深海を越えてまた会おう 06


そもそも私はこの会社に、広告を作りたくて入社したのだ。いや、もっと言うなら広告が作りたかったわけではなくて、とにかく写真と文章を使う仕事がしたいだけだった。


大学では外国語専攻で、英語やスペイン語だったり欧米の文化や文学だったりを勉強していた。写真に興味を持ったのも大学生になってからと、遅かった。


高校生の頃からファンだったバンドがめちゃくちゃかっこいいアーティスト写真を公開した。それを撮影したひとが女性で、しかも私と同い年だったのだ。


それは衝撃的だった。もう世間に出て活躍する歳になっているのだと遠回しに言われているような気がして、ワクワクしながらも身体の輪郭がジリジリと焦げ付いていくような感覚が生まれて、それは今でも続いている。


彼女の名は白樺リネという。なんだか悔しい思いさえして、私だって大好きな彼らの写真を撮りたいし、なんならもっと良いものを撮ってやるしと思って貯金を叩いてミラーレス一眼を買った。


空や夜景がスマホのカメラよりも鮮やかに写って楽しくて、どこへ行くにも持って歩き、ツイッターよりもインスタの更新回数が圧倒的に多くなっていった。もっと良い写真が撮りたい、写真を撮ることを目的として遠出をしたいと思うようになり、二年生で遅ればせながらカメラサークルに入った。


そこでもまた衝撃を受けた。同世代で毎日同じキャンパスで同じような講義を受けているメンバーたちの作品は、だけど到底自分には撮れないものだった。


例えば生活感のあるアパートの一室で低いテーブルの上の皿に食べかけのスイカが載っている写真。皿の白に赤い果汁が広がり虫の背みたいな黒い無数の種が散らばっている。机の上は片付いていなくて雑誌やらティッシュやらが見える。その埃っぽい部屋に開いた窓から日の光が差し込んでいて、風に揺れるカーテンの影がテーブルに落ちている。


そんなどこにでもあるような日々の綺麗じゃないワンシーンなのに、訴えるものがあった。その光景に至るまでの物語を想像させるような力があった。


その一枚を見て、自分がこれは良いって自信満々に撮り溜めてきた写真は、SNS映え止まりに過ぎないことを思い知った。そして私が作りたいのはもっとその先の表現だということも。


飲み会の席で酔っぱらいながら、食べかけのスイカの先輩にそんなことを滔々と語った。


「私が撮ったらただだらしなさとか汚さしか出ないんです。コバエが飛んでそうな。でも先輩の写真は、なんて言うんですか。哀愁? 哀愁でも無いのか。でもエモいって言ったらそれで終わってしまうけど、そういう……背景を考えざるを得なくなるような、切なさがあるっていうか。すごく曖昧な部分の感情が現れてて。そういうのを表現したいんです。私も」

「コバエが飛んでそうな写真もそれはそれでドラマチックだと思うけどな」


ペタッとした黒髪に黒縁眼鏡の色の白いちょっと冴えない男の先輩は、控えめだからこそ才能みたいなものを感じさせて、ほとんど絡んでいるような私の扱いに困っているようだった。あんまりお酒も得意じゃないみたいだったし。


「でも、そうだな。デジタルよりはフィルムカメラのほうがそういう曖昧さみたいなものは出るような気がする」


という彼の発言自体が既に曖昧だったのだが、その時の私はなるほどと思った。


「わかりました! とりあえずフィルムカメラ始めてみます! ありがとうございます!」


飲めないくせに雰囲気に流されて飲んだせいで、その飲み会の記憶はほとんど抜け落ちていたけれど、食べかけのスイカ先輩との会話だけは翌朝目が覚めても残っていて、ベッドから抜け出してシャワーを浴びてガンガン頭が痛むなか、炎天下を自転車をかっ飛ばして電器屋へ行った。


ミラーレス一眼を買った地元の店にフィルムカメラが売っていないことにびっくりしたし、頭痛が酷くて若干腹が立った。家に帰って汗でべとべとになった身体をもう一度シャワーで流して、今度はちゃんとした服を着て化粧をして電車に乗った。


ターミナル駅近くのビックカメラには、フィルムカメラがあった。さすが店名にカメラが付いているだけあるな、と思いながら今度はその値段に驚いた。


ちょっと良いものが欲しいと思うと最低でも三十万円はする。憧れのライカのコーナーにはしれっとした顔で百万円越えのカメラが並んでいた。お前には無理だと暗に言うように店員は遠巻きにこちらを見るだけで一切話しかけてこない。デジイチコーナーをうろうろしていたときには鬱陶しいくらいに付いてきては選択肢に入っていないメーカーのパンフレットまで渡してきたくせに。


スイカ先輩のカメラはいくらしたのだろう。サークルのメンバーのなかには値の張るカメラを持っているひともいたけれど、どうやって買ったのだろう。


そのためにバイトをしてこつこつ貯めたんだろうか。でもカメラ以外にも友だちと遊んだり服を買ったりするだけでお金は減っていくし、六十万円を貯める頃には学生生活が終わってしまいそうだ。


一台目のミラーレス一眼は予算と持ち運びやすさで選んだオリンパス製だったから、二台目はそれよりも若干高くても表現の幅が広がるようなものが良い。どうせならいろいろ試してみたいから別のメーカーを選んでみたいような気もする。


バイトのシフトを増やすとするにしても、今の貯金残高を鑑みると予算はレンズ込みで三十万円以下だ。鍵のかかったショーケースに入っていない比較的値段の安い製品を手に取ってみる。本体価格七万円がとても安く思えてくるのは、私が裕福なわけじゃなくて百何十万のカメラとレンズを見たせいで金銭感覚が一時的に狂ってしまったからだろう。


フィルムが入っていないから実際に撮影をすることはできないけれど、構えて、焦点を合わせて、シャッターを切る。私のカメラよりも感覚的に早く、シャキッとした音がした。それが心地よくて、まさに風景を切り取る音だと思った。専門的に勉強をしているわけでもないし、これで充分なような気もした。


ニコン。キャノン。オリンパス。と順に試していく。手に馴染む感触や重さ。シャッターの音。ファインダー越しに見える世界の雰囲気。


一つ一つが違っているような気もするし、ずっと試しているとどれも同じように思えてくる。段々分からなくなって今回は選択肢に入れていないデジイチやコンデジのコーナーに足を運ぶと、待っていましたと言わんばかりに暇そうにしていた女性店員が飛んでくる。


「これなんか軽くて持ち運びにも便利なので、どこへでも持っていけますよ。女性人気ナンバーワンです。旅行の写真をちょっと良いものにしたいとか、よりインスタ映えを狙いたいとかでもですね、お勧めです」

「はあ」


それはもうやってます、と心の中で伝える。というかどこの販売店でも謳い文句は同じなんだなぁ。店員は次から次へとデジイチを私に持たせては説明をしてくる。


いい加減時間が気になり始めたところで、「あの」と声を掛けた。「はい?」とちょっときょとんとした顔を向けられる。どうやら自分が話すことで精いっぱいで私が醸し出していためんどくさがっている雰囲気には全く気付いていなかったらしい。


「フィルムカメラを探してるんですけど」


店員は一瞬考えたあと、


「フィルムカメラですか。フィルムを入れる分、どうしてもデジタルより重くなっちゃいますし、本体もそうですがフィルムとか現像にも別で費用が掛かってきてしまうので、ランニングコストも考えるとなかなかしますよ」


と言った。足元を見られているなと感じる。でも客が欲しいって言っているのだから素直にそれを紹介してくれよとは言えず、「そうですよね」とぼんやりとした返事をした。


「大きくて重たいってなるとせっかく高性能のカメラを買っても使わなくなっちゃいますからね。そうなるともったいないので、初心者の方にはミラーレスとか、せめて一眼とかから持っていただきたいですね。それでもスマホよりよっぽど良い写真が撮れますので」


一年前にミラーレスを買ったときにも同じようなことを言われた。そのときは確かにいかに性能が良くても使わなければ意味ないなと思って、持ち運びのしやすさで選んだのだったが、今回はまるで目的が違う。


「ミラーレスはもう持っているので、フィルムカメラが欲しいんです」


と愛想笑いをやめてもう一度言う。店員はようやく観念した様子で「ご案内します」とさっきまで私がいたフィルムカメラの売り場へ行く。さっきまで私がここでああでもないこうでもないとやっていたのを遠巻きに見ていて知っているくせに。


「あの、気になるのがあるのでショーケースを開けていただけませんか」


もう抵抗は諦めたらしいけれど、店員は再び「はあ」と気の無い返事をした。フロアにはほとんど客がいるように見えない真夏の平日の昼間。どうせ暇なのだから付き合うくらいいいじゃない。


「担当と変わりますので少々お待ちください」


そう言って彼女は去っていく。電器屋でもアパレルショップなどと同じように個人の売り上げノルマがあったりするのだろうか。だとしたら彼女が執拗に自分の担当にデジイチを売りたがったのにも頷ける。


「お待たせいたしました」


とやってきたのはちょっと胡散臭さを感じてしまうくらいの笑顔を浮かべた眼鏡の中年の男性店員だった。どうせこの人も私をカメラ初心者のインスタ映えしか考えていない女子だと見なすのだろう。


「あれです」


とニコンのカメラを指さすと、腰にジャラジャラ付けた束から小さな鍵を選んで鍵穴に差し込んだ。店員が恭しい手つきでカメラを取り出し、私に手渡す。税抜二十七万六千二百五十円の重さを感じた。皮脂を付けないように少しだけ顔を離した状態でファインダーを覗いてみる。クランクを巻き、シャッターを切る。爽快だけれど軽すぎない、しっかりと世界を切り取る音がした。


「あれ」


と声を上げると眼鏡のおじさんはさらに笑顔を濃くして小刻みに頷きながら、


「お試し用にフィルムがセットしてあるんですよー」


と教えてくれた。高額な商品なだけある。確かに試さずに約三十万円を払うことなんてできない。


構えると重さを感じる。だけどいろいろ試したなかで一番しっくり来た。おじさんがあれやこれやと説明してくれるけれど、半分ほど聞き流してしまった。よく芸能人が得意げにテレビで語る、初めて会ったときにこの人と結婚すると思ったんですっていう感覚が、なんとなく分かる。


なんとなく、でも絶対にこのカメラが欲しいと思った。


テスト機に取り付けられているレンズの値段は三万千円のプライスカードが置かれている。トータルで予算の三十万円を超えてしまうけれど、どうしてもこのカメラが欲しかった私は眼鏡のおじさんに交渉に交渉を重ね、思いの丈を語り、ヤバめな客という枠に片足を突っ込みながらもオンライン連携のポイントカードを作るなどすることによって、本体とレンズ、更に二十四枚撮り×三パックのフィルム、レンズプロテクターなど込々で二十九万九千八百円まで値切ることに成功した。


店舗に在庫が無かったから会計だけを済ませて、後日改めて取りに来ることになった。クレジットカードを切るときには背筋を悪寒が駆け上がった。


三十万。

分割払いだけれど、人生で一番大きな金額の買い物だった。だけどこのカメラ越しに日々を見つめられるなら、多少貧乏になろうがなんだろうが構わないというくらいの熱を持っていた。


三十万円を無駄にしてはいけないというプレッシャーは私にカメラの腕を磨かせた。本を買って研究し使ってみて分からないところはサークルの先輩に質問し、バイトと授業の無い日には積極的にカメラを持って出かけることにした。そんな風に熱を上げる私を先輩たちは可愛がってくれて、現像にお勧めのカメラ屋さんを教えてくれたりした。


そうして撮った一枚の写真が、学生限定の写真のコンテストで大賞を獲った。


「夜に眠るのは、今日のあたしを殺したいから。」


というタイトルで応募したその写真は、高層ビルの屋上の縁にパジャマを来た女の子が凭れていて、縁から飛び出した彼女の顔越しに夜の闇と煌びやかな街の明かりが写っているものだった。


だらりと伸ばした両手には、それぞれ右手にチューリップの花と左手にミニカーが握られている。真っ赤な唇以外は、血管が透けそうなほど白い肌。黒くて長い髪がコンクリートの縁に広がっている。モデルの彼女はキャンパス内でナンパした美女だった。


コンテストを主宰している団体が発行するフリーペーパーの表紙に使用され、ウェブサイトでもトップに掲載された。次回のコンテストの告知ポスターにもなった。


SNS上でも好きだと言ってくれる声をいくつか見かけ、自分がずっと内包していた破壊されたい願望が認められたような気がして、私はこれで白樺レネと同じラインに立てたのだと傲慢にも思っていた。


これがきっかけで私は写真とコピーを使えるような仕事を志すようになり、広告と出版関係の業界を絞って就職活動をした。誇張ではなく、本当に死にたいと思うほど就活は難航し、幅を広げて挑んでみてもなかなかうまくいかなかった。


そうしてようやく内定を貰えたのが今の会社というわけだった。

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