第7話 いつわりの和議
大坂城の奥まった一室。薄暗い中に男女が寄り添っている。
「叔父上、本当に城を出てしまわれるのですか」
織田有楽斎にしなだれかかり、淀の方は拗ねるような声で言った。顔を寄せると、およそ人のものとは思えない長い舌で有楽斎の頬から耳朶を舐め上げた。
「わしのすべきことはもう、やり尽くしたからの。これからは一介の茶人として余生を送ろうと思うのだ」
「わしは何ひとつとして兄上と似る処が無い。兄上の持つ魔性も、遂にわしには縁のないものだったからな。だが、茶々よ」
淀の方の幼名を呼ぶと彼女の細腰を抱き寄せ、そのまま乱暴に唇を奪った。
「お前と秀頼ならば、この大坂を血の汚穢に塗れさせ、天魔の世界を現出する事ができよう。一度はあの明智光秀と……藤吉郎めに邪魔をされたが」
淀の方は端麗な顔をしかめた。
「藤吉郎などと、下賤の名を出さないで下さいませ。不快にございます」
藤吉郎とは、淀の方の亡き夫、太閤 豊臣秀吉の元の名である。
「あ奴は、自らが言うように日輪の化身のような処があったからのう。我が一族とは、全く相容れぬものであったのに」
それなのに兄上は……、有楽斎は困ったように首を振った。
「お止め下さい、と申しておりますよ、叔父上」
淀の方は彼の内腿をぎゅっと
ふわりと女の匂いが薫り立った。
「では叔父上。城を退去なさる前に、もう一度だけ……」
淀の方は繊手を伸ばし、男の股間を撫でさすった。
「なんの。どうせ一度では済ませてくれまいに」
男はそういうと、女を押し倒した。
☆
この日、ついに大坂方と徳川方の和議が成った。
疲れ果てた表情で、各地から集結した大名たちは帰途についた。序盤以降、大きな戦いは無かったが、戦闘以上に彼らを衰弱させたものがある。
それは兵糧の不足だった。
二十万を越えようかという大軍が大坂周辺にひしめいているのだ。特に遠方から出陣して来た大名は兵糧の輸送もままならず、かといって現地調達などまったく不可能事だったからだ。
奥州伊達家もその例外ではなかった。
鉄砲隊を率いて参戦した片倉小十郎も、和議成立の知らせに大きく息をついた。
「……危ないところだった」
だがそれは、ひとつに兵糧の事だけではなかった。先日、彼は大坂城の内情を探るため単身城内へ忍び込み、その時、恐るべきものを目撃していたのだ。
祭儀、だがあまりにも禍々しい。
魔神を象ったのであろう、部屋の奥に据えられた立像は血に濡れ、その前の床に描かれた紋章の上には切断された人体が無造作に積み上げられていた。
「誰じゃ」
振り向いたのは織田有楽斎だった。憑りつかれた目付きで辺りを窺う。慌てて身を隠した片倉小十郎はその屋敷から抜け出した。
逃走する片倉小十郎は屋敷の庭でひとりの忍びに出会った。この男も追手が掛かっている。一目でただ者ではない技量の持ち主だと分かったが、あまりに追手が多かった。
その男が小十郎に気づいた。迷わず、駆け寄って来る。どうやらすぐに敵ではないと見定めたようだ。
「やつら吹矢などでは、てんで効果が無いのだ。逃げますぞ、ご同輩」
追手に目を凝らした小十郎は背筋が寒くなった。多くの者どもは手足を半ば切断されながら平然と後を追って来ている。
「あれは、あなたが?」
男は苦い顔で頷いた。腰の短刀を示す。
「もはや、両足を切り飛ばさねばどうにもなりませんな、あれは」
なるほど、短刀ではそれは難しいだろう。
小十郎は所持している脇差ほどの長さの忍刀で追手を撃退し続けた。しかし、脚を斬り落とされても這いずりながら追って来る。
「何ですか、あれは?!」
その男は困ったように首を傾げた。
「ともかく、屋敷の外までは奴らも追って来ませぬゆえ」
「それでは」
二人してやっとの事で屋敷の高い塀を乗り越えた。すぐに服装を直し、武士と従者という雰囲気を自然に醸し出す。たとえすれ違うものがいても、誰もそれを疑わないだろう。
「これはほんのお礼に御座います」
こうして見ると、かなりの高齢のようである。その男は折り畳んだ紙片を差し出した。
「どうやら徳川殿は大砲をお持ちの様子。まずはここをお狙い下さい」
それは大坂城の見取り図だった。朱点が打ってあるのは、一つはこの邸のようだが、もうひとつは。
「普段、さる女君がいらっしゃる場所に御座います」
「まさか淀の方さまが?」
老人は答えなかった。察してくれ、という事らしい。小十郎は頷いた。
この老人の素性が知りたいと思った小十郎だったが、まさか教えてくれる筈もない。だが、ひとつだけ心当たりがあった。
「大将軍どのは大いに慌てていらっしゃったとか」
そう言って相手の顔を窺う。老人は何も言わなかったが、少しだけ頬を緩めた。
「では、機会があれば、また」
「はい」
去っていくその背中を見ながら、小十郎はしゅーっと歯の間から息を吐いた。
油断しきったかのような後ろ姿だが、それを信じて襲えば瞬く間に返り討ちに合うだろう。それだけ自信に満ちた背中だった。
「真田の、いや、この日本で最後の、本当の忍びかもしれない」
あれは間違いなく『猿飛』の異名を持つ伝説の男だと、小十郎は確信したのだった。
☆
「あーあ。せっかく造ったのにな」
真田幸村は、ぼんやりとした顔で更地になった自らの出丸跡を眺めた。
豊臣と徳川の和議によって大坂城の外堀は埋め立てられることになった。もちろん真田丸も破却され、ただの丘に戻ってしまった。
「
背後からしわがれた声で呼びかけられ、彼は振り返った。
幸村と並ぶ大坂方の勇将、後藤又兵衛 基次だった。幸村は少し眉をひそめた。
「後藤どの、鉄砲傷はもう良いのですか」
集中砲火を浴び、瀕死の重傷を負ったと聞いた。だが、顔色こそ悪いがどこにもその影響は感じられない。
「ああ。織田有楽どのに治療をして戴いたせいだろうか……」
そこで急に後藤又兵衛は、怯えた目付きで周囲を見回した。
「わしは怖いのだ」
これを見てくれないか、と又兵衛は首に巻いた布をずらして首筋を晒した。
「……!」
幸村は言葉を失った。彼の首には黒々とした傷跡が大きく口を開けていた。しかしそこから、血は一滴も流れていなかった。
「わしは、人では無くなったのかもしれん」
又兵衛の双眸は赤い光を帯びていた。
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