第三幕 ―滅びし狐一族の再興を願わん妖怪共―
不規則に立ち並ぶ木々に挟まれた大きな道。その道には空を遮る葉や枝の天蓋もなく、上空に昇った太陽から温かな光が降り注いでいる。
やや足早に歩いていた弓千代は、里まで後もう少しという途上でつと立ち止まった。道のどこからか流れ込んでくるあの妖狐の妖気を探ってみると、その妖気がまだ新しく、つい最近残されたものであるようであった。
「小夜、少し走るぞ。もしかすれば、妖狐に追いつけるかもしれない」
弓千代は自分と肩を並べていた小夜にそう言うと、彼女の返事も待たずに走り出した。小夜は状況を上手く飲み込めない様子ながらも、弓千代の後に続く。
妖狐がすぐ近くにいるかもしれないという可能性は、弓千代の心を大きく揺さぶっていた。馬という移動手段を失い、時の経つにつれ妖狐との距離が広がってしまう事を仕方なしと覚悟していたところへ、その可能性が舞い込んできたのだからそれも当然であった。
焦る気持ちによって足を早めてはいたものの、弓千代は冷静さを失っていた訳ではない。妖狐の逃亡からもう一夜が過ぎているのだ。徒歩による追跡を強いられている自分達の歩みが、狐の姿で人間よりも素早く移動出来る妖狐達へ容易に追いつけるなどとは考えにくい。これが私達を的外れな方角へ誘導し、奴らが遠く逃げるための時間稼ぎである可能性も十分にあり得る話だ。謀略を得意としていた狐一族の生き残りである奴らなら、そんな罠を張るのも簡単な事だろう。だが、目の前にこの手がかりしかない今、あの妖狐の歩みがなんらかの理由で遅くなっているのだろうと踏んで先を急ぐ他に道がない。
弓千代はひたすら走り、森の出口へと急いだ。森の出口へと近づくにつれ、道に漂う妖気はより濃く、より確かなものへとなっていく。
ようやく森を抜けて里に入った弓千代はすぐさま、一方から尾を伸ばす強力な妖気を感じ取った。里の様子はどこにも異変がなく、里の人々もいつものように生活しているようであったが、妖怪退治を生業とする巫女にとっては看過出来ぬ異常な空気である。いまだ妖気を思うように感じ取る事の出来ぬ小夜にでさえ、その妖気の禍々しさを察せられるようであった。
弓千代は直感する。あの妖狐がそう遠くない距離にいる、それも里から出て間もない位置に違いない、と。
到着次第、そこで情報収集をするはずであった里を脇目もふらずに通り抜け、里の保有する田に挟まれた道へ出る。先程までいた森の景色とは打って変わって、開けた視界には稲苗の植えられた田園風景が広がっていた。ここを抜けた先、踏みならされた土道のある草原に出れば、恐らくあの妖狐の姿が見えるはずだと弓千代は睨んでいた。
真っ直ぐと伸びた田の道を少し進んだ時の事。
突如、夜の訪れとも思えるような暗闇が辺りを支配した。完全な闇ではなかったが、夜目の利かない弓千代達は急ぐ足を止めざるを得なかった。行く手を阻まれた事に苛立ちを示しつつも、この暗闇の原因を突き止めようと、弓千代は周囲に妖気の源がないかを探る。
そこへすかさずといった具合に、どこからともなく臭いのない奇妙な黒煙がもくもくと立ち昇り始めた。普通であれば暗闇に溶け込んで見分けのつかなくなるはずの黒煙は、あまりにも深い漆黒をしているために不自然なほどの輪郭を帯びており、彼女達の目にもはっきりと捉えられるものであった。
弓千代がその黒煙へじっと目を向けていると、その中から大きくも猿のお面のような顔がぬっと出てきたのである。続いて、首元から下へ続く狸らしき体格に毛皮を纏った胴体が露わになり、それに追って虎模様の手足に、生きた蛇頭のついた尾の先まで出てくると、その全貌をついに現した。
このような特徴を目にした弓千代は、一匹のある妖怪に思い当たる。
「貴様、鵺か?」
弓千代は空中に浮かぶ鵺を睨みつけながらそう言い放った。返事など鼻から期待していなかった彼女に対し、鵺はけたけたと不気味な笑い声を返す。
「ああ、如何にも。我はウヌら人間が勝手に名付けた、その鵺というモンだ」
「ほう、喋れるのか」
弓千代はそれと分からぬよう無表情を保ちつつ、僅かに驚いた。彼女の知る鵺とは、どれも意思疎通のための言語と理性的な知能を持ち合わせていないものばかりであったからだ。前回の土蜘蛛と同様、異常な妖力を得ているのだろうと警戒を強める。
「貴様ら鵺共は、普通夜にしか姿を現さぬはずであろう。それにその巨体に知性……、妖狐の妖気に当てられたな?」
「そうだ。この我の力を、血をこれほどまでに滾らせる妖気。まさしく、数百年前に我が畏れ敬っていた狐一族のモノにそっくりだ。聞けば、魑魅魍魎共がやれ狐一族の末裔がいただの、狐一族は滅びていなかっただの、騒いでおったが。アイツら有象無象の屑共も、情報だけは早いらしい。かつて全妖怪を牛耳り、筆頭として繁栄を極めた狐一族が生きていたとは、実にめでたい話だ」
暗闇の中、低く地を這うような鵺の声が木霊する。
妖怪の声とはやはり耳障りだ。鵺の声を不快に感じた弓千代は、元より抱いていた妖怪に対する嫌悪と憎悪を剥き出しにする。
「黙れ、卑しい化物風情が調子に乗るな。私はそのめでたい狐一族の生き残りを、今度こそ滅亡させるために先を急いでいる。滅せられたくなければ、今すぐ道を空けろ」
弓千代は矢筒の矢へ右手を添え、いつでも臨戦体勢を取れるようにと構えた。猿のように丸い鵺の目をきつく睨みつけ、ありったけの殺気を込めて奴を威嚇する。
が、どうやら彼女の威嚇は通用していないようであった。意図の汲み取れない無機質な黒目を弓千代に向けたまま、鵺はしばらく無言のまま身動ぎ一つしなかった。沈黙の間、鵺は何を考えていたのか唐突に笑い出す。
「誰が、ウヌら巫女の言う事を聞くものか。折角舞い込んだ狐一族復興の兆しだ。かつての狐一族が戻ってくれば、我らはもう、巫女一族に怯えながらせせこましく生きる必要もなくなるのだからな。そう簡単に、生き残りを滅せられては困るのだ!」
鵺が宙を蹴り、弓千代達に向かって飛び込んでくる。奴の行動に備えていた弓千代は、少しも遅れを取る事無く右手を添えていた矢を取り出し、番えた矢先の狙いを鵺の額へと定めた。後は引き絞った弦を離せば、その矢が奴を確実に射抜き仕留めるはずである。
鵺との間合いを計り、いざ矢を放とうとしたその時、奴の黒煙が突如として動き出し弓千代の視界を遮ってきた。不意打ちを喰らってしまったため、彼女は腕全体で目を守ろうと思わず引き絞っていた弦を緩め、矢を落としてしまった。
仕舞った、そう思ったが時すでに遅く、彼女の背後から「きゃっ!」という短い小夜の悲鳴が聞こえたかと思うと、つい今程まで感じられていた小夜と鵺の気配が次第に遠のいていくのだった。
すると、弓千代に絡まっていた黒煙が薄れ、夜のような暗闇もすうっと晴れ渡り始める。辺りの風景が元に戻るより早く、弓千代は周囲に視線を泳がせた。大して時間もかからぬ内に、左手に広がる田んぼの向こうに小さくなった鵺の後ろ姿を見つける。
弓千代は背中を強く押されたように駆け出し、鵺の後を追い始めた。見失わないよう奴の姿をしっかり見据えながら、田んぼのひしめく細い通り道を走る。
鵺の去っていく方角と、妖狐の逃げる方角とは全く別であったが、そんな事を気にしている場合ではなかった。鵺に咥えられた小夜を思い浮かべると、弓千代は己の幼少期に体験した嫌な記憶を思い出してしまう。幼い自分の友達が妖怪によって連れ去られ、無惨に食い殺されたあの記憶を。
自分の置かれた状況から想起される過去の記憶を、弓千代は頭を振ってかき消そうとする。私はもう無力な女子供ではない、小夜をあの子のようにさせるものか。そう心で呟き、心臓が張り裂けんばかりに走る自分の足をことさら急がせる。
それでもある程度距離の離れてしまっている鵺に追いつくのは少々時間がかかる。徐々に弓矢の射程内へ近づきつつあった矢先、奴は姿をくらませるためか森の中に入っていった。半端な知性を得た鵺の取る行動に鬱陶しさを覚えつつ、弓千代も森へ分け入る。
雑草や藪が腰丈ほどまで生い茂り、幹の太い木々が枝を擦り合わせるように密集しているため、視界はあまり良いとはいえない。森に入った時点で、弓千代は鵺の姿を見失ってしまっており、奴の通った後に残していく妖気を頼りにひたすら追いかけるしかなかった。小夜を助け出す事を諦めた訳ではなかったものの、最も避けたい凄惨な光景が脳裏を過ぎり、彼女の心を酷く締め付け焦らせていた。
もうどれくらいの時間と距離を走ったのか分からなくなっていた時、弓千代は森の中の開けた場所へ出たところで足を止めた。彼女が足を止めたのは、自分の目の前に彼女と同じく立ち止まっている鵺の後ろ姿があったからである。
「ウヌは……、我らと同じく妖怪であろう。何故、我らの邪魔をする?」
その鵺の声は弓千代に対してではなく、奴の目前にいる一人の男――いや、妖気を漂わせているところを見ると人に化けた妖怪――へ向けられていた。その男は威勢良く鼻で笑い、片手に持っていた薙刀の刃先で鵺を指差す。
「てめえのような下等で下劣な奴なんぞと一緒にされたくねえな。……いいか? いくら狐一族のためとはいえ、無抵抗の人間を攫うなんざ汚え真似すんじゃねえよ」
そう言い終わったかと思えば、男は目にも留まらぬ早業で薙刀を縦に一振りした。直後、鵺は断末魔を上げる事無く縦に割れ、地面に落下して重々しい音を立てる。それとともに鵺の手から解放された小夜は一瞬の出来事に唖然としつつも、そこに立つ男へと視線を注いでいるようであった。
弓千代は牽制目的で弓矢を構え、矢の狙いを男へ合わせる。
「そこを動くな、化妖怪」
彼女の呼びかけに応じたのか、男は一歩も動かぬまま、
「何をしてんだ。早くあいつの元へ戻りな」
と小夜に向けて声をかけた。
何がなんだからよく分からないが、とりあえず命を救ってくれた事に対して感謝しようといった様子で小夜は男へ一礼をし、弓千代の元へ駆け寄った。小夜の表情はどこか晴れ切らず、負い目を感じている様がありありと浮かんでいた。
「足手まといにはならないって言ったのに、ご迷惑をかけてすみません」
「良い。何より、お前が無事で良かった。さあ、私の後ろに下がって弓を構えろ。あの男は妖怪だ」
男が妖怪である事を聞いた小夜は驚きの色を浮かべつつも、弓千代の言葉にしたがった。彼女が自分の弓矢を構えたのを確認してから、弓千代は三、四間ほど離れた位置に立つ男の正体を見極めようとする。
男は一本歯の高下駄を履いているため、七尺ばかりになろう身長をしており、相当過酷な修練を積んできたのであろう逞しい体格をしていた。暗めの紅色をした結袈裟のある山伏装束を身に纏い、片手には薙刀を持っているのだが、その恰好の割には若く青年のような容姿をしている。
混じりのない漆黒をした奴の瞳は弓千代へ向けられていた。弓千代は、その瞳から放たれる視線に明確な敵意と殺意が含まれている事を感じ取り、それを突き返すように非情さを込めた目つきで見返す。
「妖怪が人助けか?」
声色に棘をちらつかせた弓千代の問いに、男は片側の口端を引くような笑みで返してきた。
「俺は人助けはしても、巫女を助けるなんざしねえ。ただ、そこの汚え猿顔とは違って、俺なりに正々堂々と時間稼ぎをさせてもらうだけさ」
そう言い終わるや否や、先程鵺を斬り裂いた時と同じように、男は薙刀を振りかざし目にも留まらぬ速さで弓千代に斬りかかる。その初動に反応した彼女は、構えていた弓矢を放り、咄嗟の判断で腰の刀を以て受ける。間一髪、薙刀の刃先は彼女の鼻先のところで刀に食い止められていた。
いくばくか腰を落とし両足を踏ん張る弓千代に対して、男は涼し気な顔に自信の満ち溢れた笑みを浮かべる。
「ふん! やるじゃねえか」
そう吐いた男は、弓千代から一旦距離を取るように後ろへ飛び下がり、次に開けたこの場を囲む木々の中へと姿をくらませた。
奴の姿が消えるとともに、その場が不気味な静寂で満たされる。男は逃げたのではなくまだどこかに潜んでいる、そう感じ取った弓千代は、刀を構えたまま周囲の木という木の陰に警戒を張り巡らせた。
いつまで続くかと思われた静寂は、ものの一時で破られる事となる。
弓千代はふと右肩へ振り返り、目の前に持ってきた刀を腰の左側へと引きながら、右へと体を動かした。すると、正面からきたと思われる斬撃が彼女の刀を掠り、鉄同士の擦れる鋭く短い音を鳴らした。
だが、そこに男の姿を捉える事はできなかった。弓千代が周囲へと意識を戻した時には奴の姿はどこにもなく、すぐに破られるであろう静寂がまたもや場を支配しているだけであった。
次に奴の攻撃を直感したかと思っても、その瞬間に取れる彼女の行動は今程と同じく奴の斬撃を辛うじて受け流す事ぐらいであった。そうした防戦一方たる応酬が何合となく繰り返されていく。
奴の姿を中々捉えられない弓千代は、その焦りから苛立ちの混じった舌打ちを零す。妖怪如きが小賢しい真似を。一見すれば、奴のこの動きは鎌鼬(かまいたち)のようだが、鎌鼬が人に化ける事は滅多にない上、化けるとしても主に男の童子であるはず。それにこの速さ。奴から妖狐の妖気が感じ取れないところを見る限り、この怒涛の神速は元から持っている素の力であろう。だとすると、奴の正体は。
四方八方からの不意打ちへ身構える弓千代の耳に、森に木霊する男の声が届いてくる。
「どうした、巫女一族の女、てめえの力はその程度か? まあ、無理もねえ。妖怪退治に特化した巫女といえども、所詮非力な女。この俺の速さを受ける事は出来ても、烏天狗の底力には勝てまい!」
はっきりとした奴の声が消え入ると、森の音という音が無くなったように思われた。
じっと相手の出方を窺っていた弓千代は、つと背後の木陰から幽かな物音を聞き、そこへ素早く振り返る。それと同じく手前に持ってきた刀は奴の斬撃をしかと受け止める。その斬撃は弓千代の体へ重くのしかかり、彼女の歯を食いしばらせた。
弓千代は両足で地を踏ん張り腰で上半身を支えながら、刀身の刃を向けた先を睨みつける。彼女の刀と交わっている薙刀の先には奴の姿があった。男は弓千代と目を合わせながら、余裕と自信を見せつけるような軽い笑みを浮かべている。
「おいおい。まさか、『護ノ巫女』って奴は皆、てめえみたいに張り合いのない奴ばっかりなのか? 巫女一族お得意の『破魔の力』はどうした?」
男に煽られた弓千代は反論こそしなかったものの、腹の底で悔しさと怒りを煮えたぎらせていた。いくら「破魔の力」を用いて妖怪を滅する事が出来るといっても、その力を充分に発揮させる事の難しい近接戦闘に持ち込まれては、一族屈指の力を誇る彼女でも無力に等しい。その上純粋な力比べとなれば、妖怪に対して人間の身である彼女は明らかに不利である。
弓千代の刀を押さえつける奴の薙刀は、少しずつでありながらもにじり寄るように彼女を押し込んでいく。得物の長く強靭な薙刀に対し、こちらは柄も刀身も短い刀。彼女の使う刀はそこら辺の武士が持つような凡庸たる代物ではないものの、このような力技で強引に迫られてしまっては、いつまで刀身が保つかも分からない。
もはや、ここは捨て身の覚悟で反撃を食らわせる他ない。少なくとも一度は奴の刃を受けるだろうと承知した上で、弓千代が一旦刀を引こうとした時、男は彼女よりも早く刀を押さえつける力を弱め、後ろへ二、三間ほど飛び下がる。その奴の残影を貫くように一本の矢が空を切り、弓千代の足元へ突き刺さった。その矢からは淡い紫色の微弱な光が漏れていた。
矢の飛んできた方へ弓千代が目を向けると、男も矢を放った主である小夜へと鋭い視線を注いだ。
「無粋な真似をしやがって。真剣な立合いに横槍を入れるんじゃねえ!」
男は怒声とともに地を蹴り、その一蹴りで間合いを一気に縮めながら小夜へ斬りかかる。
それを見るか見ないか、弓千代は先程傍へ放った妖打を拾い上げて矢を番え、弦を引き絞る時間を一拍と取らずにその矢を放つ。背後へ差し迫る飛矢に気づいたらしい男は小夜への斬りかかりを中断し、頭上へ高く飛び上がった。目標を失った矢は小夜の手前の地へ鋭角に突き刺さる。
間もなく、男は木の幹から横へ伸びた太い枝へ着地したのだった。忌々しいといった目の色をした奴は小夜と弓千代と交互に見下ろす。
「さすがは、かつて夜襲と奇襲を以て我が盟友狐一族を討ち滅ぼした巫女一族だ。不意討ちを厭わぬその非道さ。仮にも武器を取る人間が、自ら築き上げた武士道を忘れるとはな」
薙刀の矛先を向けられた弓千代は次の矢を番え、
「妖怪ごときに人間を語られる筋合いはない!」
と奴の立つ木の枝に向かって破魔矢を放った。
男は無表情のまま足元の枝に刺さった、菫色のような煌々とした「破魔の力」の光を纏った矢を眺めた。かと思うと、高らかに「ふん!」と鼻であしらい、弓千代へと視線を戻す。
「そろそろ、頃合いだろう。……いいか、よく聞け。俺はな、てめえら巫女一族がでえ嫌いだ。その昔、盃を交わし合う仲であった盟友狐一族を、てめえらは容赦なく皆殺しにしやがった。謂れ無き理由で盟友を討滅した罪、必ず償わせてやる」
言い終わった男は薙刀を一振りし、自分の立っていた枝を切り落とす。と同時に、奴はそこから落ちる事なく、そのまま宙に留まった。そのほんの僅かな一時の間に、奴の耳は人間のそれよりも鋭く尖り、背中からは漆喰で塗り固めたような濡羽色の大翼が堂々と生え出ていた。
「俺は天狗一族烏天狗の捷天、化名を嘉兵衛。名乗るは人間の礼儀だろう、てめえの名は?」
名を聞かれ、弓千代はしばし黙ったまま捷天を睨みつける。化名(ばけな)――それぞれの妖怪が自分の妖名(あやかしな)を偽るものであり、人の姿に化けた際にも用いる名――が嘉兵衛という事は、捷天が妖名――人間の諱と同じであり、妖怪個人が本来持っている名――という事か。
「貴様がどういった考えで己の諱を明かしたかは知らぬが、私の諱は教えられぬ。だが、一応偽諱(ぎき)だけは名乗り返しておこう。私は巫女一族『護ノ巫女』弓千代だ」
「弓千代……だと?」
捷天は顎に手を添え、考えを巡らすような素振りを見せる。
「聞いた事あるぜ、その名。巫女一族の中でも指折りの実力者であり、世間では『彼岸の弓取り』と称されているんだってなあ? とすると、数年前にがしゃどくろや海坊主の一族を根絶やしにしたのもてめえか。……ふん、てめえの名、決して忘れぬぞ。弓千代さんよ! 俺の名と顔、てめえもしっかり憶えておけよ!」
弓千代の名を聞き終えると、その場から捷天は潔く飛び去っていった。
捷天の妖気が遠のいた事を確認してから、弓千代は弓矢を収め、小夜の傍へ近寄った。
「小夜、さっきは助かった。怪我はないか?」
「はい。ちょっとした擦り傷とかはありますけど、大した事はありません。それよりも、私こそ助けて頂いて……。弓千代様もお怪我はありませんか?」
小夜は心配そうな面持ちをし、弓千代の腕や顔といった体を確かめる。その様子を見た弓千代はほっと胸を撫で下ろした後、目下の目的をはたと思い出す。
「小夜、早く先程の道に戻るぞ」
弓千代は小夜を引き連れ、走り出した。急いで森を抜け、元いた田の道へと駆け戻り、妖狐の足取りを示す妖気を着々と追っていく。
大した時間も走らぬ内に草原へ出ると、弓千代は天地の境目まで続く草地の中から妖狐の姿を見つけ出そうとする。視界の利く限りで辺りを見渡し、遠くの草むらの陰に潜む野兎の動きさえ見逃さぬようにと、感覚という感覚を研ぎ澄ましていた。が、妖狐の姿はどこにも見当たらなかった。
また不可思議な事に、妖狐の残した妖気が草原の途中でぱったりと途切れていたのある。まるで羽でも生えてどこかへ飛んでいったかのように、綺麗さっぱり跡形も無くなっていた。この事は弓千代の頭を悩ませた。妖狐は類のない強力な妖力を持っているものの、空を自在に飛ぶ能力まではないはずであり、もしその能力を持ち合わせていれば、最初からこのような足跡を残す訳がないのだ。合点のいかぬ弓千代の胸中に追い打ちをかけるように、折角の好機を取り逃がしてしまった事への悔しさが段々と募っていく。
そんな弓千代の胸中を感じ取ったのか、縮こまった小夜が彼女の前へ歩み寄る。
「申し訳ありません、弓千代様。私が鵺に捕まってしまったばかりに」
気落ちした小夜の様子を見た弓千代は、確かに先程の件さえなければと一瞬だけ考えたものの、すぐさまその己の軽率な考えを恥じた。鵺や捷天といい、妖狐の手助けをする妖怪は必ずいるものなのだ。小夜一人に原因を押し付けるのは思慮浅く、詮無き事であろう。
「気にするな。妖狐を逃してしまった事は惜しむべき事だが、それよりもまず、お前が無事で良かったのだ」
弓千代は小夜に余計な気負いをさせないようにと声色を和らげ、腰を折って自分の目線を彼女の目線に合わせる。弓千代の視線を感じたらしく、俯けていた小夜の顔が上がる。不安げな彼女のその表情を見つめながら、弓千代は優しく微笑みかける。
「さあ、一旦里へ戻ろう」
「えっ?」
来た道を引き返すために立ち上がった弓千代に対して、小夜が驚いたような声を上げた。
「でも、今すぐ妖狐の行方を探ったほうが……。私にはまだ妖気の感じ方がいまいち分からないので、はっきりとは言えないんですけど。時刻も夕暮れ前ですし、付近をもっと探せば、もしかしたら見つかるかもしれませんし」
自分なりに考えたのであろう小夜の進言を聞き、弓千代は言葉を返す。
「恐らく、妖狐はもうこの近くにはいないだろう。奴の妖気はここで途切れてしまっているのだ。その理由はどうであれ、ここから先は、今までとは違う移動手段を取っているという事が考えられる故、そう簡単に奴らの足取りは掴めまい。それに、次の里までには道が遠い。まだ夕暮れ前とは言え、行く宛のない捜索をしては時間と労力を無駄に消耗するだけとなろう。ここは一度里へ戻り、情報収集を兼ねて一夜を明かした方が良い」
弓千代の言葉に納得したように、小夜は「分かりました」と返事をした。
小夜の手を引くように「さあ、行こう」と声をかけてから、弓千代は道を引き返していった。草原から田の道へ戻り、一度は通り抜けた里の中へ再び入ると、まず今夜を過ごすための宿を探した。満員のために断られた二、三軒ほどの店を経て、日の暮れる前にはなんとか手頃な宿を見つける事が出来たのだった。
その夜、宿室の床で疲れた体を休ませながら、弓千代は今後の事について考えていた。当面の問題は、足取りの掴めなくなった妖狐をどうやって見つけ出すかである。奴らは人の姿に化けて人里に紛れ込む事も可能なため、この里での情報収集も然程期待出来ないであろうし、この先の捜索も困難を極めるであろう事は想像に難くない。これから如何にして効率良く妖狐の消息を掴み、奴らを捕えるのかを考えながら、弓千代は非常にゆったりと訪れる睡魔に身を委ねていった。
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