第3話 人って、変わることって、できますか?

 小村くんのおかげで掃除はすぐに終わってしまった。


「ありがとうございました」


 美化委員のチェックも終え、わたしは小村くんに深々と頭を下げる。


「別に、これぐらいどうってことないよ」


「でも、とっても助かりました」


 と言って改めて頭を下げる。


「なにか、その、わたしなんかでよろしければお礼というか償いをさせていただきたいと思うのですが」


「償いって……別にいいって言ってんじゃん、これぐらい」


 そこで小村くんは何か思い出したかのように「あっ」とつぶやいて懐をまさぐる。そこから取り出したのは、一冊の生徒手帳で。


「これ、美咲さんのだろ」


「えっ?」


 それをわたしに突き出してくる。


「朝は、その、悪かったな。……押し倒したり、あまつさえ、その、抱き締めたり」


「お、押し倒っ……」


 朝の記憶が一気によみがえる。半裸の、逞しい体つきの、男性=小村くんに押し倒された時の感情も。男の人の腕ってあんなに太いんだ、とか、やっぱり手触りが少し硬質だな、とか。


 やたらとドキドキして、恥ずかしい、記憶。


 っててててていうか!?


「多分これも、その時落としたやつだと思うんだけどさ。今日返そうと思って近づいても、美咲さんがなんか俺を避けてるみたいだったし、どうしようかなって」


「あ……あう……」


「それで部活行こうと思ったけど引き返してみたらまだいたから、よかったよ」


 柔らかく笑う小村くんの表情などわたしの目には映ってなくて――慌てて、生徒手帳を奪い返す。


「あ、あう、あう……おうっ」


「オットセイのマネか?」


「ち、ちないます!」


 どうしようどうしよう。なんで朝落とした時に気づかなかったんだろう。


 あの時に気づいていれば、こんな失態はおかさなかったはずなのに。


 泣きたい。誰の目にも触れることのないところへ逃れたい。


「あのさ――」


 小村くんの口が開かれる。それにわたしは恐怖する。


「冬耶のこと、好きなんだ?」


「へあ!?」


「いまどき、生徒手帳に写真挟んでるやつなんているんだな。それ、去年の体育祭の時に撮ったやつだろ?」


 よく撮れてる、と言って朗らかに笑う小村くんだけれど、わたしのほうはそれどころじゃない。心臓がオーバーワークでオーバーヒートしそうな状況で、顔面温度は急上昇。恥じらいどころか、恥だ、これは。


「ち、違っ、ってか、あの、そのっ」


「ん? どうした」


 見られてしまった。好きな人の写真を、見られてしまった。


 わたしなんかに好きな人がいるなんて、そんなの気持ち悪い。恥知らずな所業だっていうのに。なんで、こんな。


 こんな形で。


「う、うぅ……ふぇぇぇっ」


「お、おい!? なんで泣き出してんの!?」


「だ、だって……えぐっ、うぅ」


 思わずへたり込んでしまったわたしの背中を小村くんの手がさすってくれる。そんなことしなくていいのに。ほっといてくれていいのに。


「悪かったって! いや、ほんと、見るつもりはなくてだな……その、開かれたまま落ちてたから自然と、勝手に……」


「気持ち悪い、ですよね」


「あ?」


「わたしなんかに好かれたって、気持ち悪い、ですよね……」


 だってわたしは綾川美咲。みすぼらしいばかりのダメ女。


 そんな女に好かれて嬉しい人なんているはずないから、胸の内にしまっておくだけにすると決めていた。誰にも告げないで、墓場まで秘密を持っていこうと思っていた。


「忘れてください」


「え?」


「生徒手帳の中身は忘れてください。誰にも言わないで、小村くんの記憶からも消し去ってください」


 そうすれば誰も嫌な気持ちにならないから。


 そうすれば、わたしだって傷つかないから。


「告白する気なんてなかったんです。だって、迷惑ですから。わたしなんかに……好かれてるなんて、気持ち悪いじゃないですか。嫌じゃないですか。不快に思う……だけじゃないですか」


「……おい」


「だったらいっそ、もう、忘れてください。わたしの存在なんか綺麗さっぱり頭の中から消し去ってしまえば、きっと誰も気分を悪くしたりなんか……」


「おいってば!」


 不意に大きな声が響く。


「どうして……どうしてそこまで卑屈かなあ?」


 心底疑問だとばかりに小村くんがそう言った。


「なんで美咲さんは、そんなに自分のことを突き放せるわけ?」


「それは……」


 わたしは下を向いて押し黙る。理由はあるけど、言えなかった。


 言えるはずもなかった。言ったところで困らせるだけだ。


 そんなわたしを見て、小村くんが溜息をつく。


「まあ、無理には聞かないけどさ。――でも」


 小さな子供に言い聞かせるような口調で小村くんは言葉を続けた。


「恋をするっていけないことか?」


「……それは」


「人を好きになるってダメなことか?」


「…………」


「誰かと一緒にいたいとか、この人と付き合いたいって思ったりすることって、気持ち悪いことなのか?」


 そんなことは、ない。はずだ、きっと。


 でも。


 だって。


「わたし、だし」


「それ理由になってない」


「うっ……」


「自分に自信が持てないからって卑屈になってることに対する言い訳だろ、それ。要するに」


 その言葉は胸に突き刺さった。痛いぐらいに、グサリグサリと。そんな痛みから逃れようとするかのように、わたしは思わず反駁する。


「なっ――」


 少しだけどもる。


「なにが、分かるんですか、小村くんに! わたしのことなんて、何も知らないくせに……」


「知らないよ。でも、分かるよ」


「だから、なにが――」


「俺にも好きな人、いるよ。自分が釣り合ってるかどうかって心配になったりする。相手からしてみれば迷惑なんじゃないかって考えて頭抱えたりだってしてる」


「……っ」


「けどそんなん、みんな一緒だろ。好きな人に好きって伝えるのって、すげえ大変だと俺も思うよ」


 でもさ、と彼は続けた。


「大変だからこそ、頑張る価値だってあるんじゃねえの?」


 小村くんの言うことはもっともだと思った。きっと、なにも間違ってない。


 自分が情けなくて、だけど自分を変えるのが怖くて、最初の一歩が踏み出せない。失敗を恐れて何もできない。きっと、今のわたしはそんな状態。


 そんなことは分かってて……だけど、やっぱり怖気づいてしまう。


「無理ですよ……」


「何が?」


「わたしなんかが、変われるわけないじゃないですか」


 卑屈はきっと生まれついてのものだ。それも、文字通りの意味で。


「どうやって変わればいいのかなんて分からないです。どこにもそんな公式はないんです。教科書にだって……」


「まあな」


 まったくもって同意だ、なんて言って小村くんは笑った。笑ったのだ。


「美咲さんは、自分を変えたいと思ったりしないわけ?」


「それは……」


 当然、思う。卑屈で、自信を持つことができなくて、ウジウジと悩んで恐れて踏み出すことのできない自分。そんな自分のことを、胸を張って好きだと言えるわけがない。


 けど。


「今さ、変化するのが怖いって思ったでしょ?」


「な、なんで分かるんですか?」


「俺も最初はそうだったから」


 どういう意味だろう。わたしはその言葉の意味が分からなくて首をかしげる。


 小村くんも、わたしみたいな時があったってこと?


「でも、変化はどうしても起こるんだよな。心の変化も、環境の変化も、生きてれば絶対に免れることはできない」


「……」


「だったら、今より良い方向に変化できることを選びたいと思わないか?」


 大丈夫だよ、と小村くんは言う。美咲さんでも、きっと変われる、だなんて、夢みたいなことを。


 本当だろうか。信じてみても、いいだろうか。


「自信がほしいと思う?」


「それは……思いますけど……」


「なんなら、俺が協力してやってもいい」


「へ?」


「美咲さんが自信を持てるようになる手伝いをしてあげてもいいって言ってるんだよ。好きな人に、冬耶に胸を張って告白できるような自分になりたいと、本気で望んでいるなら、さ」


 小村くんの言葉はわたしの胸の深いところに突き刺さった。


 ――好きな人に胸を張って告白できるような自分。


 それはわたしの憧れだ。そんな自分になりたいと思う理想のひとつだ。


 今のわたしでは、到底たどり着けないような遠い理想だけれど、そこへ行き着くために小村くんが手助けをしてくれるというのならあるいは手が届くのかもしれない。


 頑張ってみようかな。


 ……わたしに頑張れるかな?


 不安が胸の内を席巻する。きっと無理だって叫ぶ声が耳元で唸る。ダメだ、ダメだ、弱気はダメだ。いや、でも、だって、どうせわたしなんかが、変わるだなんておこがましい。


 ああ、でも、小村くんだって言ってたじゃないか。変化することは免れることができないって。


 ――わたしはきっと、変わらざるを得ないのだ。これから先の人生で。生きているうちの、どこかで。


 ならそれが、今、これからだとしてもいいはずだ。それがいけないなんて法はどこにもない。ない、けれど、怖い。


 だけど。


 道しるべとなってくれる人がいるなら、躓きそうになった時に支えてくれる人がいるとするなら。少しぐらい怖くても、飛び込んでいけそうな気が少しだけした、から。



 ――わたしは、小村くんの言葉にうなずいた。



「本当に、変われるでしょうか?」


「それは美咲さん次第だ。でも、変われるよ。俺だって、変われた」


「路傍の石ころよりも無価値なわたしでも?」


「ダイヤの原石なんかではないであろう美咲さんでも、だ」


 きっぱり、はっきり、小村くんは言った。わたしはダイヤの原石なんかではないと。


 だとしても、変われるのだ、と。


 それは大きな不安と、押しつぶされそうな恐怖を伴っていて。


 けれども、一握りの未来と希望もそこにはあるのだった。


「じゃ、いつ告白するかも今のうちに決めとくか」


「えええええ!?」


「来月の期末が終わった次の週末に夏祭りがあるんだけど、その日でいいよな」


「え、え?」


 小村くんの無茶ぶりにわたしは目を丸くした。


「だ、だが、ですよ。しかし、ですよ。だが、しかし、ですよ」


「どうかしたか?」


「そ、そそそんな急には、無理です!」


 絶叫。しかしそれはあっさりとスルーされる。


 けれどもわたしは必死で意見する。ここで引いたら絶対にそのまま押し切られるから。


「で、ででですが、ですがね! や、やはり人は急には変われないというか、車も急には止まれないのと同じように、というわけなので、その、少しずつ変わっていくのがいいのではないかと思わなくもないような、その……」


「少しずつ変わってくなんて言ってたら、結局何も変わらないだろ。特に美咲さんみたいなタイプなんかは」


 よく御存じで……。そこまで見抜かれていたら、もう反論することなんてできるわけもなく。


「ま、口ばっかりってのはかっこ悪いし、俺もその日にするからさ」


「何をですか?」


「告白。二人一緒に頑張ろうぜ?」


「……あう」


「オットセイのマネ?」


「ちないます!」


 ……というわけで、わたしは一か月後の夏祭りで好きな人に告白することになってしまったのであった。





 ばかな!

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