5.箱庭

「……なるほどな。【血繊病】か」


顎の長い髭を撫でながら秀忠はしきりに頷いた。


「確かに、君としては夕梨の力を借りたいのも分かる。いつ死が訪れるか知れない恐ろしい病気だ」


話した事実を確認するようにもう一度繰り返す秀忠に、はるかは僅かに嫌悪を覚えた。

そんな風にあっさりと口に出されるのが我慢ならなかった。


『自分たちの方が深刻で、憐れだ』とでも言いたげな上から目線。


はるかがその境遇を察することができないのももちろんだが、彼らにも常に危険に晒されてきたはるかの心情を知ることなど出来はしない。

それを理解できない頭の固い老人が憎たらしくてたまらなかった。


「しかし、ならばなぜ普通の高校生として生きているのかね?」

「……!?」


冷たい声音で突きつけられた質問の意図が読めず、瞬間はるかは唖然と口を開けた。

その様子を見た彼が続けざまに問う。


「そんな重病を抱えていながら、なぜそうやって生身で生活しているんだ。自分の症状をわかっているなら、おとなしく病院か自宅で過ごすべきだろう」

「……普通じゃない俺に、普通に過ごす権利はないと?」

「そうじゃない。君がそんな危険な探し方をしているから、命を落としかねないんだ。

それがなければその病気が浮き彫りになることも、我々に縋ることもなかっただろう。あまりに自分勝手なのではないかと言ってるんだ」

「ふ……っ」


ふざけるな、と言いかけてはるかは口を噤んだ。

同じ土俵に上がってはいけない。

すると、今まで黙っていた鬼嶋が立ち上がって祖父に反抗する。


「それは言い過ぎ、おじいちゃん。彼の体質は彼が望んだものじゃない」

「おまえもだ、夕梨」


先ほどあれだけ可愛がっていた実の孫に、同じように静かな言葉の刃が向けられる。

祖父の変わりように、鬼嶋も少し怯んだ。


「お互いにこんな身の上だ。同情や共感などという感情で動いてはいけない。誰のせいにもできないことなら、全て自分の責任だ。死にたくないならでしゃばるな、そうだろう?

今回のことはもうなかったことにして、また秘密を守っていこう。夕梨は別の遠い高校へ編入させる。君も、その病気が露見すれば色々と面倒だろう。家に籠るべきだと思うがね」


はるかは無意識に歯を噛みしめていた。

掌に爪が食い込んで痛む。


普通。

その言葉にどれほどの憧れを抱いたかわからない。


生まれた時から家の外になんて出たことがなかった。

本や、テレビで見る世界が本当に眩しく見えて、いつか出てみたいと願うもののそれが絶対に叶わない夢だと子供ながらにわかってしまっていた、あの頃。


ちょうど同い年の子供達がピカピカのランドセルを背負って笑顔で小学校へ行くのを、窓の外から別世界を見るようにぼんやりと眺めていた。

玄関の扉を開ければすぐそこにあるはずの外の世界は、あまりにも遠いものだったのだ。


その瞬間、はるかは悟った。

この人たちは知らないのだ。

外の世界を––––––––普通という自分たちとは違う次元の世界を。

狭い箱の中で、僅かな知識と思い込みのなかで生きているのだ。


はっきりと思い出せる。

学校に来ない自分を心配し、手紙を送ってくれたまだ見ぬ友達。

とても嬉しかった。

自分にも行っていいのだ、当たり前に日差しを浴びて、その足で学校へ行き、家庭教師と一対一じゃなく、広い教室で、みんなで机を並べて学ぶ。

公園で鬼ごっこをして、家に遊びに行ったりして。


そんな自分を想像したら、じっとなんてしていられなかった。

泣きながら、父と母に土下座までしてお願いしたのを今でも覚えている。


外の世界なんて、自分には無縁だと、関係がないと、ずっと自分を騙していた。

見ないようにしていた。

そこにある、人としての幸せを。


「……何を、恐がっているんですか」


絞り出したような、震えた低い声に自分でも驚いた。

獣が威嚇するような鋭く鈍い声だった。


「自分が特別だったらなんなんですか。人として生まれてきて、人として当たり前に享受する幸せを望んではいけないんですか?

普通じゃないって、異端だってずっと言い聞かせているからそんなに頭が固くなるんだ。孫のためとか一族のためとか言いながら、本当は外の世界が怖いだけなんだ!」

「いい加減にしろ小僧!!」


見かねた秀忠が立ち上がり、はるかの胸ぐらを掴みあげる。

首が締め付けられて、声も発することができない。

それでも彼の顔を睨み続けた。

引く気はなかった。


「やめて、おじいちゃん!」

「やめてください!」


鬼嶋と母親が祖父を宥める。

鼻息を荒くした老人は、やっとのことで少年を離した。


解放されたはるかはゴホゴホと激しく咳き込む。

秀忠は悔しそうに歯ぎしりをしながら、早足でその場を立ち去った。


結局、屋敷の雰囲気は気まずいまま、はるかは泊まっていくことになった。


秀忠が自分の書斎に籠ってしまっている間に、吸血鬼の一族の歴史とか、医術についてとかの大切な文献がしまってある地下室を鬼嶋に見せてもらった。


物自体が古い上に、難しい内容だったので理解できたものではなかったが、博物館に置かれそうなレベルの貴重な本に触れることが出来るのは感激だった。

読めないながらも夢中で頁をめくっていると夕方になってしまい、もう遅いからと彼女の母に泊まっていくことを勧められたのだ。


「さっきはごめんね、佐田くん」


寝室へ案内され、布団を運ぶのを手伝っていると、不意にそんなことを言われた。


「私も、佐田くんの言うことは正しいと思うわ。夕梨には夕梨の人生があるし、自由に生きてほしいって思いはあるの。でも……あんな身の上だからね。親として情けないわ。私と変わってあげられたらどんなにいいかって、ずっと思ってる」

「え……お母さんは吸血鬼じゃないんですか?」

「ええ。一族の血を引いてるのはあの子の父親よ。私は一般人」

「そうなんですか……」


皮肉な話だな、と思った。

ひとりの親として、子供には自身が望むように生きて欲しいと思っているのに、一族の一員としてはそれを見過ごすわけにはいかない––––いや、心底彼女が子供の自由を願っていても、彼女自身が吸血鬼ではないから家のことに強く言えないのかもしれない。


「そういえば、お父さんはどうなさっているんですか?」


ふと、姿を見ていないなと思って聞いてみた。

仕事があって来ていないのか、と思って軽い気持ちで聞いたのが、母親にそんな顔をさせるとも知らずに。


「……あの子の父親––––私の旦那ね。行方不明なの」


困ったような、寂しいような、呆れたような表情で彼女は微笑んだ。


「そ、それは……えっと」

「気にしなくていいのよ。もう、昔のことだから」


と彼女は続けるのだが、嫌なことを思い出させてしまったと後悔する。


「旦那は転勤の多い職についててね、私も夕梨もここの本家の家と離れすぎるのはよくないから、別居してたの。

頻繁に連絡は取っていたし、しょっちゅう帰ってきてくれていたんだけど、突然消息が途絶えて」


敷き布団のシーツの皺を慣れた手つきで伸ばしながら、鬼嶋の母は下を向いたまま告げた。


「ただの思い込みだといいけど、私たちの秘密に気づいた人間が攫ったのかもしれない––––そう思っちゃうわよね。はい、できた。今夜はここで寝てね。喉が渇いたら、ここの廊下を出て左に曲がった突き当たりにキッチンがあるから」

「あ、はい、ありがとうございます」


彼女の素早い切り替えが、その事実を一つの話題として済ませて、早く忘れようとしているような、そんな風に見えて胸が痛んだ。


ふとポケットのスマホを取り出して見ると、時刻は二十二時を回っていた。


お風呂も終わったし、おいしい夕飯もいただいたし(結局秀忠は降りてこなかったが)、もう寝るとしよう。


エアコンはついていないが、さすが自然溢れる田舎なだけあって蒸し暑さは都会より幾らかはマシだった。

布団に潜り込むと、体力的なのと、色々考えすぎたのもあって疲労がどっと襲ってきて、瞬く間に眠り込んでしまった。

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