裏幕 ―弐―
視界の開けた草原の中、人間の姿から狐の姿へと変えた銀狐と金狐は、草むらをかき分けながら進んでいた。狐へと姿を変えたのは、この草原の草むらが膝丈よりも低い背丈をしていたため、その方が身を隠すのに適していると考えたからである。
この姿が追手の目をかいくぐるのに最適とはいっても、その反面金狐にとって不利な点もあった。それは目と耳の不自由な銀狐を誘導するのが、やや難しいという点である。人の姿であれば、自由に使える前足ともいえる手で銀狐の体を引いてやる事が出来るのに対して、狐の姿になると、手を引けない代わりに互いの体を寄り添い合うようにして歩く必要があった。そのため、草むらに身を隠せても、逃亡の歩みが遅くなってしまうのである。それでも、人の姿に化けて、自分達の居場所を晒してしまう上に弓矢で射抜かれる危険を回避するためには致し方ない事だった。
より追手から逃げ果せる可能性の高い方法を考えた結果、金狐は現状に至ったのだ。
背後に追手の気配がないかと注意しながら、金狐は銀狐の様子を窺う。
銀狐に疲労が溜まっている事は明らかであった。口には出さないものの、彼女のぐったりとした歩みや光を遮るように閉じた瞼の下に薄っすらと浮かぶ隈から、疲れの具合が滲み出でている。数日に渡って、ほとんど休みのない逃亡を続けているせいであろう。
金狐は思わず「大丈夫?」という声をかけたくなったものの、それをぐっとこらえた。誰の目にも明らかな疲れを醸し出している彼女に、そう答えの分かり切った事を聞くのはどうも酷に思えたからだ。気休め程度でも良いから、声をかけて妹を励ましてやりたい。そういった思いも強くあったが、その安易な励ましによって、今まで我慢してきた銀狐の頑張りが崩れてしまうかもしれないと感じられたため、声をかけるにかけられなかった。
お互い心身共に疲弊しているため、もう長い事、二人の間に重くのしかかった沈黙が慢性的に続いていた。次第に、周囲に対する金狐の注意も散漫になり、視線が地を這うように下へ落ち始めていた時である。
突然、金狐は自分の体が軽くなるのを感じた。ふと見ると、先程まで足の裏に感じていた地面が眼下の遥か遠くにある。自分の体が浮いているのだと知ると、今度は自分と銀狐を抱きかかえている誰かの存在に意識が向いた。自分達を抱えるがっしりとした腕を沿うように恐る恐る目線を上げた先には、見慣れぬ男の顔があった。
その顔を見た金狐は言い得ぬ不安を覚える。この男の尖った耳や背中から生える黒い翼、何より空を飛んでいる事から察するに、彼が巫女一族に関係する者ではなく、妖怪である事は間違いなかった。彼が自分達と同じ妖怪であっても、果たして敵なのか味方なのかまでは分からず、手放しに安心はできない。
とにかく、金狐は男を刺激しないようにじっとし、時が来るのを待つ事に決めた。銀狐の事が心配になり隣をちらりと見やると、彼女は突然の出来事に驚いたせいか呆然しているようである。とりあえず彼女の無事にほっと胸を撫で下ろし、できれば彼女にはそのままの状態を保ち、不意に暴れたりせぬ事を金狐は願った。
しばらくして、中背程の木の密集した川辺に男は降り立った。それから抱えていた二人を近くへ離すと、二人に向かってこう切り出す。
「いきなり連れ去るような真似をして悪かったな、驚いただろ? いや~、あの近くに巫女一族の野郎が迫っていたもんだからよ。あの場から少しでも遠くへ、嬢ちゃん達を安全な場所へ移したくてな」
独特な抑揚をした言葉遣いで気安く話し出す男に対して、金狐は警戒していた。状況を把握出来ずに身を小さくしている銀狐を庇い、残った気力を絞り出して威嚇の態度を示し、鋭い眼光を男へと向ける。
その金狐の敵意を感じ取ったらしい男はやや慌てるような素振りをし、凛々しい眉尻をふと和らげるように下げた。
「おいおい、そう警戒するなよ。俺は嬢ちゃん達の味方、つまり敵じゃあない。だから、巫女一族の連中から嬢ちゃん達を守るため、こうして遥々西方の山から下りてきたんだぜ? 昔の誼じゃねえか、俺の事――」
と、話の途中で男の動作がふと止まる。かと思えば、金狐に近づいてその場にしゃがみ込み、彼女を観察するようにまじまじと見つめ出した。金狐がそんな男から身を引きつつ警戒を続けていると、男は何かを思い出したように「ああっ!」と大きな声を上げた。
「嬢ちゃん。もしかして、こんちゃん……、こんちゃんじゃねえか!」
男の言い出した事に理解の追いつかない金狐を他所に、男は次に銀狐へ目を向けた。
「てことは、そっちはごんちゃんか? いや~、まさか、狐一族の生き残りが嬢ちゃん達の事だったとはなあ、考えもしなかったぜ」
男の口振りから、どうやら自分達の事を知っているらしいと分かった金狐は、相手の事を探ろうと怖ず怖ず言葉を出す。
「貴方は誰ですか?」
「なにっ?」
金狐の質問が不意だったらしく、男は面食らったような表情を見せたものの、すぐに合点の入ったような様子を示した。
「俺の事は憶えてねえか。……それもそうか、俺が嬢ちゃん達の郷をよく訪れていたときゃあ、こんちゃんはまだ随分と小さかったし、ごんちゃんなんて生まれたばっかりだったもんな。なんか、俺だけが一人舞い上がっちまったみたいだな」
男は地に腰を落として胡座をかき、改めるように金狐達へ視線を向けた。
「俺は捷天って名だ。昔、嬢ちゃん達盟友が酒盛りを開いては、よく俺達天狗のわけえ衆が顔を出していたんだが……。どうだ、ちっとは憶えてねえか?」
そう言われるも、金狐は全く思い出せずにいた。彼女にある幼少期の記憶といえば、あの巫女一族の総攻撃にあった日、母の取り残された宮が煌々と燃え上がる光景と、真っ暗な深い森の中銀狐を抱いて必死で走り続けた事ぐらいである。楽しかった出来事はたくさんあったはずなのに、それらをなんとか掘り起こそうとすると、途端にその全てがあの辛い記憶に塗り潰されてしまうのだ。
ここ最近、なるべく意識しないようにしていた過去の凄惨な記憶を思い返したせいか、金狐は胸に重りを埋め込まれたような息苦しさを覚え始めた。宮に燃え盛ったあの炎の煙と臭いとが鼻をつくような、嫌な幻覚を感じ始める。
次第に具合を悪くしていく彼女を見て、捷天は焦った様子を見せた。
「ああ、もういい。俺が悪かった、憶えてねえ事は仕方ねえもんな。もう無理して思い出すこたあない」
金狐が落ち着き始めるのを待つようにしばらく押し黙った後、捷天は一体何を思い立ったのか「よし!」と声を発して立ち上がった。
「それじゃあ、まず俺の事を知ってもらわねえとな。どこの誰だか分からねえ奴に守ってもらっても、嬢ちゃん達は不安だろう。とにかく、お互い対等に話すために、まずは嬢ちゃん達も人間の姿に化けてくれねえか? 体力的にちょっときついかもしれねえが、頼むぜ。その姿だとどうも話しづらくてな」
金狐はどうしたものかとしばし考えたが、捷天という男に敵意らしきものは感じられないため、とりあえず彼の言う通りにする。金狐が人間に化けると、続けて銀狐もそれに倣う。
二人の人間の姿を見て、捷天が感歎の意を表すような声を漏らした直後、彼ははっとして仕切りなおすとばかりに咳払いをする。
「俺は見ての通り、天狗一族烏天狗だ。ちなみに、化名は嘉兵衛。まだ嬢ちゃん達狐一族が妖怪を牛耳ってた頃……って言っても、それよりもずっと昔からなんだが、俺達天狗一族は狐一族と深い付き合いがあってな。よく盃を酌み交わし、互いの知勇や武勇を自慢し合ったもんでさ。俺達を統べる現『大天狗』は当時、九尾御前(ごぜ)とは結構仲が良くてなあ。それに与って、俺も九尾御前にはしょっちゅうお近づきになり、その美麗さと聡明さを見てはたびたび感銘を受けるばかりだった。まあ、九尾御前にお近づきになれたおかげで、俺は小さかった嬢ちゃん達の相手も任されたもんだ。……しかし、まあ、ちょっと前までは可愛いだけに思えた嬢ちゃん達も、こうして成長してみれば、九尾御前の面影を立派に引き継いでいるもんだ。……それにしても三百年か、俺達にしてみればみじけえもんだが、嬢ちゃん達の姿を見ると、実際は決してみじけえ歳月じゃなかったんだなとしみじみ思わされる」
話し始めこそは捲し立てるような勢いがあったものの、話し込むにつれ、徐々に捷天の声は感慨に浸るような湿り気を帯びていった。恐らく、過去から現在に至るまでの長い歴史を見返しているであろう彼の瞳の奥には、積もるような年季を経た深みがあった。
その捷天の様子を見て、金狐はゆっくりと警戒の色を薄めていく。今程の話を聞く限り、少なくとも彼が嘘を言っている訳ではなさそうだと判断したためである。加えて、幼少期の朧気な記憶の中でも、母親から天狗一族の事をよく聞かされていた憶えが幽かにあり、よくよく思い返せば、捷天のような風貌の天狗達に深く馴染みのあったように、金狐は感じ始めていたのだ。
「……ああ! そうだ!」
捷天はふと我に返ったとばかりに声を張った。
「嬢ちゃん達が無事ってこたあ、九尾御前も……ああ、嬢ちゃん達の母君の事だが、あの方も無事なんだろ? やっぱり、狐一族はそう簡単に滅亡するような軟な一族じゃねえよな。特に九尾御前は文武のみならず、戦の兵法にも明るかった。巫女の野郎なんぞ、足元にも及ぶはずがねえ」
そこまで一人合点するよう一息に喋り終えた捷天は、返答をする素振りのない金狐の顔色を見て、しまったというように口を噤んだ。先程まで捷天の顔を見上げていた金狐は両目を地に伏し、最後に見た母の姿を思い出す。
「母上は、きっと、もう此の世にはいないと思います。母上が巫女に滅せられるのを直接見た訳ではありませんが、あの日からすでに三百年という歳月が経った今もなお、母上のお姿をお見かけするどころか、何処何処で見かけたという噂話さえ全く聞かないのです。母上が生きているかもしれないという望みは、とうの昔に捨てました。でも、ただ心残りなのは」
金狐は思わず、涙を流すよりも先に嗚咽を漏らした。むせび泣くようなか細い声を不規則に発しつつも、悲しさのあまり膝から崩れ落ち、涙の流れ出す両目を両手の平で覆う。その唐突に溢れ出した悲しみとは、彼女の頭の中で浮かび上がっている母の姿にあった。
母の姿を懸命に思い出そうとすると、あの燃え尽きつつある宮殿の中で、苦悩とも哀愁とも言えぬ顔をした母の姿が何よりも真っ先に思い浮かぶのだ。どんなに楽しく、幸せに満ちた顔よりも印象的かつ明細に焼き付いたそれは、唯一の母親を失った金狐にとって不幸な事であり、悔しくも悲しい事でもある。
「母上の、あのどこか儚げで、美しく、そして優しげな笑顔を、最後の思い出に出来なかった。ただ、それが心残りで……。その母上の顔を知る事が出来なかったごんが、ただ不憫で、居た堪れず。私は本当に、ひたすら一心に、ごんに平穏な暮らしをさせてやりたいだけなのです。私が母上の代わりに、母上のやり残したであろう愛情と温もりの全てを、ごんに注ぎ込んであげたいだけなのです。それが、どうしてこんな事に。どうして、ほんの僅かな平穏が、私達には許されないのでしょうか」
今まで抑え込んでいた感情が思わず溢れ出てしまったのであった。そんな金狐の背後に立っていた銀狐は、目の見えないながらも一変した姉の様子を感じ取り、慌て不安がっているようである。
金狐の心からの訴えを聞いて、捷天はなんとも居た堪れないとばかりに片手で首筋を掻き、視線を泳がせていた。それから、何を考えていたのか、彼は何かに思い当たったといった声色で「そういえば……」と話題を切り出す。
「俺ら天狗一族の住む老山、そこより北へ広がる森のどこかに、安息を求める妖怪達の集まる隠れ里があるそうだが。そこを目指してはどうだ? なんでもその里は、身分や出自、妖力の差も一切関係なく、皆等しく穏やかな暮らしができるらしい。おまけに、人除けが完璧に施されているという話じゃねえか」
その言葉を聞いた金狐は少しの間を置いて、捷天の顔を再び仰ぎ見る。
「そんな、人間の想像上にある極楽浄土のような場所が、本当にあるのですか?」
「いや、そこまで言われりゃあ、俺も『ある』とは断言はできねえんだが。それでも目指してみる価値はあるだろうよ。まあ、俺達天狗一族が匿ってもいいんだが、そうすると、俺達と狐一族の仲を知っているであろう巫女一族に嗅ぎつけられるかもしれねえしな。どうだ? 宛もなく巫女一族に追われる日々を強いられるより、ずっと安心して暮らせるはずだ」
捷天の話を聞いた金狐は考える。そのような安息の地を見つける事ができれば、その後の生活の安心が保証されるのはもちろん、体の不自由な銀狐にこれ以上無理をさせずに済むのだ。不安と言えば、その里を見つけられなかった場合、その僅かな望みさえ失う事になり、淡い希望を抱いてしまったが故の絶望感を味わう羽目になる。いや、元より、彼の言うように行く宛のないこの身。いずれ、巫女一族に見つかり処刑されるくらいなら、ここはその僅かな望みに掛けてみるしかないのだ。
金狐は決意を込めた瞳を以て、捷天の目を見つめ返す。
「捷天さん。これからの先は、その里を探してみたいと思います。私達狐一族の盟友として、この度助力に参上された事、本当に感謝致します」
金狐は捷天に対して深々と頭を下げた。先程まで悲しみに打ちひしがれていた彼女の表情は一変し、元の気丈な凛々しさを取り戻していた。一つの目的を手にした以上、いつまでも弱気でいる訳にはいかない。
背後にくっついている銀狐に一声掛け、金狐がその場から立ち去ろうとした時、
「おいおい、ちょっと待ってくれ」
と、捷天が慌てた様子で彼女を呼び止めた。
「さっきも言ったように、俺は嬢ちゃん達を守るためにわざわざ山から下りてきたんだ。これから先、いつ巫女一族に見つかるかも分からねえんだ。俺は嬢ちゃん達の護衛として、旅先をお供させてもらうぜ」
金狐にとって、彼のこの言葉は思ってもみない事であった。自分達を守るとはいっても、まさか護衛の役をかって出るとは露程も予想していなかったからだ。自分達がかつて妖怪の筆頭としてその実力を誇示していた狐一族の生き残りであっても、もはや今となっては、その栄光も見る形すらない。現在、筆頭としての権力は自分達狐一族の末裔より、むしろ天狗一族の方にあるはずだ。
「でも、私達はもう、昔のように地位も名誉も、一族としての権力もありません。そこまでして頂いても、何のお返しもできないのですが」
そんな金狐の言葉を、捷天は鼻で高らかに笑い飛ばした。
「何言ってんだ? 俺達盟友の間に、損得なんてありゃしねえよ。あるとすりゃあ、義理。そう、これは天狗一族としてよりも、俺個人が果たすべき義理でもあるんだ。盟友狐一族、特に九尾御前には色々と返し切れてねえ恩がある。その分を、どうか嬢ちゃん達へ返させて欲しいんだ」
捷天の声は淀みなく、真っ直ぐと通っていた。
その言葉の端々から、金狐は彼の誠実さをひしひしと感じ取った。これほどまでに自分達への助力を申し出てくれる事にただ純粋な嬉しさを覚えたのだ。故郷と母親を失い、人間に化けて人里を点々としたり、野宿を繰り返したりと頼る宛のない生活を過ごした三百年を経て、初めて明確な味方を得た思いであった。
金狐は捷天の前に進み出て、もう一度深くお辞儀をする。
「これから、よろしくお願いします」
「あ~、よせよせ」
捷天は金狐の肩を持って、彼女の折った腰を元に戻した。
「俺達は盟友だ。そんな仰々しい事はいらねえさ」
「ありがとう御座います」
そう礼を言った後、金狐は一度銀狐にも事情を説明し、捷天へお礼を言うように促した。目の見えぬ銀狐の手を優しく引き、捷天の前へゆっくりと誘導する。誘導し終えると、捷天のいる方向へ銀狐を向かせ、礼をするよう合図をした。
その金狐と銀狐のやり取りを見た捷天は、銀狐の体の具合をなんとなしに察したようであったが何も言わず、銀狐の礼を受けたのだった。
ある程度彼の詮索を覚悟していた金狐は、何も聞いてこない事に少しばかり安堵した。銀狐の前で本人の鼻と目の不自由について説明するのは、自分にとっても銀狐にとっても辛い事であるため、それを避けられるのならそうしておきたいのだ。
金狐は黙したまま、その事についての感謝を伝えるように、捷天へそっと目配せをした。それを受けた彼の瞳には銀狐へ対する同情と同時に、銀狐に不自由を強いた者へ対する憤りを静かに潜ませているようであった。
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