第六幕 ―巫女の在り方とは―

 空高く昇った太陽の光を透かす木々の枝や葉が織りなす天蓋の下、馬に乗った弓千代はついに老山の麓へと辿り着いたのだった。

 その馬には彼女の体に覆われるような形で小夜も同乗している。たった一刻でも先へ早く進むためには、かの分社で譲り受けた一頭の馬に二人が跨るしかなく、道の途中では耄厳が何の気まぐれからか“儂の背に小夜を乗せてやろう。さすれば、桜の巫女も思う存分、馬を走らせる事ができるぞ?”と提案してきたものの、妖怪の背へ小夜を乗せる事に甚だ強い抵抗感を覚えた弓千代はそれを拒否したのだった。

 老山を前に、弓千代は一度馬の足を止める。

 仰角を望めば、視界には収まり切らぬほど壮大かつ峨々たる老山がそびえ立っている。自分の属する一族が腰を据える守護大社の大山にも匹敵し、深緑の自然に覆われ連綿とした山脈一帯の頂上には天狗一族の本拠がある事を考えれば、あたかもその老山こそが我々人間の地を見晴かしているともいえるだろう。それに加え、守護大社の浄化された空気とは違い、辺り一帯が天狗という妖怪の持つ重苦しいもどこか馴れ馴れしい妖気で満たされている事が、彼女にとって非常に不愉快であった。

 老山の奥まったところでは、天狗一族の奴らが人間を真似た生活を送っていると聞く。かつて狐一族を討滅して以来、妖怪界隈の筆頭として繰り上がった奴らを今の今まで中々攻められずにいたというに、まさかこんな形で私が老山へ足を踏み入れる事になろうとは。

 弓千代が嫌悪感を隠し切れずに顔を歪ませていると、それを半ば面白がるような様子で耄厳がせせら笑う。

“桜の巫女よ、お主の考えておる事が手に取るように分かるぞ? だが、その憎悪と嫌悪は一旦収める事だ。以前にも申したように、あやつら天狗一族には千里先の出来事を見通し、万里先で囁かれる噂を聞く先視役がおる。儂らがこれから老山を登ろうとしておる事は、すでに天狗の知るところ。敵意を剥き出しては、交渉の余地すら得られぬぞ”

「黙れ。そんな余計な忠告するより、奴らとどう話をつけるのかを考えていろ」

 鋭く尖った語気と視線を以て、弓千代は耄厳を見返した。

 いつもであれば耄厳の戯言など聞き流している弓千代であったが、禁忌領の、しかも老山という妖怪最大の一族がはびこっている土地の最中にいては、いつも以上に沸き立つ苛立ちの感情を抑えるのが難しかった。耄厳の老いた声ですら癇に障る。

“分かった、分かった。そう昂ぶるでない。儂に当たるのは構わぬが、……ほれ、小夜が怯えてしまっているぞ?”

 そう言われて、弓千代はふと小夜へ目を遣った。身を置く環境が環境なだけに気が張っているとはいえ、まるで妹のように親しき仲にある小夜に怯えられたと考えると、さすがの弓千代も心に傷が付くのを感じてしまうのだった。

 手綱を握る弓千代の両腕に包まれて馬の背に跨る小夜は、その会話の流れと弓千代の視線で察したように、慌てた様子でこちらを振り返る。

「そんな事ありません。弓千代様の毅然としたお姿は、どんな時であってもとても凛々しいです。それを怯えるなんて。耄厳さんも、急に変な事を言わないで下さい」

 小夜は怒っているとも困っているとも取れる調子で耄厳にそう言ったものの、強気な言葉の割に口調は優しかった。それを受けた耄厳も、軽い態度で笑いを漏らす。

“それは悪かった。儂の目もどうやら衰えているらしいな”

 弓千代は小夜が自分に怯えていなかったのだと知り、ほっと安心する。自分にとって小夜とは、唯一安らぎを与えてくれる存在と言っても過言ではない。同じ『護ノ巫女』にある他の者との付き合いとはまた別であり、彼女はどんな事にも素直でありながら妖怪を滅すための修練を積んでいるとは思えぬほど純粋な心を持っているため、弓千代も本当の意味で自分らしさを保ったまま接する事ができるのだ。

 だからこそ、小夜が妖怪である耄厳とこのように親しくするのを見るのは、どうも複雑な心持ちがするのであった。

 妖怪は絶対的な悪である。これに間違いはない。だが、元より妖怪に対して特別な敵意や憎悪を持っていない小夜が何の疑いもなく奴と接しているのを見ていると、彼女の行動は巫女一族の人間として軽率だと思う反面、妖怪との対話がさほど困難を極めるものではないように感じられるのだ。数年前、ただお輪の仇を討つためだけに力を欲し感情を殺した日々を送っていた弓千代の心を解きほぐしてくれたのも、そんな小夜の無垢な言動であった。もし、小夜のように振る舞えたのなら、私も相手が妖怪か人間かなど関係なく耄厳と接する事ができるのであろうか?

 そうした可能性を思い浮かべたの束の間、弓千代は咄嗟にその考えを振り払った。それは甘い考えであり、ただの気の迷いだと。

「さあ、行くぞ。ここからは天狗一族の総本山たる老山、言うなれば何千何万の敵軍へ単身で乗り込むも同義。小夜も気を引き締めろ」

「はい!」

 弓千代は自分の腕に触れる小夜の肩から緊張の糸が走るのを感じながら、手綱を操り、馬の足を進め始めた。老山の麓へ辿り着く直前に耄厳から聞いていた、山頂へと続く一本の道を見つけると、そこより山頂を目指して登っていく。鬱蒼とした森林地帯より脈絡なく現れたその道は、人間が踏み固め均していった山道に良く似ており、行く手を遮る木々も空を隠す枝葉もなく歩きやすい道幅をしていた。

 麓より山道を登り始めて間もなく、山のどこからか木の葉を吹くが如く一陣の風が起こる。

「そこな巫女、立ち止まれ」

 張りのある声を響かせるも正体を見せぬ何者の警告を受けて、弓千代は馬の足を止めた。決して声の主の警告に従った訳ではなく、相手の出方を窺う事に加えて、そやつのいる位置を掴むためであった。

 彼女は神経を研ぎ澄まし妖気を探ろうとするも、すぐにその行為がさほど意味を成さぬ事を知る。ここは天狗一族の住まう老山故、様々な妖気が混ざり満ち溢れている。人間の土地にあれば妖怪の気配など嫌でも際立つため察知する事など容易いものの、妖怪の山でそれぞれ個々の妖気を特定するとなれば、森の中でありふれた一本の木を見つけ出そうとするも同じく骨の折れる行為に他ならない。『護ノ巫女』であるさすがの弓千代も、自分の周囲に複数の妖怪が身を潜めているという漠然とした事しか分からず、もどかしさと苛立ちを覚えた。

 弓千代が周囲へと意識を向けて妖気を探っている事など気にせぬとばかりに、張りのある声は続ける。

「これよりお前が往こうとするは、我が天狗一族の里であるぞ。何故、巫女であるお前が手勢を伴わず老山を訪れたのかは知らぬが、これ以上歩を進めるのであれば、哨戒を任されし我々も容赦は出来ぬ」

 それを聞いた弓千代は返答に迷った。

 ここで正直に「妖狐の足取りを掴むために先視役の力添えを頼みたい」と言うのは、あまりに腹立たしい事この上なく、奴らもそれを素直に承諾してくれるようには思えぬ。とは言え、強行突破しようにもこの身一つの力だけでは大勢たる奴らを屈服させる事など出来まい。果たして、どう答えるのがこちらに最も都合の良い形となるか。

 そう弓千代が頭を悩ませていたところ、彼女の後ろにいた耄厳が悠然とした動作で前へと進み出る。

“天狗よ、儂は狼一族の内一派を率いておる耄厳と申す。儂らがここへ参った理由は他でもない。巷ではとうにもっぱらの噂となっておる、かの狐一族の生き残りに関する事だ。これは人間だけでなく儂ら妖怪の身にも関係する問題である故、まずはその居場所を突き止めるべく、お主らの先視役の助力を願いに来たのだ”

 宙の一点を見据え言い分を述べた耄厳の声は、老山の森林へと染み渡るように明瞭なほど響き渡った。いや、少なくとも弓千代にはそう感じられたのだ。奴の声は音を発しない妖気を以て意識へと語りかける性質であるというのに、あたかも実際の人語を発しているかの如く、淀みなく真っ直ぐとした思念だった故に。

 奴の言葉を聞いて、張りのある声の主も若干の戸惑いを覚えたのだろう。しばし山を吹き抜ける風の音が細かに聞き取れるほどの沈黙を作る。耄厳の発言にどう対応すべきか考えているのであろう事はそこに生まれた間から察せられたが、それも長考を必要とするほどの問題ではなかったらしく、どこから草木を掻き分ける音とともに一体の天狗が弓千代達の前に姿を現した。

 直後、山道の脇に生える木々や藪から複数の天狗が飛び出したかと思うと、奴らは手に持つ槍を構えて弓千代達を包囲する。

 まずい、このままではこちらの動きが封じられる。瞬時に退路と間合いを確保すべきだと判断した弓千代が刀に手を掛けたその時、

“待て”

 と、耄厳の短くも小さな声が弓千代に届く。

“あくまで儂らは天狗へ願いを請う立場、山に入って早々牙を向いては進む話も進まなくなろう。ここは儂に任せてくれまいか”

 そう弓千代や小夜だけに届くよう告げた耄厳は、相手に打算的な意図を気取られないようにするためか、こちらへ一切視線を送る事なく正面の天狗を見つめ続けている。

 奴の言う事を聞くのは気に食わなかったものの、この場は妖怪同士で話し合う方がより合理的であるとも思え、また耄厳を連れると決めた当初からも妖怪との交渉は奴に任せるとしていた故、弓千代は渋々ながらも抜刀しかけた刀の柄から手を離した。

 その彼女の所作を目聡く観察するのは、彼女達の正面へ最初に現れた天狗である。

 一見その身なりから山伏のようであるが、良く見れば頭頂部には人間の耳の代わりに生えた犬の耳が二つに、腰から垂れた一つの尻尾、そして狼のように伸びた無造作な長髪という特徴から奴が狗賓という天狗の妖怪である事は見て取れた。奴の堂々とした佇まいを見る限り、弓千代達を取り囲む同種の狗賓の中でも高い序列を持っているのであろう。

「解せぬな。お前は狼一族、何故その狼が巫女に手を貸す」

 真意を推し量ろうとするような狗賓の目つきに奴の持つ槍の矛先を向けられても、耄厳は少しも臆する様子を見せない。

“儂は確かに、一時的にこやつらにだけ手を貸しておるが、巫女一族そのものに加担しとる訳ではない。先程も申したように、此度狐一族の生き残りが現れた事は、人間も妖怪も互いに憂慮すべき問題であろう。なればこそ、ここは人間も妖怪も関係なく、一度協力して事に当たる方が良かろう”

 真面目な面持ちでそう話した耄厳に対して、頭らしき狗賓は大きく鼻で笑い返す。

「我々と、そこな巫女とでは『憂慮』の意味も違うだろう。我々天狗はかつて滅ぼされたとばかり思っていた盟友の生き残りの身を案じての憂慮、対して巫女一族が憂慮するは、その狐一族の生き残りによって妖怪勢力が再び拡大する事……、違うか?」

 耄厳の言葉を詭弁だと嘲笑うかのように笑みを浮かべる奴は、そのまま耄厳から弓千代へと視線を移し、こちらの反応を窺うような態度を示す。

 その視線を受けて、弓千代は口端をきつく引き締めて見返した。天狗特有の馴れ馴れしい口調は依然として気に入らなかったが、当たらずといえども遠からずという狗賓の指摘には返す言葉も見つからず、こちらの形勢が不利である以上は耄厳の交渉に任せるしかない。どちらにせよ、狐一族の問題が片付けば、次には今後の脅威になり得る天狗一族を滅すつもりに変わりない。今は一刻を争う有事の解決が先決であると己に言い聞かせ、弓千代は抜刀したくなる衝動を抑えるのだった。

“まあ、お主の言う事もあながち間違いではない”

 耄厳は顔色を変えぬまま続ける。

“だが、儂は違う。儂は特別、狐一族を擁立して巫女一族を討ち滅ぼそうなどとは考えておらぬ上、ましてや狐一族の生き残りを見つけて喰い殺そうとも思っておらぬ” 

「なれば、お前の真意は?」

 勿体振った耄厳の話し方に堪えかねたように、頭らしき狗賓は鋭い問いを投げかけた。

 その問いを受けた耄厳は、何か思うところがあるようにつと目を伏せる。それから一拍の間を空けた後、再び視線を上げるとゆっくりと口を開く。

“平和を生きる命を守るためだ”

 奴の短い言葉は、この場に一瞬の沈黙を作り出した。

 事の成り行きを見守る弓千代のみならず、彼女達を取り囲んでいた哨兵の狗賓らは耄厳の言葉の意味を探るよう互いに顔を見合わせ、頭らしき狗賓も思いもよらぬ答えが返ってきたとばかりに眉をひそめている。

「それと、お前が巫女と行動を共にしている事とは何の関係がある?」

“儂がこの巫女に手を貸すのは、ただ一重に、妖怪に対する巫女一族の考えを改めさせるためなのだ。妖怪全てを絶対的な悪だと信ずる巫女一族に、儂ら狼一族は滅せられ、年々その頭数を減らしておる。いや、狼一族だけではない。お主ら天狗一族もそうであり、またかつての狐一族はその結果がこれであろう。人間が妖怪の事を良く知らぬから、外道非道を極める一部の妖怪を見た奴らは恐れ、絶対的な悪だと滅しようとするのだ。そのために、善良な妖怪や尊き身内まで奪われてはもう我慢ならぬ。かと言って、儂ら妖怪が人間を殺めれば、結局はあの狐一族のように巫女一族からの報復を受ける事になろう。なれば、人間も妖怪も関係なく、平和を生きる命を守るためには、互いの認識を改める必要があるのだ”

 耄厳の声は次第に熱を帯び、語り口調から相手の心に訴えかける口調へと変わってゆく。

“分からぬか? これはまたとない好機であろう。お主らも、この巫女の事は良く知っておろう。この桜の腰巻き、妖怪の中で恐れるものも多い『彼岸の弓取り』と称される『護ノ巫女』に相違ない。こやつの妖怪に対する考えさえ改める事ができれば、巫女一族全体に働きかける事もできよう”

 その話を聞き終えると、弓千代達を囲む狗賓らが傍に立つ仲間内同士で囁き合い始める。そのざわめきから漏れ聞こえる内容からは、奴らが耄厳の話を真剣に捉え、自分達がどう行動を取るべきかを考えている様子が窺えた。

 一方で頭らしき狗賓は険しい表情を保ったまま、「静まれ!」と一喝し、口々に意見を交わしていた仲間内の空気を収める。まだ納得のいく答えを得られていないというように、奴は変わらず耄厳を睨み続けている。

「お前の真意は分かった。だが、それ故に、我々天狗が巫女に力を貸す義理などない。盟友狐一族の生き残りを滅しようとしている巫女に、みすみすその居場所を教えるはずがなかろう」

 毅然として道に立ち塞がる奴の頑なさに半ば呆れたように、耄厳は首を横に振る。

“二度は言わぬぞ。これはまたとない好機。巫女一族の重役たる弓千代が儂の言を信じ、ここまで僅かな手勢すらを引き連れず、お主ら天狗と対等に話し合うために老山へ赴いたのだ。今この機を逃せば、こやつら巫女は総出を挙げて狐一族の生き残りを炙り出し、それを滅した後にでも、次は天狗一族の総本山たるこの老山へと攻め入り、狐一族の二の舞いとすべく力を振るうぞ。そうなれば、儂ら狼一族の存亡とて危うい。巫女を憎めど人間を好み、進んでその生活や道義を取り入れるお主ら天狗であればこそ、無益な殺生は望まぬはず”

 その話を黙して聞いていた頭らしき狗賓は己の取るべき行動を考えあぐねているのか、眉間に深い皺を刻んだ顔つきでじっと佇む。弓千代達を囲む狗賓らも声一つ発する事なく事の行方を見守っていたところ、奴はつと耄厳から弓千代へと目を遣る。

「巫女よ。お前は、狐一族の生き残りを見つけた後、何を成そうと言うのか?」

 その問いかけに、弓千代はすぐさま答えるべき言葉を考える。

 あの天狗は今、耄厳の言葉に心を動かされている。道義だの義理だのと人間の真似事をするだけあって、どうも人間じみた情を覚えるらしい。こちらとしては妖狐の居場所さえ分かってしまえば、その後の行動などいかようにも取る事ができよう。それ故に、ここは特段嘘を吐く必要はなく、真実を口にすれば天狗どもはこちらの事情を都合良く解釈するだろう。

「私はひとまず、妖狐を捕らえるつもりだ。奴らの姉の方には禍々しい呪詛が掛けられておる故、下手に滅しようとすればそれが暴発し、我々巫女だけでなく貴様ら妖怪にも災厄が降りかかるやも知れぬ。その最悪の事態を未然に防ぐべく、まずは妖狐の身柄と安静を確保したいのだ」

「呪詛だと?」

「ああ、私も一瞬のみ、その災厄を垣間見た事がある。突如風が吹き荒れたかと思った刹那、妖狐の姉の方が邪悪なる『九尾の狐』そのものに姿形を変え、周囲を火の海へと変貌させたのだ。その時でさえ、妖狐は呪詛の力を完全に解放し切れていなかった様子。もし、その呪詛が暴発するような事があれば、あれはもはや理性など保っておれまい」

 これで何度の沈黙となるのか、頭らしき狗賓は再び口を閉ざして目を伏せた。が、それも数秒にも満たぬ間であって、奴は意を決したように近くの狗賓に声を掛ける。短いやり取りを二言三言交わしたかと思えば、その声を掛けられた狗賓は山の上へ狼の如く走り去っていった。

 頭らしき狗賓は態度を改めるように弓千代達へ向き直る。

「……事の次第は分かった。だが、最終的な判断を下すのは、我が一族の長『大天狗』様である。使いの者を遣って指示を仰ぐ故、しばし待たれよ」

 槍の矛先による包囲網の中、弓千代は馬の手綱をしかと握る。妖狐の足取りを掴むための機会がもう少しで得られるかもしれないものの、自分が置かれている場所と状況を考えれば、決して気を緩める事などできない。天狗一族の懐にいる内は、一瞬たりとも隙を見せぬよう神経を研ぎ澄ましておかなければと、彼女は意識を改める。

 しばらくして、山道の脇に生い茂る藪の中から、一刻ほど前に山の上へと走り去った狗賓が帰り戻ってきた。僅かな時間で登山と下山をしたというのに息切れすらしていない奴は頭らしき狗賓の傍に駆け寄り、手短に耳打ちをする。

 遣いの報告を聞いていた頭らしき狗賓は束の間、何かを訝るように眉をひそめる。その報告の内容を一通り伝えたと見えた後、奴が遣いに向かって「それは真か、『大天狗』様がそう仰ったと?」と問い返し、遣いの狗賓は「はい、確かに」と答えた。何やら、奴らの想定していた以上の指示が返ってきたようである。

「巫女よ。お前の言う事を、『大天狗』様は聞き入れて下さるそうだ」

 頭らしき狗賓はそう告げた。

「ただ、一つの条件付きで、との事だ」

「条件だと、私にどうしろと言うのだ?」

「お前と一緒にいる巫女、その娘を人質として我々に預けてもらおう」

 頭らしき狗賓が槍で指し示した巫女は、馬上で弓千代の前にいる、即ち小夜の事に他ならなかった。小夜もまさか自分に声が掛かるとは思わなかったのだろう。突然の事に驚き呆れて何も考えられないといった様子で唖然としているのが、弓千代と触れる彼女の体の反応からも窺えたのだった。

「戯言を抜かすな。大事な身内を、貴様ら妖怪の手に渡すと思うのか?」

 弓千代は心底湧き上がる怒りを露わにし、今にも妖打を手にして破魔矢を放たんとせん勢いを見せる。それに対して、頭らしき狗賓は極めて冷静な態度を保ったまま話を続ける。

「安心しろ、お前が天狗の里にいる間だけの事だ。里の中では護衛を付けてお前の目の届く範囲に置き、里を出ればすぐに解放しよう。いくらお前達が無勢とは言え、巫女一族を我が里へ迎え入れるとなれば、我々もそれ相応の警戒をしなければならぬ。ただでさえ、『大天狗』様が巫女の頼みを聞き入れて下さるだけでも、寛大な待遇なのだ。これも当然の譲歩だと言えるのではないか?」

「貴様……!」

 図に乗るな――そう弓千代が口にしかけた時、“落ち着け、桜の巫女”と耄厳が口を挟む。

“天狗の言う通りだ。特にお主は、儂ら妖怪の中では『彼岸の弓取り』と恐れられる巫女一族でも屈指の強者、警戒するに越した事はない。何、天狗は一度取り交わした約束は違えぬ。少なくとも、護衛を担う天狗が小夜を殺めるような真似はせぬよ”

「はっ、妖怪の言う事など信じられるものか」

 かつて、私は大事なお輪を妖怪に奪われた。あの時、私が彼女から目を離さなければ、妖怪の気配を察知しそれを滅する力があれば、お輪は死ぬ事もなかったはず。だからこそ、私は同じ悔しい思いをせぬよう妖怪を根絶やしにするよう巫女一族へ入門し、『護ノ巫女』を襲名した今もなお『破魔の力』を磨き続けているのだ。ここで大事な小夜を人質として妖怪へ渡すなど、そんな愚を誰が犯すものか。

 そうした思いを巡らせている弓千代の心境を見透かすように、耄厳は彼女へと向ける目元を優しく細めた。

“お主の考えておる事は良く分かる。小夜の身を案じておるのだろう。だが、今、お主の成すべき事を見誤るでないぞ。天狗の助力に与る機会は、そうそう訪れるものではない。ましてや妖狐の行方が杳として知れぬのであれば、この好機を失する事こそ愚行であろう。……そうだな、お主の思考を先んじて答えておくのなら、儂は何も悪い事を企んでおらぬぞ。ただ、桜の巫女の妖怪に対する考えをどう改めさせようか、それを思案しているだけなのだからな”

 耄厳の的確な諫言に、弓千代は悔しさを覚えながらも閉口するしかなかった。

 妖怪である耄厳から諭される事自体に激しい苛立ちを感じていたものの、奴の言う事には一理あり、現状における最善の手は目の前に転がっているのだという事実には彼女も気づいていないはずがなかった。それでもその手を打つのに躊躇するのは、一時的にとはいえ妖怪の手に小夜を渡すという手段を取らなければならないからである。

 弓千代も頭の中では理解していた。妖狐の問題は一刻を争う事態である。少しでも早く妖狐を捕らえて呪詛の暴発を防がなければ、守護大社にて奴ら姉妹の処刑時に起こったそれとは比べ物にならぬほどの災厄が、この世に降りかかるやも知れぬのだ。それでも絶対悪と信じて疑わない妖怪の、しかも天狗一族の奴らに小夜を人質として預ける事を考えると、どうしても強い抵抗感を覚えずにいられない。

 天狗の提示した条件にどう返事をすれば良いか、弓千代が頭を悩ませていると、不意に「あの、弓千代様」という声が聞こえてきた。彼女が声のした眼下を見遣れば、そこには弓千代の顔を覗くように振り返った小夜の顔があった。

「私、あの方達の条件を呑みます」

 あまりに思い切りの良い小夜に対して、弓千代は反対の声を上げようとした直後、つとそれを思い留まる。

 よく見れば、その小夜の表情には先程までの唖然とした戸惑いの色はなく、自分なりに一つの決意を抱いたというような様子がしかと表れている。それこそ、妖狐捜索のために守護大社を出たばかりの当初は弓千代への意見すらもどこか自信なさげに呟くばかりであった彼女が、少しずつ成長している証であった。

 自分で考え行動するという事を学んでいる彼女の成長を止めてはならない。分社での出来事もあり、小夜の意志を尊重しなければなるまいと考えるようになっていた弓千代は、彼女の発言に背中を押されて決断する。

「分かった。だが、小夜、危険だと感じたら迷わず逃げるんだぞ?」

「はい」

 頬を引き締めた面持ちのまま、小夜は弓千代と同乗していた馬から降り、頭らしき狗賓の前へ近寄っていく。それを馬上から見送っていた弓千代は、その小夜の肩が僅かに震えているを知っていた。緊張と恐怖が混ざって不安であろうに、自分のためを思って勇気を振り絞り行動しているのだと考えると、弓千代は胸を揺さぶられるような感動を覚えるのだった。

 小夜は狗賓の前まで来ると、その身に携えていた弓と矢筒を外して奴へと差し出しながら、人間を相手にするのと同じく礼儀を示すように頭を下げる。

「私は巫女一族の修練者、小夜といいます。これは、私が持っている弓と矢全てです。その……、貴方達の条件を呑んで人質になりますから、どうか私達を助けてくれませんか?」

「……よかろう」

 狗賓は小夜の差し出す弓と矢を受け取り、彼女に頭を上げるよう促す。

「こちらが提示した事とはいえ、自らの足でその身を質とするとは、幼い娘ながら見上げた度胸だ。お前、いや、小夜といったな。小夜が意地と礼節を示したとなれば、我々天狗一族もそれに応えねばなるまい」

 小夜の差し出した弓と矢を受け取った奴は、それらの武器を別の狗賓へ預けてから、自分の身なりを正す仕草を見せる。

「我は白狼(はくろう)、化名を左近(さこん)。小夜の護衛には我の最も信頼する部下二名を付ける故、そう案ずる事はない。あの巫女に他意がなければ、里を無事に出られるよう配慮する」

 小夜が妖怪に侮られている様子は弓千代にとって心中堪え難いものであったが、今感情のままに矢を番えれば、こちらに明確な敵意ありと判断され、妖狐の行方を知る好機を逃してしまう事になる。総巫より賜った命、そして巫女一族の『護ノ巫女』の務めを果たすため、弓千代は密かに歯を噛み感情を抑える。

 弓千代の心情をよそに、頭らしき狗賓に指名された二体の天狗が小夜の両脇に控える。すると、彼女達を囲っていた奴らはその包囲を解き、頭らしき狗賓も潔い所作で山頂へと続く道の片側へ寄ったのだった。

「まずは、人質である小夜を往かせる。次に、数間ほどの距離を取って、そこの巫女と耄厳は進み始めるが良い」

 奴の言った通り、二体の狗賓に挟まれながら歩き始めた小夜が数間ほど進んだところを見計らって、弓千代と耄厳もようやく歩を進める。妖怪の指示に従うという屈辱の意を面に出さぬよう、弓千代は己の所作に重々注意を払いつつ、頭らしき狗賓の前を通り過ぎる。

 その際、弓千代は一瞥した奴と目が合ったように思った。本当に一瞬の事だったため、そう思った直後には、奴の視線を背中に受ける形となっており、弓千代を見る頭らしき狗賓の瞳がどのような感情を秘めていたのかを知る事はできなかった。多少気になる事ではあったものの、自分に向けられた妖怪の視線など高が知れていると思った弓千代は、わざわざ背後を振り返る事はしなかったのだった。

 そのような瑣末な事よりも、数間先を歩く小夜の身の方が心配であった。まだ「破魔の力」も上手く扱えず実戦経験の浅い小夜は今、弓矢どころか短刀の武器すら持たない丸腰の状態である。もし、弓千代が別の事に気を取られている内に奇襲を受ければ、抵抗する術も無い小夜はたちまち窮地へと陥る事になろう。

 特に弓千代達が足を踏み入れているこの地は、天狗一族の総本山・老山である。天狗の里へ入ってしまえば最後、それは退路のない敵軍の陣中に単騎で乗り込む将と同然の状況となってしまう。四方八方のどこへ目を遣ろうとも、そこには敵意を露わにする天狗共がひしめき合っているのだ。そのような状況下で、いざ有事の起こった際には如何にして小夜を守れば良いのか。

“桜の巫女”

 馬の手綱を操る弓千代が半ば思考に耽っていたところ、その隣を歩く耄厳が人の囁き声よりも小さな思念を以て、弓千代へと声を掛けてきた。

“そう案ずるな。念のため、儂も小夜の身には気を配っておく。もし、儂の言を信じて老山へと入ったお主らへ天狗達が手を出そうものなら、それを儂は身を挺して諌めよう”

 そのような言葉を出す耄厳の目を見れば、奴が上辺だけの恰好で物を申していない事は薄々感じられる。だが、所詮妖怪の甘言に過ぎぬ。人間を惑わす事が得意である妖怪の言葉など信じられぬと、弓千代は耄厳の言葉を聞いて聞かぬ振りをし、黙って馬の手綱を操り続ける。

 耄厳もはなから弓千代の返事を期待していなかったのだろう。そんな弓千代の態度を受けても、奴は何か不平を漏らしたり表情を変えたりなどはせず、言いたい事は言ったとばかりの雰囲気を出すだけであった。

 そうした耄厳の言動を体裁上は無視したとはいえ、弓千代の心境ではその実、多少なりとも思うところがない訳でもなかった。耄厳を連れると決めた当初、お互いに利害の一致がしているという理由で一時的に行動を共にしているだけであるものの、先程の天狗との交渉では自らの立場を危うくしてまで弓千代の立場を立ててくれたのだ。また、老山に入る前の分社での事といい、何らかの企みがあるにしては奴の言動には些か人情味があるように感じないでもなかった。

 それでもあの幼き頃の記憶が脳裏を過ぎれば、弓千代はそのような甘い考えをすぐに打ち消すのだった。妖怪は憎むべき絶対悪であり、奴らが人間じみた情など持ち合わせるはずがない、と。孤立無援たる老山に留まる間はいつも以上に非情とならなければ、過去にお輪を失った時のように、今度は小夜さえも失う事になるのだ。

 張った糸のように全身へ緊張を走らせつつ馬の足を進める事数刻、弓千代は行く先から大量の妖気が密集した濃い空気の流れを感じ取った。気づけば、山道の勾配は麓よりも緩やかで平らなものへと変化しており、木々の薄い崖のような地形となっている左手から望める地上もすでに遥か遠く、眼下には鬱蒼としながらも静謐な薄霧の衣を纏った深緑の森林地帯をみはるかす。巫女一族の総本山である守護大社のものと負け劣らぬ壮大な景色ではある。ここ一帯が妖怪の巣窟でなければ、弓千代も口から賛辞を零していたであろう。

 そろそろ老山の頂上なのだろう。そう弓千代が改めて気を引き締めると、山道の先に里の入り口と思われる関所が見え始めた。山という天然の要害に加え、その関所はやや高めの塀を備えた砦のような造りをしており、両脇に二、三体の見張りを備えた小さな櫓を構えていた。

 この門構えを見た弓千代はつと、巫女一族がこの老山へ攻め入った場合の想像をつける。このような関所と見張りの数であれば、大軍でなくとも少数精鋭で里へ侵入する事も容易い。だが、そもそもこの関所に辿り着くまでに多くの犠牲が出る事は想定され、巫女一族の軍は地の利を得ている天狗一族の逆落しを受け、前線で壊滅状態へと陥るであろう。将来訪れるであろう天狗一族との総決戦に備えるべく、この機会に里の構造や守兵の配置を頭に入れておかねばなるまい。

 狐一族の生き残りを見つける事とは別の、新たな腹積もりを抱えながら、弓千代は数間先を歩く狗賓と小夜の姿を目で追う。ここから奴らがどのような行動に出るのか、どんな事態が起ころうともすぐさま対応しなければならないのだ。

 小夜が関所の前まで来ると、彼女を引き連れている二体の狗賓が櫓にいる見張りへ何やら声をかける。する内に、関所の門が開いたため、小夜と狗賓二体は里の中へ入場したところですぐに立ち止まり、数間後ろに続いている弓千代達を待つようにこちらを振り返ったのだった。

 奴らは弓千代を見遣るだけで特に「そこで止まるように」との指示を出す訳でもないため、弓千代は馬を止める事なく進み続ける。

 丁度、弓千代の馬が関所の手前まで迫ったところ、その門より向こうから体格の良い烏天狗一体とその従者と思われる天狗が二体姿を現した。内、体格の良い烏天狗から並ならぬ妖気が漂っており、他の天狗どもとは明らかに違う雰囲気が醸し出ている。事実、体格の良い烏天狗の前で弓千代が馬を止めた時、馬上から見下ろしているはずの奴がこちらよりも巨大な体躯をした妖怪であるように錯覚するほど、底知れぬ威圧感を秘めていた。

 弓千代はすぐさま、奴が天狗一族の中でも高い地位と権威を持つ天狗だと察した。将軍の纏う当世具足を思わせる恰幅の良い羽織に、上質な鼻緒を締めた高下駄を履き、大山の如く直立した佇まい。無作法な濡羽色の短い髪の中には青年のように整った相好があり、両の瞳は烏天狗に相応しい漆黒を湛えていた。いつぞやに相見えた捷天を想起させる容姿である。

 弓千代の警戒心を汲んでか、体格の良い烏天狗は恭しい所作で彼女に一礼する。

「お待ちしておりました。私は、天狗一族二百六十七代目『大天狗』の嫡男、その次男たる盈咫(えいし)と申します。こうして、巫女一族の『護ノ巫女』である弓千代様とお会い出来た事を光栄に思います」

 盈咫が頭を上げて次の言葉を継ごうとした瞬間、

「世辞は良い」

 と、馬上から弓千代が張った声を飛ばす。

「我々巫女一族が、貴様ら天狗に好く思われていない事は分かっている。用が済めばすぐに立ち去る故、案内は手短にせよ」

 弓千代の発言によって、その場にいた天狗どもに殺気を混じえたような緊張した空気が走った。関所の櫓に立つ見張りや盈咫の従者である天狗の憤りを帯びた視線が一斉に弓千代へ注がれる。傍にいた耄厳は彼女の態度に対して文句を言いたそうな素振りを示すも、それを察していた弓千代はあえて黙殺し、明確な敵意を以て盈咫を見下ろし続ける。

 そうした彼女の言動を咎める様子もなく、盈咫は柔らかな物腰で言葉を返す。

「誤解なされぬよう。我々が弓千代様を迎え入れたのは、ひとえに無益な争いは避けたいという『大天狗』のご意志。昔から人間との共存の道を探しておられたからこそ、これが好いきっかけになればと、『護ノ巫女』である貴女の要望を聞き入れたのです」

 盈咫の話を滑稽に感じた弓千代は鼻で笑い飛ばす。

「人間と共存だと?」

「左様、我々天狗一族が人間の文化を積極的に取り入れているのもその証。巫女一族は勘違いをされているが、昔から我々はたった一度も人間に危害を加えた事はないのです。人の身をやつし人間の生活に紛れる事はあっても、それは敵意からでありません。むしろ、親しみを覚えるが故です」

 盈咫の主張を聞いて、弓千代は笑い出したくなる衝動を無表情で抑える。

 天狗が一度も人間に危害を加えていないという虚言はもちろん、人間に対して親しみの念を抱いているなどおかしな話だ。絶対悪である妖怪がそのようなでまかせを言うのは、この私を油断させ始末せんとする『大天狗』の画策であろう。実に天狗らしい小賢しい真似だ。

 いつもの弓千代であれば、このように讒言を弄する妖怪を前にすれば問答無用で滅していたが、今は状況が状況であるため抜刀したくなる気持ちを必死で落ち着かせる。

「貴様らの考えは承知した。では、先視役とやらへの案内を願おうか」

 彼女の突き放す態度を意に介す素振りもなく、盈咫は小夜を伴う狗賓へ先を往くよう手で促す。小夜と狗賓が歩き出したのを確認してからか、盈咫は弓千代の方を振り返り、「こちらへ」と一言だけ発して先導し始めた。

 関所の門を潜ると、そこはまさに砦という空間になっていた。侵入者を狙撃するための弓兵を立たせた櫓が二つ、籠城戦を視野に入れた簡易な兵糧蔵、武器庫や詰め所と思わしき屋舎などが備わっており、敵の襲撃に対応できる最低限の用意が成されている。敵の襲撃と言えど、奴らの天敵は巫女一族であろうから主に巫女の襲来を想定して作られているのだろう。

“桜の巫女”

 関所を通り抜ける途中、左隣に並んで歩く耄厳が唐突に弓千代へ声を掛けた。

“里へ入る前に、馬を降りた方が良いぞ。余計なお世話であろうが、先程おぬし自身も申したように、巫女一族が天狗からどのように見られておるか分かっておろう。里の多くの天狗がその態度を見れば、いらぬ反感を買いかねん”

 弓千代はあえて返事をしないまま、やや迷ってから馬から降り、その手綱を引いて歩く。

 耄厳の進言を聞き入れるのは腹立たしかったが、明らかな正論を無視する訳にもいかなかった。いくら妖怪が憎くとも、今弓千代が成すべきは総巫より命ぜられし任を果たす事。すなわち妖狐を捕獲する事が私情よりも優先すべき事項であり、それを妨げる可能性のある言動を控えるべき事は、彼女自身もよく理解していた。それでも抑えられぬ感情が露骨に表へ出てしまうのは、妖怪に対する見方を変えられずにいるためである。

 第二の関門を抜け、ついに天狗の里の中へと足を踏み入れた瞬間、弓千代と小夜は一様に天狗の視線を集める事になった。それらの視線の大半は敵意や殺気、警戒といった招かれざる客へ向けられる険悪なものであり、彼女達を一心に歓迎するような雰囲気など一切持ち合わせていない。奴らが巫女一族をどのように見ているのか、それが痛いほど伝わってくる様子であった。

 奴らの視線は弓千代に不快感とは別の、純粋な疑問も抱かせる。『大天狗』が争いを避けたいと考える一方で、その下に集まる有象無象の天狗どもは巫女一族に相当な恨みを抱えているらしく、耄厳の申す通り好意的な感情を持っていない様子。それでは何故、奴らは巫女を除く人間のみに対しては親しみを覚えるのであろうか。

 そうした疑問を抱えながら歩いていた弓千代は、不意に凄まじい殺気と妖気を察知する。咄嗟に抜刀し、振り向きざまに空を一閃した瞬間、甲高くも短い金属音が鳴り響いた。弓千代の向けた刀の先には、薙刀を持った烏天狗が尻餅をついた状態で彼女を睨みつけている。

 その闘志に満ちた目を睨み返しつつも、弓千代は既視感のような感覚を覚えた。一瞬の気の迷いか、その天狗の姿に過去の自分の姿が重なったように思えたのだ。不意打ちに失敗した事を悔しがるよう食いしばった歯を見せる一方で、敵の隙を窺い次の反撃に出ようという、揺るがぬ執念を醸し出すその天狗に。

“恐らく、巫女一族への恨みがあるのだろう”

 互いに睨み合った状況で膠着していると、耄厳が囁くように話しかけてきた。

“一族としてではなく、一人の天狗としての恨みだ。過去に身内を奪われたか、大事なものを踏みにじられたか。同じような過去を持つおぬしであれば、良くわかるであろう”

 耄厳の言葉を聞いて、弓千代は一度納得する。

 確かに、こいつから漂ってくる執念は私と同じものだ。幼い頃、私からお輪を奪った妖怪に対して抱いた深い憎しみと執念、それらの感情を全て力に変えて戦わんとするその姿勢。身に覚えのあるが故に同じ覚悟を持った奴の目を見れば、私は自分自身の姿を見据えている気分になるのだろう。

「だが……」

 刀の切っ先が捉える天狗、その瞳に映った己に言い聞かせるよう弓千代は言い放つ。

「妖怪は絶対悪だ。同じ過去を持とうとも同情には値しない」

 弓千代の発言に反感を覚えたのか、刃を向けられた天狗の眉がより逆立つ。

 呆れるような耄厳の視線を背中に感じながら、彼女は高ぶりかけた心を落ち着けるよう努める。先を急ぐ身故、ここは見逃すべきだろう。そう思って刀を仕舞いかけたその時、自分に駆け寄ってくる複数の足音を耳にし、音のする方へと素早く振り返る。

 見れば、武器を構えた天狗が三体こちらへ飛びかかってきていた。弓千代は即座に刀を構え直し、一体目の斬撃を右へと受け流す。直後、その後ろから残り二体が同時に槍を振り下ろしてきたため、空いている方の手で刀の棟を持ち、それを受け止めるしかなかった。人間以上の力を持つ天狗二体の負荷がかかっては、刃のない棟とはいえど、諸刃を支えるに等しい苦痛が弓千代の左手に襲いかかる。

 このままでは不味い、と無防備になった背後への急襲を警戒すると、思った通り先程受け流した天狗が態勢を立て直し、今にも弓千代へ斬りかかろうとするところであった。その急襲に備えようにも目の前の天狗二体を押し退ける事ができない。思った以上に奴らの執念は凄まじく、刀身に流し込んだ『破魔の力』を以て、天狗二体の妖力を少なからず減衰させているにも関わらず受け止める事しかできないのだ。

 棟を支える弓千代の白き左腕に一筋の赤い液体が伝う。その背後からは、太刀を構えた一体の天狗がじりじりとにじり寄ってくる。

「巫女め、お前のせいで、俺は息子を二人も亡くした。これ以上、家族の命を奪われてなるものか!」

 天狗は太刀を振り上げた。かと思うと、それを振り下ろす直前でいきなり何かに弾かれて地面へと倒れ込んでしまった。奴の手から零れた太刀の地に落ちる音が響く。

 何事かとその天狗にのしかかる何かを見遣れば、それは信じ難くも耄厳であった。抑え込んでいた妖力をいくらか解放しているらしく、人間の頭など一噛みで食い千切れそうな体格になった奴は右前脚のみで天狗の体を押さえ込んでいる。

“愚か者が。軽率な事をしおって……”

 耄厳は天狗側の取った行動を叱責していた。

 弓千代は不思議に思った。奴がどんな感情で動いたにしろ、その行為が結果として弓千代の命を救った事になる。もし、耄厳も天狗と同じように巫女一族の存在を疎ましく思っているのであれば、このような絶好の好機を逃す手はないはず。それこそ、奴らにとっては天敵ともいえる『護ノ巫女』を一人、確実に亡き者とする事ができるのだから。

 そうした驚きを示したのは、何も弓千代だけではなかった。こちらを遠巻きに眺める有象無象の天狗どもに加え、弓千代へ襲いかかっていた天狗二体も同様に、半ば裏切りとも取れる耄厳の行動に呆然としている。

 緊張した状況に訪れた束の間の静寂。その中で弓千代はつと、刀で支えていた天狗二体の力が緩んでいる事に気づく。耄厳の行動には腑に落ちないところもあったが、今は目の前の脅威を取り払う事を優先せねば。

 そう気を取り直した弓千代は棟を支えている左手に力を込める。棟を押し上げる勢いをかりて刀を一振りすると、余所見をしていた天狗二体は別の事に気を取られていたためにいとも容易く吹き飛んだ。両手が自由になるや否や、刀を手早く鞘に収め、妖打へと持ち替えながら矢を番える。

 番えた矢が狙うは吹き飛んだ天狗の急所たる鳩尾。

“止めぬか!”

 自分を制止する耄厳の声を聞いて、弓千代はつと我に返る。ここで天狗を滅してはようやく取り付けた助力の約定が破談してしまう。しかし、本能的に妖怪を滅するよう巫女一族で仕込まれた性故、一度引き絞った弦を緩める事はできない。

 弓千代が矢の向きを変えようと思った時にはすでに遅く、妖打より放たれた破魔矢は空を切り、狙っていた天狗を確実に滅しようとする。もはや天狗の鳩尾に破魔矢が突き刺さろうかと迫ったところ、疾風の如く別の烏天狗が飛び出し、その破魔矢を弾き返したのだった。

「忌まわしい巫女め、貴様のすきにはさせぬぞ!」

 矢を弾いた烏天狗は手に持つ槍を構え直し、必死の形相で弓千代へと襲い掛かってくる。

 これを受けるべく弓千代は弓矢を刀に持ち替えた。間合いを広く取る事のできる槍に短い刀で対抗するのは不利極まりないが、烏天狗のような動きの素早い相手に射程距離を要する弓矢を使うよりは良い。

 今度は下手に反撃をしないよう意識しつつ、敵の繰り出す槍の突きを受け流していく。どうやら烏天狗の戦闘能力は個体差が大きいらしく、この天狗は先程相手をした二体よりも槍捌きが鈍い。身のこなしだけは流石烏天狗といった軽やかさだが、武器の扱いと力量に関しては長年修練を積んできた弓千代のほうが上である。

 これなら然程苦戦する事なく簡単にいなせるだろう。そう弓千代は思ったが、すぐに状況が一変する。野次馬の中にいた他の天狗どもが次々と武器を手に取り、弓千代に向かって攻勢へと転じたのだ。恐らく単騎で巫女と奮闘する烏天狗の勇姿を見て決起したのだろう。

 数で押されては弓千代も不利であった。個々の力は大したものではなくとも、こうも手数による猛攻を受ければ一つ一つの攻撃を受け流す事などできない。

 こうなっては致し方ない、己の身を守るためにはこちらも打って出なければ。弓千代は天狗一族との協力が破談してしまう事を覚悟し、受け身から攻めの姿勢へと転じた。余計な雑念を一度払った弓千代の刀に迷いはなく、確実に妖怪を滅するべく天狗の急所を的確に捉えてはそこへ刃を突き立てようと狙い澄ます。

“止めろと言っておる!”

 天狗どもとの混戦の最中でも、弓千代は耄厳の声をしかと耳にしていた。その声は弓千代だけにではなく天狗側にも向けられたものである事は理解できる。だが、敵が攻撃の手を緩めない以上、こちらも刀を収める訳にはいかない。

 互いに命を奪わんと交わる刃の甲高い音と、「巫女を殺せ!」と煽る外野の声とが入り混じる乱戦の最中、弓千代は視界の端であるものを捉えた。そのあるものが示す事実をしかと確かめるべく束の間手を止めるも、すぐに自分の置かれている状況を思い返し、目の前に迫っていた天狗へ意識を戻す。しかし、一瞬であれ、彼女の見たものは緊急を要するものであった。

 そうした天狗どもとの攻防の中で隙を縫うようにして、弓千代は気になる方向へと目を向ける。

 弓千代より三十間ほど離れた位置、そこに狗賓二体に挟まれる形で立つ小夜がいる。その彼女の背後に一体の烏天狗が忍び寄っていた。奴は手に持った薙刀を振りかざさし、今にも無防備な小夜の背に振り下ろそうとしている。

 このままでは小夜が殺されてしまう。過去の幼き頃に見た、妖怪に喰い殺されたお輪の無残な姿が脳裏を過った弓千代は、彼女を助けるべく弓矢を手に取ろうとする。も、間断なく仕掛けてくる天狗どもの攻撃に邪魔をされ、妖打に手を掛ける事すらできない。

「小夜! 後ろだ!」

 今から駆け出しても間に合わぬと判断した弓千代は声を上げた。

 その声が届いたらしい小夜は己の背後を振り返る。実戦経験の浅い彼女では瞬時に状況を理解し、その場から動く事などできない。

 まさに小夜の体へと薙刀が振り下ろされたと思ったその時、予想外の事が起こった。それは弓千代にとってはもちろん、天狗どもにとっても思いもよらぬ出来事であった故、乱戦状態にあった彼女達は争いの手を止めたほどである。

 なんと、小夜へと振り下ろされた薙刀は、彼女の目の前へと立ちはだかった耄厳がその妖力を解放させた巨体で受け止めていた。人間を一つ睨むだけで畏怖させるような鋭い眼光に険しく刻まれた顔面の皺、棘の如く生えた勇ましい毛並みこそ、奴の妖狼たる真の姿なのだろう。

 奴の秘めたる妖力の凄まじさに弓千代が目を瞠っている一方で、耄厳は己の体に突き刺さった薙刀など意に介さぬよう振る舞う。

“いい加減にせぬか! おぬしらは分からんのか、復讐はさらなる報復を招くのだぞ?”

 奴の発す思念には声を荒げる人間と同様の苛立ちが含まれていた。

 他を圧倒する耄厳の威勢は天狗どもを黙らせたが、しばらくして弓千代と対峙していた烏天狗の一体が気後れをしていたとばかりに口を開く。

「だが、お前達狼一族も、巫女一族の手によって年々頭数を減らしているではないか。何故、仇敵である巫女一族へ肩入れをする?」

 そう問う烏天狗へ耄厳が振り返る。

 奴の表情は実に感情的であった。本来狼に人間のような表情をする事などできない。それにも関わらず、今程発言した烏天狗を見据える奴の目元には、己の主張を聞き入れてもらえぬ憤りと眼前で起こっている争いへの悲しみを湛えているような、それこそ人間じみた繊細な表情を浮かべているように弓千代は感じた。

“儂は肩入れをしているのではない! これ以上、恨み辛みを重ね、罪なきもの達の命が奪われていく事に我慢ならんのだ!”

 まさに狼が一喝吠えるようにそう言い放つと、次には周囲にいる全ての者へ言い聞かせるが如く続ける。

“……良いか? 確かに、この場でお主ら天狗に加勢し、妖怪に仇なすこやつら巫女を喰い殺す事は容易かろう。だが、それをすれば、今度は巫女一族が身内の仇討ちだと決起し、儂ら狼一族や天狗一族を滅ぼそうとするだろう。すると、次はどうだ? 儂ら狼一族や天狗一族の生き残りは、貴き同胞の命が奪われたと憤慨し、まさしく今の状況の如く巫女一族を殺そうとする。そうやって繰り返し行き着く果ては、どちらか一族の勝利ではなく、互いの滅亡なのだ。儂はそれを避けるべく、まずはこやつら巫女一族の妖怪に対する考え方を改めさせようと、こうして行動を共にしておるのだ”

 耄厳の話をどう捉えたのか、周囲の天狗どもは互いに目を見合わせ、耳打ちをするように何かを囁き始めた。驚きを隠せない、あるいは怪訝がるといったような面持ちがその大衆の大半を占めている。恐らく、奴らが口にしている内容のほとんどは耄厳に対する賛同の声ではなく、批判的かつ懐疑的な声であろう。

 それもそのはず。我々巫女一族と妖怪が争いを重ねて早五百年以上。そこに生じた溝がそう容易く埋められるはずもなく、巫女が妖怪に対して堪え切れぬほどの嫌悪感を覚えるのと同じくして、天狗もまた巫女に対して底知れぬ敵対心と憎悪を抱えているのだ。それを今更変えようなどとは無理な話である。

「しかし、巫女を殺さねば、我々が殺されるであろう」

 ほどなくして、先程とは別の天狗が口を開いた。その言葉に同調の意を示すように他の天狗もまばらながら頷いたり声を上げたりし、耄厳の話を切って捨てようとする。

 それでも、耄厳は努めて落ち着けるような口調で反論する。

“だが、儂はどうだ? ここまでこの弓千代と小夜という巫女と行動を共にし、そればかりか先日は巫女一族の分社へ入り、そこで一夜を明かした。だが、儂は生きておるぞ? 巫女の中には儂の言葉と行動へ興味を持ち、僅かながら心を動かすきっかけを掴もうとしている者も幾人かおった。それとも何か、ここまで儂を信じて老山へと足を踏み入れてくれたこの二人を、この場で無碍に殺すというのか? それはあまりにも、お主達天狗一族の重んじる道義に反する行為ではないか?”

 情に訴えかけるというよりは諭すような話し振りに、天狗どもはつと静まり返った。言い返すべき言葉が見つからないといった様子で皆口を噤んでしまい、武器を取って弓千代へ立ち向かっていた輩などは、完全に勢いを削がれてしまったようで戦意を喪失した佇まいになっている。

「耄厳殿の仰る事にも一理あろう」

 妙な静寂が場を支配しかけた時、それを振り払うような威厳ある声が一つ上がった。

 見れば、その声の主は盈咫であった。それまで弓千代と耄厳、そして天狗どものやり取りを傍観していた奴は、『大天狗』の息子たる厳かな風格を以て大衆へと目を遣る。

「皆の気持ちはよく理解できる。我々の同胞、そして盟友である狐一族を奪われた深い悲しみと怒りは私も同じところ。しかし、この場で彼女達を殺してしまうのは、耄厳殿の仰る通り浅慮な事であり、仁義に反する行為に他ならぬ」

「だが、盈咫様!」

 口を挟もうとした一体の天狗を制するよう、盈咫は片手を上げてから話を続ける。

「弓千代様を我が老山へ招き入れたのは、『大天狗』の御意思である。狐一族の生き残りに呪詛がかかっているという話に、巫女一族の浅知恵の可能性は否めないものの、大昔から付き合いのある盟友狐一族百三十五代目『九尾の狐』の性格を考えれば、それは十分にありえる。加えて、生き残りとはいえ、たかが幼き狐姉妹にこれほど執着するのだから、それ相応の理由があるのだろう。そう『大天狗』は判断されたのだ。故にもし、皆が彼女達へ危害を加えようものなら、私は『大天狗』の御意思に逆らったとして皆を罰せなければならぬ。そのような事、私は不本意だ。どうか、ここは皆も気持ちを鎮めてはくれないだろうか」

 そう言い終わると、大衆へと向いていた盈咫の視線が、次に弓千代のいる方へと注がれる――正確には、その視線は弓千代へ襲い掛かっていた烏天狗らへと向けられていた。

 さすがに一族の長『大天狗』の代弁とあれば、身を引くしかないと思ったのだろう。納得できないが渋々了承したというように、手に持っていた薙刀を地面へと放ると、先程まで闘志を湧き上がらせていた烏天狗どもは肩を落とした様子で大衆の方へと戻っていく。

 一体の烏天狗が弓千代の横を通り過ぎる際、彼女は其奴から一瞥の視線を感じたように思った。目の前に身内の敵がいながらもその仇を討つ事のできない悔しさを湛えた、その視線を。

「弓千代様」

 名を呼ばれて振り返ると、いつの間にか弓千代の傍に盈咫が立っていた。

「数々のご無礼をお許し下さい」

 そう言いながら、自分に向かって揖をする盈咫を見た弓千代の胸中は、またもや奇っ怪なものを目にした気分であった。

 何故、巫女である私に対して、こうも素直に頭を下げる事ができるのか。此奴は『大天狗』の息子、つまりは天狗一族を統率する立場の妖怪である。それならば、天狗一族が如何に巫女一族の手によって虐げられているのかを一番理解しているはずであるから、憎き巫女へ頭を下げる行為がどれほど屈辱的な事かも痛感しているはずだ。

 そう思うと同時に、彼女は耄厳に対してもこれと似たような疑問を浮かべる。

 先程、奴は小夜を守ってくれた。それも自らの身を呈して傷を負ってまで。もし、奴が私の供をしている事に別の企みあらば、この状況は『護ノ巫女』である私と身内の小夜を確実に仕留める絶好の機会であったのだ。にも関わらず、下手をすれば巫女一族と通じた妖怪だと天狗どもに見なされ、この場で排除される可能性もありながら、私と小夜を庇い立てしたのだ。

 ここにきて弓千代は初めて、心に一抹の迷いを覚えた。今までぞんざいに扱ってきた自分を尊重してくれている耄厳を、果たして絶対悪と断言して良いものか。つい先日、分社を訪れた時も身内からの誤解を受けた弓千代を庇い、今度は命の危険にあった小夜の身を救ってくれたのだ。いくら妖怪とはいえ、そのような義理堅い言動に応えないのはあまりにも不義理ではないのか。

「弓千代様?」

 盈咫の声を聞いて、弓千代はふと我に返る。

「なんだ」

「いえ、何か考え事をなされているのかと。……もし、我が一族のご無礼で気を悪くされたのであれば、正直に仰って頂きたい。弓千代様を招いた我々が礼を欠き、非難を受けるのは当然の事。申し付けて頂ければ、お詫びのしようもありましょう」

 妖怪を前にしていながら、思考に耽ってしまうあまり隙を見せてしまった己の愚を反省しつつも、弓千代は盈咫の丁重な態度にどのように返答したら良いか、一瞬戸惑った。

「……いや、気にせずとも良い。私も己の立場を弁えぬ言動を致した」

 そこまで言って、弓千代は自分の発言に驚く。

 妖怪を相手にしながら己の否を認めるなど、そのように血迷った事はかつて一度たりともなかった。例え、人の身へとやつした妖怪に命乞いをされようとも一切の同情は挟まず、また悪事を働いていないと訴える有象無象にでさえ容赦をしなかった彼女が、ここで初めて情を動かしたのだ。巫女一族として、何より己の理念として妖怪を絶対悪だと信じているはず自身の口から、そのような発言が出た事はいくら気の迷いだったとしても信じ難い事であった。

 何故、無意識の内に、私は本意でない言葉を口走ったのか。その動機を探ろうと考えるもすぐに答えの出るものではないと思った弓千代は、首を軽く振って気を取り直し、小夜の方へと目を向ける。

 よく見れば、何やら不安そうな表情をした小夜が耄厳の体へ手を掛けていた。きっと、彼女を庇ったために受けた奴の傷の具合を心配しているのだろう。「私を守るために、その……、大丈夫ですか?」“ああ、この程度の傷など痛くも痒くもない。それより、お主も怪我はないか?”遠目で眺めるのみで実際の会話が聞こえた訳ではないが、自分のせいで傷ついた奴を労るような小夜とそうした彼女を気遣うような耄厳の様子から、そのやり取りを想像するのは造作もない事であった。

 小夜が妖怪へ情けをかける様子に、不思議と嫌悪感はなかった。妖怪を憎む巫女としての立場から抵抗感は覚えたものの、心優しい小夜の性格を考えれば、その行為は致し方ない事だからである。加えて、認めたくない気持ちはありながら、過去に失ったお輪と同じような悲劇を回避できたといった意味では、耄厳に対して僅かばかりでも感謝の念が湧かない訳でもなかった。

 今までは少しも覚えた事のなかった感情を胸に、弓千代は様々な思いを巡らせながら、先を歩き始めた盈咫の後に続く。

“どうであった、桜の巫女”

 気付けば、弓千代の隣には耄厳の姿があった。小夜との会話を終えたのか、あるいは人質である小夜から離れるようにと天狗から追い払われたのだろう。いつの間にか、体格も元の狼らしい状態に戻っていた。

「何がだ?」

 弓千代が質問を返すと、奴は口を開きかけたところでつと思い直したように黙り込んだ。

“……いや、これをお主に問うのはまだ早かろう”

 今のは気にせんでくれ――そう答えて、耄厳はすっかり弓千代から意識を外してしまったようであった。

 耄厳の言いかけた内容はおおよそ予想できる。巫女一族に対する妖怪どもの考え、天狗一族も人間と同じように感情を持ち生活している事、互いを滅ぼし合う戦ではなく対話という手段の通用する相手であるという事。要は、我々が考えているような絶対悪ではないという耄厳の主張である。

 弓千代自身、今更ながら妖怪は皆絶対悪であるという考えを疑い始めていた。

 そもそも、私にとっての妖怪とはどんな存在であるか。がしゃどくろや鵺、土蜘蛛のような人の言葉を喋る事も理解する事もできず、ただ能面の如き無表情さで淡々と人を殺めていく残虐非道な化物か。いや、それは巫女一族へ入門してから固まっていった最悪な印象だ。もとを正せば、私の大事なお輪を殺めた妖怪への憎しみこそが第一印象であった。しかし、よく思い返せば、私は妖怪がお輪を殺めたその瞬間を目撃した訳ではない。お輪の亡骸を見つけた村の男衆や野次馬が「あれはきっと妖怪の仕業だろう」と囁くを聞いたのみであって、実際は森に住む獰猛な獣のせいであったやもしれぬなら、その第一印象が誤解であった可能性も否めないであろう。もし、妖怪の中にも心優しいものがいるという耄厳の主張が正しければ、一切の情けをかけず妖怪を滅してきた私こそ、己の考える絶対悪そのものではないか。

 そう考えている内、先導する盈咫が一つの物見櫓の前で立ち止まった。

 その物見櫓は里の端、地形上も里の中では最も見晴らしの良い位置に建てられており、他の櫓と比べても歴然たる高さを有している。当然、人間が登る事を考えていないためか、櫓をよじ登るには高過ぎる上に梯子が掛けられていない。

「おい! 弓千代様が参られた、先の件について報告せよ!」

 櫓を仰いだ盈咫が声を掛けると、すぐに一体の烏天狗が顔を出した。

「承知した! 今参る!」

 その烏天狗は櫓から身を投げ、背より生えた濡羽色の翼を上手く使ってゆっくりと降下してくる。その間、盈咫は弓千代へ向かって手短に次のような事情を説明した。実のところ、我々は先視役へ常に狐一族の動向、およびその護衛にあたっている捷天の様子を見守るよう任せていた。だが、数日より前、この老山より子の方角へ広がる森林地帯で姿を見失って以来、正確な行方が掴めないままでいる、と。

「ただ、我々の推測によれば……」

 そう捷天が説明の続きを口にするよりも早く、櫓より降下していた烏天狗が地に足を着けた。

「お待たせした、盈咫様」

「良い、それで兄上達の行方はどうだ?」

 尋ねられた先視役はすぐに答えようとせず、つと弓千代を一瞥する。

 己の長である『大天狗』より命が下り、盈咫などから事情を聞かされているとはいえ、やはり天敵である巫女一族に手を貸すのは憚られるのだろう。それが巫女一族に追われている身内の居場所を教えるとなれば、躊躇するのも致し方ない事であろう。

 やや間を置いて、烏天狗は意を決したように姿勢を正す。

「それに関しては、つい数刻前に動きあり。しかし、何やら様子がおかしく、金狐様と銀狐様が別行動を取っている模様。金狐様と捷天様はこの老山へ向かっているが、銀狐様は見慣れない妖怪と共に守護大社のある大山へ向かっていると推測される。先程、金狐様と捷天様の会話が聞こえた限りでは、どうやら銀狐様はその見慣れぬ妖怪に連れ去られているらしく、状況は芳しくないと思われる」

「そうか。それが事実なら、我々も早急に手を打たねばならぬな」

 烏天狗の様子から状況の急変した具合が窺え、盈咫はまるで巫女一族である弓千代が傍にいる事など忘れてしまったとばかりに険しい表情を浮かべた。

 奴の報告を聞いた弓千代は、改めて天狗一族の先視役の脅威を認識した。以前、耄厳から話に聞いた通り、先視役は千里先で起こっている事を見通し、万里先で囁かれている噂を聞きつける能力を持っており、この櫓から遠望を眺めるだけで個人を特定した上でその言動の仔細まで把握できるようであった。もし、天狗一族との戦となれば、我ら巫女一族は常に不利な形勢に立たされたまま苦戦を強いられるだろう。

 しかし、今懸念すべきは先の事ではなく、眼の前に迫った情勢である。思うに、金狐と銀狐という名があの狐一族の生き残りである姉妹の事であろう。捷天という名については聞き覚えがあり、守護大社を出立してから二番目に訪れた人里を後にしたところ、そこで弓千代達の行く手を阻んできた烏天狗の事が思い出された。

 あの狐姉妹が別行動を取っているという話を信じるのであれば、どちらの動きも看過する事はできぬ。この老山に滞在すれば金狐とやらと確実に対面する事ができよう。だが、守護大社に向かっているという銀狐の方もどういった思惑があるやも分からぬ故、そのまま見過ごす訳にもいかない。そう思った弓千代は、先視役の烏天狗へ質問を投げかける。

「その銀狐という妖狐と見慣れぬ妖怪は、守護大社へ向かっているのであったな。なれば、森林地帯を抜けた先、我が巫女一族の分社が構えているのは知っておろう。そこを通る様子はあるのか?」

「あ……、ああ、進行方向から察するに、巫女一族が定めている立入禁止領に沿って配置されている分社の一つを通るだろう。迂回するつもりはないようで、我が老山と守護大社を結んだ直線上にある分社を経由すると思われる。あの見慣れぬ妖怪に、何か考えがあるのやもしれぬが」

 弓千代の問いかけがあまりにも自然に行われたためか、先視役の烏天狗は憎き巫女からの質問だというのに大きな戸惑いも見せず、すぐに答えを返した。

 答えを受けて、弓千代は一つの考えが浮かぶも、提言する前に一度相手の様子を窺う。

「盈咫殿には、何か良い手立てがあるのか?」

 顎先に指を当てた盈咫は数拍の間を置いて、弓千代へ向き直る。

「いえ、まだ思案中です。……しかし、銀狐様を連れている見慣れぬ妖怪というのが、やはり気がかりでしょう。ここ何百年と全土の情勢を見守ってきた先視役が見慣れぬと言うほどであれば、素性の知れぬ危険な妖怪の可能性もあります。まずは、何故、金狐様と別行動を取っているのかを聞き出す必要があるものの、下手に我々が手を下しては、銀狐様に危害が及ぶ恐れもありましょう」

 盈咫が真に頭を悩ませていると判断した弓千代は、今が提言する機会と見て口を開く。

「なれば、私がその二人を足止めしよう」

 この弓千代の発言に、先視役と盈咫は意表を突かれたとばかりに目を瞠る。

「弓千代様が?」

「ああ、厳密には私でなく、あの小夜を分社に向かわせて足止めさせる」

 そう言いながら、弓千代は数間の距離を置いた場所からこちらを見守る小夜を指差した。それに気づいた小夜は、弓千代とは離れた位置にいるためか、こちらの話の内容など一切聞こえないというのに突然自分に白羽の矢が立ったと知り、当惑した様子を見せる。

 緊迫した状況下にも関わらず、そんな小夜の反応は弓千代の心を幾ばくか和ませた。己の好いている弓千代からの指名を澄ました顔で流す事のできないその素直さに、思わず笑みが溢れてしまったのだ。だが、いつまでも和やかな気分に浸っている訳にはいかない。そう思い、弓千代はすぐに口元を引き締める。

「それから、私と耄厳はここに残り、その金狐と捷天という二人を迎える。そこで事情を詳しく伺った上で、分社で足止めする二人への対処法を考えるのだ。妖怪と敵対する巫女一族ならば、分社を通ろうとする妖怪を引き止める事は何も不自然な事ではなかろう。上手く事が運べば、その二人を一時的に拘束する事もできるやもしれぬ、如何だ?」

 言葉以上の思惑はないと堂々たる眼差しで盈咫を見つめていると、奴が返事をしようと素振りを見せたところで、先視役の天狗が前のめりになりながら間に割り込んできた。

「待て、それでは銀狐様の御身が危うい事に変わりはない。第一、お前達の目的は、狐一族の生き残りを探し出す事と聞いている。そんな奴らに、我が一族の盟友を任せられる訳がなかろう?」

 この先視役の言う事は最もであった。我が身に置き換えてみれば、大事な小夜を天狗一族に預けろと主張されている事と同義である。弓千代自身、この老山に入る際、哨戒を務める天狗の狗賓にそのような提案をされた時には嫌悪感の入り混じった強い抵抗を示したのだ。それと同様であろう天狗の心中を察するには難くない。

 弓千代は考える。天狗達が己の身を挺してまで狐一族の生き残りを庇う理由とは何か。当然ながら、仇敵である我ら巫女一族から同胞を守るためではあろうが、それとは別の、もっと私情を挟んだ純粋な意図があるようなのだ。もしかすると、奴らの口振りから窺える狐一族に対する尊敬や親しみといった情こそがその答えなのかもしれぬ。

 考えてみれば、私は我が一族に伝わる文献でのみしか狐一族の事を知らず、守護大社で総巫の手により捕らえられたあの狐姉妹を見たのが初めての事である。その時は、妖怪の言う事など信じられぬ、と狐姉妹の命乞いを一蹴した故、その素性や性格などを推し量るような真似は一切しなかった。ただ、妖怪は絶対悪であるとの考えに固執しただけである。あの時、妖狐の姉らしき方が「せめて妹の命だけは」と懇願した気持ちが真実ならば、天狗一族の、いや耄厳の言う心優しい妖怪も存在し得るのではなかろうか。

 様々な思考を巡らせた結果、弓千代は決断する。

「いや、銀狐の身の安全は必ず保証しよう。ここで待機する私も、金狐や捷天、その他の妖怪には決して手出しはしない。約束しよう」

 これは弓千代の真から出た言葉であった。今までの、真意を隠した打算的な口先だけのものではなく、心の内をそのまま声に出したものである。最終的に狐一族を滅ぼすしか手段がないとしても、まずは彼女達の事を改めて知った上で、巫女一族としての理念ではなく己の判断で手を下したいと考えたのだ。

「信じられんな。かつて、忌まわしき巫女どもが狐一族へ夜襲をかけた時も、寝込みを襲うが如く卑怯な手を使ったであろう。そのような人道に外れた手段で、我が盟友を滅ぼした輩の言葉など信用できるはずがない」

 とはいえ、そうした弓千代の心境の変化など知る由もない先視役の天狗は、前傾となった身を引く様子はない。

 この先視役の言う、巫女一族と狐一族の最終決戦については、一族に保存される書簡や総巫の口伝で知り得るのみであり、その戦の内容を仔細に認知している訳ではない。故に、例え一族の尊厳を守るためであっても、でまかせによって反論する事は言語道断である。

 我が一族の行いでありながら知らぬ事があるとは、情けない。そう思いながら、弓千代は固く歯を噛んで屈辱に堪えた。

「そなたの気持ちは理解できる。だが、今は人間にとっても、また妖怪にとっても急を要する事態である。私は以前、金狐の呪詛が解放される一部を垣間見たが、あれは膨大な妖力と怨嗟の込められた力であった。もし、一度完全な形で解き放たれれば、もはや敵味方を区別する理性など吹き飛んでしまうだろう。……私を信じろとは言わぬ。だが、現状を知り、冷静に判断をして頂きたい」

「それは、巫女一族の勝手な……」

 それでもなお引き下がろうとしない先視役を、盈咫が右手で制した。

「良い案だと思われます。巫女一族、それこそ『護ノ巫女』である弓千代様の協力が仰げるのであれば、こちらとしても有り難い話」

 どうやら、奴には悪い話に聞こえなかったようである。盈咫は反論する気配も見せず話を進めようと、呆気に取られた表情の先視役を尻目に弓千代へ向き直る。

「盈咫様、お気を確かに! 巫女の口車に乗せられてはなりませぬ!」

「何、私が気を違えていると?」

 盈咫は話に水を差した先視役を振り返った。

「良いか、考えても見よ。かつて、滅亡したと思われていた我が盟友の生き残りが現れ、各々の思惑を持った妖怪がそれを利用せんと画策するこの状況下。そこへ見慣れぬ妖怪が突然姿を見せ、わざわざ金狐様の手から銀狐様を引き離し、巫女一族の総本山たる守護大社へ向かっているというのは只事ではない。それこそ、下剋上を目論む妖怪であれば、我々も巫女一族と同様に敵対視される存在やも知れぬ。であれば、これは早急に対処すべき事態であろう」

 先視役を見据える盈咫の面持ちは至って正気の上、戯言で物を申している訳ではないと証明していた。

 毅然とした盈咫の態度にややたじろぐように、先視役はつと口を噤んだ。

「……しかし、それでは『大天狗』に御叱りを受けるのでは?」

 怖ず怖ずと言葉を返した先視役を、盈咫は態度を崩す事なく見返す。

「この件に関して、私は『大天狗』より一任されている故、私の言葉は『大天狗』の御言葉を代弁しているも同義である、安心せよ。お前の一族を想う気持ちも、決して無駄にはせぬ。ここは私を信じよ」

 先視役は少しばかり逡巡するように目を伏せた。

 その沈黙の間、盈咫は先視役の返答を急かそうとはせず、じっと口を閉ざして辛抱強く待っていた。そのため、弓千代もまた彼に倣い、いらぬ口を挟まぬよう口端をきつく締める。どのような形であれ、天狗達の主張を無視して、強引に事を進めようという考えはもやは弓千代の頭からなくなっていたのだ。

 やがて意を決したように先視役は表情を改めると、盈咫と弓千代を交互に見遣る。

「承知した。巫女の言葉を信用した訳ではないが、このような時の盈咫様が判断を誤った事は一度もない。盈咫様の命に従い、私は己の役目を全うしよう」

 では、失礼致す――そう言って先視役は揖をし、頭上高くそびえ立つ物見櫓へと戻っていった。その飛び立つ姿はどこか、以前に森の中で対峙した捷天の飛び立つ姿を想起させ、烏天狗の静かでありながらも力強い羽ばたきを感じさせた。

「して、弓千代様、どのように手を打たれるおつもりですか?」

 その去り際を見送った後、すぐさま盈咫がそう問いかけてきた。

 弓千代は即答する前に、少し言葉を選ぶために一拍の間を置いて答える。

「まずは、今すぐにでも小夜を分社に向かわせる故、彼女を解放して頂きたい。見慣れぬ妖怪と銀狐が分社を通過する前に、それを阻止せねばならぬ。……ああ、盈咫殿の言いたい事は承知している。この場に残る私が翻す事を心配しているのであろう。それならば、私のこの妖打と刀を盈咫殿に預けよう」

 そう言いながら、弓千代は妖打と矢筒、刀をまとめて右手で持ち、盈咫の目の前へと差し出した。それを一瞥した盈咫は即座に受け取る事はせず、差し出されたそれらを押し返すように弓千代へ掌を向け、かぶりを振った。

「いえ、それでは弓千代様が丸腰になってしまわれる。先程の事からも、この里にいる以上、弓千代様は常に身の危険に晒されているも同然なのです。ここに至っては有事のため、『大天狗』にも御理解頂けるでしょう」

 盈咫は、数間離れた位置で待つ狗賓へこちらに来るよう合図を送る。それを受けた狗賓二人は何事かと一度互いに顔を見合わせて、どのような行動を取るのが正解か思案した様子であったが、とにかく盈咫の指示に従うべきと判断したらしく、小夜を連れてこちらへと近づいてきたのだった。

「盈咫様、如何された?」

「ああ、少々事情があってな」

 そう切り出した盈咫は、先視役からの報告に加えて、弓千代と取り決めた話を簡潔に伝えた後、最後に「その巫女を解放して欲しい」と言った。当然の如く、狗賓二人は二つ返事で快諾しない。これはまた説得が必要かと思われたが、思いの外二人は盈咫に対する信頼感を厚く持っているようであり、若干解せないところを残しつつも食って掛かる事はなく小夜を解放してくれた。

 里に入ってからのこうした一連の流れから、弓千代は天狗一族の中で如何に盈咫が重要な立ち位置にいるか、また確かな信用を集めているのかを十分に理解したのだった。これは我が巫女一族でも同じ事。有事の際、上に立つ者の指示に下の者がどれだけ付き従ってくれるのかは、それまで積み重ねてきた己の人徳に依るところが大きい。それこそ老山を訪れる前に寄った分社でも、我が身を以て痛感した事である。こうして見ると、我々と妖怪、似通っている部分も存外多くあるのではなかろうか。

 狗賓が小夜を解放してからは、堰を切ったように事が進んだ。

 盈咫の手配によって、間もなく一頭の駿馬が用意されると、弓千代はそれに小夜を跨がらせた。これから老山を下り分社に向かう事、そこで他の巫女と協力し銀狐を足止めする事など手短に命を与える。そして、それが『護ノ巫女』の弓千代の命令である事を証明するため、盈咫の用意した書簡に要点のみを押さえた内容と署名を認め、それを小夜へと手渡した。

「良いか、火急の件だと伝えよ。もし、その書簡を見せても渋れば、この刀も見せると良い」

 弓千代は帯刀を外し、馬上の小夜へ差し出した。小夜は自分の憧れる弓千代から大役を任された事に緊張しているのか、小刻みに震える手でそれを受け取る。

「はい、分かりました」

「……小夜」

 体中を強張らせた小夜を少しでも和ませようと、弓千代は彼女へ微笑みかける。

「案ずるな、事が済めば、私もすぐに向かう。銀狐に関しても、足止めをするだけで良いのだから、無理をする必要はない。巫女一族を導く『護ノ巫女』の立場である私が、このような事を言うのは慎むべきだとは思うが」

 弓千代はつと言葉を続けるべきか迷った。だが、正直な気持ちを口にするのに何も躊躇う事はないだろうと思い、次の言葉を継ぐ。

「私は、巫女一族の誰よりも、お前の事を気にかけて見てきた。大丈夫だ、いつも頑張っているように、今回もお前なりに自分のやれるところまでやれば良い」

「……はい!」

 小夜にとって、この弓千代の言葉は激励となったようであった。先程よりも幾分か肩の力が抜けたと見える彼女は未だ慣れぬ手つきでたどたどしくも手綱を引くと、駿馬の頭を方向転換させ、里の入り口へと走り去っていく。

 弓を引くにはやや小さい彼女の背中を、弓千代はただ黙して見送る。先日、分社を訪れた際、耄厳を引き連れた私へ嫌疑をかける目上の者に対して、臆す事なく物申してくれた小夜ならきっと巫女達の信頼を得られるだろう。少し不安があるとすれば、道中がら魑魅魍魎の襲撃に適切な対処ができるかどうか。

“良いのか、小夜を一人で行かせて。お主ほど強くなかろうから、途中で野垂れ死ぬかもしれんぞ?”

 まるで弓千代の胸中を見透かしたような耄厳の口振りに、彼女はある事をはたと思い出す。 そうであった。私は小夜を信じると決めたのだ。守護大山からこの老山へ至るまでの旅の中で、小夜は幾度となく私の役に立とうと懸命に努力してきた。そして、分社での一件をきっかけに、小夜を未熟な修練者ではなく一人の巫女として尊重すると決めたにも関わらず、何故そんな彼女の懸命さを裏切るような目で見送っているのか。

 弓千代は軽く頭を横に振って気持ちを切り替える。

「ふん、少なくとも、貴様と一緒に行かせて食い殺されるのは免れよう」

 そう吐き捨てた直後に、弓千代は自分の失言に気付いた。耄厳への対応が慣れていないためについ口をついて出た言葉とはいえ、先程は己の身を挺してまで小夜を守ってくれた奴に向ける言葉ではない。さすがに不遜な態度を取ってしまった。

 そう思いつつ、耄厳の様子を窺えば、奴はそんな彼女の言動に慣れ切ってしまったとばかりに笑い声を漏らす。

“お主は相変わらず強がりじゃな。もう少し、小夜のように素直であれば話しやすくなるのだがな”

 小夜のように素直にか。心の中で耄厳の言葉を噛み締めるように呟いた弓千代は、今までの己の態度を思い返しながらも奴に言い返す事はせず、半ば自嘲気味に鼻で笑った。それが耄厳にどういった印象を与えたのかは分からなかったが、弓千代と耄厳はそれ以上言葉を交わす事はなかった。


 分社へ小夜を送り出してから数刻後。

 金狐と捷天の訪れを待つべく、弓千代と耄厳は盈咫に案内された宿舎の一室で体を休めていた。室内は人間の生活様式を真似て建築したと言うだけあって、茅葺に土壁、八畳敷といった平民と武士の住まいを中和させたような手頃な空間となっているものの、恐らく天狗特有の特徴だと思われるところもあり、やや高く感じられる天井や壁の高い位置に明り取りの穴を開けている点が挙げられる。部屋の片隅などには、天狗一族の趣味なのか将棋らしき木製の盤面と駒が置かれているのも目についた。

 こうして弓千代が休息を取っている間、部屋の外では盈咫が見張り番をしていた。巫女である弓千代に少しでも安全に休んでもらいたいと、天狗一族の高位たる立場でありながら自ら見張り番を申し出たのであった。

 巫女一族として妖怪を敵対視する以上、自分の身の安全をその妖怪に預けるというのは抵抗を感じたものの、これまでの盈咫の仁義を持った振る舞いを見る限り、他の天狗よりは信頼できると弓千代は判断したため、その申し出を有難く承けたのだ。

 そろそろ、老山を下った小夜は森を抜ける頃合いだろうか。そう弓千代が思ったところ、不意に部屋の障子の前へ薄っすらとした影と気配が落ちた。

「弓千代様」

 障子の向こうから聞こえてきた声とその妖気から、それが盈咫に間違いないと知った弓千代は返事をする。

「どうした?」

「たった今、先視役から一報を受けました。我が兄上である捷天と金狐様が、里の酉側の大広場に到着した模様です」

「分かった、すぐに参ろう」

 腰巻きや弓矢は手放さす身に付けたままであった故、弓千代はそのまま立ち上がり、身支度する必要もなく部屋の外へ出た。それに耄厳も黙って続く。室外で待っていた盈咫と顔を合わせると、奴は率先して先導を始めた。

 宿舎を出てから然程歩かない内に、弓千代達は大広場へと到着した。

 そこにはすでに同様の報せを受けたと思われる天狗達が集まっており、無事に帰ってきた身内へ歓喜の言葉を浴びせるように賑わっている様子であった。天狗一族が元より仲間意識の強い妖怪である事も一因であろうが、弓千代がこの里を訪れた時に集まった野次馬よりも明らかに頭数が多くあり、『大天狗』の嫡男たる捷天の人望の高さを窺わせる。

 その野次馬の集団へ盈咫が近づくと、奴の出迎えに気付いた天狗達が声を上げ、水を割るように捷天までの道を開ける。

 野次馬の集団が裂けてできた道の先に、捷天と金狐が立っていた。守護大社を後にした旅の目的が目の前に現れた事で、弓千代はほとんど反射的に背負っている妖打へ手を伸ばしかけて身構えた。それまで周囲へ笑顔を振りまいていた捷天は彼女の存在に気付くや否や鬼の如き形相となり、帯刀を抜き取りながらこちらへ飛びかかってくる。

 これは弓千代にとって想定内の出来事であった。近接の攻撃を受け止めるにはこちらも同じく刀を構えたいところだが、その刀は分社に送り出した小夜へ渡してしまっている。風神にも劣らぬ奴の動きを躱す事は不可能だと瞬時に判断すると、弓千代は背負っていた妖打を手に取って防御の構えに徹する。

 頭上に刀を振り上げた捷天がまさに目前へと迫った時、突如として弓千代と奴の間に別の天狗が割り込んできた。その天狗は目にも留まらぬ早業で抜いた脇差を以て、捷天の斬撃を受け止める。

「てめえ、何の真似だ?」

 不愉快さを一切隠そうとしない捷天の声の向けられた相手は、なんと盈咫であった。

 身内に対しても容赦ない怒りを示す奴に少しも臆する様子はなく、盈咫は泰然とした態度で捷天の目を見返す。

「兄上、ここは一度、刀を収めては頂けませぬか?」

「はっ、何を言う。我が盟友の仇がすぐそこにいやがるってえのに、見逃せと言うか。そんな据え膳を自ら蹴飛ばす真似が出来るかよ。そもそも、てめえはいつから巫女の味方になりやがった?」

 捷天の刀を握る手に力が込められる。例え身内に刃を向ける事になったとしても、奴は決して手加減をしない性分なのであろう。それを承知の上なのか、盈咫もその場しのぎといった風ではなく、上段より押さえ込まれている捷天の刀を全力で支えるのが精一杯といったやや厳し目の表情を見せていた。

「兄上、今この場は、私が『大天狗』より任されています。『大天狗』の命において、巫女一族『護ノ巫女』である弓千代様の申し出を受け入れ、協力して事に当たるように、と。事の仔細をお話するためにも、まずは刀を収めて頂きたいのです」

「なっ、『大天狗』が……、真に?」

 捷天の顔に微かな動揺の色が浮かぶ。一族の長である『大天狗』から下された命令とあっては、威勢の良かった奴も我を通す訳にはいかないと思ったのだろう。

 その影響で捷天の力が緩み始めたのか、盈咫が奴の刀を微弱ながらも押し返そうとする。

 そうしている間、自分に無防備な背を向ける盈咫を見て、弓千代は今までにない感覚を覚えた。妖怪に襲われた時、自分を庇うのは普通同族の巫女であるが、今目の前にあるのは妖怪の背中である。奴らの天敵である巫女に背を向けるという事は本来捨て身、つまり己の命を無条件で差し出すも同然の行為である。どういった意図にせよ、そのような行為をすれば私から不意打ちを受ける可能性があるだけでなく、同族からも謂れのない非難と嫌疑を浴びせられるも必至。天狗が本当に義理を重んじる種族だとすれば、かつて耄厳が申したように、人間の悪人よりもよっぽど人情味があるというもの。これまで何度も耄厳に助けられた小夜も、これと同じような感覚を覚えていたのだろうか。

「だが……」

 捷天が呻きにも近い呟きを漏らすと、気持ちを固めたという意思を示すよう背に生やす漆黒の翼を大きく広げた。

「俺は、金狐や銀狐から母親を奪った、巫女一族が許せねえんだよ!」

 そう言い終わるが早いか、捷天は勢いに任せて盈咫を横薙ぎに吹き飛ばした。そうして障害の失くなった先に弓千代の姿をしっかりと捉えるなり、地面とぎりぎりの高さで滑空しながら彼女へ斬りかかる。

 有事に備えて臨戦態勢にあった弓千代は、咄嗟の判断で妖打の成り場でそれを受ける。巫女一族の『破魔の力』と特殊な製法によって造り出された破魔以打妖の成りは鋼鉄よりも強靭さを兼ね備え、刃こぼれをしたような半端な刀で競り合えば、かえって刀の方が耐え切れずに折れてしまうほど丈夫であった。それ故、捷天の刀が妖打を叩き折ってしまう事はなかった。だが、以前森の中で手合わせをした時に感じたよう、一時でさえ気を抜けば人間と妖怪との歴然たる腕力の差に捻じ伏せられてしまう。

 弓千代の視線の先には、捷天の瞳がある。各地に跋扈する有象無象が抱く醜く歪んだ憎悪や敵意、私利私欲とは毛色の違う、人道を語る天狗一族だからこそ覚えるであろう義憤の炎が奴の瞳の奥に燃え上がっているのを感じた。

 これで二度目となる捷天との手合わせは、一度目の時よりも長くは続かなかった。というのも、弓千代と捷天の間に割り込むよう体躯を大きくした耄厳がこちらへ飛びかかってきた故、両者は一旦後方へ飛び退き距離を置かざるを得なくなったのだ。

“止めぬか! 今、巫女一族と天狗一族が争っても致し方がない。それよりも、目下で進行しておる問題を片付けるのが先決であろう”

 そう争いの仲裁に入った耄厳の顔を最初、捷天は巫女を庇うという異様な行動を取る妖怪に対して抱くような怪訝がる目つきで見ていた。その怪訝そうな目つきが次第に薄らいでいき、耄厳の顔に見覚えがあるとばかりにはっとした素振りを見せる。

「あんた、もしや、耄厳の爺じゃねえか?」

“そうだ。相変わらず、お主は血の気が多くて困るわい”

 見知った相手だと知るや、捷天はいくらか相好を崩した。

「やっぱりそうか! いや~、ここ数十年、あんたの姿を見かけなかったもんだから、もうくたばったっちまったのかと思っていたぜ」

 捷天の憎まれ口を聞いて、耄厳は高らかに鼻で笑い返す。

“儂ら狼一族は、お主達天狗とは違って居を構えぬからな。気高き我が一族は、天狗と狐のように馴れ合って生きるのは好かぬ。下手をすれば、百年以上も顔を合わせぬ事もあろう。できる事なら、儂はお主の顔など見とうなかったがな”

「ははっ、耄厳の爺も、相変わらず偏屈なもんだな。俺は、耄厳の爺が巫女の野郎にやられちまったのかと心配してたんだぜ?」

 両者の口振りから察するに、捷天は親しみを込めるよう敢えて口汚く喋っている様子であったが、対して耄厳には言葉の端々に隠し切れぬ棘があるように思え、捷天ひいては天狗の事をあまり好ましく感じてない様子である。

“いらぬお世話だな。それよりも、お主は巫女と刃を交えにわざわざ老山へ戻ってきたのではあるまい。次期『大天狗』とあろうものが、時勢と情勢を読めぬとは、まだまだ若造も良いところ。そもそも……”

 今にも年寄りの説教が始まると思われた時、耄厳がつと口を噤んだ。じっと黙したまま捷天の方を見つめ、何かの臭いを嗅ぐように鼻先を小さく動かす。

“お主、いや、そこの狐にも、何やら酷く癖の強い臭いがついておるな。はて……、これはどこかで、もう何千年以上も前に嗅いだ事がある気が……”

 古い記憶を一つ一つ辿るよう耄厳は目を瞑り、低い唸り声を漏らす。何千年以上も前と言っていた事から、人間よりも膨大な歳月を生きてきた記憶の中から気がかりの原因となっている思い出を探り当てるのは、そう簡単な事ではないだろう。

 時間がかかり過ぎては話が進まぬ、ここは私が先を促すべきであろう。そう思った弓千代が耄厳に声を掛けようとしたところ、奴は前触れもなく目を見開き、“そうだ”と鋭い声を上げた。

“この狐一族に親しい臭い、確か妖鼬閥族のものではないか?”

 半ば独り言染みた耄厳の呟きに呼応するが如く、捷天もはっとした表情で手を打つ。

「妖鼬閥族! そうだぜ、確かあの皐月って女、どこかで感じた事のある妖気だと思えば、妖鼬閥族の生き残りだったのか。くそっ、なんて因果だ!」

 捷天は一人納得した様子で頭を抱えた。

 妖鼬閥族、聞いた事のない妖怪だ。我々巫女一族が最も危険視している妖怪は天狗一族や狼一族といった二大勢力、続いて今後台頭する可能性を秘めている鬼族(きぞく)や付喪神衆などの存在。それ以外の弱小妖怪や烏合の衆であっても、可能な限り妖怪共の動向は常に探っている。『護ノ巫女』として妖怪討伐のため各地へ遠征をしてきた私ですら知らぬ故、近頃出現した新しい勢力かとも考えたが、やつらの話振りから推察するに、どうやら昔から名の知れた妖怪であるらしい。

 気になった弓千代は捷天の様子を窺いつつも、こちらへ背中を見せる耄厳へと手短に問いかける。

「妖鼬閥族とは、聞いた事のない妖怪だな」

 耄厳は体の向きはそのままで首だけを軽く動かし、弓千代へ視線を投げた。

“それもそうであろう。なにせ、妖鼬閥族が生きておったのは、お主ら人間が現れる五千年以上も前だからな。当時、犬猿の仲にあって争っていた天狗一族と狐一族を帰順させ、朝廷果ては一国を築いた後、約四千年もの間繁栄を極めた閥族だ。儂ら誇り高き狼一族も、あやつらには逆らえず、どれだけの辛酸を嘗めさせられた事か”

 それが事実だとばかりに淡々とした耄厳の説明を聞いて、弓千代は驚きを隠せなかった。

 人の世の前に妖怪の世があり、また今生の人間と同様に戦をし国を起こしていたとは、実に想像し難い事である。だが、もし耄厳の申す事が真実であるのならば、妖鼬閥族は相当な実力を持った妖怪だと言える。かつて、我々巫女一族のご先祖様が強敵と認めていた三大勢力、狐一族と天狗一族と狼一族を平らげ屈服させるほどの妖力とは如何なる性質のものなのか。

「そうだ、妖鼬閥族は栄え、そして一番信頼していた側近狐一族に裏切られ滅亡した」

 耄厳の声が聞こえていたのか、眉間に浮き彫りの皺を刻んだ捷天が自分に言い聞かせるような調子でそう吐いた。

「それなら、あの皐月の目的は、狐一族への復讐! 嬢ちゃん、こいつはまずいぜ。早いとこ、ごんちゃんを皐月の手から助け出さねえと」

 捷天より視線を向けられた金狐は、己の置かれた状況が切迫したものだと理解して酷く青ざめた。奴の傍へ駆け寄って「捷天さん、私はどうしたら……」と震えた声を上げる。少しでも衝撃を与えると泣き出してしまいそうな瞳をした彼女は湧き上がる恐怖を抑え込むように肩を縮ませ、身長の高い捷天を見上げていた。

 奴らの焦っている空気を好機と捉えたらしく、耄厳は捷天と金狐へと歩み寄る。

“やはり、お互いに、今は争っている場合ではないようだな”

 耄厳は最初に怯えた様子の金狐を見、次に目つきの鋭くなった捷天を見遣った。

“察するに、狐の妹の方が妖鼬閥族の生き残りに攫われたのであろう。お主らは一刻も早く、その妹を助け出したい。なれば、この桜の巫女、弓千代の目的も似たようなもの。そこの姉の方に掛けられた狐一族の呪詛の暴発を防ぐ事が巫女の目的故、その暴発を誘引するような、ましてや妹の命が奪われるような事態はなんとしても避けたいところだ。そうであろう、桜の巫女?”

 それまで耄厳へと向いていた捷天と金狐の視線が彼女へ注がれる。事の成り行きを見守る事に徹していた弓千代は、不意に耄厳より話の主導を委ねられたために、即座に返答する事ができなかった。

 捷天の眼差しは至って真剣そのものであり、弓千代の口からどのような答えが飛び出すのかと今か今かと待っているようであった。下手な言葉を出せば、恐らく奴は私を殺しにかかってくるだろう。かといって、このまま沈黙を長引かせれば奴の不信感を増幅させるばかりでなく、ようやく口をついて出した時の言葉にも白々しさが滲み出てしまう。

 そこで己の感情を表現するよりも事実のみを口にする方が得策であると考えた弓千代は、金狐の体に纏った妖気をじっと観察する。

「そうだな、少なくとも私は現状において、金狐や銀狐を滅するつもりはない。妹の方はともかく、そこな姉狐に纏いし妖気には、狐一族百三十五代目『九尾の狐』が死に際に遺した凶悪な呪詛が蠢いている」

 弓千代が感覚を研ぎ澄まして金狐の妖気を探ると、その具合がよく感じられた。

 妖狐が生まれつき持っているであろう妖気とは別の、つまり呪詛のものと思われる禍々しい妖気が彼女の体に纏わりついている。それも一般的な妖怪のものよりも淀みが濃く、蜘蛛の巣の如き粘着性を帯びているのだ。通常の妖気は周辺へ放出されるのに対して、呪詛が金狐の体にしつこく絡み付いて離れないのはその特性のためだろう。弓千代が守護大社を後にしてから見かけていた、呪詛に侵された妖怪がここ最近全く姿を見せなくなっていたのは、大社での処刑時に暴走した妖狐の呪詛と妖気が時間の経過と共に落ち着きを取り戻していったからだと思われる。あの守護大社にて一時でも露わにした、底知れぬ妖力で猛威を振るう『九尾の狐』の片鱗が今は一切なく、体中から滲み出る妖気に目を潰ればただの人間の女子も同然であった。

 幼き女子の見た目相応たるか弱さを初めて垣間見た弓千代は、自分の追っていたあの妖怪がかつて人間を震え戦かせた凶悪な狐一族の生き残りに相違ないのかと、僅かに疑わずにはいられなかった。

「こうして見れば、外見上は問題ない。だが、何かの契機によって、一度完全な形で呪詛が解放される事あらば、我々巫女一族にだけでなく、お前達妖怪にも災いが降りかかるだろう」

 弓千代の答えを聞いた捷天の目つきが一際鋭くなる。

「出鱈目を言うんじゃねえ。てめえら巫女どもは、そうやって言いがかりをつけては、俺達妖怪を何度も滅ぼしてきた。そんな見え透いた常套手段で、生きて再会する事のできた盟友を二度も奪われてたまるか!」

「出鱈目ではない」

 戦意を取り戻し武器を構え直した捷天に、弓千代は矢を番えるどころか妖打を打ち起こす事もしなかった。同族の巫女が見れば正気かと疑われるほど無抵抗かつ落ち着き払った態度を維持しつつ、決して声を荒げる事なく次の言葉を継ぐ。

「私は、狐一族の生き残りを追う旅の中で、その金狐の残した呪詛に当てられ凶暴化した妖怪どもと何匹か対峙した事がある。以前、私と対面した際、お前が切り捨てた鵺も恐らくその一匹だ。おかしいと思わなかったのか、本来言語と知性を持ち合わせておらぬ鵺があれほどまでにはっきりとした理性を持ち、流暢な言葉を発していた事を」

 捷天はたった今気付いたといった素振りで微かに瞼を持ち上げた。その表情の変化が微細なものであっても、数々の経験で培われた弓千代の目は見逃さなかった。

「力を持たぬ弱小妖怪に過ぎたる妖力を与え、凶暴化させるような呪詛だ。周囲に影響を及ぼすのであれば、それを纏う本人にも影響がないはずもなかろう。そこの金狐も、以前から多少なりとも体調や精神に不調を感じていたはず、如何だ?」

 捷天から金狐へと視線を移すと、彼女は途端に弓千代から目を逸らすよう目線を下げた。そこには巫女に対する恐怖心もあっただろうが、弓千代より投げかけられた言葉に思い当たる節があり、図星を突かれて動揺した心の表れもあるのだろう。

 これで何度目となるのか、皆一様に口を閉じた。

 この天狗一族の総本山において、図らずも因縁の深い面々が一同に会したからには、それぞれの思惑と感情が交錯するのは当然であった。数百年も前に妖怪の界隈を牛耳り人間の平和を脅かした狐一族の生き残り、それが現代に至っては、妖怪の中でも最大の勢力を誇る天狗一族に囲まれ、そこに単身で乗り込んだ狼一族の老いた妖狼が一匹。事態が好転する事への不確かな期待と相容れぬ異種族への猜疑、それらの裏で着々と形を変える企みが複雑に絡み合っているのだ。そうした渦中の只中で重要な立ち位置にある弓千代も、幼き頃に絶対悪たる妖怪を滅するべく巫女の門戸を叩いた時には、このように様々な妖怪と言葉を交わす事になるなど想像だにしなかった。

 捷天達と弓千代の間に降りた沈黙は、一向に破られる気配を見せない。

 見れば、金狐と捷天はいまだ煮え切らず心を燻らせている事がその定まらぬ表情から窺える。かたや盟友を奪われた事で心の底から巫女一族を憎む気持ちに、かたや身内を滅ぼされ常に命を狙われる身の上なのだ。その原因でもあり仇である巫女の話へ、安易に乗る事のできぬは当たり前であった。

 一時でも時間の惜しい状況下で、もどかしくも話が平行線になるかと思われたその時。

「兄上」

 口火を切って前に進み出たのは、盈咫であった。

「先視役の報告によれば、銀狐様は見慣れぬ妖怪――恐らく、兄上の仰る妖鼬閥族の者に連れられ、巫女一族の総本山である守護大社へ向かっている模様。その進路の途上には、巫女一族の分社もあり、何かしらの意図があってそこを通過するものと思われます。それ故、銀狐様を迅速かつ安全にお救いするには、巫女一族の協力が不可欠なのです。我が長である『大天狗』は、巫女一族との大戦となっては妖怪の秩序がますます乱れ、我々が目指すべき人間との共存の道も遠のいてしまう故、なるべく戦を避け無益な犠牲を出さぬようにとお考えである事、何卒ご推察して頂けるようお願い申し上げます」

 言い終わると、盈咫は大振りな動作で手の先を重ねて恭しく頭を下げた。

 盈咫の進言を受けても、捷天は己の答えを決めかねているようであった。歯を食いしばって考えを巡らせているのか、奴の顔には険しくも深い迷いの色がありありと浮かんでいる。

「捷天さん」

 次に口を開いたのは、金狐である。

「ひとまず、あの巫女さんと協力しましょう。私、以前に巫女一族の里の牢に閉じ込められていた時、この方と少し話をした事があります。その時には、私達狐一族に対して徹底した憎悪と殺意を感じましたけど、今はそれも大分薄れているように思います」

 捷天を見上げる金狐の情に訴えかけるような目元には、次第にそれまで堪えていたのであろう涙が浮かび始める。

「それに、もう、大事なものを失うのは、絶対に嫌です。平穏だった故郷も、優しかった母上も失った今、ごんは私に残った最後の心の支えなんです。ごんを救えるのなら、例えどんな屈辱や苦痛を強いられようとも、私は進んでそれを受け入れます」

 この金狐の嘆願が決め手となったのだろう。捷天は逡巡を振り払うように顔を上げると、弓千代の目を真っ直ぐと見返しながら、彼女の前へと歩み寄ってきた。

「俺は、てめえを絶対に信用しねえからな。今は状況が状況で、盟友狐一族たっての願いとあっては、一時休戦の協定を結ぶとしようじゃねえか。だが、少しでも妙な真似をしてみろ。次にてめえの首はないと思え」

 弓千代はつい鼻で笑いかけて、それを押し殺した。

 その捷天の敵対心に満ちた言葉や態度の端々に、彼女は図らずも己の姿を重ね見てしまったのだ。己が信じる正義を一貫させる奴の姿はまさに、どのような命乞いや要求をしてくる妖怪に対しても、一切の情を挟む事なく堅固たる姿勢で突き返してきた弓千代そのものである。いつしか耄厳が申したように、このように聞く耳を持たぬ頑固な振る舞いをしては、妖怪から恐れられ憎まれるのも必然と言えよう。

 妖怪から見た自分が如何ように映っていたのか、弓千代は初めて知る事になった。

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