2.謎
翌日。
「おー、はるかおはよー」
「あー、はよー」
挨拶をしてきたのは芝崎トオル、小学校からの仲の級友だ。
軽く挨拶を交わして、はるかはひとつ大きな欠伸をした。
時刻は八時三十分近く、高校のHR教室だ。
もう一限目が近いというのに脳みそが全く起きてくれない。
「珍しく今日遅いな。どうした?」
「ん……昨日遅かったから」
ああ、と彼は思い至ったように顎を擦った。
「そういえば、放課後の図書委員の当番だったっけ」
「というよりは鬼嶋のせいだけどな。五時過ぎから急にあの図書管理室の掃除始め出すんだから」
嫌味のつもりで、はるかは『あの』を強調してわざと少し大きな声で言った。
汚いと有名で、今まで誰も手をつけなかった図書管理室。
あの場所を片付けるだなんて、しかもあんな時間から言い出して迷惑もいいところだったのは事実だが、結局強く断らず手伝ってしまったのも自分だ。
ここまで酷く言うのは申し訳なかったかなと、ちらっと彼女の席のほうを見てみる。
その鋭い眼差しと目が合ってちょっと竦んだが、すぐに鬼嶋の方が目を逸らしてしまった。
––––––––ん?
昨日と比べて素っ気ない反応をされて、逆にはるかの方が戸惑ってしまう。
鬼嶋って、委員関係でしか話さないけど、教室ではこんな感じだっけ……?
当の本人は机上に開いた分厚い本を両手で支えて、静かに読書している。
声を掛けづらい雰囲気を醸し出していたので話しかけるのは諦め、妙な違和感を抱えたまま、彼は仕方なく席に着いた。
担任がおもむろにドアを引いて教室に入って、点呼を取り始める。
まだ会話の消えないざわついた教室の空気に紛れて、はるかはしばらくの間彼女を横目に見ていたが、昨日のような態度を垣間見せることはなかった。
「あのさ、鬼嶋」
昼休みになり、一人になる隙を狙ってはるかは彼女に声を掛けた。
朝のことでもやっとしていたのももちろんだが、用事もなくきたわけではなかった。
ちゃんと昨日のことを聞いておくべきだ、はるかなりにそう思って腹を括って声を掛けたのである。
あの魔法のような力。
異端な存在はどこに行っても避けられ、恐れられ、罵られる。
帰り際に彼女が見せた表情がそれを物語っていた。
尋ねづらいことではあったのだが、逃げていてもしょうがない。
むやみに彼女を傷つけてしまうのも嫌だったが、確信もないのにこのまま見て見ないフリする方がもっと嫌だった。
「……昨日のことなんだけど」
「ああ、本はもう今日中に廃棄するって三ツ谷先生が」
完全に想定外の方向からのボールを食らい、会話開始三秒にも満たず論点がまるごとずれた。
「あの、いや、そうじゃなくて––––」
「あらかじめ廊下に出しといて良かったね。じゃあ、私食堂行くから」
と、鬼嶋はひらひら手を振って階段を駆け下りていく。
はるかは唖然として立ち竦んだ。
ほぼ喋らせてもらえず強制的に会話が終了してしまった。
明らかに朝から避けられている。
やはり、昨日のことが原因なのだろう。
あまり触れないでほしいところだったのだろうし、むやみに尋ねたのは失敗だったかもしれない。
しかし、はるかは諦めきれなかった。
あれは魔法なのか?
魔術なのか?
はたまた何か別の力なのか?
相手が嫌がっているのは分かっていたが、それでも彼の彼女に対する好奇心は抑えられなかった。
昼食後は古文の授業からスタートした。
基本頭で考えない上に、慣れない言葉では理解も簡単にできない。
はるかが苦手とする科目のひとつだった。
いい塩梅にお腹がふくれうつらうつらとしていると、前の方で頭部をこっくりこっくりさせているトオルが見えた。
いつも強気で明るい人物があんな風だと思わず微笑みを浮かべてしまう。
「先生」
突如、透き通るような静かな声音が黒板を叩くチョークの音に重なって響いた。
その声にはっとなってはるかは頭を上げる。
挙手しているのは鬼嶋だった。
「……具合が悪いので、保健室に行かせてください」
「ああ構わんよ、気をつけていきなさい」
温和な教師はしわがれた声で許可を出した。
彼女は会釈して席をたつ。
はるかの前を横切るときに見えた顔はほんのり青白かった。
「大丈夫だったのかな、あいつ」
授業が終わり、教科書を机の中にしまい込んでいる彼にトオルが話しかけた。
もしかすると朝から冷たかったのは、体調のせいだったのかもしれない。
その考えが頭に浮かんで、はるかは少し気が軽くなった気がした。
「普段から結構薬とか呑んでるの見るしさ。体弱いんかね」
「……あれで?」
「何があれでなのか知らんけど、鬼嶋も普通に女だろ」
言われてはるかは確かに、と納得してしまった。
勝手に頑固でプライドの高い優等生の人物像ができあがっていたのかもしれない。
わずかな時間でなんだか彼女のことを分かったつもりでいたみたいだ。
そうだ、そもそもあの魔法のことも知らなかったんだし。
「……まだまだ謎だらけだな」
はるかは呟く。
なんとかしてあのことを訊く機会を作りたいものだが。
「ん? なんだあれ」
何かに気づいたトオルが不意にはるかの元を離れる。
「おい、もう移動しないと次間に合わないぞ」と声をかけるが珍しく返事がなかった。
「トオル?」
「はるか、これ、やばいんじゃ」
彼の呼びかけに対する返答は全くもって想像していなかった言葉だった。
トオルが拾って見せたものは、病院で渡されるようなまとまりの錠剤だったのだ。
「––––なんだこれ? ここって、鬼嶋の席……だよな……?」
「ああ、鬼嶋のものだと思う。これ……、ないと困るやつ、だろうな」
ほぼ反射的に、はるかはトオルの手からそれを奪い取った。
「おいっ、はるか!」
「悪い、これ届けてくる。先生によろしく言っといてくれ!」
驚く友人に、はるかはそうとだけ頼んで、走り出した。
校舎四階からの猛ダッシュはさすがに息が切れた。
しかし、ひとつの可能性がずっと頭の中に浮かんでいて、それどころではなかった。
昨日の影響ではないのか。
あの力を使って俺を助けた、その反動じゃないのか。
不自然なくらい唐突で、青白かった顔が脳裏に焼き付いている。
彼女の秘密を知っているのは自分しかいない。
自分にしか助けられない。
「……鬼嶋、いるか!? 薬持ってきた!」
息切れしながら勢いよく保健室の引き戸を開けて、はるかは叫んだ。
「……誰」
と不安そうにくぐもった声音が奥のベッドから聞こえて、少し安堵する。
だが、そっと近づいていくと、
「来ないでっ!」
さっきとは打って変わったものすごい剣幕で怒鳴られた。
「は!? そっち行けないと渡せないだろ」と反論するのだが、「今来たらだめ」「来ないで」の一点張りだった。
会話にもならない。
「なあ、薬持ってきたから渡させて。いるだろ? これ。それに、ひとりじゃ心細いだろ。先生には言ってあるし」
「……来ちゃダメ。今は絶対にダメ。昨日の……見てたでしょ。分かってよ。今は危ないの」
彼女が怒り半分に突き放す。
そういう時こそ何かしてやりたいと思っているのに。
彼女の秘密を知ったからには––––
「何考えてるの?」
突然の冷たい問いに、はるかは背筋が寒くなるのを感じた。
気迫というのか、圧というのか。
今度こそは完全に打ち負かされてしまう、そう思えるほどには十分な言葉だった。
「私の何を知った気でいるの? たかだかあの程度見せたくらいで……一般人からしたら普通じゃ無いと思うけど、あれくらいで調子に乗らないで。
ただ黙ってくれてればいいの。
その他のことなんて何も望んでない」
一言一言が胸に刺さる。
彼女も自分と同じかもしれないとか、わかり合えるかもしれないとか––––自分が押しつけていたのは、そんな自己中心的なエゴだったのだと。
人は仲間や同志を求め、それに縋ろうとするものだ。
しかし、鬼嶋はそんな人の弱さを凌駕する強さを持っているように感じられた。
彼女は自分が異端であることを充分に承知していて、それで確実に周りとの関係を絶っていたのだと今更ながらはっきりと痛感した。
一人が怖い、死ぬのが怖い自分とは違う。
一人でも、何があっても生きていく、一匹狼のような強さ。
そうだ。
エゴなんだ。
全部。
でも、それで何が悪いのだろう?
独りの自分と、独りの彼女を救いたい。
その気持ちに偽りはない。
「それでも––––俺はお前の助けになりたい」
はるかははっきりと言った。
カーテンで仕切られた向こう側、鬼嶋がその言葉に体を起こしてその影が揺れる。
このエゴを理解して貰おうだなんて思っていない。
でも、少しでも伝わってくれたなら。
はるかは胸に手を当てて、言葉を続ける。
「俺に何ができる?」
彼女は額に手を当て、呆れたように大きな溜め息をついた。
観念した、好きにしろ、そういう溜め息だった。
鬼嶋はカーテンを引いた。
髪は乱れて、制服はボタンが外れたりシャツが出たりだらしなくなっている。
憔悴しているようだった。
ぎこちない足取りで一歩、一歩と彼に距離を詰める。
「––––––––はるか」
彼女は今にも泣き出しそうな、不安を露わにした弱々しい表情で彼の名前を呼んだ。
強気に見えても、弱い、普通の少女なのだ。
そう思わせる、落ち着いた、幼気な表情。
思わず体が強張り、心臓が跳ねた。
少しずつ、少しずつ二人の間が狭まっていく。
どことなく艶めかしい不思議な雰囲気を纏った彼女が、苦しそうに呻いて、彼のシャツを強く掴む。
はるかの心臓は一層大きく脈打った。
そして、
「……っ!」
左肩に鮮烈な痛みが迸った。
強烈な吐き気がはるかを襲う。
体の中をぐちゃぐちゃにかき回されているみたいだった。
彼女は彼の肩に歯を突き立てて、……血を吸っているのだ。
嘘みたいな信じられない光景を前に、ただ痛みだけが鮮明で、変に現実味があった。
苦痛という苦痛が彼のすべてを蹂躙していく。
ふわふわして曖昧な感覚が脳を支配して、頭がぼーっとしてきた。
ゆっくりと、しかし確実に遠のいていく意識を感じながら、はるかは静かに眠りに堕ちた。
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