深海を越えてまた会おう 11
だけどそんな私の反論は、翌朝にはもう役に立たなくなっていた。
まずここ数日と同じように大山さんがやってきて例のマニュアルを置いていったが、もう何も見なくてもレポートを作成できるようになってしまっていた。
それを終わらせてやっとと言うのか、いよいよと言うべきなのか、自分の仕事をしようとリストにある会社の情報をインターネットで調べていると、普段は大山さんの隣で同じく事務仕事をしている原田さんがやってきた。原田さんは大山さんよりも若くて、たぶん私ともそんなに年齢も変わらないはずだけれど、やっぱりほとんどことばを交わしたことがない。
耳馴染みの無い声で名前を呼ばれた瞬間、嫌な予感がした。
「関村さんから、横井さんに手伝ってもらってって言われたんですけど……、お願いしても大丈夫ですか?」
大丈夫でも大丈夫でなくもなかった。彼女の仕事を手伝うことでテレアポをしなくて済むのなら願ったり叶ったりだが、もちろんそうはいかない。
「大丈夫です」
そう答えながらどうしてここの部署のひとは揃いも揃って彼女の傍若無人っぷりに目を瞑るのだろうかと考えた。それともそう感じているのは私だけで、他のひとにとってみれば彼女はよく働く部下であり同僚であり先輩なのだろうか。
同じ空間で同じ空気を吸うすべてのひとが、みんな私の敵みたいに思えて、みんなが私を陥れようとしているように思えて、音が遠のく。
原田さんは空席の関村さんの椅子を私のデスクまで持ってきて座り、画面とマニュアルとを比べながら丁寧に教えてくれた。うちの会社が運営する就職サイトを使って応募してきた学生に一次試験の案内をするという内容だった。
そんなことまで事務とは言え営業部の社員がやっているのか。自分も就職活動中に経験したことだが、企業によって試験の内容は違う。学力や常識を測る筆記試験が一次試験として課させるところあれば、いきなり面接というところもある。そして面接の回数もそれぞれ異なる。そのため案内文の雛型はあっても細かく修正しなければいけないということだった。
顧客である企業から提示されているドラフトを元に入力していく。
大山さんに頼まれるレポートよりも考えながら作業しなければいけないぶん、時間も労力も必要だった。わからないことや不安なことを見つけるたびに原田さんに確認しにいかなければならないし、結局午前中には終わらせることができず、昼休憩を挟んでさらに一時間掛けることでようやく終わった。
それからやっと電話を掛け始める。だけどそういう日に限って関村さんは三時頃には帰社して、左半身にずしっと圧し掛かるようなプレッシャーを感じながら午後を過ごした。
そんなふうに少しずつ関村さん以外の社員から仕事を振られることが多くなっていき、気がつく頃には初めは少しだけ手伝うというニュアンスだったはずが、私の机のレターボックスには処理しなければいけない書類が山積みになっていた。
さすがにこれでは手が回らないし私の本来の仕事であるはずのテレアポも関村さんに同行させてもらう時間が無くなると思いやんわりと断ったこともあるのだが、そうするとその日の夕方には何故か関村さんがそのこと知っており責められるのだった。
いつしか企業が営業しているような時間帯にはテレアポをし、急ぎでない仕事は夕方や定時後に取り組むようになっていった。
定時は十八時のはずなのに、二十時まで会社にいることが当たり前になり、本当に忙しい日には終電に乗るために会社を走って出ることもあった。
最初は達成感や一種の高揚感によって電車のなかで「今会社出て終電で帰るー」というツイートをするくらいの余裕があったが、それが常態化していくなかで次第にそれもなくなっていった。
朝は九時半に出社し、終電で帰宅する日々が続いていくと、友だちから来ている連絡に返事をすることが億劫になる。終電にさえ間に合わず、会社から支給されるタクシーチケットを使って家まで帰ったりそれすら面倒くさくなって近くのカラオケで泊まったりするようになると、感情が平たくなる。
ときどきふとした瞬間に眠たいと思う以外、一切を感じなくなっていく。
案外流れに乗ってしまえばなんとかなるものだと感じる一方で、最寄り駅から会社まで歩く道中で急に涙が止まらなくなることがあった。このまま会社の前を素通りして、この道がどこに繋がっているのか無性に確かめたくなることがあった。
今日も他の社員たちが一人また一人と帰っていくのを見送ったあと、明かりの少ない一人のオフィスでキーボードを打ち続ける。静かで誰の視線も気にしなくていい夜は、昼間よりも仕事が捗る。
お腹は減らないから代わりにホットのカフェオレを飲み続けていた。デスクに出しっぱなしになったスマホには同期たちが集まって飲み会をしていたようで、「今日はありがとう」だの「楽しかった」だの「また集まろうね」だのといったメッセージが飛び交っている。そういえば金曜日だったということを思い出す。
二時間ほど前に沙希ちゃんから「今日来ないの?」という連絡が来ていたような気がするけれど、忙しくてロック画面のまま通知を見ただけだから気のせいかもしれない。
確認をする気にもなれなくて、デスクに突っ伏してしまいたくなる。だけどそんなことをしたら確実に朝までここで眠ってしまいそうだから、代わりにため息を吐いた。
結局仕事が一段落したのは、午前二時を過ぎた頃だった。前に課長に習った手順でオフィスのドアの電子ロックを掛けて、裏口から会社を出る。大通りにも車はほとんどなく、酔っ払いの嬌声も看板のネオンも無い、湿ってぼやけた夜。なんだか古い外国の映画のなかを歩いているみたいだった。
どこへ行けば良いのか忘れてしまった。なんとなく握ったスマホのバッテリーは朝、家を出たときからほとんど減っていない。
ああ、そうだった。家に帰らなければいけない。
番号を登録したタクシー会社に電話をする。
タクシーが拾いに来てくれるまで、私は誰かが捨てたコンビニのコーヒーのカップみたいに歩道に転がっていた。
深海を越えてまた会おう 青井あるこ @arcoaoi
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