3.少女の正体

約二時間後、はるかは瞼の裏を紅く照らす西日に起こされた。


思い頭を持ち上げて壁を見上げると、掛け時計の短針が四時を指している。

六時間目の授業が受けられなかったなぁなんてぼんやり思いながら、はるかは寝返りをうった。


「そうだ、鬼嶋は……」


気を失う直前の映像がプレイバックされて、はっと体を起こす。


彼女の所在はといえば、すぐ隣。


はるかの座っているベッドの脇のスツールに腰を下ろして、あの分厚い本を開いていた。


「おはよう」

「……おはよう……」


ごく自然に話しかけられて、はるかは呆気にとられてしまった。


まさか、先ほどのことが全て夢だったなんてことはないだろう。

しかしそれからすぐに、それが演技だとわかった。


彼女は強くなんてない。

強がりなだけだ。


密室に沈黙が落ちる。

相も変わらず鬼嶋は読書を続けている。

自分を囲む無彩色がなんだかとても嫌だった。


「––––だから言ったのに」


突として静寂を破った一声に、はるかは全てを悟った。


その短い一文に、その悔しそうな表情に、彼女の感情全てが詰め込まれていた。


両手に余る大きな表紙を掴む指先が白んでいる。

左肩がずきずきと痛んだ。


「痛かったでしょ。ごめん、もう、限界で……抑えられなかった……」


ますます彼女は手に力をこめる。

痛い思いをした当の本人よりも悲痛な顔に、深い後悔と懺悔が滲む。


そこに居るのは、申し訳なさら己の不甲斐なさを噛み締めて震えている十五歳の少女だった。


「お前さ。魔法使いか何かなんだろ?」


彼が口を開くと、鬼嶋は顔を上げた。

「はぁ?」なんてらしくない素っ頓狂な声を出すので、あまりの可笑しさに吹き出してしまった。


「どうしてあんなものを見て……あんなことをされてそんな単語が出てくるの」

「え、いや、だって。昨日、俺を助けてくれただろ」

「………………………」


鬼嶋は長いこと黙っていた。

はるかは何も言わなかった。

また余計なことを言ってしまったのだ、彼の心に暗い影が差す。


ただ、今度は少し違った。

彼女は呆れたとばかりに大きな溜め息を長く吐いて、ぱたんと単行本を閉じた。


「魔法使いだなんて。そんなすごいものじゃない」


鬼嶋はおもむろに語り出した。


「––––昔の話。まだ感染症や事故でたくさんの人が亡くなっていた時代、ありとあらゆる病を治すという医師の一族がいた。

特別な能力を生まれ持った彼らに治せない病気はないとさえ言われていた」


「それって、やっぱり魔法使いなんじゃ?」

「先人はそうかもね。末代の私にそんな力はない」


死ぬはずだった人間を救ったのだからそれはもう魔法と呼んでも過言ではないのではないだろうか。

どこまでも謙虚な少女だ。


「特に血や血液に関わる病気に強くて、末裔の私にもまだ血を操る能力は残っているほどだし、初めのうちは神の使いとして崇められていたみたい。

ただ、そんな彼らにもひとつ、代償があった」


当然だろう。

明らか人の手に負えるものではない強大な力を手にしておいて、無償のはずがない。


そうでなければ、鬼嶋や彼女の一族はこんなに隠れて慎ましい生活を送るはずがないのだ。

彼女がこんなに静かな憂いをたたえて語るはずも。


彼は鬼嶋の言葉を待った。


「そう––––血。血を操れる彼らは、生き血を摂取しないと生きていけない体になったの。その途端、今まで散々神だのなんだのと勝手に縋ってきてた癖にね、コロッと掌返して。

人を救うはずの一族が、人を傷つけなければ生きていけなくなって、やがて忌み嫌われる。皮肉な話でしょう」


はるかは息を呑んだ。

無意識に、ぎゅっと拳を握りしめていた。


「だから、私たちは魔法使いなんかじゃない。ましてや、神の使いでもない––––【吸血鬼】、それが正しい答え」


語り終えた彼女は瞳を伏せた。


同じなんかじゃなかった。

彼女が抱える孤独も、痛みも。

胸が締め付けられる思いで、はるかは鬼嶋を見つめることしかできない。


「そんな哀れむような目を向けないでくれる? 不快」

「え、あ、えっと……ごめん」


止まることを知らず氾濫した感情が彼女にまた深い溜め息をつかせた。


その大きすぎる力と悲しみの片鱗を見ただけのただのクラスメートに、なぜここまで話してくれたのかは分からない。


御身でない以上、細かく想像がつかなかったが、他人にこんな秘密を話すのはよくないことなんだろうとぼんやり思ってはいた。

下手したら、命を狙われたり生死に関わることだ。


だが、どうして話してくれたのからなんてそんなことまで根掘り葉掘り訊くような図々しい真似はできなかった。

彼女のことだ、変に見せるのももやもやして話した、とか意外と単純な理由かもしれない。


あー、もういろんなことをぐるぐる考えるのはよそう。

自分が鬼嶋に言えることはもうただひとつしか残されていない。


「なあ、鬼嶋。俺に力にならせてくれないか」


はるかは意を決し、鬼嶋の顔をのぞき込んだ。


ぶつかった視線、ゆっくりと瞳孔が開いていく。


と思えば眉をひそめ、悲しそうに呻いて、嘲笑し、……めまぐるしく表情が変化して、最後に彼女は長い長い溜め息をついて頭を抱えた。


「––––呆れて物が言えない」


う、とはるかは声をつまらせる。


断られるだろうとは予想していたが、ここまでしつこいと相手に断る気力まで失わせてしまったらしい。


図々しい自覚はあったし、ここまで土足で上がり込んで無傷で済むとかこれで終わるとは思ってはいなかった。

だったらいっそ、


「血が必要なら俺を使ったらいい。それで俺が出血してやばくなったらお前が止めてくれるだろ?」


「自分の立場がわかってないの? あんたにそんなこと言う資格は一ミリもない。安易に喋っちゃった私も悪かったけど、そこで共感とか同情とかされても本当に困るし迷惑だから」


「じゃあどーしろって言うんだよ。もう全部忘れろって? 元の関係に戻れって? 無茶にも程があるぞ」


「うるさい、もとはと言えばあんたが死にかけるから悪いんでしょ! 何でもかんでも人のせいにしないで」


「人のせいにしてないし、だいたいお前も偉そうに言ってるけど実のところ困ってるんだろうがっ!」


「いつ誰がそんなこと言ったの!? 記憶を都合のいいように改ざんしないでよっ、頭の中がお花畑どころの話じゃない、ひどい妄想癖ねこのお人好し自惚れ野郎っ!」


「言い過ぎだろ! さすがに傷つくぞ!?」


いつの間にか双方とも息を切らしていた。

もうだいぶ朱色に染まってきた窓の外で、烏があんまりに拍子抜けに鳴いた。

変におかしくなって、二人で一緒に吹き出した。


「……頑固者め」


彼女は腕を組んで負けを認めた。


「言っとくけど、楽じゃないからね」

「わかってるよ」


そう返事をしながら、はるかは立ち上がった。

それから、少しだけ背の低い鬼嶋に、上から満面の笑みで見下ろしてみせる。


「絶対助けになるから。まかせろよ」


鬼嶋は、さっきよりも少しだけ嬉しそうに、フンと鼻で笑った。

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