二夜
頭が重い。
頭痛とかそういうのではなく物理的に重かった。僕はそのまま体を起こし、被っているものを取り外した。
「おはよう、お兄ちゃん」
学習机の前の椅子に、夢実が座っていた。部活帰りのジャージを着ている。僕と同じようなヘルメットを手に持っていた。
その背後にある窓は暗い。
僕は目をこする。
「おはよう。今何時?」
「19時。大体二時間ぐらい寝てた」
「そんだけか、ってこのヘルメットって何だっけ?」
「お兄ちゃん寝ぼけてんの? 夢を撮影する機械だよ」
そういえばそうだった。
夢を撮影して、ネットにアップして再生数稼ぎたい。
そんなことを妹が言いだしたので、僕は協力したのだった。
「で、どうだった僕の夢?」
「う~ん」夢実は顎に手を当てて考える「ふつー」
「普通て。個人的には結構面白かった気がするけど。なかなかシュールで」
「シュールリアリズムかはともかく夢が不条理だったりするのは当たり前じゃん。本来夢なんて他人のを見ても面白くないものなの! それが面白かったら珍しいんで、人が群がってくるの!」
「そういうもんか。ただね、こう、協力すると言っておいてなんだけど、夢を晒すなんてロクな事じゃないと思うんだけど。自分が普段自動的にやってることで、どうにかして評価されたいって気持ちが浮き出てるっていうか」
「古いねーお兄ちゃん。お爺ちゃんみたい」
妹は口の前で指を振った。
「再生数上部の夢投稿者は、どうにかして夢を操作したり、現実でボキャブラリーや感性を育ててよい夢になるように努力したり、夢編集ソフトでいい感じで見せたり、日々努力してるんだよ」
そういうものか、と再度僕は寝起きの回らない頭の中で思う。とはいっても棚からぼた餅を狙っている夢投稿者も少なくはないのだろう。今季やっているアニメのOPは何の変哲もない小学生が、夢で流れていたBGMをアレンジしたものだった。その曲は既存のもの音楽を合わせた曲だったが、色々混ざりすぎていて著作権的にはセーフであり、なおかつ美しい曲だった。最初は再生数一桁の夢だったが、有名作曲者がアレンジした動画がアップされたことにより注目され、色々あってアニメのOPになったのであった。
その影響はここ最近は音楽系の夢の投稿が多かった。
昔ネットが復旧したことで、独り言の自分語りでも評価され価値があってほしいと思っている人が増えたのと同じことなのかもしれない。
「あっ、何かお兄ちゃんが斜に構えたこと考えてる顔してる」
「してないよ」してたけど「それで今回の夢は没ですかい編集長」
「そうだね。トランスジェンダーの人を馬鹿にしてるって叩かれちゃうかもしれないし」
「ただの夢なのに?」
「ただの夢でも自分で晒せば叩かれる対象だよ。夢の中なら嫌いな上司を殺すのも好きにすればいいって感じだけど、SNS等で『上司を殺す夢を見た』って見るとイラッてくるでしょ」
それは露悪的な投稿自体に嫌悪感を感じるのであって、夢の内容自体の評価とは論点が変わってきているようだが、似たようなものか。「まあそうだね」
「とは言ってもいきなり夢を撮るってのが怖かったんで、お兄ちゃんで実験したかっただけなんだけどね」
「おいおい」
なんて妹だ。と思ったが夢を撮るぐらいいいか。死ぬわけでもあるまいし。
「まあそれはともかくとして」
「どうしたの?」
「トイレに行かせてくれ」
中途半端な時間に一時的に眠ったので、なかなか寝付けなかったが、その日は僕は普通に明日の学校へ備えて寝た。
家から学校へは距離があるので、家では僕が一番早く起きる。他の家族が起きないように朝食を済ませ外へ出た。まだ日は登っていない。
僕は梯子を上り、家の屋根の上へ上った。
遠くの山から日が昇ろうとしているのが見えた。街を赤い光が照らしていく。
この街は山々に囲まれた極端な盆地で、なおかつ中心に向かって沈んだ地形をしている。その中心部から超巨大な蓮の花のようなものが生えている。花の部分は雲より高く、うっすらとしか見えない。
地震のような大きな揺れが街を響かせた。大移動が始まったのだ。驚いた野良犬が吠えていた。
街の家々が、蓮の茎に向かってゆっくりと地響きを立てながら動き始めた。さながらその姿はアリジゴクの巣を思わせる。「おっやってるねえ」と隣のおじさんが顔を出した、僕は挨拶をした。
茎の大きさは直径一キロメートルほどある。茎に到達した家々は二重螺旋を描きながら茎をのぼりはじめた。何の変哲のない一軒家が、商店街の店店が、過疎化で苦しんでいる小学校が、大賑わいを見せるデバートが、多くの人が行き来する駅ビルが、高架線下に並ぶ屋台が、オフィスビルが、電波塔が、道路が、様々な建物が時速五キロで茎を上っていた。
大移動が終わるのは今日の朝の八時まで、つまりこれから一週間の時間がかかるのだ。
連なった工場群から排出された煙が、移動する螺旋をなぞるように線を残していっていた。時折空から家や人が落ちてくるのが見える。そんなときは僕はただただ手を合わせてあげることしかできなかった。
一週間後、僕の家はようやく茎の根元に到達した。既に茎の大部分が、建物で埋め尽くされていた。下から見ても、ビル群の場所ははわかりやすい。この場所からならバスに乗れる。角度を変え始めた家に注意をしながら降り、僕は道路に足を踏み入れた。
二重螺旋を描く建物の連なりの隙間を縫って、編みこまれるように道路が上下左右縦横無尽に通っていた。僕はその道路を自動車に注意しながら上っていく。
突如、強い風が吹く。見ると家一軒ほどの大きなカタツムリが高速で通り過ぎたところだった。
「しまった。バスが行ってしまった」
まあ次のバスでも間に合うだろう。
10階相当の高さの、工事現場の鉄骨に囲まれた場所に、道路が続いていた。そこにバス停はある。
バス停には数人が並んでおり、そこに見知った顔を見かけた。
「おはようございます。藤沢先輩……」
同じ学校の先輩だった。黒い学ランをだらしなく着崩しており、髪は金色に染めていていかにもな不良の男という外見だった。耳の大量のピアスや、腰のチェーンが日の光を反射して眩しい。
藤沢先輩は僕をちらりと見ると「誰だっけ」という表情を浮かべただけだった。
僕は彼が苦手だ。
彼個人に何かされたわけではないが、他校の生徒と喧嘩して五人がかりの相手に勝って全員失明させた、という噂など、何となく住む世界が違うと言った感想を覚える。話そうとしても、常にガムを噛んでいて、目もどこを向いているのかわからない上に、瞳孔が開いていて少し怖かった。
居心地の悪さを感じてバスを待っていたが、すぐに巨大カタツムリがやってきた。殻と体の隙間に僕は身を押し込む。カタツムリバスの中は、外見から想像できないほど広い。教室一個分ほどの大きさで、中にあるものの乗客以外がすべて肉でできている。灰色で滑っている床に、灰色で滑っている座席が横に並んでいる。窓はない。湿度が高く、入っただけで汗をかいた。蝸牛独特の臭いが鼻を衝く。ストッキングが蒸れてかゆい。僕は座席に座り、灰色で滑っているシートベルトをつけた。
窓のない乗り物はあまり好きではない。普段より時間の流れが遅く感じてしまうからだ。早く学校についてほしい。室内の暑さにより胸の谷間に汗をかいたので、気持ち悪かった。バス停につくたびに人が乗り込んでくる。三駅ほど進むと、バスは満員になり、立ってる人の隙間がほぼなくなっていた。足が浮いている人まで見受けられる。
異変が起きたのは五駅進んだ頃だった。
充満した熱気による結露なのか、そもそも蝸牛の体液か区別がつかないものが雨のように時々降ってくる。これはいつものことだ。
乗客の一人が嘔吐した声が聞こえた。吐しゃ物が敷き詰められた乗客の間を毛細血管のごとく広がって行く。そして一部が僕の顔にもかかった。これもいつものことだ。
座っているお尻のあたりに突起物のような感覚を感じた。ぬめぬめとした肉のシートベルトが胸の下のあたりを締め付けるように小刻みに動いている。
これはいつものことではない。
始めに嫌悪感が来た。
体中に鳥肌が立つ。そんな僕の気持ちなどお構いなしにシートベルトは胸を締め付けていく。座席の一部が撫でるように動き始めた。
これはもしやバスに痴漢されているのでは?
そうとわかると次に恐怖が来た。
呼吸が荒くなる。汗がさらに噴き出た。痴漢など初めての経験だった。
誰か気づいてほしい。そういう思いであたりを見回したが、立っている乗客も、座っている乗客も自分のことで精一杯だった。
「たすけ……」
声を出そうとした。しかし触手じみたというか、触手そのものなシートベルトが僕の首を絞めにかかった。気道を圧迫されたことにより、呼吸ができなくなる。頭に血液が昇らず、考えることが出来ない。
涙が瞳からこぼれ出た。悔しさの涙だった。
僕はただいつものように学校へ行きたかっただけなのに、このバスはそれを邪魔してきた。何でもないことではなく、に日常を破壊してきたのだ。
押しつぶされている乗客と目が合う。しかし彼は見なかった振りをした。
シートベルトの動きが激しくなった。このバスを痴漢として告発すると、大勢の人に迷惑がかかる。この蝸牛はそう言っている気がした。乗客を盾に取るような態度に腹が立ち、しかし何もできない非力な自分が悔しかった。
僕に……僕に力があれば……
「おい、うちの生徒に何してんだ」
乗客の集合体をかき分けるように、学ランの男が現れた。
いかにもな不良っぽい金髪。耳につけた大量にピアス。焦点の定まっていない目。
そして僕に絡みついたシートベルトを無理やり引きちぎる。
バスの悲鳴が聞こえる。
僕は勢いよくせき込んだ。
「このバス痴漢だ!」
男が――藤崎先輩が触手を高々と持ち上げ、叫んだ。
それを聞いた乗客たちは、口々に言葉を発する。
「まじかよ」「こういう場合どうするんだ」「取り押さえるんだ!」「いやどうやるんだよ」「というか俺たちも痴漢される可能性があるじゃん」「撮影じゃないだろ」「というかバスが逮捕されたら会社行けないんだけど」「ンなこと言ってる場合か」「いやまって、私たちは犯人の腹の中にいるのよ、犯人を刺激しない方がいいわ」「冤罪の可能性は?」「俺も見てたけど、確実にバスが犯人だよ」「じゃあお前がもっと早く止めろよ」
「いいから」
先輩は足を肉の床に勢いよく練りこました。
「俺が証人になるから、細かいことは通報してからにしろ」
広い車内でかなり混雑してたため、情報の混乱が起きたが、数十分後、僕たちが乗っていたバスは逮捕された。
警察に事情聴取をとられ、学校は休むことになった。警察署から帰る途中、僕は先輩に声をかけた。あたりはすっかり暗くなっていた。
「あの、先輩……今日はありがとうございます。先輩がいなかったらどうなってたことか……」
「勘違いするんじゃねーよ」
藤崎先輩は虚ろな目でこちらを見ないで、自分の髪をかきながら言った。
「俺の通ってる高校の生徒に喧嘩を売るってことは、俺に喧嘩を売るってことだ。舐められたくないからやったんだよ」
先輩の表情は読めない。照れ隠しなどではなく本当にそう思ってそうだ。
でもその押しつけがましくない言葉が今の僕にはうれしかった。
「あの……僕も先輩みたいに……」
すでに藤岡先輩は、遠くにに行っていた。
月明りを担いで去っていく先輩の背中を見ながら、心臓の音が大きくなったのを感じた。バスの中とは誓う鼓動の高鳴り。夜風がこんなにも冷たいのに、体が熱くなる。
何だろうこの気持ちは。
自分の下腹部に生まれた言いようのない感情に戸惑いを覚えながら、僕は目を覚ました。
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