届くかどうかとかは置き去りにして。
「あの……美咲さん」
不意に横から声をかけられた。及川さんが、こっちこっちとでも言いたげにわたしのことを手招いている。かと思うと、指先で小村くんと葵さんのことを指さしたりなんかして。
それでなんとなくわたしは悟る。二人きりにしてあげようと、つまりそういう配慮なんだろう。そう思ったわたしは及川さんに続いて少しだけ静かな端っこへと二人して場所を移動することに。
及川さんと二人きり、祭りの雑踏をそろそろと進む。その間、ろくな会話がわたし達の間に生まれることがなかった。
気遣うような息遣いで何かを言いかけてやめる、とかいう。そういう牽制みたいな会話の繰り返しで。距離を掴みかねていて。
この大騒ぎをしていい日に、沈黙する存在が一人と一人。普段よりも近い距離にいるというのに、間に横たわる溝は大きく深かった。
けれどもいつまでもそんな空気を我慢できるわけもなく。
「美咲さんは……なんでオレ達のこと避けてたの」
核心を直接突くような切り出し方に、わたしの心は縮み上がる。
わたしなんかが……及川さんと一緒にいてはいけないのだ。彼の価値を傷つけないためにも。わたしの存在が彼を傷物にするというのなら、遠く遠く離れていなければいけないのだ。
だから今だって本当は言葉を交わしてはいけない。一緒に、隣にいてはいけない。近くに存在することで、太陽の輝きを曇らせてはいけない。
無価値であるところの人間=わたしは、太陽からもっとも遠いところで息を潜めていなければならないのだ。
うねる人の波の中で、わたしはそっと足を止める。それに気づいた及川さんが、わたしより三歩分だけ先に行ってから振り返る。
俯くわたしと、そんなわたしの頭を見つめる及川さん。向き合っているくせに、きっと心は正面から相手を見ていない。きっとそんな雰囲気なんだろうなって。
シチュエーションだけ見れば告白にはうってつけ、なのかもしれない。わたしにそんな気があればの話だけれど。
今のわたしは……ここから逃げることしか考えられない。
「あのさ。オレ、美咲さんのこと諦めるつもりないから」
不意に及川さんがそんなことを口にした。
「……諦めるって、なんですか。わたしなんて、そんな価値ないです。諦めるも諦めないもない。誰かの隣に立つことなんて……そんなの」
――笑ってしまう。どうにも嗤えて仕方がない。自分のこんな、卑屈で、弱気で、内気で、そして卑怯な性根が。
ただ縮こまって恐怖をやり過ごすような人間であり続ければよかった。夢なんて、差し伸べられた手なんてものに気づいてしまわなければよかった。そうすれば今こうして、及川さんにこんな顔をさせることもなかったのに。
誰かを傷物にすることもなかったのに。
「ごめんなさい……。わたし、今日はもう、帰ります」
とっさに選ぶのは、こんな時でも――あるいはこんな時だからこそ、逃げだった。
逃げてばかりで、弱虫で、後ろ向きで、ひたすら卑屈で。
そんな自分であることを恥じることさえ、今のわたしにはできるはずもなくて。
だけど多分慣れない下駄をはいてたからなんだと思う。踵を返して走り出そうとした時に、バランスを崩して転びそうになったのは。
「あ……」
「危ないっ!」
及川さんが叫びながら、わたしの二の腕をぎゅっと掴んだ。
そのまま彼が、わたしのことを抱き寄せる。逞しい腕がわたしを後ろから包み込んだ。
「またオレから離れていくのかよ!」
「へ?」
「みんなオレから離れていくのかよ! そんなに、オレが嫌いかよ! オレのこと一人にしないでくれよ!」
その言葉に涙の色が混じることに、不意にわたしは気づいた。及川さんが、泣いている……? そう戸惑うわたしをよそに、及川さんの言葉は続く。
「なんでだよ、どうしてみんなオレからいつも遠ざかっていくんだよ……。ふざけんなよ。もう嫌なんだよ、仲良くなったやつがすぐにオレから離れてくのは……」
わたしは……葵さんの言葉を思い出していた。太陽に近づきすぎたイカロスは、その翼を焼かれてしまう。
それはもしかすると真実だったのかもしれない。及川さんは何度も何度も友達になった人を失ってきたのかもしれない。他の人と比べればとびぬけすぎているその容姿のせいで。無意識に他人に劣等感を与えてしまう美しさのせいで。
だから今も泣いていて、きっと涙を流す姿さえも息を飲むほど美しくて。
それゆえに誰も彼の苦しみに気づかない。
なら今泣いているのは誰だ。涙を流しているのは誰だ。及川さんだろ、それは。
そうして、そんな風に泣かせて、悲しませているのは。
――わたし、だ。
わたしが及川さんから距離を取ろうとして、そしてそれが彼のことを傷つけたのだ。
及川さんはわたしが隣に立つことを微塵も気にしていないというのに。そんなことを、わたしは分かってあげることもできなくて。
なら今のわたしが何をしてあげることができるというのだろう。どうすれば、彼を笑わせてあげることができるのだろう。
そっと肩からかけているカメラポーチへ手を滑らせる。きっとわたしにできるとしたら、これだけ。
「あの、及川さん」
まだ震えを残す彼の手に触れる。ハッと弾けるようにして及川さんは飛びのいた。
「ご、ごめんっ、オレ、抱き締めたりなんかして……」
「そ、それは、その、あの、いいんです。気にしてないです、から」
いや、本当は凄く意識してるけど。でも今はそんなことじゃなくて、わたしが今するべきことはそういうのではなくて。
いつか葵さんがしてくれたみたいに、及川さんの頭を抱き寄せる。もう片方の手で構えたカメラのレンズはこちらに向けて、よく分からないって顔してる及川さんになんの予告もしないでシャッターを切る。
カシャリ、と景気の良い機械音が響き渡った。
「え? え? 写真?」
「はい。――ほら、見てください」
カメラを操作して、わたしは今撮ったばかりの写真を画面に表示する。そこには少し間抜けな顔をした及川さんと、大胆すぎることをしたせいでものすごい勢いで顔が発火してるわたしの、あんまりといえばあんまりすぎる写真があった。
それを見て、わたしは及川さんと顔を見合わせて……同時に吹き出す。
「美咲さん、顔赤すぎ」
「お、及川さんだってっ。ほら、ぐちゃぐちゃの酷い顔なんですから!」
「それは美咲さんがなんの予告もなく撮るからじゃん!」
「うっ……て、テンパってたんですから仕方ないんですっ」
驚いた。わたしにこんな軽口が叩けるだなんて。少しだけ、無理やり、明るく振る舞っているって自覚はあるけれど。でも、きっとそれだけじゃない。
覚悟ができたんだろうなって、そう思う。
「……あの」
だってその証拠に言えるんだもの。
「ん?」
「わたしはこうやって、その、ちゃんといますから。及川さんと一緒に」
「うん」
「だから、その」
顔を上げる。決意したのだ、今言うと。
「だから、その……これからもずっと、お友達でいてください!」
わたしの言葉が空気に溶けきるその前に、及川さんが首を縦に振る。
「こっちこそ……美咲さんとはいい友達になれると思ってる。だからこれからも、よろしく」
そうして顔を見合わせて、なんとなく二人同時に視線を逸らして。
「……と、とりあえず、勇作達と合流しない?」
「あ、は、はいっ」
小村くんにも、葵さんにも――謝らなければならないことはたくさんある。いっぱい、いっぱい、頭を下げるんだ。そうしてまた友達になってもらいたいな、なんて。そんな幻想。少しだけ、いつもより楽しくて明るいような、幻想。
さっきよりも少しだけ肩を寄せ合うようにして、わたし達は祭りの雑踏へと再び足を踏み入れた。
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