深海を越えてまた会おう 02


 私と沙希ちゃんとは前の会社の同期だ。新卒で広告代理店に入社した。沙希ちゃんは大学時代に一年間イギリスに留学をして卒業が遅れ、同期だけれど歳は一つ上だった。


入社前の親睦会で初めて沙希ちゃんを見たとき、間違った会社に入社してしまったのではないかとこれからの日々に絶望した。


私たちを含めて新入社員は八人いたが、皆が皆就活のときと同じように黒いスーツを着て髪を真っ黒に染めて前髪を固めるなかで、沙希ちゃんはほとんど金色に近いような明るい茶髪で現れた。


さらに正面から見るとまだ可愛らしいショートボブで済んだのだが、くるりと後ろを向いた瞬間、襟足が刈り上げられていることに気がついてしまった。誰もが必死に個性を消して従順さをアピールするなかで、彼女だけは異質に目立っていた。しかも周りがはきはきとした受け答えをしているのに、沙希ちゃんはどこか気だるげな表情で抑揚の少ない落ち着いた声でずっと話していた。


もっとやる気を出せよ、と思ったことを覚えている。


「はじめましてー。牛田沙希です」

「こちらこそはじめまして。横井萌木子です」

「萌木子ちゃん、よろしくね」


こいつ、いきなり下の名前で呼ぶのかよと思いながら笑顔で差し出された掌を握った。


「牛田さん。よろしくね」


入社してから一か月間、新人だけが会議室に集められた研修があった。社外からマナー講師が呼ばれて社会人としての常識を学んだり、日替わりで各部署から先輩社員がやってきて仕事の内容を教えてくれたり自分が新人だった頃の話をしてくれたりした。


話を聞くだけではなくて、実際に自分で企画を考えてプレゼンをしたこともあった。人の前に立って話をするのが大の苦手な私は、発表の順番を挙手制で決めると言われてもなかなか手を挙げることができなかった。


皆がなんとなく居心地悪そうにお互いの視線を躱すなかで、静かにすっと真っ直ぐに手が挙げられた。


「お、じゃあ牛田さん。お願いします」


新人教育担当の女性が嬉しそうに明るい声で沙希ちゃんの名前を呼び、演台から離れた。


「はい」


返事をして立ち上がり、会議室の前方で他の同期や先輩社員、講師陣の視線を一心に浴びた沙希ちゃんは、それでも涼しい顔、というかいつもと同じ少し眠そうな表情をしたままだった。


プレゼンでは確か、自社の紙とウェブの媒体に、どんな企業や店や商品の広告を載せるか。どのサイズで価格はどれくらいに設定するか。デザインやキャッチコピーはどのようなものにするか、ということを考えて発表することになっていたように思う。


沙希ちゃんはとくに上がった様子もなく、ビジュアルエイドを使いつつ聴き手にアイコンタクトをしながら淡々と説明していった。


「以上です。ありがとうございました」


と軽くお辞儀をすると、同期からは羨望と憧れと焦燥の、そして先輩社員たちからは期待の拍手が巻き起こった。私もパチパチと乾いた音を発生させながら、鳩尾の辺りが冷えていくようなきりきりと痛むような感覚とともに、不思議な感情が巻き起こるのを感じていた。


彼女は一体何者なのだろうか。謎に包まれた沙希ちゃんに対して強い好奇心が湧き上がり、そしてすきだと思った。なんとかして近づきたいとも思った。


十二時から十三時までの一時間のお昼休憩中は、研修室にいても社外に出てもいいことになっていた。私はまだ実家で暮らしていて、慣れない社会人生活に疲れて毎日ふらふらで帰宅する娘に同情した母が用意してくれたお弁当を持参して、同じようにお弁当組の同期たちと研修室で食事を摂っていた。


一方で沙希ちゃんは同期とも先輩とも講師たちとも打ち解けた様子で話すのに、気がつくとふらっとひとりでどこかへ行ってしまうことがよくあった。午前中の研修が終わって荷物を片付けて机を寄せ合ってお弁当を広げる間に、彼女はいつもいなくなっていた。ひとりで戻ってくるときもあれば同期の男の子たちと帰ってくることもあった。どうも見ていると女の子たちよりも男の子たちといるほうが、好きなようだった。


女の子って不思議だ。


私がまさにそうなのだけれど、沙希ちゃんがふらりとどこへ行っているのかが気になっても、仲良くなりたいと思っても、せっかく仲良くなった他の同期の女の子たちとの仲に影が差すことが怖くて言い出せなかった。


でもどうして他の子とお昼ご飯を食べるだけで関係が拗れるなんて思うのだろう。沙希ちゃんと他の子たちと私の皆で揃って食べればいいだけなのに。


だけど確かにどこかで私は沙希ちゃんとふたりきりで仲良くなりたいとも思っていた。


そうして私はまるで片思い中の女子中学生のように彼女のことを考え続け、なんとかお近づきになれるチャンスが来ないものかとやきもきしていた。


休憩時間中にトイレで会うたびにちょっとした話をする。そういうことの積み重ねだったのかもしれない。


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