10.私には
ふと壁掛け時計を見やると、時刻は四時を回っていた。
予想通り軽音楽部のステージは空前の混みようらしい。
去年もひどかったようだが、宣伝や噂も相まって校舎の方まで微かに歓声やら爆音が届いてくる。
もちろん模擬店のほうに流れてくる人たちは自然と漸減し、おかげで夕梨たちは穏やかなティータイムを提供できていた。
(あと三十分で交代か……なんとかやれそう)
メイドとしての言葉遣いや対応にもようやく慣れてきた頃だ。
うまく出来るようになってくると楽しいもので、始めこそ笑顔が引き攣っていたが今では自然に微笑み飲み物を出せるまでになった。
他人に愛想をふりまくなんて、自分には不可能だと思っていたが––––今は生まれて初めてと言えるかもしれない達成感に包まれている。
「おーい、ちょっと」
客席の奥の方から声が掛かり、「はい、只今」と早足で呼び出されたテーブルへと向かう。
声の主は男の……大学生ぐらいだろうか。
いかにも柄の悪そうな顔立ちで、にやにやとこちらを見上げてくる。
「ねーこれ、冷めてるんだけど?」
夕梨は顔を曇らせた。
二、三人同じテーブルを囲んでいる友人らしき人物達もやはり男と同じような表情でその場を眺めている。
足を上げたり、椅子をぐらぐらしたりやりたい放題で、露骨に態度が横暴だった。
ここまでひどいとさすがに腹立たしい。
「……申し訳ございません、ご主人様。すぐに温かいものを」
「何今の間。誠意足りてないんじゃねえの」
思わぬ返答が返され、意図せずびくっと身体が強張った。
背筋に冷たいものが走る。
「申し訳ありません……」
「謝って済む問題じゃねえから。ちゃんと詫びろよ」
「やば、お前、怖すぎだろー。メイドちゃん固まってんじゃん」
怖い。
さっきまでの腹立たしさは一変してとてつもない恐怖へと変わっていた。
謝ってだめならどうしろというのだ。
目の前に突きつけられる理不尽さに、苛立ちや煩わしさよりもやっぱり、恐ろしい、逃げたいという欲求が強かった。
なのにその心中とは正反対に、脚は竦んで動けない。
「お・わ・び、だってば」
問答無用で、手を強く掴まれる。
驚きと焦りで声が出ない。
やめて、離してください、なんて言葉は浮かんでくるのに頭の中で回るだけだ。
「ご主人様、落ち着いてください……っ」
もう一人のメイドの子が割って入ってくれるのだが、「あー、君でもいいよ? お詫び」なんて卑劣な言葉を吐いてまた大爆笑している。
一体何が面白いのかわからない。
その途端に、こんな低俗で下劣な人間どもに怯えていた数瞬前の自分が、ひどく滑稽に思えてきた。
気がつくと夕梨は腕を掴まれたまま、静かに男に手を伸ばしていた。
なんの力もない雑魚を片付けようと思った。
傷さえ作れれば、血さえ流させれば、簡単に捻り潰せる。
「––––おい、こいつなんて力……っ」
どくん、どくん、と自分の鼓動の音がはっきりと感じ取れた。
確かにその心臓は、これから自分がしようとしていることに昂っていた。
恐ろしいほど静かに燃える怒りと狂気だった。
パシンッ。
皮膚を叩く乾いた音が響いて、我に返った。
いつの間にか隣に立っていた人物が、男の腕を押さえている。
「離せ」
少しサイズの大きい黒Tシャツを着こなした彼は一言、告げた。
それから、続けてゆっくりと脅迫する。「二度と来るな」
大学生達の顔が一斉にさあっと青ざめる。
彼らは足早に立ち上がって店を出て行った。
緊迫した空気がゆっくりと解ける。
「ありがとう、佐田。助かったぁ……」
隣の彼女が彼にお礼を言った。
佐田はおもむろにこちらを振り返り、その額に流れる汗を拭う。
様子を窺っていた裏方の人たちもこぞって駆けつける。
「次シフトだから急いで帰ってきたんだけど……正解だったな。二人とも大丈夫か?」
「うん、あたしは全然この通りー」
「……大丈夫」
そう答えながら、夕梨は内心穏やかではなかった。
迷惑客相手にとはいえ、自分が無意識に何をしようとしていたのか。
それを思い返すと冷静ではいられなかった。
何がいけなかったのか。
何がトリガーになったのか。
丁寧に、決して誤らないように使ってきたつもりだった。それなのに––––
「…………っ!」
「鬼嶋!?」
「夕梨ちゃんっ!」
吐き気がこみ上げて、その場に崩れ落ちる。
口を手で押さえても耐えられそうになかった。
薬は……鞄の中だ。
この注目のなかで、そんな目立ったことはあまりするべきではないだろう。
それ以前に、教室の隅に置いてある鞄のところまでたどり着けるかさえ定かではない。
「……来い、鬼嶋」
やや強引に腕を掴まれ、その声に顔を上げる。
神妙な面持ちの佐田と目が合う。
静かに首を横に振った。
彼に迷惑をかけたくなかった。
「いいから」
無理矢理立たされて、ぐっと手を引かれた。
「トイレまで連れてく。店のこと頼むわ」
「わかった。気をつけて」
……喧嘩してたのになあ。
佐田に連れられながら、ぼーっとそんなことを考えた。
ほら、いつだって彼は優しいのだ。
こんな風になりたい。
私にはなれない。
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