第四幕 ―妖怪に善悪の区別ありや―
丁度昼頃、弓千代と小夜は妖狐の足取りの途絶えた草原に再び足を踏み入れていた。弓千代は、この広い草原の中から妖狐に関する手がかりを見つけるつもりである。
彼女がこのような非効率的な手段に出る数刻前、弓千代は里において出来る限りの情報収集を行ったものの、取り立てて有益な情報も得られず、かといって妖狐の捜索を中断する訳にもいかぬため、今のところ妖狐の手がかりが得られそうだと思われるこの場所へ再び赴くに至ったのだ。
弓千代はとにかく必死で、広い草原の中から妖狐の痕跡を探す。妖気の上手く掴めぬ小夜には、奴らの足跡が残っていないかどうかを探させ、弓千代自身は草原の途中で途切れていた妖狐の妖気が一体どこへ消え去ったのかを探っていた。
草むらを掻き分け、辺りの隅々まで目を凝らすも、弓千代の欲する手がかりは一向に見つからない。ただ時間だけを消費し、虚しい捜索を延々と続ける。
こんな事に手間取っている間にも、奴らはより遠くへと逃げ果せている。弱小妖怪ならいざ知らず、あれほどの力を秘めた妖怪一匹の尻尾すらまともに掴めぬとは。『護ノ巫女』でありながらなんと無様な事か。ひたすら妖狐の跡を追うさすがの弓千代も、自分自身の力の至らなさに対し、次第に焦燥感を募らせていく。
そんな時である。この草原の中を駆け抜けていく妖気の群れを、弓千代はすぐ近くから感じ取った。それらの妖気は彼女の探し求めているものではなかったが、この全く進展のない現状においてはまたとない行幸のように思えた。
その群れの位置を妖気の流れから察知すると、弓千代はすぐさま群れへと接近していく。その内、視線の先に狼の群れの尾が見え始める。彼女は矢を取るや否や、その破魔矢を群れの行く先へと放った。
目と鼻の先に一本の破魔矢が突き刺さったのを見た狼の群れは一斉に歩みを止め、弓千代のいる背後へと振り返った。狼達は目つきを鋭くし、低く唸りながら歯を剥き出して、彼女達を威嚇しているようだ。
「お前達、狼一族だな?」
番えた矢先を狼達へ向けたまま、弓千代はそう問いかけた。
すると、群れの中から、一匹の狼が前に進み出てくる。灰色の混ざったような白と銀色の毛並みに、他の狼とは一際違ったたくましい体躯からは、いくつもの苦境をくぐり抜けてきたのであろう気高い雰囲気が醸し出されていた。
この狼が群れを率いているのだろうと判断した弓千代は、こう問う。
「貴様が、この群れの主か」
“いかにも……”
その狼の声と思わしき思念が、弓千代の頭の中へ直接入り込んできた。
“儂が、この群れを率いる頭領、耄厳(もうげん)だ”
耄厳の口が一切動いていないのに、どこからかその声の聞こえる事に驚いたのか、小夜は半ば戸惑うような様子であった。それを察した弓千代は、彼女へ手短に説明する。
「狼一族は妖怪といえど、人語を発声できぬ。故に、こうして妖気を用いた思念で、我々人へと話しかけてくる」
納得したらしい小夜を一瞥した後、弓千代は耄厳へと向き直る。
「貴様らに問おう。正直に答えろ、この辺りで二匹の妖狐を見なかったか?」
弓千代の質問に、狼の群れは一息にどよめきたった。ある狼は互いに顔を見合わせ、ある狼は何かを憂いているのか、眉に皺を寄せるなど険しい顔つきをしている。
“いや、知らぬな。儂らは今日、移動のためにこの草原を通りかかったまでだ”
そう答えた耄厳は一拍置き、さらに続ける。
“そもそも、三百年以上前に狐一族が滅んでから此の方、妖狐の姿を見た事は一度もない。先程の矢の力とその成りを見る限り、お主らは巫女一族の者であろう? その手で狐一族を滅ぼした巫女であるなら、とうの昔に、妖狐が絶滅している事ぐらい知っているはずだ”
耄厳の答えに満足できなかった弓千代は、その苛立ちを露わにする。
「とぼけるな。狐一族の生き残りが現れた事は、もはや魑魅魍魎の間では周知の事実だと聞いている。弱小妖怪ですら知っている事を、貴様ら二大勢力の一角を占める狼一族が知らぬはずがなかろう」
弓千代は耄厳の目を刺すように睨みつける。
すると、耄厳はしばし考えるように目を伏せてから、ふと顔を上げた。
“確かに、その話は儂らの耳にも届いている。大業や野望を内に秘めたる者が狐一族の再興を図ろうと、俄に騒いでいる事もな。だが、儂らはそんな下賤な輩とは違う。我が一族はかつて、あのずる賢く冷酷な狐一族を敵対視していた。故に、もし、儂らがその生き残りとやらを見つけていれば、その場で喰い殺してしまうか、お主ら巫女一族に差し出しているだろう”
耄厳の低く落ち着いた声色は、至って真面目な様子であった。
が、弓千代にとって、耄厳の態度など問題ではない。ただ、耄厳の発言を聞いた彼女が覚えた感情は呆れであった。弓千代は心の底から大きな溜息をつく。
奴の言葉は虚実だ。所詮、人に仇成す妖怪か。妖怪など皆一様に結託し、人間を滅ぼす存在に過ぎないのだ。こんな奴らに聞いた私が間違いであった。
「小夜、弓を取れ!」
背後にいる小夜へ声を掛けると、弓千代は狼の群れに向け、すぐさま数本の矢を続けざまに放つ。それらの矢を、狼達は散り散りになりながらも避け、弓千代へと対峙する。彼女の放ったそれは威嚇ではなく、明確な殺意を込めた攻撃であったのだ。
耄厳は弓千代の取った行動が不可解だとばかりの表情をし、疑問を呈す。
“お主の問いには、正直に答えたはずだ。何故、儂らを滅しようとする?”
弓千代は耄厳の疑問を鼻で笑い飛ばし、きっぱりと断言する。
「貴様らが妖怪だからだ」
彼女は再び構えると、少しも容赦する事なく、散開する狼達へ次々と猛撃を加え始める。小夜もそれに倣い、矢を放っていく。その矢の軌道はたどたどしく弓千代ほどの勢いはなくとも、精一杯の力を振り絞っている事が見て取れた。
狼と呼ぶに相応しい身のこなしで矢を避け、逃げの一手に徹する狼達。何故、反撃せぬのかと弓千代が多少訝っていると、群れの内一匹の狼がついに堪えきれなくなったとばかりに、弓千代へ向かって飛びかかろうとした。
その時、耄厳が実に端的な吠え声を上げたかと思うと、その弓千代へ飛びかかろうとした狼は動きを止め、また逃げの一手へと回ったのだった。そのやり取りを目ざとく見て取った弓千代は、まるで私への反撃を耄厳が制止したようだ、と思った。
“巫女よ”
弓千代達から放たれる矢の数々をかわしながら、耄厳は口を出してくる。
“何故、儂らが妖怪だからといって、滅せられねばならぬのだ?”
「知れた事を。妖怪は絶対悪だからだ」
弓千代が即答すると、耄厳は動きをはたと止め、彼女をじっと見つめた。
“では、お主ら人間の中には、一切の悪人は存在せぬというのか?”
今度は、弓千代が動きを止める番だった。その耄厳の言葉が妙な言霊を帯びたように、彼女の心に引っかかったからである。彼女は耄厳の言いたい事を見定めようと、番えた矢先を奴へと向けたまま次の言葉を待つ――弓千代の様子を察したらしい小夜も、同じく矢を放つ手を止めていた。
“いや、そんなはずがあるまい。お主ら人間の中には盗みを働いたり、人を殺めたりする悪人が必ず潜んでいる事を、儂は知っておる。だがな、それは我ら妖怪とて同じ事なのだ。人間の中にも善き人間と悪しき人間が混在するように、妖怪も皆悪人という訳ではない。中には、人間の僧と同じような善行に勤しむ奴もおる。我ら妖怪は、姿形寿命などが人間と違えど、今生に生を賜り、その日を懸命に生きている命である事は人間となんら変わりないのだ”
弓千代は半ば面食らっていた。今まで滅してきた妖怪の中で、このような説法を口にする妖怪を一度も見た事がなかったからだ。
しばし、弓千代は耄厳の真意を推し量る。奴はとにかく、妖怪は人間と同じく生き物である事を訴えているのだろう。だが、どんなに詭弁で飾り立てようと所詮妖怪は化物に過ぎぬ。我ら人の生活を脅かす存在である事に変わりはない。
「しかし、妖怪共が現れた事によって、人の世が掻き乱された事も事実だ」
弓千代の発言に対して、耄厳は押し殺すような低い笑い声を上げた。
“何を言っている。我ら妖怪は、人間よりも遥か昔からこの地に住んでおった。そこに割り込んできたのはそもそも、人間の方なのだが。……まあ、人間が現れた直後、しばしの間我ら妖怪は身を潜めていたのだから、ふと顔を出せばそのように映るかもしれぬな”
耄厳はやけに落ち着き払った面持ちで続ける。
“それに、人の世は元より乱世と聞く。土地や食料を求め、あるいは何かの原因によるいざこざなど、同族同士で争っておるのが人間であろう。その証拠に、世の中を見渡してみるが良い。我ら妖怪がいたところで、人間同士の戦は絶えず起こっておろう”
ここまで聞いた弓千代は、ついに耄厳の真意を図りかねて、
「何が言いたい」
と率直に聞いた。
耄厳は不気味な笑みを浮かべる――といっても、狼の顔には表面的な変化はないものの、弓千代へと語りかける思念に生まれた妙な間によって、そのように見えただけである。
“儂は、お主に忠告しておるのだ。いや、巫女一族全体に対する忠告と言っても良いだろう。妖怪と見るなり、そこらに跋扈する悪しき妖怪と一緒くたにし、無差別に滅するのはやめた方が良い、とな”
「ふっ、いらぬ忠告だ。妖怪に善などありはしない」
お輪を殺した妖怪が何を抜かすか――そう小さく呟いた弓千代は、もう良いだろうと番えていた矢に『破魔の力』を込め、耄厳を射抜こうとした。
その時、耄厳は突然やや明るくした声色で、
“そういえば、お主は狐一族の生き残りを追っているのであったな。どうだ、儂をお主のお供にしてみぬか?”
と言い出したのだ。
あちこちに散開した狼達がどっと動揺するのが分かる。狼達は何やら耄厳に向かって、次々と吠え立てていた。その様子を見る限り、恐らく耄厳の提案を諌めているのだろうが、一喝するように一つ吠えた耄厳の声を聞いた瞬間、狼達は一斉におとなしくなる。
あまりにもその唐突な提案に、弓千代は思わず弦を引き絞る手を緩めてしまった。
「戯言を抜かすな。何故、私が生き残りを追っているからといって、貴様のような妖怪を引き連れねばならぬのだ」
“お主の先程の話しぶりから察するに、妖狐の行方が思うように掴めず、行き詰まっているのだろう? なれば、儂が協力してやろうと言っておるのだ”
耄厳の発する声の調子を見ても、それは決して戯言ではないようであった。弓千代はまたもや耄厳の真意を図りかねて、若干腹立たしくなった。
「どうせ、協力するとは口ばかり、隙を見て私の寝首を掻く腹積もりであろう?」
耄厳は貫禄のある老人のような笑い声を上げる。
“そんな狐一族のような小汚い事はせぬよ”
「なれば、何を企んでいる?」
“ふむ、企みなどいくつもあるのだが……”
やや考えるような素振りを見せた耄厳だったが、そう大した沈黙を作る事もなく、すぐに言葉を紡ぐ。
“一番の企みは、「お主の妖怪に対する考えを改めさせる事」だ。我ら狼一族の頭数は、歳月を経るごとに減少の一途をたどっておる。その最もな原因が何か、巫女一族として妖怪を滅する立場にあるお主なら、あえて言わずとも分かるであろう? 日頃より、我ら一族は各派閥による群れで行動し、お主ら巫女一族に目をつけられぬよう小さく生活しておる。そうとも知らずに、お主らは我らを見つけるなり問答無用で滅してくるのが、儂はもう我慢ならぬのだ”
「だが、私の考えなど変えてどうするというのだ?」
“善き妖怪を、我ら一族を巫女一族の不当な仕打ちから守るのだ。なんでも、お主は巫女一族の中でも相当高い位にいるそうではないか。名乗らずとも、その桜刺繍の腰巻きを見れば分かる。『護ノ巫女』の弓千代、我ら妖怪の中では『彼岸の弓取り』と恐れられ、その名を知らぬ者はおらぬぞ。その巫女一族の重役が考えを改めたとなれば、巫女一族全体も大きく影響を受けるはずだ。上手く事が運べば、我ら狼一族ばかりか、穏やかに生きる妖怪達がむげに滅せられる事もなくなろう”
耄厳の語気は一貫して冷静であったが、その端々に何かを哀れみその行き末を憂う感情が滲み出ているようにも感じ取れた。
弓千代は正直なところ、この耄厳を射抜くべきか迷っていた。
先程からの奴の発言といい、この馬鹿正直な提案といい、今まで目にしてきた妖怪達とはその性質が違うように思えたからである。自ら狼一族という種を守ろうとする姿勢からも、自分達人間と同じような思想が垣間見えなくはない。
だが、所詮は妖怪の言う事なのだ。そう振り切って、破魔矢を放とうとするも、弓千代は心のどこかで煮え切らぬ思いを抱えていたため、その中途半端な思考が矢を放つ手を躊躇わせていた。
そんな彼女へ、畳み掛けるように耄厳が再び話し始める。
“しかし、お主にとっては儂の企みなどどうでも良かろう。それなら、お主が儂を連れる事の利点を教えてやろう。儂を連れて行けば、妖狐を追うのに役に立つ。お主ら人間とは違い、耳や鼻も利く上、妖怪から情報を聞き出したり、事によっては交渉したりもできるぞ? 巫女といえど、中身は人間であろう。お主とは違い、儂なら妖怪なりの妖怪に対する物の見方も口添えできる”
奴の言い並べた利点は、現状の弓千代にとって願ってもない事であった。一刻も早く妖狐を見つけ出さなければ、この世がどうなってしまうかも分からない今、耄厳のような妖怪からの助力はまたとない機会である。
それでも、弓千代は耄厳の提案を素直に呑み込めない。巫女一族としての立場もあるが、何より彼女自身の妖怪に対する考えと深い憎悪が、奴らの手を借りる事を拒んでいたのだ。
「弓千代様」
気付けば、小夜が傍に寄り、弓千代の表情を窺うように見上げていた。
小夜の方へ振り向いた弓千代は、その何か言いたげな表情を見て、彼女の意見も少し聞いてみようと思った。
「小夜、お前はどう思う? 奴の提案を聞き入れるべきか、否か。正直に言って欲しい」
そう聞かれて、小夜はやや驚いたようだった。普段から前を歩く弓千代が自分のような未熟者に意見を求めてくるとは思ってもいなかったのだろう。
小夜が「えっと……」と口籠り、やや考えるような様子でじっと目を伏せた後、おもむろに口を開く。
「私は、ここはとりあえずあの妖怪の提案を受けてみるべきだと思います」
そう言ってすぐ、小夜は今の自分の発言を取り繕うように言葉を次ぐ。
「もちろん、妖怪の協力を仰ぐなんて、巫女一族としてあるまじき行為である事は知っています。でも、今は何より、危険な妖狐を見つける事を最優先すべきだと思うんです。この妖怪なら後で滅する事もできますが、妖狐の方はそうにもいきません。放置すればするほど、不測の事態が起こるやもしれませんし……」
次の言葉を探っているのか、彼女はそこで語尾を濁した。「その、つまり」といった短い言葉を発しては、弓千代の顔色を窺うような目遣いをし、自分の意見を懸命に伝えようとしている。
弓千代は矢を持っていた片手を空けると、その掌を小夜の頭へとそっと置いた。
「ありがとう、小夜」
それだけ言って、弓千代は再び耄厳の方へ向き直った。
彼女の心は決まった。いや、最初からそう決めるべきだと分かっていたのだ。個人的な妖怪に対する憎しみよりも、今はこの国の存亡にすら関わる妖狐の討伐を優先すべきであると。ただ、そのために妖怪の助力を受けるなど、弓千代にとっては酷く耐え難いものである事も事実だ。だからこそ、第三者である小夜から冷静な意見を聞いて、今自分のすべき事を再確認したかったのである。
「分かった。耄厳とやら、貴様を私の供として連れてやる。が、少しでも妙な真似をすれば、その時は容赦なく滅す」
“ハッハッ、これは良い”
耄厳は弓千代の答えに大層満足したようであった。
“では、少々待たれよ。儂の仲間に話をつけてくる”
耄厳が遠吠えをすると、散開していた狼達が奴の周りへと集まってきた。その集まった狼全員に向かい、奴は何やら話をしている。皆狼一族で使われる妖語で話しているため、話の具体的な内容までは分からないものの、耄厳とその他狼達の言い合うところを見る限り、どうやら話が相当込み入っているようだ。
それも当然だろう、と弓千代は思った。奴らからすれば、自らの群れの主を巫女一族へ引き渡してしまうも同然だからだ。巫女一族の妖怪に対する姿勢を知っているからこそ、そんな危険な事は、例え主自身の提案であっても防ぎたいはずなのだから。
しばらくして、耄厳が一喝するように吠えた。すると、狼達は耄厳のもとからそろそろと離れ始める。その中には、名残惜しいのかそれとも心配しているのか、奴の方を振り返る狼もいたが、やがてその狼達の尾も草原の向こうへと消え去っていった。
群れの去り際を見送った耄厳は弓千代のもとへと歩み寄り、彼女の顔を見上げた。
“では、参ろうか”
「どうやら、上手く話をつけたようだな」
弓千代が気を緩めぬ目つきで耄厳を見下ろすと、奴は頬を緩めるように掠れた笑いを零す。
“そう儂を邪険に扱うでない。こうしてお主らのお供を買って出たからには、その御役目はしかと果たしてみせようぞ”
「では、早速だが。我らは妖狐の行方を示す足取りを見失い、手詰まりになっている。できれば、奴らを一刻でも早く捕まえたい故、妖狐の居場所を正確に知る必要があるのだが。何か良い手立てはあるか?」
弓千代がそう聞くと、耄厳は記憶の奥底を辿るように目をつぶり、色々と思案し始めた。特に焦ったり、迷ったりしている様子はなく、やがてゆっくりと目を開くと同時に、独り言のように“あそこを訪ねてみるか”と呟いた。
“ここから、酉へ五十数里向かったところに、天狗一族の総本山・老山がある。そこに……”
「そんな事は知っている」
耄厳の話の途中で、弓千代がぶっきら棒な調子で口を挟んだ。
「我々巫女一族は、もとより国内に跋扈する妖怪の勢力図など把握している。かつての我が一族が狐一族を滅ぼしたように、いずれ我々もその老山へ総攻撃をかけ、天狗一族を討ち滅ぼすつもりなのだからな」
弓千代の言葉を聞き終わると、耄厳は低くせせら笑った。
“やめておけ。あの天狗一族はそう簡単には滅ぼせんぞ? ましてや、狐一族を滅ぼした時のような奇襲や夜襲など、あやつらにとっては小手先の子供騙しも同然。なにせ、あやつら天狗は人間の兵法を基に、組織だった戦の訓練をしておる。合戦の仕方のみならず、文化や風習、営み、生き方諸々の生活を、人間から学び取っているのだ。そもそも、天狗一族は自分達を邪険に扱う巫女一族を良く思っていないものの、人間そのものに対してはたった一度たりとも危害を加えた事などない。むしろ、そうした一族の発展のきっかけとなった人間という種族に対して、尊敬の念を持っているくらいだ。お主のその願望が人間を守るためのものだとするのなら、天狗一族への攻撃は逆効果だ”
妖怪風情が身勝手な事を言うものだ。そう心の中で呟いた弓千代は、ただ鼻を鳴らしてあしらった。彼女の反応に対して、耄厳は何も返さず、
“……と、儂はそんな話をしたいのではない。相手の話は最後まで聞くものだぞ”
と話を戻した。
“その天狗一族の総本山・老山には、千里先で起こっている事を見通し、万里先で囁かれている噂を聞きつける能力を持った天狗達がおる。確か、天狗の間では先視役(せんしやく)と言ったか。その者達にうまく頼む事ができれば、お主らの追う妖狐の行方など容易に知る事ができるだろう。……儂はそういう話をしていたのだ。どうだ? これも、お主は知っておったのか?”
「いや、それは知らぬ」
天狗にそんな恐ろしい能力を持った奴がいたとは。弓千代が巫女の時に学んだ天狗一族の文献には、先視役の事ばかりかその存在すら記述されていなかった。やはり、妖怪という身内の間でしか知り得ない情報はどうしても存在してしまうようだと、弓千代は巫女一族の人間として悔しく思った。
「その先視役とは、天狗一族内ではどんな役割を担っている?」
“簡単に言えば、妖怪の監視だ。狐一族が滅んで間もなく、妖怪界隈の筆頭へと成り上がった天狗一族が、妖怪の秩序を保つために設置したのだ。妖怪の秩序はその筆頭の勢力によって左右されると言っても過言ではないからな。人間で例えるのならば、そうだな……、治安を管理する役人といったところか”
話を聞く限りでは、その先視役は人間の役人よりも優れている。人間の役人であれば、自分の見聞きした物事以外を察知する事はできず、他人の通報によってようやく動き出す事ができるのだ。それに対し、天狗の先視役はその目と耳を界隈隅々に張り巡らしているのだから、事の起こる前に対処する事も可能なはずであろう。我々巫女一族にとっては厄介な存在だ。
そう考えた弓千代は、何よりも先んじて先視役を潰しておきたい衝動に駆られたが、今はとにかくその先視役を利用するべきだと自分の心を抑えた。その先視役は、妖狐の件が片付いた後に滅せば良い。
「なるほど、確かに良い手立てだ。では、早速老山へ向かうとしよう」
弓千代は老山を目指し、草原の中を酉の方角へ歩み始める。その後に、小夜と耄厳も続く。
空はまだ明るいものの、このまま行けば、進行先の途上にある森の中で日が落ち、そこで野宿をする事になるだろう。今から近くの里へ戻る事もできる。が、ただでさえ妖狐の行方を見失い、討伐へ乗り出した当初に想定していた以上の時間がかかっている今、そんな悠長な事はしていられない。
手遅れにならなければ良いが。弓千代は事の成り行きが不安でならなかった。
↓
夜の帳が下りた深い森の中。木々がひしめくように肩を寄せ合って林立する中、それらの木々よりも二回りほど大きい一本の大木の周辺だけは、わずかに夜空を望める空間があった。
その大木の根元に腰を下ろしていた弓千代は、眼前で焚かれる火をじっと見つめていた。森の動物の鳴く声や虫のさざめきなどは耳に一切入っておらず、右隣にいる小夜や焚き火を挟んだ向かい側にいる耄厳の事すらもすっかり忘れ、ぼんやりとした思考へと身を委ねていた。
“桜の巫女”
沈黙の中、声を上げたのは耄厳であった。
思考へと直接語りかけるその声のために、弓千代はふと我に返って顔を上げ、耄厳の方を見やった。
“そう、お主の事だ。どうせ、名を呼べば、気安く名を呼ぶなと文句を垂れるのであろうからな。その腰巻きの桜を見て、つい今程そう呼ぶ事に決めたのだ”
「それで何用だ?」
“いやな、儂のような老体には、夜の静けさほど応えるものはないのでな。一つ、話でもせぬか? そうだな……。お主がそれほど妖怪を邪険に扱うようになったきっかけ、それを教えてくれぬか? その頑固なまでの妖怪に対するお主の迫害的態度には、正直興味が湧いていたのでな”
耄厳の言葉を聞いても、弓千代は鼻であしらった。最初こそ相手にしなかったものの、傍にいた小夜の幼い顔つきを見た途端、つい過去のある出来事を思い出してしまう。といっても、決して忘れていた記憶ではない。むしろ、巫女としての弓千代を支えている原動力といっても過言ではない記憶である。
小夜は何も言わなかったが、耄厳に同調するかのように興味を示している様子であった。思い返してみると、小夜にもこの話は打ち明けていなかった。
「あれは……、そう、丁度こんな木々に囲まれた場所での事だったか……」
きつく締めていた弓千代の口元が徐々に緩んでいく。
「十の歳であった私は、お輪という幼馴染の女の子と一緒に、村の近くの森で遊んでいた。一応村の者からはあまり遠くへ行くなとは言われていたが、付き添う大人はいなかった。今でこそ、村の外を歩く時は護衛をつけるのが当然であるものの、当時、守護大社の庇護下にあった村だったものだから、妖怪に対する警戒心が薄かったのだろう。私とお輪は野に咲く花を摘んだり他愛のない話をしたりしていたのだが、私が目を離していた隙に、ふとお輪が姿を消していたのだ。私は特に驚く事もなく、またかと思いながら、お輪を探し始めた。……というのも、お輪は人を困らせるいたずらをよくしていたものでな。そのいたずらが看破されるたびに、彼女がはにかんだ笑みを浮かべるんだ。その具合がとても愛らしいもんだから、私は怒らずにそのいたずらに付き合って、お互いによく笑い合ったものだ」
薄っすらと笑った弓千代は、一度口を止めた。そのお輪のはにかんだ笑みを思い出したのを皮切りに、彼女との楽しかった思い出が次々と呼び起こされたのだ。子供の少ない小さな村に住んでいた弓千代にとって、お輪のような歳を同じくする少女の存在は、何物にも代え難い大事な姉妹同然であった。
それらの思い出に浸った僅かな沈黙の後、弓千代は再び口を開く。
「その時も、私は本当に、お輪のいつもいたずらなのだろうと思っていた。私が見つけると、また彼女のはにかんだ笑みを浮かべるのだろうと。だが、結局、私はお輪のその笑みどころか、彼女自身の姿すらも見つけられぬまま、日が暮れてしまった。次にお輪の顔を見たのは、その夜私から事情を聞いた村の男衆の捜索によって見つけ出された、無残な亡骸での事だった。そう、私は、見るなと言う男衆の制止も聞かずに、お輪の亡骸を見てしまった。事切れてただ一点を見つめる瞳と、腹から内臓の取り出されたおぞましい傷跡を。彼女をこんな目に遭わせたのは妖怪だろう、そう呟く村人の声を聞いた私は、咄嗟に村を飛び出し、その夜が明け切る前に守護大社へと山を登り詰め、巫女一族の門戸を叩いた。それから五年後に、私は晴れて『護ノ巫女』を襲名し、その丁度四年目の今、こうして各地の妖怪共を滅するだけの力を手にした訳だ」
“つまり、恨み憎しみの類で妖怪を嫌うと?”
そう口を挟んだ耄厳に向かって、弓千代は突き刺すような視線を向けた。
「よくある事だと笑ってくれるな。貴様ら野蛮な妖怪からすれば、そのよう残酷な行動も日常茶飯事なのだろうが、私にとっては、大事なお輪を奪われたという歴とした事実に変わりはない」
焚き火の光を照り返す弓千代の瞳を見つめた後、耄厳はつと夜空を見上げる。
“何、笑ったなりなどせぬ。ただ、儂も、お主と同じような目に遭った事があるのでな”
「貴様は妖怪だ。それは当然の事であろう」
その弓千代の言葉を聞いた耄厳は、焚き火の光の影に隠れるほど小さく眉をひそめると、そっぽを向くように顎を伏せながら瞼を下ろす。
“お主の考えでは当然なのだろう。儂ら妖怪は皆同じで、お主の大事な友を奪った憎き仇だと。だが、これから天狗の総本山に行くのであれば、これだけはよく頭の中へ入れておくがよい。妖怪の中にも身内があり、また大事な何かを奪われた悲しい過去を背負っている者もいる事をな”
「何が言いたい」
弓千代が厳しい口調で言い返すも、耄厳は一切答えぬまま、やがてそのまま静かな寝息を立て始めた。
勝手な事を、異形に身内も感情もあるものか。そう心の中で吐いた弓千代は、耄厳から視線を外し、ふと緩めた目元を小夜へと向ける。お前も寝ると良い――と言いかけたところで、彼女は小夜の表情の変化に気づいた。
小夜は、何か心から湧き上がるものを抑えるように口元を締め、居た堪れなさを感じているのか目元をしっとりと潤ませていた。思わぬ彼女のその表情は、弓千代を半ば困惑させた。
「どうした?」
「いえ、まさか、弓千代様にそのような過去があったなんて、私……」
掠れた小夜の言葉から彼女の心情を察した弓千代は、彼女を驚かせないようにそっと伸ばした右手で、彼女の頭を撫でた。そうして頭を撫でる弓千代の右手が心地良いのか、小夜は目を瞑り、自分の頭を弓千代の右手へと委ねているようであった。
「ありがとう、小夜。お前は心の優しい子だから、こんな話をしては悲しませてしまうだろうと、今まで黙っていたんだ」
さあ、もう寝ると良い――そう弓千代が囁きかけると、小夜は相手を労るような上目遣いで弓千代を見上げ、控えめな声色で「そんな、弓千代が先に休まれて下さい。私が夜の番をします」と言った。
弓千代は軽く笑みを作る。
「ありがとう。……そうだな、次の番はお前に任せるから、今宵ばかりは私に、お前の寝顔を見守らせてくれぬか?」
そう言う弓千代の心境を察したのだろう。小夜はそれ以上言葉を返す事もしなかった。そのため、彼女の頭から弓千代の右手が離れると、後ろにある大木に背を預け、大人しく目を閉じた。
それから少し経った時、小夜の口から小さな寝息の聞こえてくるのを確認した弓千代は、彼女の体へと自分の体をすり寄せて、小夜の穏やかな寝顔へ目を遣った。汚れを知らぬ無垢さを証明するように、その寝顔はとても幼い。
弓千代はこう思う。
小夜のような罪なき子が妖怪に殺されない、平和な世の中を作らねば。今の私はお輪を守れなかった昔のか弱い女童子ではない、妖怪を滅する術と力を身につけているのだ。もう、二度とあのような思いをしてなるものか。
巫女となったあの日以来弓千代の心にずっとあり続けた確かな決意は、宵闇の中で燃え続ける焚き火のように少しも衰えていない。これまでの旅における疲労や睡魔なども、彼女を妨げる要素となり得なかった。むしろ、その要素に負けた時、自分の前から大事な何かが失くなってしまうのではないかと不安であったほどだった。
↓
雨雲の立ち込めた空は、昼間だというのに夕暮れ前のような薄闇を作り出していた。湿り気を帯びた風は雨の気配を臭わせる独特の空気を運んでくる。
森を抜けた弓千代達は、地平の遥か先に望む深い森林に覆われた老山を目指し、その歩みを進めていた。巫女一族での遠征経験のある弓千代にとっては、今日までの歩き詰めの日々など大した事ではないものの、彼女の傍を歩く小夜からはその疲労がひしひしと伝わってくる。私に迷惑をかけまいと懸命に堪えているのだろう、そう弓千代には察せられた。
さしたる会話もないまま、黙々と歩いている時であった。
小夜と弓千代の前を先導するように歩いていた耄厳がふと立ち止まると、頭を高い位置へ上げ、何やら両耳をそばだてるように張り立てた。その唐突ともいえる不審な様子に弓千代は首を傾げ、「どうした?」と問いかける。
弓千代の問いからやや間を空けた後、耄厳は彼女の方を振り返らずにこう答える。
“どうやら、一頭の馬がこちらに向かって近づいてきているようだ”
しかも、その馬にはお主の同胞が乗っておるようだが――と、奴は付け加えた。
そう言われた弓千代は、耄厳と同じように周囲へと耳を澄ませ、馬の走る蹄の音や気配がないかを探った。が、どれだけ感覚を研ぎ澄ませても、彼女の耳に入ってくるのは風の切る音と草木のざわめきぐらいである。
「私には何も聞こえぬが……」
耄厳の言葉を疑うように弓千代がそう呟くと、その呟きを聞いてか、耄厳は笑いながら彼女の方を振り返った。
“そりゃあ、お主と儂じゃ、まず聴覚と嗅覚の鋭さが違うからな。儂も老いているとはいえ、まだそこら辺の若い狼には負けぬぐらいの感覚があると自負しておるよ。……何、しばしここで待っておれば、お主の同胞と合流できるだろう”
いまいち耄厳の言葉を信じる気にはなれなかった弓千代であったが、それが事実として、妖狐捜索から大分日の経っているため、総巫からの何かしらの伝令が来てもおかしくないだろうとも思え、ひとまず事の真偽をはっきりさせようとここでしばし待つ事に決めた。
すると、耄厳は立ち止まった弓千代を置いて行くように歩き出した。それに気づいた彼女が「おい、どこへ行く」と聞けば、“儂は疲れたからな。そこで休んでおるよ”と答え、そこから数十歩ほど離れたところにある一本の木の陰へと入り、大儀そうな動作でうつ伏せになった。まったく妖怪とは身勝手なものだな、と渋い表情をした弓千代は呆れる。
それからその場に立ったままじっと待っていたところ、馬の走る微かな音が弓千代の耳にも聞こえ始めた。地を快活に蹴り、余念を感じさせない澄んだその蹄の音は、確かに巫女一族で用いられる兵馬のそれであった。
「弓千代様、あそこです」
そう小夜に指し示されるより早いか、弓千代は音の聞こえてくる方へ振り返る。
そこには焦げ茶の毛並みを揺らす一頭の馬と、それに跨った若い巫女の姿があった。その巫女も弓千代の姿を見つけたのか、「弓千代様!」と声を上げながら、手綱を操り馬の足を急がせているようである。
間もなく、弓千代の近くへとたどり着いた馬を巫女が慌ただしく止めると、その馬から転げ落ちるように降り、弓千代の眼下へと跪く。
「突然の不躾たる拝謁、ここに深くお詫び申し上げます。私、総巫の使いにより参った、巫女の小梅と申します」
小梅と名乗った巫女は肩を上下させ、息を切らせていた。
彼女の様子を見た弓千代は、使いの者をこれほど急がせるとは余程大事な報せなのだろうと察し、小梅に言葉の先を促す。
「良い、あとの儀礼は省け、……して、その内容は?」
「はい、ここに書簡が御座います」
小梅は腰に提げた包からその書簡を取り出すと、「どうぞ、お目通しを」という言葉を添えるとともに、弓千代へと手渡した。
弓千代は受け取った書簡を早速開き、内容に目を通していく。
妖狐討伐へと赴いた全巫女および「護ノ巫女」へと告げる。当初発令した「妖狐二匹の捜索および退治」との命を、現時点を以って「妖狐二匹の捜索、および慎重を期した生捕」と変更する。
その故とは、今一度、狐一族に関する過去の文献を一から読みさらったところ、重要と思われる記述を発見したためである。当時、狐一族との大決戦にその身を投じ、百三十五代目「九尾の狐」を見事滅した「護ノ巫女」による記述にはこうある。
『我、妖魔ノ権化ト成ス九尾ノ狐ヲ打チ滅ボス。其ノ死ニ際、九尾ノ狐、我ラ狐ノ命脈決シテ断チ切ラレズ。万ガ一、我ガ命脈ノ末端殺メラレシ時、我ラ狐一族ノ滅亡ヲ以ッテ巫女一族ノ滅亡ト成ス、ト言イ残ス。其ノ言、我所詮敗将ノ戯言ナリト一度聞キ捨テルモ、憂イヲ感ジテ書キ残スニ至ル。願ワクバ、後世ヲ経テ杞憂ト成ラム事ヲ。』
以上の記述から考慮されるべき可能性として。百三十五代目「九尾の狐」の遺言『我ラ狐一族ノ滅亡ヲ以ッテ巫女一族ノ滅亡ト成ス』の示すところ、即ち「狐一族の末裔である妖狐を滅したその時、巫女一族をも滅亡に貶めるほどの災厄が降りかかる事」、その災厄が妖狐の呪詛に込められていると推察される。となれば、妖狐を滅する前に、まずその呪詛を抑え込む必要がある。恐らく、あれほど強大な呪詛を封じ込めるには「破魔の力」では難しい故、現在有効と思われる対抗手段を模索中である。
以上の故により、有効と思われる手段が見つかるまでの間、妖狐二匹の呪詛の暴発を抑えつつ慎重に事を進めて欲しい。
弓千代は衝撃を受けた。それが事実かは別としても、あの妖狐の呪詛にそれほど恐ろしい怨念が込められている可能性は、書簡にも書かれている通り決して看過できない。弓千代は自分が妖狐を滅してしまう前にこの書簡を読めた事へ半ば安堵し、また別の誰かがその呪詛を暴発させてしまうよりも先に妖狐を見つけ出さねばという気持ちを強くする。
「小梅、一つ伝言を頼みたい」
読み終わった書簡を小夜へと預けながら、弓千代は小梅に向き直る。
「筆もなく、先を急いでいるため口頭になるが、良いか? ……では、以下、『妖狐の手がかりを得るべく、私はこれより立入禁止領内にある天狗一族総本山・老山へと向かう。何か分かり次第、早馬にて伝令を頼む』と」
「御意。では、これにて失礼致します」
小梅は立ち上がって小さく礼をし、馬に乗ると先程来た道へと走り去っていく。
事は一刻を争う、私も急がねば。気を新たに引き締めた弓千代は小梅の去り際を見届ける間も惜しみ、遥か遠くに望む老山を再び視界へ入れ、歩き出した。小夜もそれに続く。
“どうであった?”
見ると、耄厳は何食わぬ顔で弓千代の傍を歩いていた。そう質問してきたかと思えば、端から答えに興味がないとばかりに大きな欠伸を漏らし、億劫そうな表情をしている。
その白々しい態度が弓千代は気に食わなかった。
「貴様のその耳があれば、話の内容など改めて聞くまでもなかろう」
“まあ、その通りだが、お主が受け取った書簡の内容までは分からんよ。さすがの儂も、透視じみた妖力はもっとらんからな。……それはそうと、どうだ? 儂を連れたのは正解だったろう? もし、儂がいなければ、先程の使いとの合流も後何日か遅れていたかもしれぬ”
耄厳の気安い口の聞き方は癪に触ったが、言っている事はそこそこ的を射ていた。小梅との合流が遅れ、書簡の内容も知らずに妖狐と接触していたら。自分は間違いなく妖狐を滅しようとするため、結果的に奴の呪詛を暴発させていたかもしれないのだ。
そう思えない事もなかったものの、妖怪である奴の言った事を素直に認める気にはなれなかったため、弓千代は返事をしなかった。
「それだけ鋭い聴覚と嗅覚があるのなら、妖狐の居場所とかは分からないんですか?」
黙った弓千代の代わりに口を開いたのは小夜であった。彼女は弓千代の陰に隠れるような恰好をしながらも、視線を耄厳の方へとやり、どうしても聞きたくてつい聞いてしまったというような様子をしていた。
その彼女の質問がひどく愉快だったらしく、耄厳は腹の底から張り上げるような笑い声を出した。
“巫女の小娘も中々鋭い事を聞いてくるではないか。確かにそれも難しい事ではない。だが、肝心の妖狐の臭いや妖気も近くにないのではな、探したくても探せんのだ。故に、こうして天狗の力を借りに行っている訳だ。なんとも情けない話であろう?”
「いえ、そんな……」
耄厳の馴れ馴れしさと対照的に、小夜は気後れ気味に体を小さくしていた。
彼女が妖怪に対して口を利いた事に、弓千代は驚いた、というよりその意外な行動に面食らったような思いであった。思えば、実戦経験のなかった小夜はここ数日の間で様々な妖怪と初めて接してきたため、巫女一族の修練で教えられる妖怪に対する恐怖感とは別に、純粋な好奇心というものを覚えていたのだろう。
妖力に対抗するための精神力が未熟な修練者でありながら、妖怪に対して不用意に口を利く行為はあまり感心できなかったが、自分が傍についている手前、これも良い経験となるだろうとあえて口出しはしない事にする。
“そもそも、儂ら狼一族は他の一族に頼らず、孤高でありながら気高く生きる事を常にしておる。いや、それどころか、同じ狼一族の中でも、相当な数の派閥に分かれて生活しておるからなあ。儂のおったあの群れも、皆儂の事を慕ってついてきてくれた有志達で成り立っておった群れの一つだった。……はっ、儂みたいな老いた狼についてくるなんぞ、全く物好きな奴らばかりでな”
耄厳は誰に聞かせる訳でもないように口を動かし始めた。
“まあ、集団とはそんなものか。巫女一族も確かそうであったな。「破魔の力」を得た者が巫女という存在を生み出し、またその力を受け継いだ者が巫女の教えを確立すると、以来その一族に惹かれた者達が集い始め、いつしか一族を成すようになった。そういえば、桜の巫女が巫女の道へ進んだ理由は聞いたが、小娘のほうは聞いていなかったな。お主は何故、巫女一族へ入門したのだ?”
聞かれて、小夜は戸惑ったようであった。それもそのはず、妖怪から質問される事など、これが初めての出来事であるはずだ。妖怪が自分へ興味を示した事に半ば気後れしたような声色で、小夜はおずおずと口を開く。
「その……、妖怪退治を生業にしている巫女に憧れて、ただそれだけで……」
しりすぼみな小夜の声をかき消すように、耄厳は豪快に笑う。
“桜の巫女とは違って、お主は中々単純ではないか。良い事だ、やはりお主のような小娘は単純なほうが可愛げのある。見たところまだ巫女として未熟なのだろう。将来、こやつみたく偏屈な巫女にはなるでないぞ?”
そう言いながら耄厳は目線を上げ、弓千代の顔を見やった。
その当てつけるような耄厳の視線に気づきながらも、弓千代は前だけを見たまま鼻で笑い捨てた。耄碌した狼のくせによく喋るものだから、その戯言に一々付き合っていれば切りがない。視線の遥か先に老山の一部が望めるといえど、そこへ達するにはまだ結構な距離があるため、耄厳には口よりも足を動かして欲しいものだ。
その感情をそのまま口にしようとしたところで、弓千代はぐっと思い留まる。この老いぼれのことだ。どうせ、私が一言二言声をかけたとて、自らを大して省みもせずにまた無駄口を叩くであろう。それならば、あえて口出しをして、こやつの口数を余計に増やす事もあるまい。
諦めにも近い考えに至った弓千代はこれ以上耄厳に気を取られまいと、耄厳に対する警戒を最低限に抑えつつも、行く先へと意識を向ける事にした。
老山とその一帯を覆う深い森林地帯、つまり立入禁止領の手前には、確か巫女一族の分社である砦があったはずだ。立入禁止領からの妖怪の流出を防ぎ、奴らの動向を監視する役割を担った巫女達の詰所でもある故、その先の領へ入るには決して避けては通れぬ。一番の悩みは巫女である自分が妖怪を連れている事だ。私と小夜だけなら何ら問題なく通過できるのだが、今回は全く異例中の異例である。はたして、どう事情を通せば良いものか。
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