第14話 獅子来る
息苦しさに耐えかねたわたしは、家の外へ出ることにした。
寝巻きから外着へと着替える。黒いシャツとハーフパンツ。小村くんが選んでくれた服もあったけど、そちらを着る気分にはなれなかった。
着替えたわたしはカメラポーチを肩から提げて、安い部屋から外へ出る。
「はあ……」
前にも、こんなふうにして外へ出たことがあったっけ。
わたしがまだ中学生の時。真夜中近くに家を出て、公園で一人夜空を見上げていたんだったっけ。
あの日と同じように空を見上げる。今日の空はすっきりと晴れ渡っていて、絶好の祭り日和の花火空だった。
だというのにその爽やかな陽気とは裏腹に、わたしの口から漏れるのはずっしり重たい溜息だ。外へ出るとは決めたものの、どこへ行こうかなんてのはまったく頭の中にはなかった。
部屋の前でぼんやりしていても仕方がない。重たい足を前に出そうとして上げかけた時、こちらへと向かってくる影に気づいた。三人の女性が廊下の向こうからやってくる。
彼女達はわたしの姿を認めると、キッと眉を吊り上げて硬質な足音と共に近寄ってきた。
「あ、あの……?」
うろたえるわたしをよそにして彼女達はわたしを取り囲む。前に二人、後ろに一人。前後から挟まれたわたしは状況を理解できぬまま、ただただその場に立ちすくむばかり。
正面に立った二人のうち、片方は知っている人だった。及川さんのファンの一人で、小早川さやかさんという人だ。派手な見た目の綺麗な人で、女子の平均より背が高い。低身長のわたしでは、彼女の顔を見るためには首を上へと傾けなければならなくなる。
小早川さんはいわゆるお姫様だ。物語の、ではなく、クラスでの立ち位置が。他の女子からは一目置かれてて、下手に手出しをする人はまずいない。及川さんに声をかける優先権も持っている、らしい。普通に生活していれば、まずわたしなんかとは接点のない人だった。
そう、あくまで普通に生活していれば。
「……ねえ。あんた最近調子に乗ってんじゃない?」
「あ、あの、その、ごめんなさ――」
とっさに謝ろうとして、しかしすべて言い切ることはできなかった。その前に胸を突き飛ばされて、お尻から地面に倒れこむ。痛みと驚きでとっさに後ろに這いずろうとするも、スカートの裾を踏みつけられて身動きを取ることができなくなる。
哀れな思いで茫然と見上げるわたしを見て、さやかさんの取り巻きが嘲るように笑い出す。
「うわ、キモッ」「っていうか弱っ!」
笑い声と共に繰り出される侮蔑の言葉に、すうっと温度が下がるような感覚を覚えた。恐怖を紛らわせるように、カメラの入ったポーチを胸に抱えた。
「今日あんた、冬耶様達とお祭りに行くんだってえ?」
「あ、あの……え、なんで?」
「そういう話をしてるって聞いた子がいるのよ。あんたは全然、気づいてなかったみたいだけど」
言いながら、彼女が冷たい目を向けてくる。
「迷惑なんだよねえ……冬耶様に近づかれると」
わたしの声を無視してさやかさんが話し出す。あまりに威圧的で、そして驚くほどに低く押し殺した声で。
「そもそもあんたみたいな屑女が近寄ったら、冬耶様が困るでしょう? 少し優しくされてるからって、あんまり勘違いして調子に乗っちゃダメじゃない」
「勘違いとかなにそれ」「キモ女じゃん」「メンタルさんがへらへらしてる」「っていうかそれって……」「ねぇー?」
「もっとも仕方ないかもしれないけどね。だってあんたみたいな地味女、男になんて縁がなさそうだもの。少し親切にされたのを好意と思い込んじゃって、寂しい女」
あー、それ言えてる、とさやかさんの手下の一人が同調する。
「妄想激しすぎってやつじゃない?」「キモオタみたい」「同類じゃん?」
いつの間にかどんどん誤解が大きくなっていることに気づいて、わたしは思わず口を出した。
「……あ、あの、大丈夫ですから」
「え? 何が大丈夫なの? どう大丈夫なの?」
「その、わたしは、あの、及川さんと関係ないですから」
そう言った瞬間背中を激しく蹴り飛ばされた。不意の衝撃に思わず呻く。そんなわたしの様子を見て、さやかさんの隣の手下一号はわたしのことを指さして大笑い。
「は? 関係なくなくない? あんたが冬耶様に色目使ってんのは全部うちらの勘違いって言いたいわけ? え? うちらのせいか、ええ?」
「ち、違……わたしそんなこと」
弁解しようと口を開くと、肉食獣の目でさやかさんがわたしを見下ろす。それに当てられどうしようもないぐらいに縮こまってしまう。草食動物が肉食動物と戦えるなんて、そんなことはありえないのだ。
「弁解すんなし。そういう風に言い訳がましいのって、さあ?」
わたしのスカートを踏んだままのさやかさんは両腕を組んでそう言い放つ。その様子を見て、小村くんの選んでくれたワンピースを着てこなくてよかっただなんてわたしは思った。あの色味は汚れが目立ちそうだけど、このベージュなら洗濯機で洗えばまたもとのように使えるはずだ。
そんな的外れな心配をしているわたしは、なんて滑稽なのだろう。こんな時でもろくに自分のことなど考えられず、ただ時間が過ぎるのを待つばかり。きっとさやかさん達も、わたしに飽きれば帰ってくれる。自分でこの場を収めるなんて、そんな選択肢はありえなかった。
「ふざけないでくんない? なんとか言えってーの」
後ろに回った手下二号が再びわたしの背中を蹴り飛ばす。鈍い痛みが再び走った。カメラだけは壊されまいと、ますます体をちぢこめる。
けれどもそれをさやかさんは許してはくれなかった。わたしが胸に抱えているものに気づくや否や、わたしより二回りは長い腕を伸ばしてカメラを奪い取っていく。
「なにこれ、カメラ? うわっ、こういう趣味って……」
ねぇー、と意味ありげに三人が唱和する。その、ゾッとするような連帯感に、お腹の中身がムカムカとした。
「っ、か、返してくだ――わぷっ」
カメラにつけたストラップの端っこをどうにかつかもうと身を乗り出したわたしの顔に、不意に液体が振りかかってきて思わず両腕で目を覆った。
「ぷっ……あはははっ、すっごい無様ね!」「うわぁ……これはきつい。お似合いすぎて笑えるけど」
かすかに目を開けて見てみれば、手下一号が缶の炭酸飲料を手にしていた。プルタブは持ち上げられていて、飲み口はわたしのほうへ向いている。
「うわ、びっしょびしょ!」「準備万態?」「下ネタかよ」「そういう過激なのやめたげなよー。イコール年齢さんには刺激強すぎて耐えられないって」
連鎖的に上がる嬌声。バカにするかのように指してくる指先。湿った下着と甘ったるいにおい。
「あんたみたいなブスが冬耶様に近づいたのがいけないのよ!」
そう罵ってくる声が痛い。
「釣り合わないくせに調子に乗らないで!」
「……」
「冴えない女の分際で、何を勘違いしてるのかしら」
見えない拳が突き刺さる。全身めった打ちにされ、前を向くこともできなくなりそうで。
「もう二度と冬耶様に近づくな!」
けど。それでも。
わたしの……あの人が遺してくれたカメラだけは、どうしても手放すことなどできなくて。
挫けそうな、折れそうな、砕けそうな心を無理やり励まして。
どうにかわたしは前を見る。
「お、お願いですから……」
「あ?」
「お願いですから、その……カメラだけは返してください」
わたしのことはどうなってもいいから、カメラだけは、大事な記憶が保存されてるそれだけは、絶対に守り抜きたくて。
そう懇願するわたしを見下すさやかさんは、意外にも「いいよ」と言ってくれる。
「いいよ。別にあたし、カメラなんて興味ないし」
「あ、ありがとうございますっ!」
予想外のその言葉に、わたしの声は思わず弾む。すぐさま両手を伸ばすと、まあ待てとばかりに彼女は手のひらを突き出してきた。
「別に返してもいいけど、一つだけ。お願いがあるの」
「お願い、ですか?」
カメラを返してくれるのならば、どんな内容でも飲み込むつもりだった。土下座だろうが、パシりだろうが。そんなものと比べれば、カメラのほうがはるかに大事だ。
けれどもさやかさんの突きつけてきた条件は予想よりもはるかに悪かった。
「脱いでくれない?」
「……え」
「脱いでくれたら、ヌード撮影してあげる」
にたり、と頬に浮かべる笑みは邪悪なまでに歪んでいて。
「それで学校中にばらまいてあげようか? そうすれば新しい全裸アイドル誕生で、学校中の注目の的。そうなったら冬耶様だって、新しいアイドルがスキャンダルに巻き込まれないようあなたとも距離を置くと思うの。冴えないあなたでももしかしたら、ファンの一人や二人つくかもしれないじゃない」
「わー、すごー、写真集まで出ちゃうかもー?」「でもそれって買うやつ……」「あー……まあこれ以上言ったらさすがに可哀想かもー?」
声を立てて笑う彼女達を前にして、わたしは手の震えを抑えることができなかった。あまりにも残酷すぎる『お願い』に、どうしても怖気づいてしまう。そのことに気づいたのか、さやかさんはわたしの顔を睨みつける。
「……で、どうする? アイドル誕生秘話の始めの一歩踏み出しちゃう?」
「あ……あ……」
「そっかあ、アイドルになるの嫌なんだあ? じゃあこんなカメラいらないよねえ?」
さやかさんがそう言って、カメラからぱっとその手を離す。
「あっ……」
「なーんてね、冗談。壊すわけないじゃない。アイドルの誕生の瞬間が記録できなくなるでしょう?」
その目には試すような光が浮かんでいる。それはきっと、わたしの返事によっては本当にカメラを破壊するかもしれないような光のように思えて……仕方なく震える指を伸ばして、カットソーの裾へと伸ばす。
もう、それ以外の方法を思いつくことなんてできなかった。
「うわ、ほんとに脱いでるー」「変態がいる~」「裸見たらこっちまでブスになるんじゃない?」「え? なにそれ聞いてないんだけど!」「じゃああとでお祓い行くー?」
なんてそんな言葉が交わされる中、ゆっくり、ゆっくり、わたしの肌は少しずつ露わになっていって……。
不意に、である。
その声がわたしの耳へ届いたのは。
「な、に、し、てんだ――――――――ッ!」
突然響き渡ったその声に、わたしは思わず顔を上げる。とっさに首をめぐらせて声の聞こえてきたほうへと視線を向ければ、そこには。
「……ヒィッ」
思わずおしっこを漏らしてしまいそうな、それぐらいにおっかない顔をした葵さんが、仁王像もかくやという佇まいで両腕を組んで立っていらっしゃいました。
全身から発せられる怒りのオーラが鈍器みたいに誰彼構わず殴りつける。さやかさんを含めたその場の全員がたじろいだ。
「うわ、ちょ……」
「やばくない、これ」
さやかさんの手下二人が、葵さんを見て浮足立つ。獅子を前にして逆らおうとするのは愚か者のすることだ。
さやかさんがいなければきっと葵さんが現れただけでみんなこの場から逃げ出したのではないかと思う。
「く、栗本。には関係ないじゃない!?」
動揺しながらもそう反駁するだけの余裕があるさやかさんはなかなかの胆力の持ち主なのだろう。だって葵さんの怒気はわたしには向けられていないはずなのに、肌が粟立つぐらいに凄まじいのだから。
「関係ないやつが出しゃばってこないで。うっとうしいのよ!」
さやかさんの声に込められた刺々しさもまた、葵さんの怒気に劣らないほどに鋭く激しい。そして何より、氷で作られたかのように冷たかった。
けれど葵さんはさやかさんの言葉を受けてその双眸をぎらつかせる。爛、と瞳が輝けば、そこに百獣の王の気品と凶暴さを孕ませて、全身の威圧感を膨らませ……わたしには見えた、今にも飛びかからんと身構える獅子の姿が。
「関係、ある」
ぐっと獅子は身を屈め、四肢の力を練り固め、
「みさきちはあたしの友達だ」
視線で獲物をとらえて離さず、ぶわっと闘気が膨れ上がり、
「友達をいじめるやつは許さない」
爆発的に跳躍する。
組んでいた両腕を解いたかと思うや否や、葵さんは地面を蹴立ててこちらへ向かって迫り来る。
「うおおおりゃあああああああああ!」
葵さんが加速のままに跳躍する。それはさやかさん達三人が後ずさるよりもなお速い。
わたしの頭上を越えて放たれたドロップキックは獅子の刃がごとき威力をもって缶を持ったまま立ちすくむ手下一号を弾き飛ばす。余った勢いでズザァァァと地面を滑り、まるでドリフトのように慣性の法則を利用して再びその身を反転させてこちらのほうへと向き直る。
「ッ、この!」
手下二号は未だうずくまるわたしを横に突き飛ばすや否や葵さんへと掴みかかろうと腕を伸ばす。しかし葵さんは迫る両腕を弾いていなし、さらに強引に踏み込んで間合いを詰めるや否や襟を掴んで力任せに投げ飛ばした。
葵さんの猛攻にさやかさんはたたらを踏んで、逃げ出すような素振りをみせた。しかしそんなことを怒れる獅子が許すはずもない。俊敏な動きでさやかさんを正面に捉えた葵さんは、踏み込んだ左足を軸にして大きくたわませた下半身から、鞭打つように右足をしならせわき腹目がけて鋭い蹴りを叩きつけた。抉る勢いで放たれたそれはあまりにも綺麗にさやかさんへと直撃し。
「ッ……はっ、う……」
その攻撃を食らったさやかさんはひゅーひゅーと喉で息をする。その手に持っていたはずのカメラは蹴られた衝撃を受けたのか、空中高く舞い上がる。
「あっ」
それを見て、わたしは思わず小さく叫んだ。弧を描いて地面へ落ちて行く、その様子がいやにスローモーションで目に映る。
わたしの大切なそれが、粉々に砕けて散ってしまう。そんな未来さえも幻視してしまう。
あわや地面に激突するかと思われたわたしのカメラのストラップをはっしと掴み、葵さんは倒れた面々を睥睨しながら「ふんっ」と荒々しく鼻を鳴らした。
「それで」鋭く冷たく研ぎ澄まされた爪をもって葵さんはさやかさん達の心を切り刻む。「どうする? まだやる? 別にあたしはいいけどさ……これ以上するなら血を見るよ?」
心胆の隅々まで凍りつくようなその言葉に、さやかさん達は返事すらできずに慄くばかり。肉食獣とはいえど王を前にしては敵わない。獣は獣でも、狡猾さを武器にするハイエナではすべてをねじ伏せる力を持った獅子と正面切って闘うことなどできないのだ。
結局さやかさん達は互いに肩を支え合い、はいずるようにしてその場を立ち去って行った。
そんな彼女達の背中へ葵さんが叫ぶ。
「ざまーみやがれ、ばーか!」
……パワフルすぎます、このお方。
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