深海を越えてまた会おう 05


だけどそんな喜びとは裏腹に、私の社会人生活は小舟が荒天の海原に飲み込まれていくようだった。


仕事を教わることも与えられることもなく、ただ毎朝九時半に出社してはデスクで過去の資料を眺めるだけの日々は、梅雨明けと同時に突然終わった。


猛烈に暇なのに周りには先輩や上司がいるから気を抜けず無駄に疲労だけが溜まっていくなかで、もはや自分の存在意義を疑い始めていたそのときの私にとって、仕事を割り振られるということはこの上ない喜びだった。


四十五歳既婚で娘が二人いる課長が私と村瀬くんを引き剥がし、それぞれ別の社員のアシスタントとして当てがった。


「改めて紹介しておくね。関村さん。もともとうちには派遣で来ててそっから社員になってグループリーダーまで登り詰めてるから、かなりやり手だよ。たくさん勉強させてもらいな」


お洒落系のレンズの大きな黒縁眼鏡にバシバシに盛られたまつエク。頭を軽く下げ、


「関村です。よろしくね」


と言って髪を耳に掛けた。私も頭を下げ、名乗った。


もう一か月以上も同じフロアにいたというのに、私は彼女の名前を始めて知った。だから顔は知っていても第一印象を覚えたのはこのときだった。きりっとした雰囲気でいかにもきびきびと仕事をこなしていきそうだ。嫌な印象は抱かなかった。むしろこのひとについてたくさん勉強をして、少しでも早く憧れの制作部に移動できるように成績を残そうと、普段滅多に顔を覗かせることのない私のなかの闘争心がメラメラと燃えた。


しかし私の人を見る目がポンコツだと言うことを、二週間も経たないうちに悟ることとなった。


関村さんは印象通り、忙しいひとだった。いくつもの案件といくつもの得意先を抱え、社内にいるときは固定電話も携帯も鳴りっぱなしだった。受話器を肩で挟んで話をしながらものすごい速さで十本の指を動かして別のクライアントへのメールを作成している。頭蓋骨のなかに別々のCPUが二つか三つ入っているんじゃないかと思うほど、人間離れしていていた。


もちろん商談や打ち合わせのために社外に出ていることも多くて、私が見ていても新人教育をする暇など微塵もない。でも先輩が忙しそうにしているのに後輩がぼーっと座っているわけにもいかない。見よう見まねで電話を取り次いでみたり、関村さんが出られないときには代わりに要件を聞いたりした。


その日も慌ただしく荷物をバッグに詰め込んで事務所を出ていこうとする関村さんを呼び止めた。


「同行させてください」


ウェブ上で共有されていた彼女の今日のスケジュールを見て、打ち合わせをする相手の資料も読んだ。提案まではできなくとも邪魔にならないように同席をするくらいはできるはずだ。というかそろそろそういうことをしないと焦燥感で死にそうだ。外へ出る準備は整えていた。


関村さんは一瞬足を止めて黙って私に頭のてっぺんから黒いパンプスのつま先までをじっと見て、一言放った。


「無理」


そうして足早にオフィスを出ていった。電話が鳴り響いているというのにやけに静かに感じる部屋のなかに冷たい彼女の声がいつまでも残るようだった。


ちょっとだけ泣きそうだった。


でもここで泣いてしまったらもっと状況が悪くなることもわかっていたから、中身の詰まったバッグをデスクの下に置いて、とりあえずトイレに行った。個室に入って洋式の便座に腰を下ろしてみても尿意はまったく感じなくて、スカートを捲り上げてストッキングを膝まで下げた状態でぼんやりと天井を眺めた。だらっと口も開いたままになる。


無理ってなんだ。無理って。いや突然頼んだ私も駄目だったかもしれないけれど、昨日くらいから頼んでおくべきだったのかもしれないけれど、昨日は十時に外出して直帰だったじゃない。それに無理は無理でも、もっと言い方ってものがあるはずじゃん。


と言いたくて、でも言う相手も場所もなくて、個室の壁を殴りつけたくなって右手を力を込めて握ってみたけれど、音が響いて誰かに聞かれそうで勇気がなくてできなかった。


勇気がない。私には。何をするにも勇気がない。勇気があればどれだけ忙しそうにしていたってもっと早く関村さんに話しかけて同行させてくださいってお願いできていたはずだ。


村瀬くんは名前の分からない先輩の男性社員と仲良くしている。資料の入った紙袋をぶら下げて二人でオフィスを出ていく姿をもう何度も見た。そのたびに本気で死にたくなる私を、現状を、いい加減誰かどうにかしてくれよ。


ふーっと長く息を吐いて、本当に用を足してトイレを出てオフィスに戻る。好奇心しかない視線を感じたけれど、そっちに目を向けなかった。


でもさっきのも、まあまあの勇気だったんだけどな。


結局いつもと同じように過去の資料を捲って、関村さんが担当しているクライアントの情報を纏めて彼女宛てに掛かってくる電話に不在を告げたり伝言を預かったり携帯の番号を案内しながら定時を待った。


関村さんは十六時を過ぎた頃に突然帰ってきた。重たい鞄を重たそうにドサッと置いて、ため息をつく。戸惑いながら「おつかれさまです」と掛けた声は虫の飛ぶ音みたいにか細くて、自分でも嫌になった。でも彼女のスケジュールでは、三件目の打ち合わせが入っている時間帯だった。


「どうしたんですか? A社との打ち合わせの時間じゃ……」

「ドタキャン」


短く道端に唾を吐くみたいに言って、二度目のため息をつきながら纏めていた髪を下ろして、硬くなった頭皮をほぐすように頭を掻いた。


「ドタキャン……」


せめて事前に連絡欲しいですよね、とかなんとかいくつかの台詞を思いついたけれど、それが口から出て来なくて、私はもう一度「おつかれさまです」と繰り返した。


「都合が悪くなるのは仕方ないけど、アポの一時間前に連絡してくるなんて非常識だよね。こっちには他にもやらなきゃいけない仕事が山ほどあるっていうのに。もうしばらくあそこは後回しでいいや」

「本当にそうですよね」


口から勝手に出てくることばに、心は籠らない。言いたいことはたくさんあるのだけれど、言っていいのかわからなくて当たり障りのないことばばかりが出てくる。


「これ、今日掛かってきた電話の分です」


と電話主と内容とコールバックが必要か否かを纏めて打ち出した用紙を渡す。


「ありがと」


関村さんは私の手からそれをさっと抜き取って目を通す。ときどき「あー、まじか」とか「うわ」とかネガティブ寄りな反応が上がると心臓がきゅっと縮む。一通りチェックをしてペンで丸を描いたり下線を引いたりすると、一覧をデスクに置いて鞄を漁った。


「これ貰ったからあげる」

「え?」


押し付けるように手渡されて思わず受け取ったものを見下ろす。透明なプラスチックの円筒にクッキーが入っている。アイボリーとブラウンの包装紙が蓋に被せられていて、リボンにはパティスリーの名前が書かれた小さなカードが付いている。


「いいんですか?」

「クッキーあんまり好きじゃないから。なんか有名なところのやつみたいだし、食べれるなら食べて」

「ありがとうございます」


チョコチップクッキーは子どもの頃からの大好物だった。母親におやつだよって与えられれば夕食の前だろうがなんだろうが一箱食べきってしまうほどだった。手の中にある丁寧に作られたようなクッキーはとても魅力的に映った。関村さんに貰ったものだし。


なんだ。

別に冷たいわけでも意地悪なわけでもないんだってちょっとほっとした。

ただ本当に忙しすぎて新人に構っている余裕が無いだけなんだ。


その日はときどき会話をしながら横に並んで仕事をして、定時を迎えた。


「何か手伝うことはありますか?」と尋ねると「無い。帰っていいよ」という返答があったので、挨拶をして会社を出た。


いつもよりも足取りが軽い。明日からも頑張ろうと思える。少しだけ希望が見えるような気がした。

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