7.「わからない」

そこからの空気は一層重かった。


会話のない朝食を済ませ、荷物をまとめて、お礼を言って逃げるように屋敷を後にした。

彼女の母はもう少しゆっくりしてから発つらしい。


帰り際に、その母から「おじいちゃんが」と手紙を預かった。

昨日の一件以来結局顔も合わせず、お礼も言えなかったのが心残りだった。


鬼嶋に最寄り駅まで送ってもらい、駅からは二人で歩いた。


「あの」


バスの中でも電車の中でも無言だったのに、急に鬼嶋が口を開いた。


「……色々と、ごめんなさい。散々だったね。気を悪くしたかもしれない」

「いや、大丈夫。覚悟してたことだ」

「…………」


彼女は目を合わせず、俯いたままだ。

帽子に隠れて表情が読めない。


「おまえ、これからどうするんだ」

「……え?」

「転校––––するのか?」

「……わからない」

「そのわからないってやめろよ。全部あのおじいちゃんの言いなりかよ」

「そうじゃない」


はるかの刺々しい言葉への返答は、今朝––––いや、昨日からの『わからない』と違って、明確な意思が込められたものだった。

はるかは黙って次の言葉を待った。


「言いなりではない。私にも、やりたいこと、とかはある。どうしたいとかも。でも、私には知らないことが多すぎる。

私の軽率な行動や不注意が家族に迷惑をかけたりするかもしれない。自分の身を滅ぼすかもしれない」


それから彼女はすごく小さな声で、囁くように「––––お父さんみたいに」と呟いた。

鬼嶋のリュックを握る両手に力が込められて、震えている。


「これはただの俺の考えってだけだから、聞かなくてもいいけど」

はるかはそう前置きしてから、ゆっくりと後ろを歩く彼女に直って言った。


「誰かのこととか、気にしなくていいと思うぞ。自分の選択じゃない道を進んで、失敗したときの後悔は計り知れない。もっと自然に、気の向くままに生きてみるのも手だと思う。

完璧にはいかなくても、そうなりたいなら––––『普通』を目指しても、いいと思う」


鬼嶋が顔を上げた。

はっとしたような、気がついたような表情で。

でもすぐに、今にも泣きそうに顔を歪めて、小さく声を絞り出した。


「……普通っていうのが何なのか、私にはまだ……わからない。でも、自分と違うっていうのはわかる。あなたのように、頑張って目指してなれるようなものには––––思えないの。こんな……こんな私が、普通になんて……っ」

「お前もまだそんなことを言うのか」


胸に黒雲のようにどんよりと広がっていく感情は、もはや悲しみとしか言い様がなかった。


『外の世界に行きたい』。

『普通の人間として生きたい』。

どんな辛い現実を突きつけられても失わない光が、幼い頃から自分にはあった。

でも、彼女にはそれがない。

世界に目を向けて見れば見るほど、そこには絶望しか広がっていないのだろう。


どうやったら彼女に光を与えられるだろう。

生きたいと思ってもらえるのだろう。


「ねえ……普通って、なに……?」


小鹿のような、潤んだ瞳で、縋るような細い声で、彼女は彼に尋ねる。

ははは、と彼は笑った。

答えがすぐそこにあるのに、そんなことを訊く彼女が可笑しかった。

彼は鬼嶋に歩み寄り、とん、と諭すように、その額に人差し指を触れさせた。


「おまえみたいな、笑ったり、泣いたり、叫んだり、いじけたりする奴のことだよ」


風が青葉を巻き上げて、その頬をくすぐる。

少女のスカートが空気をはらんでゆっくりと揺れた。


長い沈黙が落ちて、吸って吐いて、吸って吐いての深呼吸を何回か繰り返してから、彼女は詰まっていたものを地面に叩きつけるように言った。


「違う」

「……なにが違うんだ?」

「違うっ! 何も知らないくせに!!」


そう叫んで、鬼嶋は走り出した。

道行く人々が何事かと振り返り、変な物を見る目で見てくる。


「ちょっ、おい! 鬼嶋!」


驚いて呼ぶものの、追いかけてはいけないとなんとなく悟った。

幼い少女の姿はもう小さくなって見えない。

伸ばされた手は虚しく空を掴み、どこにも届かず力なく垂れた。

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