深海を越えてまた会おう 03

一か月間の研修を終えた夜、会社から地下鉄とJRを乗り継いだ先のターミナル駅近くの居酒屋で打ち上げをやった。私はなんとなく、なんとなくという風を装って沙希ちゃんと、佐藤くんを含めた沙希ちゃんと一緒に会社を出て居酒屋までやってきた男の子たちの近くに座った。ポニーテールのせいで露出した首筋に複数の視線をちらちらと感じるような気もしたけれど、無視をした。どうせお酒を飲んでしまえばわからなくなる。


「横井さんとちゃんと喋るのって初めてかも」


頬も額までも真っ赤に染めながら言う村瀬くんには、こっちだって初めてだよ、と思いながらも


「そうだねー。今日で最終日だったのにね」


と笑った。彼の言う通り、研修中は積極的に男の子たちと話してはいなかった。グループ作業が必要なときや席が近い人とは喋ったけれど、それ以外に用もないのにこちらから声を掛けることもあちらから声を掛けられたことも記憶に無い。


それは彼らが気だるげな美人の沙希ちゃんと話すことで女子と仲良くなりたい欲が満たされていたからでもあるだろうし、なんてことはない、私は学生時代も含めていつもそうだった。


小中高大と全て共学に通ったにも関わらず、女子高出身の女の子よりもよっぽど男性との関わり方がわからなかった。苦手なわけじゃない。嫌いなわけでもない。彼氏が欲しいとも思う。だからときどき勇気を出して話しかけてみれば意外と話せたりもするのだけど、そうすると今度は少し離れたところから男好きだのぶりっこだのって声が聞こえてくる。だから何をどう話したらいいのか、いまいちよくわからないのだった。


「横井さんって美人だよねってよく喋ってたんだよ」

「あー、はぁ」


なっ、と村瀬くんとその他の男の子二人が顔を見合わせて頷く。ちらりと横目で佐藤くんと沙希ちゃんの様子を横目で伺うと、二人とも白い頬のままビールが半分くらい入ったジョッキに口を付けていた。私はとても不安になる。男の子たちのお世辞をどうやって躱せばいいのかわからないし、こんなに白けた茶番を見せられてきっと退屈しているのだろうと思うと、違うんだって言いたくなる。


「一個聞いても良いですかっ?」


恐らく八人の同期のなかで一番のお調子者、そして愛されいじられキャラでぽっちゃりの神田くんが勢いよく右手を真っ直ぐに上げる。弾力がありそうなほっぺが林檎か赤ちゃんみたいにより丸く赤くなっていておかしい。


私がイエスともノーとも答えないでいると、待ちきれなくなった神田くんが再び揚げ物の油でテカった唇を大きく開いた。


「横井さんは彼氏いるんですか?」


神田が、聞いちゃったと顔を両手で覆い、佐藤くん以外の男の子たちがウェーイと声を上げた。これが俗に言うウェイ系か。ツイッターを始めとするネット上で文系大学生のことをウェイ系と揶揄しているのはよく見かけるけれど、生で身近で目にすることはこれが初めてで妙に感動して黙ってしまった。


「どうなの?」


複数の声で返答を促される。本当に興味があるわけでもないくせに。なんでそんなことを告白しなければいけないのだろう。んーと唸りながら答えあぐねていると早くもこの話題に飽きた様子を見せ始めた男の子たちが、そうとは悟られないように口々に私を褒めるようなことを言ってくる。それが余計に苛立った。


「彼氏はいません」


就活のセミナーで手鏡を見つめながら散々練習をさせられた歯を見せずに唇で弧を描き、顔を崩し過ぎずにだけどあなたに好意的な気持ちがあるということを表現するための飛び切りの笑顔を浮かべた。去年の春は面接が終わるたびに両頬の上の方が痛くなっていたけれど、今は平気だった。喉の奥だけでげっぷをするとさっき飲んだビールの苦い味が口のなかに戻ってきた。


再び、ウェーイという声が上がった。


「え、まじで? 嘘っしょ?」

「いえ、本当ですけど」

「え、じゃあ今いないだけとか?」

「そういうわけでもありませんが」


私が何か一言でも彼らに返すたびに誰かしらからウェーイと声が上がる。なんかもう段々と笑えてきてしまって、俯きながら肩を小刻みに震わせた。


「じゃあどれくらいいないの?」

「……長い間いません」


このまま質問に触れてほしくない場所まで追われるのが嫌で、適当なはぐらかし方を考えていた。


「長いってどれくらい?」


その後に茶化すような一段と明るい声がプロ野球選手が投げる時速百何十キロとかの硬球くらいのスピードと威力を持って飛んできた。


受け止めきれずに黙ると、居酒屋の一角に妙な静けさが流れた。


それを肯定と受け止め、危険な領域に足を踏み入れてしまったと思ったらしい男の子たちは慌てた様子で「ピュアだね」だの「最高じゃん」だの持てる語彙を総動員して自分たちの発言をフォローしようとした。私に彼氏ができたことがないのは事実だし、私のせいだけれど、それを酒の宛てとしてネタにされることが嫌だった。


視界の端で佐藤くんがちらりとこっちを一瞥した気がした。


私は対面接官用の笑顔を浮かべて、くそやろうと言う代わりに


「ていうかウェーイなんて言う人、本当にいるんですね。ネット上の表現のなかだけのことだと思っていたからびっくりしちゃいました」


一人一人の目をしっかりと見つめながらゆっくりと言った。


三人の男の子たちは言おうとしたことばを逃して、口を開けたまま固まっていた。私はジョッキを掴むと残っていた温いビールを一気に飲み干して、店員さんを呼んだ。


「お代わり頼むけど、皆さんも何か頼みます?」


すぐ隣で何杯目かのジョッキを空にしようとしていた沙希ちゃんが、ぶっと音を立てて噴き出し、おしぼりで口元を抑えながらジョッキをテーブルに置いた。


男の子たちは、じゃあなんか頼もうかなと消え入りそうな声で言い、飲み放題用のメニューをひっくり返したり戻したりしていた。


その後は何事もなく平穏無事に終わった飲み会の後、居酒屋を出たところで沙希ちゃんに


「今度は三人で飲もうよ。あたしと佐藤と萌木子ちゃんで」


と誘われて、私は彼女が言い終わるのとほぼ同時に「行きたい」と返事をしていた。


そうしていつの間にか私と沙希ちゃんと佐藤くんの三人はしょっちゅう集まるようになっていった。三人だけのグループラインができて、ばらばらの部署に配属されてからは仕事中も家に帰ってからも連絡を取った。


だけどやりとりの速度は絶えず通知音が鳴り響くほどではなくて、例えば忙しい日のお昼休みにちょっとなんの気も遣わずに話をしたくなったときにメッセージが来ているようなちょうどいいものだった。


そんな私たちの様子を見て、同じく営業部に配属された村瀬くんが


「いつも牛田さんとか佐藤と何話してるの?」


と聞いてきた。まだマトモに自分の仕事なんてなくて、手持無沙汰になることの多い新人を見かねた課長に昨年度分の資料を探しに行くように指示されたときのことだった。


研修中に講師に教わったように廊下ではすれ違った社員一人一人に会釈をして「おつかれさまです」と声を掛ける。資料室のドアの脇にあるセンサーに首からぶら下げたセキュリティカード兼名札を翳すと、ピッという軽い音がしてロックが解除される。同じようなシルバーのラックに同じような青や緑やときどきオレンジのファイルの背表紙が無数に並ぶ間を、村瀬くんが握る小さな紙切れを見ながら歩いていく。


「何って、とくになんでもないこと話してるけど」


打ち上げではへらへらと安っぽい笑顔を浮かべながら下手に出て私を持ち上げようとしていた村瀬くんは、お酒がないとクールで発することばの一つ一つにいまいち感情が伴っているように思えなくて、それがなんとなく怖くて苦手だった。


「その何でもないことが想像できないんだよなぁ」


と彼は呟いた。


「E。F。Iだからもっと奥っぽい」

「あ、ほんと?」


村瀬くんの掌でくしゃくしゃになっているピンクの紙は課長が必要なファイルの所在を書き記した七十五ミリ四方の付箋だ。私はそれを渡される瞬間にちらりと見ただけで、彼は内容を一切共有しようとはしなかった。


「なんか佐藤も牛田さんもさ、何考えてるかわかんなくない?」

「んー、確かに飄々としてるところあるかも」

「二人とも話しかけたら話せるんだけどさ、ときどき話しかけるなオーラが出てると言うか」

「ちょっとわかる。私も最初の頃は佐藤くんのこと、怖いと思ってたし」

「だよな。俺、未だに佐藤のこと苦手だわ。落ち着いてるし頭良さげだし、俺とか見下されてそう」


短く乾ききった笑いを漏らしながら放たれた村瀬くんのことばは、裏腹に佐藤くんのことを蔑視しているような響きがあった。私がはっとして顔を上げると、彼はお目当てのファイルを見つけて手を伸ばしていた。


「よし。これだよな」


見下すとかそんなことしないよ、と否定して佐藤くんを庇いたかったけれど、青いファイルの中身をペラペラと捲った村瀬くんは


「早く戻ろう」


とさっさと歩いて行ってしまう。慌ててその背を追って、壁に貼られた注意書き通りに電気を消して資料室を出た。


私はたぶんこの頃から佐藤くんのことがちょっとすきだったし、たぶん佐藤くんも私のことがちょっとすきなんだろうなって思っていた。

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