第6話 少しは変わることができたでしょうか?

 大変な戦いだった。


 それはもう、壮絶な。


 ハサミが舞う。髪が切られる。わたしの体だったものが床に落ち、その分だけわたしの顔が空気に晒される。恥ずかしいとわたしは叫んだ。世界へ対する冒涜だと涙ながらに訴えた。美容師さんは笑って言った。「女は世界を敵に回すものだよ」と。わたしの意見は潰えて消えた。


 髪を切っている最中、美容師さんは終始笑顔を絶やさなかった。その笑顔のままわたしの耳元で囁いた。


「女は男を騙すもの」

「女の武器は笑顔と魅力」

「魅力は磨いて光るもの」

「可愛くなろうとしない女は有罪」

「美を求めない女は死刑」


 過激だった。過激派の美容師さんだった。ハサミに女の命をかけていると思った。


 前髪を切るのが怖いなどと口にすることなどできなかった。髪ではなく喉笛を切り裂かれるのではないかという恐怖があったから。


 ようやくすべてが終わった時、わたしの頭は想像以上に軽かった。梳かれたおかげで重みを感じさせなくなった髪は随分と野暮ったさを減じていて、まるでわたしの髪じゃないように思えるほどだった。


「枝毛もきっちり始末しといたからねえ」


 と美容師さんは綺麗に微笑んで言ってくれた。


「うんとよくなったよぉ。ま、あたしがやったから当然なんだけどねえ」


「は、はい。その、お世話になりましたっ」


「ん、礼儀正しくていいねえ」


 頭を下げると彼女は鷹揚に笑った。泰然としたその姿勢をわたしも見習いたいと強く思った。


 お代を払って店の外に出ると、小村くんがそこで待っていた。


「あ――」


 携帯に落としていた目をこちらへ向けると、彼はその顔に驚きの表情を浮かべる。わたしの顔面が凶器すぎてびっくりしたのかと思い、慌ててわたしは顔を背けた。


「あ、あの、ごめっ……ごめんなさいっ。その、汚いものをお見せしてしまっ――あぐぅぅぅ!?」


 次の瞬間、こめかみに拳を押し付けられていた。ぐりぐりと思いきり抉られる。


「あいだだだだだだっっ! ほ、掘れてる惚れてる抉れてますぅぅぅぅ」


「卑屈禁止!」


 頭を回してようやくそれから逃れると、小村くんがビシィっと指を突きつけてくる。


「む、無理ですっ」


「無理じゃない!」


 思わず口走ったわたしのこめかみに、再び小村くんの拳があてがわれた。


「このっ、ドアホウ!」


「いぎぎぎぎぎぎっ!?」


「せっかく感想を口にしようとした途端、いきなり自分を卑下しやがって!」


「そ、それはその、ついっ癖でっあいでででででででででっ」


「その癖直せ! だいたい、少しぐらいは自分で自分のこと褒めてやったっていいだろうが!」


「し、死ぬぅ脳が穿り出されて死にます逝きます分かりましたからやめてぇぇぇぇっ」


 ひとしきりぐりぐりされようやく解放されたころには、わたしは自分では立っていられないほどに消耗していた。小村くん……いや、鬼畜くんの攻撃は本当に情けも容赦もなかったのだ。


 そんなわたしを見下ろして鬼畜な人は溜息をつくと、不意にその表情を緩める。


「けど、ま、すっげえ良い感じにしてもらえたじゃんよ」


「ふぁ……」


「すげえ、いいと思う。なんつーかそれこそ、守ってやりたい感じにはなってるんじゃないか? もともと美咲さんは小柄だし、それなりにすればそれだけで男子の庇護欲をそそると思うぞ」


「……それって褒め言葉なんですか?」


「可愛くなったってことだ」


 その言葉に思わず赤面する。言われ慣れない言葉だったせいで、心臓が思わずドキドキしているのが自分でも分かった。


「お、お世辞なんて嬉しくないです」


 思わず反射でそう口走るけれど、小村くんの視線は生暖かい。照れ隠しだってことがバレている。


「ほ、本当に嬉しくなんてないんですからねっ」


「まーたそんなこと言いやがって。喜び方も知らんのか、お前は」


 呆れたように言いながら小村くんがわしゃわしゃと頭を撫でてきた。


「わっ、わっ、せ、せっかく切ってもらったのに髪が乱れてしまいま――はっ」


「やっぱりな。その髪型気に入ってんじゃん」


「うっ……」


 小村くんからしてみればそんなことはお見通しだったらしい。痛いところを突かれて、わたしは思わず言葉に詰まる。


「褒められた時ぐらい素直に喜んどけ。それに、あまり卑下にされるとそれは俺に対して逆に失礼だぞ」


「ご、ごめんなさ――」


「言うべきセリフが違うだろ」


 遮った小村くんの声に気づかされる。この場で謝罪は失礼だ。


「……ありがとうございます」


「なんだ、ちゃんと言えるじゃないか」


 * * *


「さて、じゃあ行くか」


 と言って小村くんはすたすたと歩きだす。その背中を追いながら、わたしは今し方切ったばかりの髪を気にしていた。


 今までよりも世界が広く見える。きっと視界を覆っていた髪がなくなったおかげで、見える範囲が広くなったのだろう。おかげさまで周りの様子がよく見えて――目についた人がみんなわたしのことを見ているような気がしてしまう。


 髪を切ったばかりだからだろうか。今までと違う自分を意識して、そんなことに他の誰が気づくわけもないのについつい周りを気にしてしまう。似合ってないとか、ダサいとか、キモいとか思われていたらどうしよう、だなんて。身分もわきまえず美容院なんかに行ってごめんなさい、と心の中で何度も何度も土下座を繰り返した。


 そんなことを小村くんに話してみたら、彼は盛大に溜息をついて残念な子を見るような目でわたしを見た。


「どういう生き方をしてきたら、そこまで卑屈になれるかなあ」


「……うっ」


 それは、だって、私の罪なのだ。消えることもふさがることのない傷なのだ。


「えっと……なんというか」


 だから、わたしは口ごもってしまう。まだ、開いたままのその傷を、人に晒せる勇気はないから。


「あー、無理に説明しなくてもいいよ。俺は聞いてやることしかできないから」


 その突き放した言い方は、少しだけわたしの気持ちを楽にさせてくれた。あまり人に話して気分のいいものではなかったから。


 きっと、こんなことを聞かされたら小村くんだって困るに決まってる。


 そのおかげでわたしが小村くんの疑問に答えることはなかったけれど、代わりに気まずい空気がその場には流れた。少し肌がぞわぞわする感じは人付き合いが苦手なせいか慣れていない。


 だから話題を変えようと、わたしはずっと疑問に思っていたことを口にすることにした。


「小村くんはどうしてわたしなんかのために協力してくれるんですか?」


「『なんか』は禁止」


「はうあっ」


 デコピンされて額を抑える。思わずおでこを抑えるわたしを後目に小村くんはすたすたと足を進めて行った。慌てて遅れを取り戻そうと駆け足になるわたし。


 ようやく追いついたところで小村くんが口を開いた。


「冬耶のことは分かるよね?」


「はい。小村くんのお友達ですよね?」


「正確には親友かな」


 気負いなく小村くんがそう言い切ったのを見て、わたしは少し驚いた。親友なんて存在は、わたしからしてみればファンタジーだ。


「昔っからあいつはモテるんだよな、女の子に。おかげでそれなりに女関係のトラブル抱えてたらしい」


「トラブルですか?」


「嫉妬とか、修羅場とか、ストーカーとか。監禁未遂なんてのもあったな」


 淡々と続けられた小村くんの言葉に思わずわたしはゾッとする。


「だからあんま、冬耶って女を信用しねえし自分からはなるべく近づかないようにしてんのね。普通に仲良くしてる相手なんて、俺は葵ぐらいしか知らねえし」


「……」


「でさ。親友なんてもんをやってると、いくらでも打算的な人間ってのはいるもので」


 聞けば小村くんをだしに及川さんと近づこうとする女の子もたくさんいたらしい。その様子は、わたしでも簡単に想像することができた。


 昨日の光景を思い出す。教室にやってきた及川さんにはたくさんの女の子が群がっていた。きっとあれくらいたくさんの、あるいはそれ以上の女の子が小村くんにも寄ってきていたのだろう。及川さんと橋渡ししてもらうために。


 でも今の話を聞いた限りでは、なおさら小村くんがわたしの背中を押してくれる理由が分からなかった。


 そう思って疑問の視線を向ける。小村くんはそれに気づいて話を続けてくれた。


「どうせなら、美咲さんみたいなのがいいと思ったんだよ」


「へ?」


「美咲さんって無意識に相手を立てようとするよね。卑屈だけど」


「……」


「自分が常に誰かの迷惑になってるって思い込んで卑屈になるせいで、逆に相手にとっての失礼になるタイプだって思ってさ」


 耳が痛い。またお説教かと思って思わず首を竦めると、「でも」と小村くんが続けてくれた。


「それって自分本位じゃないってことだよな。方向性がおかしいだけで、相手のことを考えようとしてるってことじゃん。じゃあそれで自分に自信がついたら。気遣う方向が正しくなれば。そう思ったら、どうせなら美咲さんがいいなって思ったんだよ」


「…………」


「打算的に近づこうとか、体使って落としてやろうとか、そういう計算にまみれた女じゃなくてさ。美咲さんみたいに、打算も計算もヘタクソで不器用すぎるくらいのほうが、冬耶のいい彼女になってくれるんじゃないかって思った。それだけだよ。小狡い女が親友の彼女ってなんか嫌でしょ?」


 及川さんに群がる女の子を最後の一言で斬って捨てた小村くんは、一瞬口元に笑みを浮かべてわたしのほうへと視線を向けてきた。


「あとはまあ、人の恋を応援することで自分の恋も叶ってほしいって思ったってのはあるんじゃないかな」


「つまり、わたしは願掛けですか?」


「おう。俺の未来のためにきりきり働け」


「それ、酷いですっ」


 冗談めかした小村くんの言葉に思わずわたしが突っ込むと、彼は笑って取り合ってくれなかった。そのおかげでこの場の空気がほぐれてくれたから、それはそれでいいのかもしれない。


 だけど、心の中ではわたしは別のことを考えていた。


 小村くんは大きな勘違いをしているのではないのか、と。


 わたしは狡いんじゃなくて勇気がないんです。


 自信を持てないことが打算なんです。


 自分自身と向き合えないから他人にどうしても気を回そうとしてしまうんです。


 それって凄く卑怯じゃないですか?


 そう思って小村くんの横顔を見上げていると、「あ、そうだ」と言ってこちらを見た。自然、目が合ってしまう。


「ん? どうした」


「あ、いや」


 今考えていたことを悟られたくなくて顔を背けた。というか、まともに正面から視線がかちあったせいで頬が熱い。きっと今、わたしの顔は赤くなっている。


「うん? まあいいか」


 小村くんはさほど気にした様子は見せなかった。


「それより、週末は空いてるか?」


「へ? な、なんでですか?」


「そりゃお前」


 と言ってニヤリと小村くんは口端を釣り上げた。


「遊びに行くために決まってるだろう?」

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