裏幕 ―番外―

 天候の荒れる前触れのように酉より群を成した暗雲が垂れ込み、徐々に風を伴い始めた頃。

 老山を囲む森林地帯を抜けた小夜は、禁忌領の境界線を越えるまで後少しというところに迫っていた。見晴らしの良くなった平原の先には、先日弓千代様と共に通過した分社の外観が望める。どうやら妖怪の育てた駿馬は巫女一族の飼育する軍馬と大分違うらしく、分社を出立してから老山へと達する時には一日近くの時間を要したにも関わらず、老山を下りてからは半日程で視線の先に分社を捉える事ができている。

 逐一禁忌領方面の動向を探っている分社の見張り番であれば、すでにこの時点でこちらの存在を確認しているだろう。小夜の方はと言えば、落馬をしてしまわないよう慣れぬ馬の手綱を操るのに必死であり、分社へ合図を送る事など考えている余裕はなかった。

 乗馬も危うげな彼女でも、弓千代様より任された己の使命だけはしっかりと念頭に置いていた。それも、今度こそ弓千代様の役に立とうと意気込む一心からである。

 これまでは弓千代様の背中を追い、ただただその背中に守られてばかりであった。守護大社の生活では、自分よりも将来を見込める修練者や巫女が大勢といる中で気にかけてくれ、時に貴重な時間を割いてまで個人的な鍛錬や修行にも付き合ってくれた。そうして学んできた事を活かす絶好の機会、それが今なのだ。いつしか弓千代様のように強く、凛とした立派な巫女になるため、いつまでも足手まといのままではいられない。

 そう小夜が気持ちを引き締めた時、彼女は不意に複数の妖気を感じ取った。

 つと手綱から目を離して周囲を見回すと、弱小妖怪が三体ほど小夜を取り囲むように宙を漂っていた。はっきりとした実体を持たず、狐か狸のような見た目をした霊魂から判断するに有象無象の類に近いものだろう。この程度の妖怪であれば、本来彼女でも早い段階で感知して対処する事も可能であった。しかし、それは平時の余裕がある状態での話であって、慣れぬ馬の手綱を操るのに気を取られるあまり、弱小妖怪の接近を許してしまったのだ。

 今、この場に弓千代様はいない。だから、この状況は自分の力で切り抜けなければ。己を奮い立たせるよう小夜は思い切って手綱から手を離し、携える弓に持ち替えて矢を番える。

 すると、彼女の動きを見た弱小妖怪の一匹が動き出した。

 知能のない獣の如くがむしゃらに突進してくるその妖怪を見て、小夜は慌てて『破魔の力』を込めながら弦を引き絞った。震える手で矢先を標的に合わせると、溜めもそこそこにすぐさま矢を放つ。

 放った矢は『破魔の力』を保ったまま迫り来る妖怪へとなんとか命中した。巫女として未熟な彼女の破魔矢でも弱小妖怪には十分な効力を発揮し、その有象無象は苦しみ悶えながら完全に消滅した。

 初めて己の力のみで妖怪を滅する事ができたと喜んだのも束の間、小夜は気を取り直して次の矢を番える。途中に何度か放った矢が標的から外れたり、馬上での身のこなしに慣れず妖怪と接触したりと、危うい場面はいくつかあったものの、彼女の懸命な尽力によって、残り二体の弱小妖怪を滅する事に覚束なげながらも成功する。

 周囲から妖気のなくなった事を確認してから、小夜が改めて馬の手綱を握り直したところ、

「そこに止まれ!」

 という大きな声が頭上から降ってきた。

 彼女は反射的に手綱を引いて馬を急停止させる。声のした頭上を仰ぐと、分社の門の上に立つ一人の巫女がこちらを見下ろしていた。そこで初めて、彼女は自分が妖怪との戦闘に集中する間に分社へと到着していた事に気付き、弓千代様より任された使命を全うすべく用件を手短に伝える。

「私は『護ノ巫女』弓千代様より使いに参った、修練者の小夜と申す。火急の件故、ここに携えた弓千代様の書簡を分司にお渡ししたく、ついては分司にお目通り願いたい!」

 小夜は努めて拙さを見せぬよう――ここに至るまで一度も伝令の経験がなかった彼女は、これまで自分の見聞きしてきた使者の姿を思い浮かべながら――堂々と振る舞った。巫女一族の中では巫女よりも下の位にある修練者故、たどたどしい様子を見せては妙な不信感を与えてしまうと考えての判断である。

「小夜と申す者! お主は真に弓千代様の使いか?」

 そう問われて、小夜は腰に差していた弓千代様の刀を左手に持ち、頭上高く掲げる。

「ここに弓千代様より預かった刀がある! これで如何だ?」

「……相分かった! しばし待たれよ!」

 この受け答えをした見張り番は、その背後に控えているのであろう他の番人に一言二言伝えるような仕草を見せた後、再び小夜の方を見遣った。それ以上の問答はなく、小夜と分社の間には彼女の乗った馬の口を震わせる音のみが小さく響くのみである。恐らく、真偽の確認をするために人を寄越している最中なのだろう。

 少しして、分社の門が重々しく開かれると、そこから二人の巫女が出てきた。

 柔和そうな顔つきをした巫女と神経質そうな目元をした巫女とがこちらまで駆け足気味に寄ってくると、神経質そうな巫女の方がより傍まで歩み寄ってきて、その目元を狐のように細めながら小夜の顔を見上げた。

「刀を拝見する」

 最初、小夜は馬上より刀を手渡そうとするも、それが巫女の手へと渡る直前になって動きを止めた。『護ノ巫女』の使いが戦時中の伝令と同じく貴賤無用の扱いを受けると言っても、修練者である自分が馬に跨ったまま上位の巫女へ物を渡すなど、礼を欠いた不遜な態度なのではないかと彼女は思ったのだ。

 小夜は急に弱気となった気持ちをなるべく平静に装いつつ、馬から降りる――その際、馬鞍に足先を引っ掛けてしまい少々不格好な所作になってしまう。

 地に足を着けてから、小夜はその間にずれてしまった襟元を正して、巫女と向かい合った。

 彼女の差し出した刀を受け取った神経質そうな巫女は、じっくりと見る事もしないままもう片方の巫女へとそれを受け流した。それまで柳の枝のように垂れ下げていた柔和そうな巫女の目尻が刃物の切っ先のように鋭くなると、彼女は刀身を鞘から抜き、あたかも大木の樹齢を一つ一つ数えるが如き目つきで見つめ始めた。

 そうした様子から、小夜は柔和そうな顔つきをしたその巫女こそ、真贋を見極める目利きの巫女であると認めた。以前の記憶を思い返してみれば、先日この分社を訪れた際、弓千代様の腰巻きの真贋を見定めに来た巫女二人の内、片方の者が彼女だったように思われる。

 弓千代様の刀の真贋を改める事に然程時間はかからなかった。三度目か四度目の呼吸が終えたところで、目利きの巫女は手慣れた動作で刀身を鞘へと収めて、それを小夜の手へ丁重に返した。

「そのまま中へ入られよ。早々に分司へお目通りを」

 目利きの巫女は先へ進むよう道を開けた。

 分社内へ誘導する素振りがないという事は、乗馬した状態での入場を許されたという事であろうか。そう思った小夜は少しの間、二人の様子を注意深く窺ってみたが一向に動き出す気配がなかった。確信が持てないものの立ち止まったままでいる訳にもいかず、彼女は馬に乗り直して、分社の中へと走り出す。

 入場した分社内は、以前に訪れた時と同様に慌ただしかった。前回と違う点を挙げるとするのなら、あのがしゃどくろとの一戦で決して少なくはない犠牲者を出したためか、作業をしている巫女の人数がそれほど多くなく、またその一人一人の動作に余裕のなさが滲み出ている事である。動き回っている巫女達の間を走り抜ける小夜の姿に気を留める者もおらず、皆々自分の抱える仕事を片付ける事で手一杯のようだ。

 巫女達の険しい喧騒を後に、比較的静けさのある宿舎を抜け、行く先に分司のいるであろう本殿が見えてくる。遠目からだと人の気配のないように思われたが、距離が近づくにつれ、その本殿の出入口付近に二つの人影がある事に小夜は気付いた。

 目を凝らして見れば、それらは幸いな事に分司と副司の二人であった。

 分司達は何やら話し込んでいるらしく、こちらへ目を向けようとはしなかった――恐らく馬の走る音に気付いてはいるが、分社内の喧騒を常に聞いているためか別段不審な音だとも考えずに聞き流していると思われる。が、自分達に向かって、蹄の音があまりにも近づき過ぎていると感じたのだろう。分司と副司はほとんど同時に、弾かれたように小夜の方へ振り向いたのだった。

 振り向いた直後、分司達は身構えた様子でこちらを警戒していた。だが、近づいてくる者が巫女一族の身内だと見えてからはすぐに警戒の色を薄くしたようである。

 小夜は分司達より少し余裕を持った距離で止まって、みっともなく落馬しなよう慎重に馬を降りる。まずは自分が分司の前に現れた理由を伝えるべきだろうと思い、彼女達の傍へ駆け寄って膝をつくと、一度緊張を和らげようと一呼吸置いてから口を開く。

「突然失礼致します。私、修練者の小夜と申します。現在老山にて、狐一族の生き残りを捜索されている『護ノ巫女』弓千代様より分司へ書簡を渡すよう命じられ、急ぎ参りました」

 ひとまず一言も噛まずに事情を伝えられた事にほっとする。

 分司の返事を待っていると、彼女がその場に立つようにと促したため、小夜はそれに従って立ち上がった。

「覚えておる。確か、そなたは先日、弓千代様と共にここを訪れたな。それで書簡とは?」

「はい、ここに」

 言われて、小夜は懐から取り出した書簡を分司にしかと手渡した。

 それを受け取った分司はしばし黙して書簡に目を通していた。その表情はこれと言った変化もなく真顔に近い状態のため、そこから彼女の心境を探る事はできなかった。彼女の隣に立っていた副司はと言えば、その書簡が己でなく分司に宛てられたものだと聞いているためか覗き見るような真似はせず、分司より一歩下がった位置で目線を低くして控えている。

「小夜よ」

 ややして、分司は書簡から離した目を小夜へと向けた。

「事情は相分かった。弓千代様の頼みとあれば、我々も尽くせる限りの手を打とう。先日の一戦で巫女の数は減ってしまったが、精鋭の面々は未だ気力十分、必ずや弓千代様の期待に応えてみせようぞ」

 そう言い終えると、分司は副司へと目配せをした。その意を察した副司が一歩前へと歩み寄ったかと思えば、分司から言葉の短い指示を受けたらしく、間もなく小声で「御意」と発して分社内の険しさを極める方へと足早に立ち去っていった。

「早馬であったろうから、さぞ疲れた事であろう」

 それをぼんやりと目で追っていた小夜は分司の声を聞き、自分に話しかけているのだと気付いて、慌てて分司の方へと向き直った。

「すぐに宿舎を手配させる故、休んで行くが良い」

「あっ、いえ!」

 そう言って分司が他の者を呼び付けようとしたので、小夜はつい大きな声でそれを引き止めてしまった。微かに驚きの色を浮かべた分司の表情を見て、彼女はたった今の自分の行動が不躾であった事を自覚し、どう取り繕うべきかと考えを巡らせる。

「あっ、その、お気遣い頂き感謝致します。ただ、私も、弓千代様より事に当たるよう命じられている故、是非何かお力になれないかと存じます」

 小夜の助力の申し出を受けて、分司は彼女の目をじっと見つめた。それから、一度手に持っていた弓千代様の書簡に軽く目を落とすと、今度はどこか納得のいったよう微笑を浮かべて再び小夜の方を見直す。

「成程、弓千代様がそなたを信頼しているのも頷ける。先日の、無礼ながら弓千代様へ非難の目を向ける者に対して、少しも臆す事なく声を上げた。そのような勇気あるそなたが、いまだ修練者であるとは、私はなんとも不思議でならない」

「そんな、不肖私には勿体無いお言葉かと……」

 小夜はどう返礼すべきか悩んだ結果、掌を軽く合わせて揖をした。

 他の誰かに自分の事を認めてもらえたという事実に、小夜は確かな嬉しさを覚える。巫女一族の門戸を叩いてからこの四年間、弓千代様以外の巫女から褒められたのはこれが初めてであった。四年前に家族の猛反発も構わずに家を飛び出し、ただ憧憬の念のみで巫女一族へ入門した彼女にとって、それまでの努力を一族の身内に認められる事ほど嬉しい事はない。

「良い、では私と一緒に来なさい。弓千代様の旅に同行していたそなたなら、弓千代様のご意向もよく理解している事だろう。私個人としても、今後のためにも小夜の事をもっと知っておきたい」

「あ、ありがとう御座います!」

 分司の相伴に与れるという貴重な機会を得られた小夜は、嬉々とした気持ちを隠し切れずにまたもや大きな声を上げてしまった。自分の声の大きさに気付き、咄嗟に頭を下げてお詫びを入れる。

「申し訳ありません。度々粗相を……」

「気にするな」

 恐る恐る分司の顔を見上げると、彼女は不愉快そうな顔をするどころか微笑を浮かべていた。

「他の者にはない、そなたのその素直さが弓千代様の心をくすぐるのだろうな。寡黙で厳格な弓千代様が、特定の者に思いを入れるとは、あの頃と随分変わられたものだ。……さて、まずは軍議を開く。もう少しすれば、副司の呼びつけた主要な面々が集まる故、小夜にはそれまでの準備を手伝ってもらいたい」

「はい、お任せ下さい!」

 小夜は分司の後に続き、本殿の傍に設営されている天幕の中へと入った。

 軍議の準備を終えてほどなくして、天幕内には分社の管理者や上官といった要人が続々と集まり始めた。幕内に顔を見せる彼女達の姿佇まいが皆一様に凛として、如何にも歴とした戦場の経験と洗練された聡明さを持ち合わせていると見えて、小夜は気後れせずにはいられなかった。位も高く官職を持つ要人のみが出席するこの場において、唯一自分だけが一族の中でも最下位にある修練者という立場なのだ。誰が見ても明らかなほど場違いである。

 場の空気に気圧されて落ち着かない小夜はふと、背中に温かい手を感じた。

「小夜、お主は何故、巫女一族に入門をしたのだ?」

 振り返れば、分司はこちらの表情を伺うように首を傾げている。弓千代様の近くにばかり立つ事の多かった小夜にとって、このような状況は新鮮に感じられた。

「それは……、素直に申し上げるのなら、ただ憧れ故にです。人を斬り、死ぬ事を恐れない武士ですら怖気づく妖怪を相手に、勇猛果敢に立ち向かう巫女の方々を見て、感銘を受けたのです。殿方が出仕し戦場へ出るように、か弱い女の私にも立てる場所があるのだと。こんな理由では、巫女一族を軽んじていると思われるかもしれませんが……」

 小夜は他の者と比べて己の志が低いように感じられ、無意識に言葉尻を下げた。

「確かに、巫女として生きる事は、憧れを抱いて実現できるほど甘くはない。だが、理由としては十分だ。かく言う己も、幼き時分、私を助けてくれた『護ノ巫女』の御姿に見惚れて、巫女一族の門を潜ったものだ」

 その言葉を聞いて、小夜は意外に思った。

「そうなのですか?」

「ああ、言うなれば、通りかかった将軍に一目惚れをし、後の事も考えず追いかけた村娘も同然だ。そのような私でも、今や要害の地であるこの分社の長を任されておるのだから、小夜にもきっと転機が訪れるだろう。あとは、それをものにできるかは己次第だ」

 分司の言葉を聞いて、小夜は巫女一族に対する見方が少しだけ変わったように思えた。

 巫女とは、小夜にとって高尚な存在であった。生まれるべくして生まれた者、才を活かすべく選ばれた者、また成るべくして成った者、皆々巫女一族に縁や由があってこそ修練者から巫女へ昇格できるのだとばかり考えていた。自分が目標とする『護ノ巫女』の弓千代様も、妖怪に対して強い恨みがあった故、成るべくして成った者と言える。だが、目の前に立つ分司は一族の重要な官職を担っているにも関わらず、彼女の想像とはまったく違った巫女への成り方をしていたのだ。

 何故、今まで勘違いをしていたのだろう。そう思いながらも、小夜にはその原因に思い当たるところがあった。元より人見知りをし奥手な性格を自覚している彼女は、一族へ入門してからこの方、弓千代様以外の巫女や自分と同列である修練者とほとんど交流をしてこなかったのだ。それでは他の者がどのような理由で一族へ入ったのかも知らずに当然である。

 立派な巫女になるため、守護大社へ帰った時にはもっと他の人と関わるよう努力しよう。小夜はそう心に決めた。

 天幕内に副司が入ってくると、召集した面々が一通り揃ったと見て、分司は副司に向けて手で合図を送る。すると、副司の号令により軍議が開かれた。弓千代様の書簡にある内容とこれから我々が行うべき事、加えて各々の管理者へ必要な指示が分司の口より伝えられた後、彼女は皆に「何か意見がある者は申してみよ」と問いかける。分司の話は実に明瞭なものであったからであろう。彼女の指示に異議を唱える者は一人もおらず、軍議は間もなく解散した。

 軍事に関わった事のない小夜にとって、その軍議は小難しく感じられ、つい今程終えた話の内容を良く理解しようと反芻している内に、その場に集っていた管理者達はそれぞれ己に任された使命を果たすべく天幕を後にしていた。

「では、小夜よ」

 分司の声を聞いた小夜は懸命に働かせていた思考を一旦止め、彼女へ目を向ける。初めて参加した軍議への緊張のあまり忘れかけていた、自分が分司の相伴に与っている身である事を思い出し、慌てて礼儀を正すよう体ごと彼女の方へと向き直った。

「はい、なんでしょう?」

「今度は、分社内の各所を見回る。それぞれの配置での作業状況や士気の具合などを確認するためだ。これは分社の長である私の役目故、そなたは私の後ろを付いてくるだけで良い。いずれ巫女になる身であれば、そこで己の使命を全うする巫女達の姿を見る事も、必ず後学の種となろう」

 先を歩き始めた分司の後に続き、天幕を出た小夜は分社内の各所を見て回る。

 真っ先に向かったのは、禁忌領を望む酉の門であった。天狗一族の本拠である老山と禁忌領を前にする要所であるため、元より厳重な警戒態勢の敷かれているところではあるが、分社へ入場する際に小夜が見かけた時よりも一層険しさを増している。弓千代様の仰ったように、ここを通過すると思われる狐一族の生き残りとそれに同行する一匹の妖怪を足止めするべく、他の門に比べて多くの人員が配置されているのだろう。

 それらの状況を見ながら足早に歩く分司の姿を、小夜はその後ろから窺う。

 彼女にはまだ相手の視線からその意を察する能力が十分に養われていないせいか、分司が目を遣る先に何があり、どんな情報が隠されているかも分からない。時々、分司は立ち止まって巫女の管理役に一言か二言の質問を投げかけるが、簡単な返答だけをもらうとすぐに納得している様子である。彼女と同じものを見て同じ事を聞いても理解に苦しむ小夜は、まさに一を聞いて十を知る分司の聡明さに改めて驚嘆するばかりであった。

 酉の門を後にすると、兵糧や武器の管理、重軽傷者を収容した幕舎などを順に覗いていく。

 それぞれの幕舎を確認していく中、小夜はそこで働く巫女達を見てある事に気づく。皆同じ紅袴を履いた巫女であっても、従事する役目は何も妖怪の討伐だけではないのだ。分社へ入る時に衣裳や刀の真贋を見極める目利きも然り、軍医のように医術を専門にする者や戦闘で用いる弓矢を製造する者、糧秣や兵数を帳簿上で管理する者など様々な巫女がいる。

 巫女を志す小夜にとって、その事実は今更ながらも新たな発見であった。守護大社で修練者としての生活を営む中で、実際に活動している巫女達を間近で見る機会はほとんどない。それは彼女のみならず修練者の立場であれば当然の事であり、守護大社内では位による区別が厳格である故、修練者の指導を担当する巫女以外の上位者と触れ合う事ができないからである。そんな厳しい環境に置かれていながら、本来であれば目を合わせ言葉を交わす事さえ叶わぬ『護ノ巫女』弓千代様のご厚意に与り、またこうして巫女一族の要害である分社に足を踏み入れ、分司や巫女の活動を目の当たりにできるというのは、真に幸運な事であった。

 四つ目に覗いた幕舎を出て、子の門へ向かっている途中、小夜は唐突にも自分の前を歩く分司からいくつかの質問を受けた。その内容は小夜個人に関する事であり、例えば守護大社での生活はどうか、修練者としての修行はきつくないかといったものである。

 これにどこまで本心を答えれば良いものか、少々迷った小夜は最初曖昧な返答をしてしまった。それを聞いた分司は彼女が慎ましくも言葉を選んだのだと思ったのだろう。「変に遠慮する必要はない。私はそなたの素直な気持ちが知りたいのだ。忌憚なく申すが良い」そう促してくるため、小夜は砕け過ぎないよう言葉遣いに気を配りつつも、努めて嘘偽りのない本音を伝えていった。

 弓千代様以外の者に自分の事を話すのは、これが初めてであった。守護大社の中であったのなら決して口を利く事もできない上位の巫女、しかも官職を持つ目上が相手となれば、小夜は緊張せずにいられなかった。しかし、次にいつ分司と話す機会を得られるのか分からないと思うと、少しでも多く言葉を交わし、今後のための助言を賜るべく積極的に口数を増やそうという気になるのだった。

 そうして『破魔の力』について話が及んだ時、小夜は弓千代様からご指導を賜りながらも未だ上手く扱う事ができない現状を吐露した。

「そうか、そなたが巫女へ昇格できぬ原因はそれか」

 小夜の話を一通り聞いた分司はそう呟いた直後に立ち止まる。

 己の至らぬところを話しているせいでやや伏し目がちになっていた小夜は、危うくも分司の踵を踏む直前でなんとか足を止めた。何事かと思って彼女の顔を見上げると、いつの間にかこちらを振り返っていた分司と目が合う。

 その彼女の目は先程までの雰囲気とはまた別の、何かを見極めんとする鋭さを帯びているようであった。小夜の瞳を見ていながらも、そこよりさらに深いところを見透かしているようにも思え、小夜はやや落ち着かない気分になる。だが、目を逸らしてはいけない。ここで分司の視線に耐えられなければ、きっと彼女は私の弱さに失望するだろう。

 少しして、分司は微笑を浮かべると、分社の中を見て回っている時と同じく一人納得したように頷く。

「案ずるな、そなたの『破魔の力』は決して弱くない。むしろ、私の目に狂いがなければ、誰よりも強く、確かな底力を秘めている。そもそも、『破魔の力』というものは、女のこの身に生まれれば誰しも持っているごく自然の力。そなたはまだ、それを上手く引き出せておらぬだけだ。普通の弓矢を射る時と同じく、狙うべき的が定まれば自ずと安定するようになるというもの。まずは、己の目指すべき的、つまりは目標を見定め、それ以外の迷いを断つ事に集中すれば良い」

 この言葉を受けて、小夜はつと弓千代様のある言葉を思い出した。

 この妖狐討伐へ赴く前、守護大社を発つ前日に弓千代様より弓矢の扱い方などについてのご指導を賜っている時である。弓場の的に向かって弓を構える自分に対して、弓千代様はこう仰った。「良いかい、小夜。矢の軌道は多少汚くなっても良い。ただ、標的を狙い澄ます執念と、矢に込める『破魔の力』を弱めてはいけないよ」と。

 標的を狙い澄ます執念とは何か。それはつまるところ、分司の言うように私自身の目標を見定める事を指していたのだ。名もない村の賤民として生まれ、妖怪を滅する巫女の姿に憧れてこの一族の門を叩いた自分は当時、ただ漠然とした憧憬を抱くのみで、巫女になったその身で何を成したいのかなど一切考えていなかった。妖怪に対しても特別憎しみの念を抱いている訳でもない。ただ、ひたすら巫女になりたいという気持ちだけが先にあるだけだった。

 だけど、今は違う。こうして弓千代様の旅のお供をする中で、守護大社では知る事のできなかった弓千代様の苦悩や信念、そして過去に触れ、その毅然として己の信ずる道を進むお姿に惹かれていった。それだけでなく、妖怪はどんな存在であり、また悪い妖怪とは別に耄厳さんのように心優しい妖怪がいる事も知った。

 小夜はここまでの旅を振り返りながら、己の気持ちを確かめる。自分も弓千代様のような立派な巫女、『護ノ巫女』となって、いずれ大総巫となる弓千代様のお側にお仕えしたい。そして、ここまで私の命を何度も助けてくれた耄厳さんへ恩返しができるよう、妖怪の事ともちゃんと向き合いたい。

 一つの決心をした小夜は顔を上げて、礼を述べるべく分司の目を改めて見返す。

「ありがとう御座います。分司のお言葉で、進むべき道が見い出せたように存じます」

「ああ、良い」

 深々と腰を折ろうとした小夜の肩を、分司は手早く受け止めた。

「そなたと私の位は違えど、同じ巫女一族の身内に変わりはない。私はただ、悩める妹に少しばかりのお節介な助言をしたまでに過ぎぬ」

 姿勢を戻すよう促してくる分司の表情を見れば、そこには巫女としての厳しさよりも人としての優しさが滲み出ているようである。僅かな時間とはいえ、ここまで分司と接する中で彼女の人柄を窺い知るには、いくら察しの悪い小夜でも理解できるほど十分な要素があった。厳格で凛々しくも、決して人を突き放したりしない、そんな彼女の人となりが人望を集め、『護ノ巫女』に憧れて一族の門を潜ったという彼女自身を分司の地位へと押し上げたのだろう。

 巫女一族に入門して以来、小夜は初めて弓千代様以外で尊敬できる明確な人物を見つけた思いであった。分司に促されて、子の門へ向けて止まっていた足を踏み出そうとした時の事である。

「報告!」

 分社内で飛び交う声や音とは明らかに違った、特定の者へと向けられた張りのある声が聞こえてきた。その声のした方を見遣ると、忙しなく息を切らした一人の巫女が分司の前に駆け寄り、ほとんど躓いてしまったように見える勢いで片膝をつく。

「酉の門の見張り番より急報を申し上げます。禁忌領方面よりこちら向かってくる、人の身に扮した妖怪二匹を目視。狐一族の生き残りと思われ、威嚇などの攻撃を加えられぬ故至急確認されたし、との事」

 その報告を聞いた途端、分司の目つきが鋭くなる。

「ついに来たか。小夜、急ぎ酉の門へ向かうぞ」

「は、はい!」

 分司は目の前で膝をつく巫女に持ち場へ戻るよう手短に指示すると、酉の門へ向けて走り出した。彼女に遅れないよう小夜も後に続く。

 分司と共に酉の門へ近づくにつれ、小夜は周囲の騒がしさが次第に薄れていくのをつと感じる。最初、それは巫女一族としての大事が目前へ着実に迫ってきているという、気持ちの高ぶりからそう錯覚しているだけだと思っていた。しかし、分司の背中を追って通り過ぎるいくつかの幕舎を見れば、分社内を巡回した時には大勢いた巫女達の姿が一切なく、乾いた土を蹴る音が自分と分司の他にない事を知る。

 酉の門付近まで来ると、その静寂は一際強く感じられるものになった。その静けさのわりに目につく人員の数が多く、門の手前にはそのまま出撃する事も可能であろう巫女の部隊が密集しており、防壁や櫓にも弓矢を構えた巫女がぎっしりと配備されている。分社を訪れた時の喧騒とは打って変わって異常なほど静かになったのは、それまで動き回っていた巫女達がこの酉の門に集まり、有事に対する緊張感から一様に口端をきつく締めているからであった。

 小夜の前を行く分司は門の手前に集う部隊の間を駆け足で通り抜け、防壁沿いに取り付けられた木造階段を登っていき、ちょうど酉の門の真上に位置する物見へと辿り着く。

「ああ、分司!」

 小夜と分司の到着に気づいた数人の巫女の内、この場を指揮しているらしい一人がこちらへ近寄ってきた。他の巫女と同様に、彼女も気を張っているせいか極めて険しい表情をしていたが、そこにはそうした緊張とも違った、何か想定外の事に困惑しているような顔色もあった。

「お待ちしておりました。件の妖怪はすでに門前で足を止めています。ただ、少し様子が妙でして……」

「何、妙だと?」

「はい、奴らにはこちらを攻撃するつもりもなければ、そもそもこの分社を突破するつもりもないようで。先程から、片方の妖怪がしきりに何事かを喚いているのです。我々だけでは判断のしようもなく、どうか、分司もお聞きになって下さい」

 指揮官の巫女に促されて、分司は物見の欄干へと近寄っていった。

 弓千代様が必死になって追っていた狐一族の生き残りとはどんな妖怪なのか、自分の目で見てみたいと思った小夜も、門前を見下ろせる位置まで進み出る。

 眼下には、報告にあった通り二匹の妖怪がいた。どちらも人の姿に化けており、一方はすらりとした長身に長髪の美しい女性、もう一方は小夜よりやや年下と思われる幼い女子の見かけをしている。一見、どちらが狐一族の銀狐なのか見分けるのも難しそうであるが、銀狐は姉妹の内妹の方だと聞かされていたため、仮にこの二匹が狐姉妹だったとしても、幼い方を妹の銀狐だと考えるのが妥当であろう。いずれにせよ、この殺伐とした平原に立つには似つかわしくない姿である。

「一体いつまで待たせる気か! おぬしら巫女一族の目的はこれであろう。何をそれほど躊躇する必要があるのか!」

 長身の女性に化けた妖怪がそう剣幕で大声を張り上げた。

 それを聞いた小夜は得も言われぬ身震いを覚える。大分距離のあるこの物見まではっきりと声が届いた事にも驚かされたが、それよりも彼女を大いに震え上がらせたのは、その声に含まれた覇気である。

 今まで見てきた妖怪とはきっと格が違う。もし、妖怪に軍神が存在するとすれば、それはあの長身の妖怪に間違いない。まだ、妖怪の気や力を推し量る事もうまくできない小夜でさえ、そう察せられるほどである。

 自分の気のせいかもしれないとも思い、小夜は分司の様子を見遣る。どうやら彼女も長身の妖怪にただならぬ気配を感じているようであり、警戒の色をありありと表情に滲ませていた。

「そこな妖怪! 私がこの分社の主、分司だ! 貴様の要求はなんだ! ここを通り、守護大社へ攻め入るのが目的ではないのか!」

「然に非ず! 私はおぬしら巫女一族と争う気など毛頭ない。ここにある狐一族の生き残り、銀狐をおぬしらのもとへ引き渡しに参ったのだ」

 欄干より二匹の妖怪を見下ろす分司は途端に唖然とする。まるで長身の妖怪の言い分を理解できないと言いたげな表情である。

 小夜も彼女とまったく同じ反応になっていた。この分社を通過するはずだと思っていた妖怪の口からそのつもりはないと告げられたばかりか、仲間や身内と言うべき同族を巫女へ引き渡すと言い出してきたのだ。妖怪が妖怪を売り渡すなど、未だかつて聞いた事がない出来事である。

 次第に、分司は冷静さを取り戻してきたのか、驚き呆れていた表情を少しずつ引き締め直していった。それでもすぐに返答はせず、慎重に言葉を選んでいる様子である。

「それはつまり、狐一族の生き残りである銀狐の身柄を我々のもとへ置く、そういう意味なのだな? その後、お前自身は何もせず、我々の前から姿を失せると。お前から我々に対しての要求は一切ないのか?」

「左様。引き渡しの後、これの始末は私の知るところに非ず。獄門にかけるも凌遅にかけるも好きにするが良い」

 長身の妖怪が言い終えるや否や、彼女の腕にすがっていた女子の妖怪――ここまでの話の流れからほとんど間違いなく銀狐――は急に激しく動き始めた。おそらく銀狐の声は見た目相応にか細く、物見の上まで届かないのだろう。何を言っているのか聞こえないものの、彼女の動きは長身の妖怪から身を離そうと抵抗しているようにも見え、酷く怯えている様子である。

 この二匹が揉め始めた一方で、こちらの場も騒然とした空気が漂い始めていた。

 どこからか「あれは妖怪の虚言に決まっている」という声も聞こえてくれば、「あの二匹の様子を見る限り妖怪同士の仲間割れではないか」とか「偽りにしろ真にしろ、狐一族の生き残りを確保できるのなら利用すべきだ」という声も聞こえてくる。人間を人質とする妖怪への対処法は普段の訓練から徹底的に教え込まれているため心得ているものの、今回のように特殊な場合は全くの想定外であり、皆々の意見が多様に分かれてしまうのは当然であった。前例がない以上、今後の参考とも成り得る可能性のある今回の判断は極めて重要であり、分司へかけられる重圧は相当負荷が高いものであろう。

 どう対処すべきか迷っている分司に向けて、指揮官はこう提案する。

「分司、ここは一旦銀狐を引き受けては如何でしょうか。そして、銀狐をこちらの手中に収めた後、油断しているところであの妖怪も即座に拘束します。そうすれば、ひとまずはこの場を凌げ、弓千代様の到着を待つ事ができましょう」

 心の中で小夜はその案に賛成した。何もしないと言っている妖怪の不意を突くというのはやや卑怯な手段であるように思えたが、長身の妖怪を見逃す事もできない以上、強引ではあるがその手段で時間を稼ぐしかない。

 この状況下では致し方ない妥協案に思えたが、それに納得できなかったらしい分司は首を縦に振らなかった。

「いや、それは不味い。もし、あの二匹の共謀策であったのなら、銀狐になんらかの仕掛けがあるやもしれぬ。不用意に分社内へ引き入れれば、手痛い反撃に合い、内と外からの挟撃によって分社を破壊されかねん。それに、銀狐単体ならともかく、もう一匹のあの妖怪を相手にするのは危険だ。あやつ、妖気を殺しているのか隠しているのかは知らぬが、我々の力では到底敵わない大きな妖力を秘めている。迂闊に手を出せば、こちらが全滅の憂き目に遭うだろう」

「確かに、分司の仰る事にも一理あります。では、この交渉を引き伸ばしますか?」

 指揮官の問いに対して、分司はじっと押し黙った。ただ眉間に皺を寄せた険しい目つきを以て、揉めている長身の妖怪と銀狐を見つめている。

 分司が判断に迷うのも当然だろうと、小夜は思った。

 常時であれば指揮官の提案が最も適切な判断である事は間違いない。仮に、あの二匹の言動がこちらを騙すための演技だとしても、身動きができないよう拘束してしまえば、如何に巧妙な策といえども下手に動く事はできなくなるはずである。あとは、捕らえた銀狐らを厳重に監視しつつ、弓千代様の到着を待てば良い。

 それを実行に移せない原因が、あの長身の妖怪の存在だ。化け身であるが故に何の妖怪なのか正体不明な上、必要以上に自らの妖気を抑え込んでいるらしく、その脅威を正確に推し量る事ができない。少なくとも、聡明な分司の判断に二の足を踏ませるほどの妖力は持ち合わせているのだから、決して侮れないのだ。

 分司が一向に口を開かないので、小夜も何か良い案はないかと考える。

 長身の妖怪との戦闘はなるべく避けたい。そして、その妖怪自身も私達と刃を交える気はなく、銀狐の身柄を引き渡した後は立ち去ると言っている。だが、その言を信じ切るのは危険であり、また長身の妖怪を見逃す事もできない。私達の目的はこの二匹の妖怪を滅する事ではなく、弓千代様の命に従ってこの場に足止めする事だ。それなら、先程の指揮官が最後に言った、あの妖怪との交渉を引き伸ばすという作戦は存外悪くないのでは?

 たった今思いついた自分の考えを伝えようと、小夜は分司へと目を向ける。

「あの……」

 その声に反応した分司は小夜を振り返った。

 この時、小夜はすぐに次の言葉を継ごうとしたのだが、思わず口を噤んでしまう。こちらを振り返った分司の険しい表情が少しも緩まっていないために、まるで自分がこの場の緊張に似つかわしくない声を出してしまってきつく睨まれたように感じたからである――さらに、分司の側に立っていた指揮官も同様の目つきをしているように見えた。

 小夜は一度、自分が余計な口出しをするべきではないのではと考える。しかし、自分を信頼して分社へ送り出してくれた弓千代様の事を頭に浮かべ、また自分の思い描く立派な巫女へ一歩でも近づくべく、勇気を振り絞って言葉を続ける。

「恐れながら、この不肖小夜も、一つ案を申し上げてもよろしいでしょうか?」

「ああ、良い、申せ」

 発言の許しを得て、小夜は一息置く。

「では、先程指揮官の仰った『この交渉を引き伸ばす』という策、私に任せて頂けないでしょうか?」

 小夜の発言を聞いた途端、分司の眉間に刻まれていた皺が形を変える。

「何、どういう事だ?」

「はい、つまりは私が銀狐の身柄を引き受ける交渉人として門を出て、あの妖怪と話し合いをしようというものです。もちろん、すぐには銀狐を拘束せず、あの長身の妖怪も逃しはしません。話し合いというのも、身柄の引取と称した時間稼ぎをするつもりです。分社内には入れず門前からも離れさせず、分司の悩まれているところを解決する、いわゆる折衷案と言えましょう」

「ほう、折衷案か……」

 小夜の提案した策を整理するよう、分司は顎に手を当てる。

「悪くはない。だが、どのようにして時間を稼ぐというのだ?」

「それも考えております。見れば、あの二匹の妖怪、何やら仲違いをしている様子。もし、妖怪にも善い妖怪と悪い妖怪がいるのであれば、お互いに己の主張があるはずです。銀狐を引き受けに赴いた時点で、二匹の言い分を聞く事になります。もし仮に、それが妖怪側の何らかの姦計だったとしても、それを我々は疑っていると打ち明ければ、必ずその疑いを晴らそうとするでしょう」

「なるほど、大筋は理に適っている。しかし、そなたがわざわざ出向く必要はないのではないか? 危険を冒さずとも、この物見から対話を図れば良かろう」

「いえ、それでは十分な時間が稼げません。物見からの対話は高慢な印象を与えますし、何より我々が銀狐の引き渡しに応じる気はなく交渉を引き伸ばしているだと、相手に早く悟られる可能性が高くなります。また、私がわざわざ出向く理由は、恐らくこの場の誰よりも妖怪との対話に慣れていると存じるが故です」

 ここまで言って、小夜は自分の心臓が高鳴っているのを感じた。

 なるべく言葉を噛まないよう、自分の意見を淀みなく伝えられるようにと緊張しているせいでもあったが、最も彼女の胸を高鳴らせていたのは、今の状況そのものである。これは守護大社で行われる修練者の訓練とは違う。その場の言動が取り返しのつかない事の顛末へと直結するが故に、一つの発言には己の命と同等の責任が伴うものである。ましてや自分よりも高位の相手に対して強気にも意見を挙げているとなれば、なおさら巫女ではない小夜には得も言われぬ興奮にも似た感情が押し寄せてくるのも致し方ない事であろう。

 物見に立つ巫女達から向けられる多くの視線を感じつつ、小夜は意地でも胸を張る。

「ご存知の通り、私は弓千代様と共に旅をしており、その供には妖狼がおります。妖怪と寝食を共にし、妖怪の情に触れ、妖怪が巫女一族の事を如何ように捉えているのか。それを知る者は、弓千代様の他に、そのお供をした私以外に誰がおりましょうか」

 そう話し終えた小夜は分司の目を真っ直ぐと見つめ続けた。

 少しの間、分司は彼女の瞳を見返すだけで何も言わなかった。己で発言した策を遂行できるだけの器量が本当にあるのか見極めようとしているのだろう。ただ、小夜は何故か、彼女の目が自分の瞳を通して別の誰かを見ているような、例えばこれまで常に小夜の追いかけてきた弓千代様の背中へ何かを問いかけているような気がした。貴女の信頼する小夜を私も信じて良いのでしょうか、と。

「……分かった。では、そなたに任せてみよう。また、身の安全を考慮し、腕の立つ巫女を四人護衛として付けさせる。私も物見から見守る故、そなたは自信を持って役目を果たすと良い」

「あ、ありが……、いえ、御意! 必ずやご期待に添えてみせます」

 小夜は嬉しさのあまり深々と一礼をした。自分の意見を受け入れてもらえた事に純粋な喜びを覚えたが、同時に失敗の許されない重大な役目を担ったという事実に、竦み上がるような心の引き締まりも感じていた。

 そんな小夜の強張りを察してか、指揮官は口元に手を添えながら分司へ顔を近づける。

「この者を行かせるのは危険では? この策であれば、より適任者がいましょう」

「いや、小夜の他に適任者はおるまい。一度目にこの分社を訪ねてきた時に小夜の取った行動といい、これほど肝の座った修練者は珍しい。また、本人の言うように、私達の中には妖怪とまとも会話をした事のある者はいない。それに弓千代様の書簡にはこうあったのだ。彼女が自分の口から何かをしたいと言い出した時には、それを可能な限りで……」

「おい、分司とやら!」

 二人が言葉を交わしている途中、物見の下より不満を露わにした声が聞こえてきた。

 分司達と共に門前を見下ろせば、先程まで揉めていた二匹の内、長身の妖怪が銀狐の首根を鷲掴みにしているところである。

「この雌狐を引き取るつもりがないのであれば、私が直接、巫女の総本山へと送り届けてやろう! もし、それでも私を通すつもりがないのであれば、おぬしら巫女一族に代わって、私がこれを始末してやる!」

「待たれよ!」

 分司は欄干に手を掛けて声を張る。

「相分かった! では、今からそちらに人を向かわせる! その者に銀狐を預けるが良い!」

 そう言い終えた分司は振り返りざまに近くの者を呼びつけ、それに応えた一人の巫女に対して「精鋭部隊から四人の巫女を選び、小夜の護衛に付けるよう手配しろ。有事には必ず小夜の身を守るようにと、厳重に言い添えるのだ」と指示を出す。指示を受けた巫女が走り去るより早いか、次に指揮官へ向き直る。

「この物見に配置している者、また酉の門に配備している者へ、さらなる警戒態勢を敷くよう伝えよ。私が一声飛ばせば、少しの間もなく矢を放てるようにな。ただし、あの妖怪にはそれを決して気取られるな。加えて、酉門に結集させた者達は一時的に奥へ隠すのだ。小夜が分社を出た後、部隊を三つに再編成し、それぞれ子・午・酉の門に配置せよ」

「御意!」

 分司から受けた複数の指示を周知するためか、指揮官は数人の巫女を呼び集めて、何やら忙しなく動き回り始めた。

 それに伴い、この場の空気も一変。一見何事もなかったかのように振る舞っている物見の巫女達は静かに、けれども確かに気持ちを切り替え、いつでも門前の妖怪に対して行動を起こせるよう気を張り直している様子であった。先程までの騒然とした囁き声も一切なくなり、皆々状況の変化を見逃さないように集中している。

 そうした周囲の変化を目で追っていた小夜は、つと分司と視線が合う。

「何をしておる、早く準備をせぬか。ここを下りて、門前に待機するのだ」

 不慣れな故に次の行動を取る事ができなかった小夜は、その彼女の言葉ではっとし、返事も手短にすぐさま防壁の階段を下っていった。

 門の手間まで来た小夜は、開門を待つ間に心を落ち着けようと深呼吸をする。

 必要以上に緊張する事はない。あの長身の妖怪は正体不明だが、少なくとも理性を以て人の言葉を喋っているし、自分と同じ人間の姿にまで化けている。ならば、話し合いは可能なはずだ。それに背後には分司の目があり、傍らには力強い巫女の護衛もある。上手く対話をする事ができれば、時間稼ぎとして弓千代様のお役にも立てる上、あの妖怪とも平和的な解決を図れるかもしれない。

 ややあって、小夜のもとに四人の巫女が現れた。精鋭部隊から選び抜かれた巫女だけあって皆勇ましく背を伸ばし、堂々とした立ち姿をしている。自分よりも相手の身長や歳が上という事もあり、小夜は気後れするような心地ながらも名を名乗り、位の低い己の護衛を引き受けてくれた事に対して丁重に感謝の意を述べた。

 すると、彼女達は下位の者を敬う必要などないにも関わらず、小夜に礼を返してきた。

「とんでもない。むしろ、私達の方こそ、小夜殿に力を貸す事ができ、嬉しい限りです。先般の折、弓千代様への謂れなき非難に対し、己の立場を言い訳にする事なく果敢に立ち向かったその姿には、深く感服致しました。またこの度も、目の前の脅威を傍観するどころか自らその解決に尽力するその姿勢、同じ巫女一族として誇らしく思います」

 一人がそう述べると、他の三人も彼女と同じ気持ちだと示すように軽く頷いた。

 小夜はただ「そんな、身に余るお言葉です」と身を小さくするしかなかった。巫女一族の中でも最下位の修練者に位置する彼女は、これまでの守護大社の生活で同位の者からもそのような敬いの言葉をもらった事はなく、ましてや上位の者からこうまで言われたのは初めてであったのだ。自分の行いが認められたという事実に素直な喜びを覚えずにはいられない。弓千代様以外にも自分を認め、その味方になってくれる者がいるのだ。

 そうしている内に、頭上から合図のような音と声とが小夜の耳に届く。

「これより開門す!」

 合図に呼応して、近くに待機していた門番らが数人がかりで酉の門を引き開ける。

 重厚な木造の重みで軋む蝶番の音とともに、開けた門から二、三十間離れた先に長身の妖怪が現れた。まだ妖怪の表情も汲み取れぬ距離だというのに、気を抜けば足が竦んで動けなくなりそうなほどの圧をひしひしと感じる。

 小夜は心の中に湧く恐れを誤魔化すように大きく息を吸って、足を踏み出した。自分自身でも大胆だと思えるほど大股に、そして緩やかな歩みのように見えてその実足早に妖怪へ近づいていく。大した距離でもないのに、彼女は一歩足を進めるごとに己の息遣いが早くなっていくのを自覚していた。それでも途中で歩みを止めずに済んだのは、後ろに心強い味方がしっかりと付き従ってくれていたからである。

 ようやく長身の妖怪と対面した時、小夜はつい彼女から視線を逸らしてしまった。

 というのも、長身の妖怪の眼光があまりにも鋭かった故である。美しい女性の身に化けていながら、その瞳は人に非ず、まるで血に飢えた獣が餌としての生き物を見るような目つきであった。弓千代様との旅の中で出くわしたどの妖怪でさえ、彼女のように目を合わせる事すら恐ろしいという極端な恐怖を感じる事はなかったのに。

 何故か向こうが何も喋ろうとしないので、小夜は話をどう切り出そうかと迷っていると、思いかけずも銀狐の方に視線が留まった。長身の妖怪に首根を掴まれているせいか、やや息苦しく辛そうな顔をしており、瞼の閉じられた目元から薄っすらと涙が流れている。よく見れば、木の枝か藁を掴むような乱暴な手付きで首根を圧迫されているため、そこに尖った爪が食い込んで血の滲んでいる様子だ。

 妖怪とはいえ、女の子供が粗末な物のように扱われ苦しんでいる有様に酷く可哀想だと思った小夜は思い切って顔を上げ、長身の妖怪の鋭い眼光を見返す。

「私は、分司の命を受けて、銀狐の身を引き取りに参った小夜と申します。まずは、銀狐を離してあげてくれませんか? その掴み方は、とても苦しそうです」

 これに対して、長身の妖怪は怪訝な表情を浮かべた。妖怪を労るような小夜の言い方に疑問を感じたようであったが、何かを言い出す訳でもなく、とりあえずといった素振りで銀狐を放るように離す。

 目の前に投げ出された彼女に、小夜は慌てて駆け寄る。

「大丈夫ですか?」

 痛々しくも爪の食い込んだ首の傷の具合を見ようとしたところ、突然銀狐は小夜にすがりついてきた。

「た、助けて下さい! 私、この方に攫われて、ただお姉ちゃんのもとに帰りたいだけなんです!」

 目を瞑ったままの銀狐は少し見当違いの方向へ顔を向け、恐怖によるものか小さく息を切らしている。その様子はとても演技をしているようには見えず、事実を口にして心からの命乞いをしているようであった。恐らく、目を閉じているのも怪我か病のせいで本当に光を失っているのだと、小夜は考えた。

 こちらを見下ろす長身の妖怪は、銀狐の命乞いを嘲笑うように高く鼻を慣らす。

「かつて誇り高かった狐一族も、今やここまで卑しく落ちぶれたものだ。安心するが良い、貴様が死んだ後、直に巫女の手によって姉の金狐も殺され、あの世で邂逅できよう。そして、あの世にて自らの一族が犯した大罪を悔い、我が祖先と同胞の者達へ詫びるのだ」

 そう言いながら、長身の妖怪は立ち去るとする素振りを見せた。

「あっ、待って下さい!」

 小夜が急いで引き止めると、彼女は驚いたようにこちらを振り返った。その驚いた表情はすぐに訝しげなものへと変わり、まだ自分に何か用があるのかと言いたげな目つきになる。

 野猫の如く細い彼女の瞳孔に心臓の掴まれる思いになりながら、小夜は声を絞り出す。

「失礼ながら、まだお伺いしたい事が……。まずは、名をお聞きしても?」

「私の名だと?」

 長身の妖怪はこちらの真意を探るように数拍の間を置く。

「私の名は、皐月と申す。だが、それを聞いて如何にする? 我らの用件はすでに片付いたであろう。これ以上にどのような言葉を交わすと言うのだ」

 皐月と名乗った妖怪の言う通りであった。彼女の目的は銀狐の引き渡しである故、その目的を達した今はそれ以上の問答を必要としない。そこを無理に引き止めるのであれば、それ相応の理由を明らかにするべきである。

 小夜は考える。最もな理由となれば、やはり巫女として妖怪を滅するという名分であろう。だが、それを口にしてはならない。この妖怪に太刀打ちできるかは別として、銀狐の身柄を引き受けたからには不用意な行動を慎まなければならず、ましてや巫女一族としての本分を持ち出して攻撃を仕掛けては、ここまで出向いてきた皐月に対して不義理な行いだと言える。弓千代様の到着まで時間を稼ぐというこちらの目的を悟られぬよう、それらを弁えた上で言葉を選ばなければ。

「皐月殿の仰る事はごもっとも。しかし、私は実のところ、この銀狐を疑っております」

「疑うとは異なもの。その妖気を見れば、狐一族の生き残りである事は明白であろう」

「いえ、私が疑っているのはその真贋ではなく、そこに秘する思惑なのです。ご存知の通り、私は分社の長である分司の命を受けて参った使者です。なれば、我が一族にとって、この銀狐が益をもたらすものかそうでないものか、しかと見極める必要があります」

 ここまで言ったところ、皐月は一人合点のいったように頷く。

「なるほど、これが私と狐の姦計ではないかと疑っていると言うのだな?」

「ご明察です。私も狐一族の生き残りを捜索していた一人なので、なおさら疑ってしまうのです。狐一族の生き残りを守ろうとする妖怪が大勢いる中、何故皐月殿だけは銀狐を巫女へ引き渡そうとするのか、と」

 小夜はそこで言葉を切って返答を待ってみるものの、皐月は答えようとしない。返答の内容に迷っているのであろう事は察せられたが、その表情は依然と険しいまま故、答えに窮して口を閉ざしているのかそうでないかまでは分からなかった。

 だが、小夜は確信していた。これは皐月と銀狐の姦計ではない。

 まず、銀狐の怯えようが尋常ではなく、今もなお自分を殺めるかもしれない巫女一族である自分の袴にすがり、涙を落としながらか細く震える声で「こん姉ちゃん、こん姉ちゃん」と零す姿は、あまりにも不憫な事この上ない。己が巫女一族でなければ、彼女の正体が妖怪でも構わず匿ってあげたいと思うほどである。

 皐月の方はといえば、その言動の端々から銀狐に対する深い憎悪らしきものが窺え、勘違いでなければ狐一族そのものに怨恨の意を抱いているらしかった。彼女の態度がどこか、妖怪に対する弓千代様の態度と似通っているように思えたからである。過去に妖怪が弓千代様の友を奪ったというように、狐一族にも皐月の大事な何かを奪った過去があるのだろうか。

 そう推測する内に、小夜の頭に耄厳の言葉が思い起こされる。いつだったか、彼は弓千代様にこう言っていた。妖怪の中にも身内があり、また大事な何かを奪われた悲しい過去を背負っている者もいる、と。銀狐にも姉があるように、皐月にも身内があるのだとすれば。

「もしや、皐月殿の過去に悲しい不幸があったのでは?」

 皐月の両目が僅かに見開かれる。彼女の目をじっと見返していた小夜は、それを正しい的を見抜かれた動揺の表れと考えて、その的を射抜きにかかる。

「かつて、狐一族の者に己の親しい者を殺められ、その恨みからこのような行動に出たのではありませんか? つまりは復讐を果たすため、その手段として我ら巫女一族の手を利用しようと考えた、と」

 小夜の目にも明らかなほど、皐月は一度深く息を吸って吐き出した。心の内に穏やかではない波が立っているようであったが、小夜から目を逸らさず、落ち着き払った様子でゆっくりと口を開く。

「よくぞ、言い当てた。まさか、我ら妖怪を無慈悲に滅する巫女一族の中に、貴殿のような、妖怪の心情を汲む事のできる聡い人間がおったとはな。左様、おぬしら人間の存在しなかった遠い昔に、私の同胞はその狐一族によって滅ぼされたのだ。もはや、この世には、私のみを残すばかり。我が閥族の築いた国と栄華を壊し、各地に逃れて隠居する我々を暴いて、最後には妖怪の筆頭へと成り上がった憎き狐一族を、私は巫女一族に再び滅ぼして頂きたい」

 その口調は至って冷静そのものであったものの、腹の底から湧き上がる憎しみを隠しているつもりではないようであった。先程からの言葉遣いや抑揚に訛りが見られない事からも、思うに皐月の一族は妖怪の中でも品位のある一族だったのだろう。

 小夜は己の足元にいる銀狐を見遣る。

 目の見えない不安を和らげるためか、小夜の足に頼るようしがみついているその小さな肩は姉の助けを求めるように震えている。幼い子供に化けた見た目を抜きにしても、その中身は小夜と近い歳頃に変わらず、とても他の妖怪や人間に仇なす凶悪な妖怪には見えない。皐月の話が真実であっても、罪があるとすれば狐一族の過去の行いにあり、この狐の子である銀狐の幼き肩だけに背負わせて良いものではないはずだ。

「その皐月殿の願い、お受けできるかは分かりません。正直に言えば、銀狐や金狐を捕らえたとしても、我ら巫女一族はすぐに滅するつもりはないからです」

 小夜の発言に、皐月はほとんど顔色を変えない。

「それは妙だな。巫女一族は、これなる狐一族の生き残りを滅するために探し求めていたのではないか?」

「確かに、我ら一族は総出を挙げて狐一族の生き残りを探していました。しかし、今は少し事情が変わり、捕らえた後の処置については保留となっているのです。これは……」

 次に出そうとした言葉を小夜はつと呑み込んだ。皐月との対話を続けるためになるべく嘘を吐きたくないが、知り得ている内部の事情を自分のような巫女一族の末端が何もかも話すべきではないだろうと思ったのだ。かといって、こちらが心にもない話をすれば、鋭い勘を持っていると思われる皐月にこちらの真意を見抜かれる可能性がある。内部の情報を出す事は控えつつも自分の中にある真実を出せば、対話を長引かす事ができるかもしれない。

「これは、私個人の考えですが、可能であれば金狐や銀狐を滅せずに事を解決したいと思っています」

 それを聞いた皐月は、今までに見せたどの反応よりもやや大きく驚いた。目の前にいる皐月だけでなく、小夜の背後に立つ護衛の巫女達も驚きを隠せない様子である。

 それもそのはず。小夜の言い放った事は、巫女一族に属する者の口からは到底出るはずのない内容であったのだ。

「それは何故?」

 当然の質問を受けて、腰を屈めた小夜は足元の銀狐を安心させるように抱き寄せた。

「巫女としては妖怪を忌み嫌っていますが、私自身は特に妖怪を憎んでいないのです。こうして初めて狐一族を見れば、この辛そうに泣き苦しむ姿は人の子とさほど変わらず、とても人間を殺める残忍な妖怪には見えません。そもそも此度の事の始まりは、我々巫女一族の祖先が狐一族を滅ぼした事にありましょう。もし今、銀狐や金狐を滅したら、狐一族を慕っている妖怪達の恨みを買う事になります。そうなれば、妖怪と巫女との大戦は避けられず、その戦火はさらなる復讐の連鎖を生み出すかもしれません。狐一族を滅ぼした我々が言っても心に響かないでしょうが、少なくとも私は、妖怪と人間が争わず平和に生きていける世の中になって欲しいと思っています」

 これは嘘偽りのない小夜の本心であった。しかし、いつからこのような考えを抱くようになっていたのだろうと、彼女はつと思い返す。守護大社を出る前、修練者としての生活に集中していた頃には妖怪への関心があまりなく、ただ巫女への憧れから弓千代様と親交を深める日々に満足しているだけであった。それが狐一族の発見を機に、守護大社を出て妖怪と向き合い、弓千代様の悲しい過去を知り、耄厳という妖怪に幾度となく命を助けられ、天狗一族の総本山たる老山ではまるで人間のように暮らす天狗達の本音に触れて、妖怪も自分と同じように生きているのだと意識するようになった。以前に耄厳が言っていたように、姿形や寿命が違えど妖怪も命ある生き物に変わりないのだ。

「では、巫女一族は決して狐を殺めぬと申すのか?」

 皐月の問いに、小夜は首を横に振る。

「分かりません。今述べた事は私の意見であって、自分のような位の低い者が、巫女一族の決定に関与するなど難しい事でしょう。それでも、私は可能な限り、この子を滅せずに済む方法を模索したいと考えています」

 ここまでの小夜の話を聞いていたのか、気づけば彼女の腕に抱かれていた銀狐は少しの落ち着きを取り戻しているようであった。肩の震えも治まり、小夜の体に姉の温もりを求めるよう抱き着いている様子を見るに、自分が殺されるかもしれないという不安も幾ばくか和らいだのだろう。

 銀狐から皐月へと視線を移すと、彼女の顔には明らかな失望の色が浮かんでいた。

「まさか、私が隠れ里で余生を過ごしている内に、巫女一族にかような変化が訪れていたとは思いもよらなかった。私の望みは、巫女一族による狐一族の粛清。それが敵わぬのなら、己が手で天誅を下すのみ」

 さあ、その雌狐をお返し願おうか――そう言いながら、皐月が小夜の足元にいる銀狐へ手を伸ばした時である。

 皐月は涼しげな目を僅かに見開き、体を硬直させた。まるで何かの気配を察したが如く己の背後を気にしている様子がその視線の動きから窺えたが、すぐに伸ばしていた手を戻し、威厳のある佇まいを以て小夜へと向き直る。

「どうやら、謀られていたのは私の方であったと見える。巫女一族への恨みは特に持ち合わせておらぬが、この巡り合わせた絶好の機会を、私もみすみす逃す訳にはいかぬ!」

 次の瞬間、皐月の顔が怒り狂った鼬の形相になったかと思うと、人間の形はそのままに手足は獣の如く鋭い爪を持ち、下半身にはしなやかに伸びた一本の尾が現れる。彼女の変貌に小夜が身構えた時には一手遅く、すでに振り上げられた皐月の鋭利な爪が今にも目前に迫りくる。

 身を躱さなければ致命傷を受けてしまう。そう直感していた小夜であったが、彼女の取った行動は足元の銀狐を見捨てる事ではなく、銀狐を庇う事であった。

 小夜の手が銀狐の腕を掴んだ刹那、小夜自身も後ろから誰かに掴まれ、体を強く引かれる。それと入れ替わるようにして、刀を構えた護衛の巫女二人が小夜と皐月の間に割り込み、内一人が皐月の爪牙を受け止めた。

「ここは私達にお任せを! 小夜殿は銀狐を連れて、早く中へ!」

「小賢しい真似を、人間風情が我に敵うはずがなかろう!」

 皐月は己の爪を受け止めている刀をそのまま握り込み、一息の内に粉砕する。刀を破壊された巫女は代わりに脇差を取り出そうとするも、その隙を突かれ、鉄をも砕く鋭爪に顔を切られてしまう。目の前で人が死んでしまったと息を呑んだ小夜であったが、その巫女は倒れる事なく、大きく二、三歩ほど後退し、傷を負ったであろう顔の左側を片手で押さえ込んでいた。

 すぐさま、もう一人の巫女が皐月に応戦する。小夜の側に残っていた二人の護衛の内、一人も弓矢を以て援護射撃を始め、もう一方は傷を負った巫女へと駆け寄っていった。

 目まぐるしい状況の変化に気後れ気味の小夜は、自分の取るべき最善の行動を咄嗟に判断する事もできず、ただ立ち尽くして手負いの巫女を見遣った。遠目にも顔が深く抉れた訳ではなさそうだと分かるものの、傷を押さえる手や指の間から血が流れ出しており、あるいは左目が失明しているかもしれなかった。

 つと、小夜は自分の腕の中で銀狐の体が震えている事に気づいた。目は見えずとも一変した場の空気を感じ取ったのだろう。己が殺されるかもしれないと怯える幼子らしい彼女の姿を見ると、小夜は少しの冷静さを取り戻し、とにかくこの子を守らなければと思った。巫女としてこの子を捕まえるためではなく、一人の人間として姉のもとへと帰してあげるために。

 すると、小夜の背後から門の開く音が聞こえてきた。

 振り返れば、分社から大勢の巫女が出撃し、こちらに向かってきている。薙刀を持った騎兵を先頭に、その後ろには刀を構えた巫女が続き、およそ五十以上の人数であった。

 次に門の上を見上げれば、物見から小夜を見下ろしている分司と目が合う。

「小夜! 何をしている、早く中へ戻れ!」

 分司の声を受けて、小夜はようやく己の取るべき行動を定めた。まずは銀狐の不安と警戒を解すために手短な言葉を優しく投げかける。

「銀狐ちゃん、安心して? 私がお姉ちゃんのところへ帰してあげる。だから、今は私に付いてきてくれる?」

 銀狐は声のする方を見上げて、やや躊躇いの色を見せながらも小さく頷いた。それを確認した小夜は目の見えぬ彼女の肩を支えて、分社に向かって走り始める。

 銀狐にかけた小夜の言葉はその場しのぎから出た嘘ではなかった。仮に巫女一族の総意によって銀狐が処刑される事になったとしても、小夜はなんとかして彼女を逃してあげようと心に決めていた。銀狐が残忍な妖怪ではなく自分と同じ女の子供に見えてしまった以上、人としての情けを覚えずにはいられず、妖怪の身に生まれたからといって等しく殺されて良いはずがなかった。それに幼き時分の弓千代様が友を殺されて怒り悲しんだように、銀狐の姉も妹が殺されれば嘆き悲しむはずである。ましてや、今は滅亡した狐一族の生き残りであれば、互いにかけがえのない家族ともいえる存在を簡単に奪って良いはずがない。

 分社の門まで後少しという距離に差し掛かった時、

「小夜! 後ろに気をつけろ!」

 という分司の大声を聞き、小夜は後ろを振り返った。

 ちょうどその時、皐月が巫女達の囲いを振り払って突破したところであった。もはや人の形もなく大鼬の姿になっていた彼女は、他には目もくれずにこちらへ迫りくる。

 皐月の狙いは銀狐だ。そう感じた小夜は彼女を庇うように自分の背後へと押しやると、ほとんど反射的に弓矢を構えて、その矢先を皐月へと定めた。そして、「破魔の力」を込めた矢を放つ直前、ある一瞬の迷いが生じた。

 このまま、破魔矢を打てば皐月に命中するだろう。「破魔の力」の加減がどうであれ、矢の刺さった箇所が悪ければ皐月を滅する事ができるかもしれない。しかし、それで良いのだろうか。先程の話を聞く限り、皐月もまた弓千代様や銀狐のように悲しい過去を持っているに違いないのだ。それならば、死して事の解決とするのではなく、生きて和の解決とするべきではないのだろうか。でも、この破魔矢を打たなかったら、銀狐は皐月に殺される。

 そうした考えから、小夜は番えた矢に「破魔の力」を込めるのを止め、もっと別の力を求めた。悪しきものを滅する力ではなく、邪なものを払う力が欲しい、と。

 破魔矢は次第に淡い紫色の光を失い、代わりに霧の如く繊細な薄桜色の光を纏い始めた。その変化が訪れると共に、小夜の手が自然と引き絞った弓弦から離れていった。

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