裏幕 ―壱―

 木漏れ日の降り注ぐ森の中。金狐と銀狐は巫女の総本山である守護大社から少しでも遠ざかろうと、子の方角へとひたすら進んでいた。二度と巫女に捕まりたくないと焦る気持ちはあるものの、その歩みは決して早いものではない。

 金狐は自分に手を引かれて走っている銀狐の方を振り返る。銀狐はじっと目を瞑ったまま、金狐の手を頼りに危なっかしい足取りで駆け足気味に走っていた。

「ごん、大丈夫?」

 銀狐を心配した金狐がそう聞くと、銀狐は息を切らしながらか弱い声で「うん」と答えた。

 銀狐の目には、他人の見えている世界と同じものがほとんど見えていない。銀狐がまだ言葉も喋れぬ赤ん坊の頃、狐一族を滅亡させた巫女一族との総決戦にて、宮を燃え尽さんとする炎から排出された黒煙を浴び過ぎたせいである。その煙は彼女の光のみならず、狐一族にとって視覚の次に頼りとなる嗅覚までも蝕んでいた。鼻も利かず、目も見えぬ彼女は姉の金狐による手助けなしではまともな生活ができない状態なのだ。

 金狐は心苦しかった。妹が生まれて間もなく、自分以外で身内と呼べる一族は皆死んでおり、物心のついた時にはこんな肩身の狭い生活を強いられている。昔、自分が貰った山のように大きく海のように深い母親の温もりを、妹は何も知らぬのだ。出来る事なら、ごんには贅沢でなくともただ穏やかな暮らしを過ごさせてやりたい。

 走っている途中、自分の体に唐突な熱を感じた金狐はつと足を止める。彼女の足が止まった事を敏感に感じとったらしく、銀狐は少々戸惑いながらもふらふらと減速し、なんとか転ばずに済んだようだ。

「こん姉ちゃん、どうしたの?」

 状況をその目で確認できぬ銀狐は、不安と恐怖を僅かに滲ませた声を絞り出した。

 彼女の声を聞いて、金狐は半ば移ろいかけていた意識からはっと覚め、自分の妹の存在を思い出す。

「ううん、なんでもないの。急に立ち止まったりして、ごめんなさいね」

 妹に余計な不安を与えないようにと、金狐は努めて平静を装った返事をした。それから、今からまた走り出すよう銀狐に伝えてから、まずゆっくりと歩き出して、徐々にその歩みの速度を上げて先程までのような駆け足へと戻していった。

 なんでもないとはいったものの、金狐はまだ自分の体に熱を感じていた。正確には軽い病にかかった際に起こる火照りにも似た、体内の奥底から湧き上がるざわめきであった。今のところ、その熱の原因に思い当たる事もなく、また彼女の体がそれ以外の不調を感じている訳でもない。このざわめきのような熱は、早く逃げなければあの巫女に滅せられてしまうという己の焦燥感からくるものだろうと思い、金狐は一切気にしない事にした。

 そんな些細な事よりも、金狐はもっと別の事が気になっていた。

 何故、自分はあの状況から今この状況へと身を転じているのか、と。巫女一族の総本山守護大社にて、自分が弓千代という「護ノ巫女」に処刑される、まさにその時の事をほとんど憶えていなかったのだ。唯一憶えている事と言えば、「護ノ巫女」の破魔矢に射抜かれる瞬間、自分の中でおどろどろしく熱く煮えたぎるような何かが溢れたかと思った直後、曖昧模糊とした意識の中、ただ必死に妹を助け出し逃げ出そうとしたという朧気な感覚だけである。その時、実際自分はどういう状態にあって、あの窮地からどうやって抜け出したのかはさっぱり思い出せないのだった。

 自身の記憶の欠落が気になっていた金狐は、もし目の見える状態であれば重要な目撃者となりえたであろう銀狐に、あの時の事を聞いてみた。もしかしたら何か分かるかもしれないと淡い期待をしていたものの、銀狐から返ってきた言葉の大半は金狐の求めるような答えではなかった。

 あの時、銀狐の意識は至ってはっきりとしていた。そんな中、目の代わりに耳と全身の神経を澄ましていると、巫女の矢が放たれる音を耳にして間もなく、その場の雰囲気がふと一変した事を感じ取ったという。事実どう変化していたかまでは分からないが、肌に触れる空気が重くなっていたのは確からしい。その他には、大気を燃やさんばかりの業火の熱とその炎の存在を知らせる火花の爆ぜる細々とした破裂音、それと身の凍るような冷酷たる妖気――銀狐にとっては冷酷ながらも懐かしく、どこか身に覚えのあるもの――を感じていたようだ。

 断片的に並べられた銀狐の言葉の中で、金狐の一番引っかかった言葉は「冷酷な妖気」であった。あの場に自分と銀狐以外の妖怪はいなかったはず。だが、銀狐の感じた妖気の存在が確かであるなら、あの状況から自分達を救い出してくれたのはその妖怪なのだろうか。

 金狐はしばらく色々と考えていたが、やがて答えの出ぬ疑問について頭を悩ませる事に煩わしくなり、今はとにかく逃げる事に集中しようと決めた。

 巫女一族が大規模な捜索を始めれば、自分達が捕まるのも時間の問題だろう。逃げる当てはないが、ひとまずこの森を抜けた後、その先にある人間の里でなるべく人間の匂いをつけておいて、巫女一族の治めるこの大社ノ耶国から逃亡しなくてはならない。

 日の射す森の中を人に化けた姿で走りながら、金狐は自分の無力さを嘆いた。何故、私は大切な妹すら守る事が出来ないのか。

 裸足である彼女にとって、森の土は身を突き刺すほど冷たかった。

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