4.一族の長

季節は夏にさしかかっていた。


もう六月だというのに、例年のような梅雨前線の訪れを、お天気お姉さんは告げてくれなかった。

去年一昨年と、あれだけ台風による大雨洪水に悩まされた日本列島が、打って変わって雨乞いをする事態に陥っている。

今年は野菜が高い。


と、世間話はここらへんにして、今この猛暑の中はるかがどこに立たされているかというと、見渡す限り青葉しか見えないど田舎の山の中。


時刻は午前十時。


ガラガラの市営バスを軽やかに降りて彼女––––鬼嶋夕梨はくるっと振り返った。

日差しにゆらぐ陽炎の向こうで、少女は不敵な笑みを浮かべている。


「おじいちゃんの家はこの家の頂上。あとちょっと、頑張ろう」

「あのさあ。なんで俺せっかくの部活のオフの日にこんなとこに呼び出された上、理不尽に荷物持たされてんの? なにこれ何の罰ゲームだよ……」


言いつつはるかは、さっきから熱でのだるさに拍車をかけている両手いっぱいの鞄やらビニール袋やらを掲げてみせる。

対してその大量の荷物の持ち主であるはずの鬼嶋は、小さなバッグを肩に提げただけの楽なスタイル。


「別にいいでしょ、男ならそれくらい。器が小さい」


よっぽど祖父に会えるのが嬉しいのか知らないが、朝から上機嫌の彼女は大きな麦わら帽子をくいとあげながら答える。


「鬼って人の何倍かは身体能力あったりするもんじゃねえの? 凡人の俺よりおまえが持つ方が効率的だと思うんだが」

「だからー。その知識はどこから仕入れてくるんだか、世の中で出回ってる伝説上の吸血鬼と私たちは、似て非なるものなんだってば」


なんてこんな感じに、軽く彼女の出生の話ができるほどには打ち解けたと思う。


静かで近寄りがたかった優等生は一転して、今は憎たらしくさえ思える。

でも、若葉の緑のよく似合う真白いワンピースを翻して微笑む彼女の姿を見ていると、溜め息をつきながらも付き添ってここまで来てしまうはるかだった。


数日前、あの図書館に急に呼び出されて行ってみれば、一族の秘密を喋ってしまった以上は家の長である彼女の祖父に紹介しなければならないと。

軽率に色々話してしまった自分も悪いが、報告はきちんとしておかなければならない。

それにあたって祖父から厳しいことを言われるかもしれないが覚悟しろだなんて、話が急すぎるにもほどがある。


でも、こんなことになるくらいだからやっぱり彼女たちの存在は大変な秘密で、その大変な秘密を、自分は知ってしまったのだと再認識せざるを得なかった。


「はぁ、はぁ……それにしてもこの量のお土産、おじいさん一人で食べれるのかよ……」

「一人じゃないよ。お母さんいるし」

「え、お母さん別居なの?」

「ううん。今日は佐田と一緒に行くからって言ったら、先に行くって朝出てっちゃった」


はるかは苦笑する。

まあ、そんな風に取られても仕方がないか。

一族の秘密を話すぐらいだから、恋人と思われても不思議ではない。


「重い?」

「重いに決まってるだろ……」

「うーん、じゃあ休もうか」


性悪だと思っていた彼女は意外にもあっさりと休憩を提案する。

このくらいでへばるのもなんだか情けない気がしたがこの気温でこの量の荷物、普通にキツいのは事実だった。


親切にも坂道の途中に、木組みの屋根と椅子が簡易的に設置された休憩所があった。

詰めて三人座れる程度の短い座椅子だ。


はるかはその上にどかっと勢いよく荷物を降ろして、やっと重労働から解放された。

たった数百メートルで汗が滝のように流れ落ちている。


「––––あの、佐田」


隣に鎮座していた鬼嶋が不意に口を開く。

「うん?」と何気なく返事をするが、その後の言葉は続かなかった。


照れくさそうにもじもじするだけで要領がはっきりしない。


「その……長く歩いたら、喉乾いちゃった。頭も、くらくらするし……貧血っぽい」


そこまで聞いてああ、血が欲しいのか、とようやく理解した。


「……いいよ」


はるかはTシャツの襟を広げて、首筋をその視線の下に晒す。

すると飢えた狼のように素早く、彼女はその肌に噛み付くのだ。


鋭利な歯が突き刺さる刹那の痛みが彼を襲い、思わず目を閉じる。

ここ数日これを繰り返して、なんとか慣れてきたつもりだったが、疲弊した体にはさすがに堪えた。


血液を吸い出される脱力感がピタリと止まり、彼女の唇が離れる。

この時点でもうはるかの意識は朦朧としていた。


至近距離で息がかかって火照った額を拭いながら、鬼嶋はふう、と満足そうに息を吐く。


「無理させてごめん。半分、私が持つ」

「ありがとう。助かる」


お礼を言ってしまってから、そういえばこの荷物は彼女のものだったな、と思い出した。


「でも、本当に助かってる。輸血パックのおかげで抑制剤も飲まずに済んでいるし、毎日すごく気分がいい」

「おい……輸血パックって……」


口では感謝の言葉をつらつらと並べていても、持ち前の毒舌は治っていない。

そんな言われようも笑って流せてしまうのははるかの器量と優しさゆえである。


しばらく歩いてから、不意に耳につく動物の鳴き声が聞こえてきて、はるかはぼそっと呟いた。


「…………なんか、うるさくねぇ…………?」


うるさい……っていうかけたたましいな。

少なくとも熊とかではなさそうな甲高い声だった。


「あー、それ、おじいちゃんちの子達」

「え?」

「鶏を飼ってるの。庭で」


頂上に近づくにつれ、そのけたたましい声は次第に大きくなってきた。

いよいよだ、なんて身構えてしまって息切れに混ざって動悸が激しい。


長い獣道が途絶え、慣れ親しんだ実家へ帰ったかのように、迷いない足取りで鬼嶋はその敷地へ足を踏み入れた。


「うわ、でかい……」


そのあまりの大きさに、はるかは驚嘆の声を上げる。

綺麗にお手入れされた庭の一角に古い小屋があった。

鳴き声の主は彼女の言ったとおり鶏で、その小屋の中で騒がしくひしめき合っていた。


「ただいまー」


重々しい引き戸をガラガラと開けて、鬼嶋は家の中へ。


「お、お邪魔します」


鬼嶋に続いてはるかも家の中へ入る。

歩みを止めると汗が急にどばっと吹き出してきて、ああこんなにかいてたのか、と認識させられた。


まもなくぱたぱたぱたとスリッパの音を立てながら、中年の(と言ったら怒られるだろう)女性が現れる。


「まぁまぁまぁ、いらっしゃい。佐田はるかくんね? 夕梨の母です。初めまして。いつもお世話になっているわ」

「いっいえ、こちらこそ……」

「ちょっと夕梨。やるじゃないのっ」

「お母さん。違うから」


女性陣が小突きあいを始める。

なんとも微笑ましい母娘の一面に疲れの色の濃かった表情を緩めて、はるかも靴を脱いで廊下に上がる。


趣があり、いかにもという雰囲気のお屋敷だった。


京都の寺に観光に来たような感覚で、鬼嶋と鬼嶋の母の後ろをきょろきょろしながら進んでいった。

外から見たとおり想像を絶する広さで、高校の校舎と同じぐらいあるのでは、と思うほど。

探索すれば伝統の詰まった貴重なものがたくさん掘り出されそうだ。


長い廊下といくつかの和室をすり抜け、ようやく生活感溢れる居間へとたどり着いた。

大きなちゃぶ台が中央に置いてある以外は特に目立った物はなく、その広さが忽然とした寂しさを醸し出している。


「おじいちゃん、ただいま」


鬼嶋が不意に口を開く。

その言葉を聞いてやっと、はるかは縁側に座る男の背中に気がついた。


濃い深緑の着物を羽織っている。

一族の長、という響きがこれ以上ないほどしっくりきた。


ところどころ白髪の混じった頭がこちらを振り返る。

口元をきゅっと引き結び、眉間にたくさん皺を刻んだ顔と目があって、はるかは思わず姿勢を正す。


「あっ、さ、佐田はるかと言います。初めまして」


慌てて名乗るのだが、鬼嶋の祖父は黙ったままだ。

鋭い視線に睨まれて、足が竦んでしまう。


彼はよっこいせ、なんて大げさなかけ声をかけて立ち上がった。

険しい顔のままこちらへ近づいてくる。

かと思えば、その足ははるかではなく彼の孫の方へ。


「夕梨〜〜!」

「……え?」

「ちょっ……やめてよおじいちゃん、人の前でっ」


厳格な長の姿は一瞬にして消え去り、そこにいるのは満面の笑みで孫の頭を撫でくり回している一人の老人だった。


「よく帰ってきたなぁ! おじいちゃんは寂しかったぞぉー。疲れたろう、すぐ昼ご飯にしようなぁ」

「こ、子供扱いしないで……」


なにがなんだか。

厳しい人だと聞いていたが孫には甘いらしい。

はるかは少し胸をなで下ろす。


「––––––––で、君が佐田くんだね」

「はい」


ひととおり愛しの孫を愛で終わった祖父は隣の少年に目を向ける。


「挨拶が遅れて済まない。夕梨の祖父の秀忠だ。立ち話もなんだ、そこに座ってくれ」

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