深海を越えてまた会おう 07
翌朝は天気が良かった。
目が覚めた瞬間からベッドの脇の窓に掛けられたカーテンの向こうにギラギラとした日差しを感じた。だけどそれを嫌だとは感じず、むしろ清々しい気持ちで自転車のペダルを押した。
コンビニに寄ってアイスコーヒーを買っても、九時前には会社に着いた。オフィスには毎日やたら早い時間に出社して定時の鐘とともに去っていく派遣のお姉さんだけがいた。
「おはようございます」と声を掛けるといつもと同じ素っ気ない挨拶が返ってきた。
自分のパソコンを起動させ、関村さんの今日のスケジュールとメールを確認する。メールの受信時刻から関村さんは二十一時過ぎまで残業していたようだったし、特に今日の予定に変更は無さそうだ。
九時半に近づくにつれて出社してくる社員の数も増えて、オフィスはあっという間にキーボードを叩く音や卓上の扇風機が回る音で賑やかになる。関村さんは始業のチャイムが鳴る二十秒前くらいにオフィスに飛び込んできて、重たそうなバッグをデスクに放った。おはようございますと声を掛ける間もなく朝礼が始まって、一日の仕事が始まった。
「横井さん」
座るなり隣のデスクから椅子ごと関村さんが近寄ってきて、心の準備ができていなかった私の返事は声が裏返った。
「はい」
「昨日課長とも話したんだけどね」
「はい」
私はメモとして持ち歩いているリングノートのページを素早く捲って、ボールペンをノックした。
「同行も良いんだけど、あたしも今いろんなことを教えてあげる時間とか余裕も無いし、でも何にもしないのもいけないなーと思ってさ。とりあえず練習にもなるし度胸もつくし、テレアポやってもらおうかな」
「テレアポ……ですか」
「うん。と言っても全くの新規ばっかりも大変だと思うから、前に案件を持ってたクライアントのリストがあって、当時の担当者も載ってるから」
そう言いながら関村さんはデスクの端に立ててある複数のファイルから一つを抜き出した。
「電話してみて。まあ断られて当たり前だからまずは気軽にね。もし話を聞いてくれそうだったりアポが取れそうなところがあったら、提案の練習もできるしね。どうかな?」
どうかな、と聞いてはいるものの、実際はノーと答える権利は与えられていないように思えた。
「やってみます」
という私の答えを聞いて関村さんは何がそんなに嬉しいのか、破顔して紙ファイルを突き付けてきた。
「うん、頑張って。何事も経験だよ。私も正社員になりたての頃は毎日やってたんだよね。なんか懐かしいなぁ」
ポーチの中からピアスやら指輪やらを取り出して装着しながら関村さんが言う。それにぎこちなく微笑みながら頷いておいて、自分のデスクに戻ってファイルを開いた。
リスト化されている会社名と過去の資料を照らし合わせる。クライアントのニーズ。経緯。提案。予算。ターゲット。反応。結果。目を通すだけで何も頭に入ってこなかった。
心臓が身体を震わせるほど縮んだり伸びたりを繰り返して、なんだか酸素が足りていないみたいにクラクラした。営業の仕方なんてわからない。やったことがない。電話が嫌い。顔の見えないひとと話すのは怖い。今だって嫌だけど何も仕事をしないわけにはいかないから、電話が鳴るたびに肩を揺らして、震える手で受話器を取っているというのに。毎日毎日勇気を振り絞っているだけなのに。
ファイルを渡した関村さんは、もうそのことすらも私が新人であることも、隣に私が座っていることさえも忘れたかのように自分のスマホを触りつつ、パソコンを眺めている。十時半になりオフィスを出ていくときにようやく、「頑張ってね」とだけ言われた。
気は限りなく重たい。泳げないのに足に重りを付けられて、水深何十メートルもあるような海に飛び込めと言われているような気分。せめてこの空間に誰もいなければまだましなのに。失敗している姿を、あたふたと惨めに戸惑っている姿を、誰にも見られなければまだましなのに。
ファイルを開く。あれやこれやと考えれば考えるほどに恐怖に足が掬われていきそうで、リストの一番上にある会社の電話番号を一つ一つ押していく。右手にペンを持って、左手で受話器を取る。呼び出し音が鳴る。出なければ良いのにと祈るように思った。
「お電話ありがとうございます。A販売株式会社です」
女性の歯切れの良いいかにも電話のために作られたトーンの声がした。
喉の奥から吐く息の先まで全てが震えた。「あっ」と予定外の声が漏れた。その後が出てこない。電話の向こうから女性の不審そうな、それから大切な要件ではない電話だと見なす気配がした。
「あの……、私Bアドバタイジングの横井と申します。いつもお世話になっております」
舌が回らないし顎が滑らかに動かなくて不明瞭な発音になる。
「お世話になっております」
「えっと……」
ファイルに目を落とす。当時の担当の名前は。
「石川様はいらっしゃいますでしょうか?」
「石川は異動になりまして、現在こちらにはおりませんが」
女性はそれ以上ことばを繋げようとはしなかった。そうすることでこちらが大人しく諦めて引き下がることを期待していた。そして私は彼女の面倒くさいという鉄壁のガードを崩す術を持っていなかった。
「そうですか。失礼致しました。また改めます。失礼致します」
逃げるようにそう言って、できるだけ静かに受話器を置いた。受話器から電話に繋がるコードが大きく震えていて、誰もそれを見ていないことを願った。デスクに突っ伏したい気持ちだったけれど、他の人の目もあるし、何より今日はまだオフィスに村瀬くんがいるからそんなことはできない。ファイルに目を通しているふりをして、思考だけを遠くに逃がすことを意識した。
沙希ちゃんと佐藤くんに会いたくなる。とっても不安なことをわかってほしい。勇気を出せばできるけれど、その分擦り減っているんだってことを知っておいてほしい。
一件目より二件目のほうがもっと怖い。まだ震える手の先でボールペンを握って、話すことを書き出した。
お昼休憩を挟んで、関村さんがオフィスへ戻ってきた十五時過ぎまでずっと電話を掛け続けていた。途中でコピーを取った得意先リストに赤ペンで一つずつバツ印を付けていく。
「どうだった? 話聞いてくれそうなところあった?」
「いえ、なかなか……」
関村さんは纏めていた髪を解いて、手でざっくりと梳かしながら
「そんなもんだよね。まあ適当に頑張って」
とこちらを見ることもなく言って、自分の仕事に戻ってしまった。
それだけ? と思って、本当はもっとことばが続くのだろうと思って、しばらく椅子を関村さんのほうに向けたまま待ってしまった。彼女はたぶんその視線にも気がついているのだろうけれど敢えて無視をすることに決めたらしく、モニターから目を離そうとしない。諦めて自分のデスクへ戻ると、胃の底がじりじりと焦がされるような感覚がした。
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