佐樂みこと

1.ある日の図書室で

夕方の日差しが、音のない図書室に色をつけていく。


腕の中に抱えた分厚い辞書達を棚に直し終えて、彼はようやく重みから解放された。


まだまだ作業は終わりそうにない、「ふう」と一息ついて額の汗を拭う。


佐田さだ、次七番の方行くから。そこの棚は終わった?」


彼の名を呼ぶのは同じ図書委員の鬼嶋きじま夕梨ゆりだ。

静かだがよく通る声に「終わった。すぐ行く」と返事をして、彼––––佐田はるかは、彼女のいる図書管理室へ向かった。


季節は初夏、腕まくりをしても長袖のカッターシャツでは熱が逃げてくれない。

襟首をぱたぱたしながら古めかしい赤茶色の扉を開く。


すると、さっきよりも一層空気の淀んだ埃臭い空間へ出る。

そこが図書管理室、これ以上ないくらいに散々に荒れた場所だ。


千頁を優に超えるものから薄いものまで様々な大きさの本が床、机に積まれている。


そこに、鬼嶋は佇んでいた。


「これ、」


肩までの短めの長さの髪を耳にかけながら、少女は己のすぐ脇の山を指さす。


「ここからここまで私がやる。佐田はここからそこまで」

「はいはい、了解」


はるかはだるさ全開のやる気ない応えを返して、また溜め息をついた。


そもそもこんな場所は普段必要ないし、重要な書類とか本を借りるためのスペースは最低限片付いているのに、鬼嶋が

「これは我慢ならない。片付ける」

と言い出したのが始まりだ。


本棚にはまだスペースがあり、汚れていないものは図書室の方に収まるはずだ。

廃棄組と採用組に分別する作業が終わり、やっと帰れるかと思えば、時間が許す限りこの少女は片付けるつもりらしい。


しかたなく彼はつきあっているというわけだ。


鬼嶋がよいしょと本達を持ち上げて出口へ向かう。だが、ドアを目の前に立ち止まった。


それもそのはず、両手にそんな量の荷物を抱えていてはドアノブを握れるわけがない。

むっとした表情でドアを睨みつける彼女に、はるかは苦笑いを浮かべながら渋々開けてやった。


「……さて」


はるかは背後の大量の仕事に目をやった。

さすがにこれは骨が折れる。


まあ、これも図書委員になったのと相手が彼女だった縁の一環だ、と進まない気持ちを励まして本を持ちあげるためにかがみこんだとき、


「うっ!?」


床の小説に足を取られたらしい、はるかは前のめりになって派手にすっころんだ。


「っつー…………」


呻きながらゆっくり体を起こすと、左の掌に尋常でない痛みと脱力感を感じた。

ひとつの予測––––というよりは確信が脳裏をよぎる。


見ると、確かに左手が損傷していた。

血だらけだった。

すぐそばの開かれた頁の端が僅かに紅く染められていた。


きっと紙で切ったのだろう、傷口は深くない。

しかし、はるかは震え上がった。

それは『紙で手を切った』というそれだけの事実が、彼にとって一大事であることを意味している。

この怪我で、確実に、残酷なまでに絶対的に、のだ。


その事実を突きつけられて、背中にすうっと冷たいものが走る。

そう、自分はそういう因果の元にあり、その命運はそう定められているのだ。

なぜなら、


「…………佐田?」


物音に気付いて戻ってきたのだろう彼女が、心配そうにこちらを覗きこんでいる。

呼吸が荒くなり、視界がぐらぐらしてその顔さえまともに見えなかった。


「どうしたの? 顔色が、」

と言いかけた鬼嶋は体を強張らせた。

「その手––––切ったの?」


「……切った。転んで、紙で……もう、だめだ。忘れちゃいけなかったのに、油断した。俺は、もう、多分……遅……」


パニックになって、冷静に説明ができない。

もごもごと口が勝手に喋っているようだ。

すると、意外にも冷静なのは鬼嶋だった。

彼女は静かにこんなことを呟いたのだ。


「聞いたことがある。生まれつき血液凝固因子が少ないせいで、ほんのかすり傷や切り傷でも血が止まらない、恐ろしい病気。治せない、治ることのない致死の病気––––」


はるかは驚いて眼を見開いた。

鬼嶋の瞳は怖いくらいに静かで暗い光を灯していた。


「【血繊病】––––呪われた血を持つ人間ね、あなたは」


はるかは頷いた。

もはや驚きを通り越して失望が襲ってきた。

そこまで理解しているなら、彼女は最後まで––––自分が血を流し尽くして、失血で死ぬまで––––黙って見守ってくれるのだろう。


ただ、彼女の目の前で打つ手なく力尽きていくのが情けなかった。

しかし、すべては自分の不注意が招いたことだ。

後悔しても遅いし、恨む相手もいない。


覚悟を決めたそのときだった。


「手をかして。はやくっ」


たった数秒前まで落ち着いて話していた鬼嶋が、なぜか急に焦った声を出した。

訳の分からないはるかは呆然としていたが、彼女が半ば強引に彼の手をとる。


そして、両手で挟むように重ね、ゆっくりと目を閉じた。

そのあまりにも真剣な表情に、思わず息を呑む。


次の瞬間、奇跡が起きた。


淀んだ空気が、時までもが止まったような不思議な感覚がはるかを襲った。


不自然な耳鳴りがうるさい。

二人を包むその空間そこだけが切り離されて、別の次元にいるような。

そんな感じだった。


彼女に握られた手が熱を持っている。


はるかはそこで起きている出来事を見守ることしかできなかった。

熱い血液が流れた軌跡を辿って、逆再生のような気持ち悪い動きで彼の体内へ戻っていく。

物理法則を完全に無視した、人間が干渉できる範疇のものではない"力"がそこにはたらいていた。


従順に、もと在った場所へ強制的に引き戻された血は、縫い合わされるかのように塞がった皮膚に完全に閉じ込められてしまった。


流れた血はすべて体の中へ戻され、傷は塞がれた。

その様はさながら魔法としか言いようがない。


「––––っ」

衝撃が言葉にならず、はるかは鬼嶋を見上げる。

息の詰まった感じが不意に解かれ、彼女はふぅ、と肩を下ろした。


その伏せられた眼にただならぬ雰囲気を感じ取り、思わず彼は口を噤んだ。

何も聞いてはいけない、そう思った。


彼女も


「これで大丈夫。もう、遅いから帰ろう」


鬼嶋ははるかの手を離す。

手首をぶんぶん振っても、ぐっぱぐっぱしてみても、異常はない。

完全に元通りだ。


「あのね。そんな激しく動かして、またどこかにぶつけるかもしれないという考えには至らないわけ? 学習能力がないにもほどがあると思う」


「あっ……ごめん」

はるかは短く謝罪し、立ち上がった。


電灯を消して制鞄を手にする鬼嶋に続いて、図書室の外に出る。


手早くガチャガチャと鍵をかける彼女に「あの、ありがとう」と声をかけたが、彼女からの反応はなかった。


きっと、自分が死にかけたことによって、彼女の傷に触れてしまったのだと思った。

はるかは何も言わなかった。


そして––––彼女の秘密を知ってしまったことが、彼が鬼嶋夕梨という少女に興味をもった最初のきっかけになったのだ。

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