第2話 教室の扉を開くと、半裸の男の子がおりました
朝の陽ざしは素晴らしいと思う。なんでもかんでも照らしてくれる。スポットライトみたいに、誰か一人を特別扱いしない。それって何気に救われることなんじゃないかって、わたしはいつも思ってる。
だからわたしの朝は早い。
当然、家を出る時間も早い。早朝の空気は澄んでいて、淀んだ色々なものを綺麗さっぱり除去してくれそうな気がするのだ。
魂の洗濯、みたいな。どうせ家にいたところでやることなんてそうはないのだ。
通りを歩きながら空を見上げる。綺麗な青空。まるでわたしの心のような――って、そんなわけはないか。どちらかというとわたしの心は曇天気味だ。つまり陰気。
美咲さんって線香っぽいよね、と言われたことがある。それは果たして、気づいたら燃え尽きてるという意味なのか、存在感が薄いという意味なのか。しかもチョイスが線香。不吉だ。不吉な存在だよね、という意味だったのかもしれない。
きっと生来ネガティブなんだと思う。だからこそ、朝の空気がわたしには必要なのだ。少なくともいつもよりはマシになる。少しは爽快な気分になる。
マシになってくれてる、といいなあ、と思う。
思うだけだけど。
わたしの歩みは遅いから、家から徒歩で三十分の道を四十五分かけて進む。六時半ぐらいに家を出れば、学校に到着するのは七時十五分だ。
その時間だと誰もいない。いや、正確には運動部の皆々様がたが、青春の清い汗を校庭だの体育館だので流している。羨ましいことに青春している。きらきらしている。輝いている。きっと朝練が終わったら途中のコンビニで買ったコロッケパンだの、やきそばパンだの、カップラーメンだのを、教導指導員の先生様の目から逃れるようにして食べているに違いない。恋バナをして、彼氏だ彼女だと盛り上がって……もうこれは清い汗とは関係ないか。
とにかく、わたしには手の届かない高校生らしいライフを素晴らしいほどに爆走中なのである。きっと。いや、間違いなく。
憧れないと言ったら嘘になる。いや、正直憧れる。
憧れる、だけ。
自分には無理だしできないしどうせ気持ち悪いだけだし。
……はあ。
やめよう。もともと暗い気持ちが、余計に重たくなってくる。何も考えずにわたしは昇降口まで行って、玄関で上履きに履き替えた。
そしてそのまま教室へ。
朝の誰もいない校舎は猥雑な音がなくていい。静けさこそがわたしの友達。どうだ陰気だろう。騒がしいのは嫌いなのだ。誰かと関わるのは苦手なのだ。
一人が寂しくない、というわけではないけれど。
腰の辺りで、肩から提げたカメラのポーチが揺れている。わたしの唯一の趣味だから、一応いつも持ち歩いている。
何の気なしに取り出して、窓の外の景色を撮ってみた。
カシャ。
ファインダーの向こうの景色は、現実よりもずっとずっと色づいて見える。灰色だったものからカラフルへ。あらゆる景色を、現象を、四角く切り取ってくれるのだ。そこにあるのは息苦しさを感じないでいられる、呼吸のしやすいわたしの楽園。
カシャ。
何度かシャッターで現実を切り取る。切り裂く。
カシャ。
もやもやしたものを引き裂くようにして。
カシャ。
* * *
教室の扉を開けたらパンツ一丁の男がわたしの目の前に立っていた。
いや、間違えた。訂正する。パンツと、靴下と、そして靴を履いている。
だからなんだという話だ。むしろ余計に変態くさい。
「へ?」
わたしは思わずそう呟いていた。他にどう反応しろというのか。
だってわけが分からなかった。どうして彼が、こんなところでこんなことをしているのか。
「小村……くん?」
名前を呼ぶと、びっくりしたような顔をしていた彼――小村勇作という名のクラスメイトが慌てて足元のズボンを穿こうとする。
「や、やべっ、ごめんっ」
「あ、あの、その……えと」
小村くんの体は逞しかった。確かテニス部に所属していて、よく鍛えられた体は男前に引き締まっている。筋肉のついた肢体を目の当たりにして、なんだか物珍しくて、ついついじーっと見てしま――いそうになって目を逸らす。
わたしなんかが裸を見たら失礼極まりない。
だというのに、小村くんは謝罪を続ける。
「わりぃ! や、その、制服に着替えようと……ってか今朝部活中止になったのが全部の原因っていうか、その、汚いもん見せて」
「あ、その」
まだ小村くんはズボンを穿くのに手間取っている。動揺しているのか、片方の足も穿けてない。っていうか前後逆なのに気づいてない。
汚くなんかないのになあ、とわたしはちらと横目で見て思う。太ももは凄く太くてわたしの胴回りと同じぐらいはありそうだ。上半身だって、無駄な脂肪がない立派なもので、どちらかというと綺麗だと思った。
昨日雑誌で見たようなきらきらした女の子は、こんな男の子と付き合ったりしてるのかなあ、とか。そう思うと顔が赤くなる。
「うわ、やべ……もしかして怒って――あっ」
「――えっ?」
小村くんがこちらのほうへ向かってきた。どうやら動揺のあまり、ズボンを穿こうとしていたらバランスを崩してしまったらしい。
迫ってくる彼を前にして、わたしは……何もできなかった。その場をよけることも、もちろん小村くんの体を支えることも。
あぶねっ、と小村くんが口にした時には、もうわたしは彼の体の下に組み敷かれていた。手に持っていたバッグが廊下を滑る。開いた口から中身がバラバラ転げ落ちる。
――男の子の臭い。
なんて、猛々しい、野性的な。
「太陽、みたい」
「は?」
……って、わたしなんてこと言ってるの!? こんなの、変態みたい。恥ずかしい。
「ふぇ……」
あー、なんてバカわたし。ダメわたし。ダメ美咲。変な声出してんじゃないよ、可愛くもない。
「ふぇぇ……」
だってのに漏れる言葉は止まらない。あー、もうほんとダメ。こんなのわたしに似合わない。可愛くない女の子がこんな声を漏らしたところで、薄気味悪いだけなのだ。
でも言い訳させてほしい。それなりの理由があるのだ。
答えは今の体勢で、とっさに小村くんはわたしの体を庇おうとしてくれたのだろう片腕は背中に回されている。抱き締められているみたいな。
そしてもう片方の手は見事にわたしの胸……いや、虚乳に触れていた。
うわ。
うわ、うわ、うわ。
恥ずかしい。みっともない。わたしなんかが、わたしなんかを、小村くんが触れてるなんて。
気持ち悪い。
わたしなんて、気持ち悪いのに。うぅ。
「やっべっ」
小村くんが体を離す。放心状態のわたしは、そんな光景をただ眺める。
「あ、その……い、今のわざとじゃなくて。っていうか違うよな、言い訳とかしてもアレっていうか……その」
そんなにうろたえなくていいのに。
「つーか荷物! あ、鞄拾うっつーか、荷物ってか、えっと」
言いながら小村くんが床に散らばったわたしの荷物に手を伸ばした。それを見てとっさに声を鋭くしてしまう。
「――触らないでっ」
「うっ」
わたしの厳しい声にうろたえたのか、小村くんの体がビクッと震える。それを見てわたしは慌てて鞄に荷物を放り込み、その場から走って逃げ出した。
うわ。
うわ、うわ、うわ。
凄い失礼なこと言っちゃった。あんな言い方、なかったよね。
どうしよう。あとで謝らないと。
許してくれるかな。
……うぅ。怒られたらどうしよう。
* * *
その日の昼休み。小村くんがおずおずと話しかけようとしてきてる気配を感じて、わたしは席を立ちあがった。
「あのさ……」
返事をしようとして、わたしの声なんか聞かせたら耳が腐るんじゃないかと思って、そのまま振り返らずに教室を出ようとする。
すると廊下に出ようとしたところで、扉から誰かが入ってきた。
「勇作ー! ちょっといいー?」
その人は、わたしみたいな隅っこ族でも知ってるぐらいの有名人だ。
すっごいイケメン。綺麗な男の人で、小村くんととっても仲良しな人。
確か名前は、及川冬耶さん。学校で一番かっこいいって噂の凄い人。
そんな人と顔を合わせたら溶けてしまうと思って、とっさに顔を俯ける。その横を通り過ぎると、たくさんの女子生徒とすれ違った。
及川さんの追っかけの人達だ。可愛い女の子達だ。黄色い声を上げている。
やいのやいの、ワーワーキャーキャー。
「マドレーヌ焼いてきましたの!」「私はクッキーを!」「こちらにケーキもありますわ!」「冬耶様、どれをお召し上がりになりますの!?」「むしろこのあたしを食べてぇ!」
とにかくすごいモテる。
そっと振り返ると、小村くんが相変わらずだなみたいな感じに苦笑していた。及川さんは、そんな女の子達がうっとうしいのか困ったような顔をしている。
凄いな。ああいうかっこいい人は、きっと何をしたってモテるんだ。
モテる人はコミュ力というものが高い。きっとモテるから色んな人とお話しするし、その分だけ人と話すことが得意になっていくのだろう。お金持ちはずっとお金持ちの法則に近い。
したがって、貧乏人は永遠に貧乏人だ。つまり、わたしのこと。
わたしはきっと、ずっと、人と話すことが苦手なまま終わるんだろうな。
それはなんか……嫌だなあ。
嫌だけど、嫌なだけだ。それだけのこと。
* * *
放課後になると教室はにわかにざわめきだす。これから部活へ行く人達、隣り合った席の人と交わされる終業後の雑談、慌ただしく動き出す学生達が活気づく時間……。
そんな空気の中、わたしはいつも場違いな気持ちを拭いきれないままに立ちすくむ。部活もしていない。仲のよい友達もいない。放課後に活動するような委員にも所属していない。
だから第三者的な視点で、顔に笑顔を張り付けるクラスメイト達を少しだけ冷めた目で眺めるのだ。
楽しそうだな。青春してるんだな、なんて思って。
なんとなく、ぼんやりとした視線を小村くんの背中へ送る。テニス部の彼は、放課後も練習で毎日忙しい。
「勇作ー。部活行こうぜ部活」
及川さんがこうやって教室へ訪れるのも見慣れた光景だ。誘蛾灯に惹かれる羽虫のように、及川さんのファンが押し寄せてくるのも日常の一コマ。
そうして小村くんは部活へと向かう。ジャージとラケットの入ったバッグを肩にかけ、急ぎ足で教室を出ていくのだ。
そんな後ろ姿を見送ってわたしは溜息をついた。
朝のことが頭から離れない。
小村くんのほうから、何度か話しかけてくるような気配はあったのだ、今の今まで。
それでも人付き合いが苦手なわたしはついつい避けるような態度を取ってしまった。
なぜ、彼はわたしに近づいてきたのだろうか。まさか、肉付きの薄いわたしの体に対して文句を言おうとしたわけではあるまいに。「おい。お前なんでそんなに胸がねーんだよ」とか言いたかったのだろうか。ペチャパイとでもののしりたかったのだろうか。
勘弁してほしい。わたしにその手の色気を求めるほうがお門違いなのだ。女としての価値なんて、きっと十六年の人生という時間の中に埋没して消え去ってしまっているに違いないのだ。
……我ながら虚しい。帰ろう。
そう思って席を立ったところで、前に座っている女子生徒が体を反転させて話しかけてきた。
「あの、確か……荒川サキちゃんだっけ?」
「へ?」
「あのさあのさ。今日、掃除当番替わってもらえない?」
綾川美咲です、と訂正することさえもままならず言葉を重ねられてしまう。というか、こんなに近い席で名前を憶えられていなかったことが地味にショック……いや、仕方ないのかな。わたしなんて、名前を記憶する価値なんてない人間なんだ、きっと。
うぅ……。
「ね、いいよね? あたしさぁ、今日夏の新作ちょっと見に行きたいんだよねえ~」
悪びれることもなく彼女はそう言って微笑んだ。
わたしの通っている学校では、放課後に教室の清掃をすることが義務付けられている。毎日三人から四人が一グループで、クラス内でローテーションしていく方式だ。
古くは美化委員の行ってきた校内美化活動の一環だったらしいのが、何年か前からクラスごとに定着してきた結果だと聞いている。面倒くさいと不満を訴える生徒がいないでもないけれど、廃止する理由も利点もないためずるずると続いてしまっている。らしい。
そして今日はどうやら目の前にいる彼女のグループが当番を割り振られたようだ。
「もうすぐ夏だし、やっぱ必要じゃん? そういうのって大事じゃん?」
「えと、その」
「今年こそは彼氏ほしいしぃ~、ね?」
何が、「ね?」なのだろうかと思わなくもない。でもわたしが断ることができるはずもなく、なし崩し的に当番を替わることになってしまう。
わたしが許諾すると、「じゃ、お願いね~」などと言いながら彼女は何人かで連れ立って教室を出て行った。その中にはきっと、今日当番だったはずの他の人も含まれているのだろう。
「……あう」
重たい溜息が口をつく。溜息は胸の中に溜まったものを出すから溜息なんだとなんとなく思ってしまった。きっと、彼女達はわたしが掃除当番を替わってくれと頼んでも首を縦に振ってはくれないだろう。そう思うと気が沈んだ。
こういう頼みごとをわたしはよくされる。押し付けやすいと思われている。そしてそのたびにわたしは思うのだ。今日もまた断れなかった、と。
「まあ、でも、わたしだし仕方ないか」
何が仕方ないのか、と聞かれれば答えることなんてできないけれど、こういう言い方をすることでわたしは無理やり納得するようにしている。あんまり引きずらないようにするのがこういう時の賢いやり方。
それに――。
それにどうせ、帰る時間はいつになったって構わないのだ。
「さて、と」
無人になった教室で、わたしはそう呟いて気合を入れ直す。
「掃除、しちゃいますか」
そう呟いてまずは机を運ぶところから始めた。
これがなかなか重労働だ。一つのクラスにつき二十人程度の生徒がいるから、机の数も同じだけある。教室の後ろに全部詰めるだけで額に汗が浮いてしまうぐらい。
想像するとうんざりするけれど、掃除を終えなければ帰ることができない決まりになっている。あろうことか、美化委員のチェックを掃除終了後に受けなければならないのだ。ペケがついたらやり直し――。
放課後清掃なんて制度が生き残っているだけあって、なかなかその辺も徹底されているらしい。
仕方なしにわたしは机を教室の後ろへと運んでいく。自慢じゃないが非力なわたしには、その作業がとてもつらい。
誰か手伝ってくれないかなあ、なんて恐れ多いことを考えながら五個目の机を運んでいる時、不意に教室の扉が開いた。
「あ、やっぱいた」
小村くんだった。
わたしは逃げるコマンドを選択した。
しかし回り込まれてしまった!
「ヒィッ!」
悲鳴を上げるわたしを前にして、小村くんは呆れたような顔になる。
「あのさあ……」
「は、はいっ! な、なななんでしょうかっ。な、なにか失礼をいたしましたでしょうか!?」
「……そんなに怖がらないでほしいんだけど」
睨まれる。思わず背筋がビクゥってなった。
「こ、怖がってません」
「目、逸らしてんだけど」
「そ、そそそ逸らしてなんか……」
ガクガクガク、と首を回して小村くんの顔を見ようとする。けれど、前を向こうとした首はどうしても途中で壊れた機械のように止まってしまう。
正面から彼の顔を直視できない。なんだかすごく……恥ずかしい。
仕方ないから顔を伏せて視線は小村くんの爪先へと向けた。
「俺、そんなに嫌われるようなことしたかな?」
「そ、そういうわけじゃないです、けど」
「けど、何?」
答えられなくてわたしは思わず押し黙る。少し気まずい沈黙が、教室の中に満ちていった。
そんなわたしの後ろへと小村くんが視線を向けた。さっきまで呆れたようだった表情が不意に引き締まる。精悍な、男らしい顔。
「掃除。今日当番だったっけ、美咲さん?」
「あ……」
名前……。
「どうなの?
「えっと、その……」
「押し付けられた?」
「ち、違うんですっ」
思わずわたしは口を開いていた。
「押し付けられたとか、そういうのではなくて、ですね……。その、今日は忙しいと言ってたので、わたしが替わる、と」
「忙しいって、担当が全員? で、一人に任せんの? それって変じゃねえ?」
「へっ」
あけすけな物言いに少し呆気に取られた。
「変……じゃないですよ。多分」
「なんで?」
「だって、わたしですから」
「いや、わけわかんねーってそれ」
理由になってねーし、と小村くんはきっぱりと言った。どう言ったらいいのやら、わたしは少し途方に暮れる。
手伝うよ、と言って小村くんが教室に入る。
「あ、だ、だだ大丈夫ですっ」
「でも一人じゃ大変だろ」
「小村くんこそ、部活はいいんですか?」
そう問うと、小村くんの口元にニヤリという音が響きそうなぐらいの笑みが刻まれた。
「困ってる女の子ほっといて一人だけ部活に行くようなダサいマネができるやつは、男じゃない」
凄いなあ、とわたしは思わず感嘆してしまった。きらきらとした青春を送っている人は、誰しもこういうことをさらりと口にすることができるのか。
ついつい拍手してしまう。すると、小村くんが頬を染めて、「ま、マジなリアクションとか困るだろっ」とか言って顔を背けていた。どうやら反応を間違えてしまったらしい。
「とにかく」と小村くんの強い語調。「俺が机運ぶから、美咲さんはほうき掃いて」
「でも、一人で運ぶのは大変ですよ?」
「部活の時間が減る分のトレーニングだと思えば安いもんだ」
またかっこいいことを言った。男らしい。思わず拍手をすると、さっさと掃除しろとまた怒られてしまった。
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