第二幕 ―巫女崇める人あれば、巫女仇なす妖あり―
林立する木々の葉や枝の間から陽光を漏らし、どこからか鳥の鳴き声が響き渡る森の中。
小夜と弓千代は馬を走らせていた。その足元が落ち葉と土の混じり合った腐葉土の獣道のせいか、如何に訓練された駿馬と言えど思うような速度を中々出せずにいる。獣道を脇にそれようものなら、生い茂る藪と密集する木々によって道無き道はさらに険しさを増し、行く手を遮る障害と化してしまう。
弓千代は一刻も早く狐姉妹に追いつきたいという気持ちを抑えながら、馬の手綱を正確に操っていく。この時ばかりは、自然を思う彼女も周囲の木々を邪魔だと強く感じていた。
弓千代より少々遅れて後に続く小夜といえば、慣れぬ馬の手綱捌きに苦労している。
「弓千代様。これから、どうなさるおつもりですか?」
手綱を持つ手元と弓千代の背中を交互に見やりながら、小夜は声をかけた。土を踏む馬の足音に混じった彼女の声を聞き、弓千代は意識を半ば背後へと向ける。
「そうだな。とにかく、最優先すべきは狐姉妹を見つけ出す事だろう。だが、それだけでは済むまい。あれほど強力な妖気を放っているのだから、野に潜み棲む弱小妖怪に悪影響を及ぼしても不思議ではないだろう。行く道に危険があれば、それを取り除かねばならぬ」
弓千代は周囲に漂う妖気を再度確認し、その妖気の具合に顔をしかめる。普通の妖怪が残した妖気は大抵、一夜二夜明けた程度では簡単に浄化されないはずなのに対し、周囲に漂う妖気が確かにあの妖狐のものであるにも関わらず、すでに薄れかかっているからだった。
「しかし、あの妖狐の放つ妖気は強力なれど、何故か弱小並の粘度しか持ち合わせていないようだ。この手がかりが消えてしまわぬ内に早く見つけねば、いずれ妖気が自然の力によって浄化され、狐姉妹の足取りを探る事さえ困難になってしまう。小夜もその事を頭に入れておいてくれ」
話をしっかり聞き取ったのか、弓千代の背中に「承知しました」という張りのある小夜の声が届いてきた。自分の言葉で現状を再認識した事により、あの狐姉妹を一時も放って置いてはならぬ、と弓千代の心もさらに引き締まったのだった。
それから半刻も走ったところ、弓千代は進行方向に向かって先の方にある村の方角から複数の妖気を感じた。それらの気配は明らかに微弱であり、妖狐のものでなく魑魅魍魎の類であったものの、どこか平時の妖怪から感じ取れる雰囲気とは別物であるようだった。あの妖狐との関係が一切ないとも言い切れない。なんにせよ、それらの妖気が村から近い位置にある以上、巫女一族である弓千代にとって看過できないものである。
そもそも、ここ一帯の森は守護大社を戴く霊峰大山による庇護下にあるはず。並大抵の妖怪ではここ一帯に入り込む事はおろか、近づくだけでもその身を滅ぼしかねない。それなのに何故、この先に最低の妖力しか持ち合わせていない魑魅魍魎の妖気があるのか。
「小夜、少々厄介な事が先で起こるかもしれぬ。すぐに矢を番えられるよう準備しておけ」
「はっ、はい!」
弓千代は手綱捌きをやや荒くし、馬の足を急がせる。後ろからついてくる小夜との距離が多少離れてしまうが、そんな事を気にしている暇はない。馬は素直にも彼女の指示に懸命に応えながら、目的の村へ着々と近づいていく。
弓千代の目が村の様相を捉えた時、そこではすでに我が物顔で暴れる魑魅魍魎の群れが家屋を壊し、村の人間に襲いかかっていた。ある妖怪の体は通常の個体のものよりもいくらか膨張した醜さをしており、またある妖怪の目は今にも引き裂かれんばかりに見開き、前へと突っ張った眼球が見苦しく充血している。奴らの行動には、およそ理性というものを感じさせないほど落ち着きが全くない。数こそ大した量ではなかったものの、暴れる魑魅魍魎の様子は弓千代の知っている弱小妖怪のそれとは大きくかけ離れていた。
「貴様ら! ここが我が巫女一族の治める大社ノ耶国(おおやしろのやぐに)である事を知っての狼藉か!」
好き勝手に暴れ回る魑魅魍魎に向かって、弓千代がそう叫んだ。
すると、奴らはその声に反応したような素振りを見せた後、ほんの少しだけ動きを止めて静まり返ったかと思うと、その直後には皆一斉に弓千代へと向かって牙を向け始めた。
弓千代は騎乗したまま、魑魅魍魎との間合いを一定に保ちつつ、妖打を以って矢を放つ。流矢が村の人間達に当たらないよう留意しながら、「破魔の力」を込めた矢で妖怪共を確実に射抜き、塵一つ残らぬように滅していく。
妖怪共の威勢が良い割に、弓千代は大して手こずる事はなかった。奴らはたった一匹とて彼女の懐にすら入り込む事も出来ぬまま、次から次へと倒れ、「破魔の力」によって跡形も無く消滅していくだけである。
次に矢を番えて静止した時、弓千代の目の前から魑魅魍魎の姿は一切なくなっていた。彼女は周辺の妖気を探り残党のいない事を確信すると、構えていた弓矢を収める。間合いを詰められて刀を抜くまでもなかったか、他愛無い。片手に妖打を携えたまま馬から降りた彼女はその場にしゃがみ込んで、すぐ傍の土に刺さっていた矢を引き抜いた。
弓千代はその引き抜いた矢を見つめながら考える。奴らの体にはあの妖狐の妖気が幽かながら付着していた。恐らくその妖気に当てられたせいで、魑魅魍魎が異常なほどに凶暴化していたのだろう。だが、所詮元が弱小妖怪であるため身の丈以上の猛威を発揮する事が出来ず、ただ発狂している状態に近かったおかげで、今回は奴らを容易に滅する事が出来た。これが強大な妖怪であったのなら、どれほど恐ろしい惨禍がもたらされていた事か。
「弓千代様!」
小夜の声を聞き、弓千代は彼女の方へ振り返る。
見ると、慌てた様子の小夜が危なっかしく馬を降り、手に持った弓と矢を構えつつ弓千代に近づいてきた。
「敵は?」
どうやら、小夜はもう敵のいない事を把握していないようであった。一生懸命であり、けれどもどこか間の抜けた彼女の様子を見た弓千代は思わず、呆れと親しみの混じった笑みを口に浮かべる。
「遅いぞ、小夜。厄介事はすでに片付いてしまった」
弓千代の言葉を聞いてか、少しの間を置いて小夜は状況を察したようであった。先程とはまた違った慌てた様子で弓と矢を収めながら、弓千代へと向き直る。
「申し訳ありません」
弓千代は土から引き抜いた矢を矢筒へと入れ、それによって空いた片手を小夜の頭へ優しく載せる。その際、白衣(はくえ)の袖が小夜の顔に当たらないよう、袖の端を自分の体の方へと引いた。
「良い。お前はまだこのような事に慣れておらぬのだ。ただ焦らず、己のその足がついて来れるところで精一杯やれば良い」
「はい、分かりました」
表情を引き締めた小夜は弓千代の目を真っ直ぐと見つめ、返事をした。その表情からは自分の力の至らなさを実感しつつも、これから改善していこうという前向きな意欲が見て取れたのだった。
彼女の素直な姿に幾ばくか心を穏やかにした弓千代は、小夜の頭から片手を離すと、自分の馬へと踵を返す。あの妖狐の妖気がここにあったという事は、自分の追っている方向に間違いはない。先を急がねば。鞍に手をかけ、馬の背中に跨がろうとした時だった。
自分に近寄ってきた一人の老けた村人が視界の端に映り、弓千代はつと鞍から手を離す。そちらへ目を向けると、彼は呻くような声を漏らしながら、震える膝を地につけ頭を下げた。
「ああ……、『護ノ巫女』様だ。巫女一族の弓千代様がいらっしゃった。ありがたや、ありがたや」
そういう彼の言動につられるように、あちこちに散らばっていた村人が弓千代の傍へと集まり、彼と同じような行動を取り始めた。皆、下げた頭に手の平を合わせた両手を添え、口を揃えるように「ありがたや、ありがたや」と呟いている。
弓千代は内心村人の行動に困りながらも、落ち着いた佇まいでしゃがみ込み、傍に伏せている男性の肩に手をかけた。
「そんな大仰な事をする必要はありません。皆も、顔を上げて下さい」
弓千代に手をかけられた男性が恐る恐るといった面持ちで顔を上げる。それに続くように、彼の後ろに集まっていた村人達も地面から額を離し、弓千代の方をじっと見つめた。そんな村人達の奥から、一際歳を重ねた風貌に胸元まで伸びた髭の老人が現れ、両膝をつく村人の間を縫いながら弓千代の前に進み出ると、彼女に向かって一度深々と頭を下げた。少しの間そのままの体勢を保った後、老人はゆっくりと頭を上げてから話し始める。
「この度は、この村を妖怪の脅威から救って頂き、本当に有難う御座います。かの徳の高い弓千代様が、今回は一体どのような件でこの村へお立ち寄りになったかは存じ上げませんが、この村を救って頂いた手前、どうか我々のもてなしをお受取り下さい」
そう言い終わった後、老人は再び深く腰を折った。
彼は村の長である。この村は守護大社の庇護下にあるため、過去に弓千代は村の様子や村人の具合などを調査する目的で、ここを何度か訪れた事もあった。当然、この老人が村長である事は知っており、彼の言う「もてなし」が「この村で幾日かゆっくりしてもらう事」という意味である事も知っていた。そのため、先を急いでいる弓千代にとって、村長の提案は嬉しくも呑み込み難いものであった。
彼女は手に持つ妖打を馬体に立てかけ、背の低い村長の目線に合わせるよう腰を屈める。
「お気持ちは有り難いのですが、生憎先を急いでいる身故……」
「しかし」
村長は弓千代の言葉に被せるように口を挟み、
「今程妖怪に襲われたため、子供達はいまだ怯えております。あの子達を安心させるためと思って、どうか一晩だけでもこの村にいてはくれませぬか?」
と温もりのある嗄れた声で言いながら、自分の背後へちらりと目をやった。
弓千代が村長の視線を目で追った先には、一軒の家の玄関から顔を覗かせる数人の子供達がいた。今まで、その家に身を隠していたのであろう。子供達はまだ辺りを窺うような素振りを見せつつも、弓千代の方を興味深そうに見ている。
子供達の事も心配であるが、やはりここはあの妖狐を追う事が先決であろう、と考えた弓千代は「誠に申し訳ないが……」と村長の提案を丁重に断ろうとした。
その時、「弓千代様!」という小夜の発した大声を耳にする。弓千代はその声に注意を引かれ、後ろを振り向くと同時に、危険を感じたために咄嗟の判断で抜刀し、頭上の宙を一斬りする。その斬った跡には、無ではなく真っ二つになった妖怪の体があった。その残骸は落下しながら塵と化し、地につく頃にはすでに跡形も無くなっていた。
恐怖と驚きの混じった声を絞り出す村人達を背に、弓千代は残骸の落ちたであろう土を見据え、眉をひそめる。魑魅魍魎は全て滅したはず。現に先程まで、そして今現在も辺りに妖怪の潜んでいる気配すらない。消える前の残骸を見る限り、今の妖怪は小型の化蜘蛛であったが、いくら小さな個体だからといって、間近に迫っていた妖怪の気配にこうも気づかぬものだろうか。
解せぬ事を頭の隅に残しつつも、弓千代は小夜に向かい「すまない、助かった」と礼を述べた。小夜は弓千代の役に立てた事を喜ぶように頬を僅かに赤らめ、身を小さくする。
それから次に村長の方へ向き直った弓千代は「分かりました。では、お言葉に甘えて、今夜一晩だけご厄介になります」と口にした。村長は心の底から感謝するような声色で「有難う御座います、有難う御座います」と二度三度と頭を下げた。
早速といったように、村長は若い村人二、三人を呼び、宿の代わりとなる家へ案内するよう言い付ける。弓千代は馬体に立てかけていた妖打を片手に持ち、もう片方の手で馬の手綱を引いて、彼らの案内に従っていった。その後に小夜も続いた。
弓千代が村長の提案を受けたのは、ひとえに「このままでは村が危険かもしれない」と判断し、巫女一族としての務めを果たすためであった。つい先程気配もなく襲い掛かってきた妖怪の違和感を考慮するに、この村周辺にはまだ未知なる脅威の潜んでいる可能性がある。とりあえず一晩村の様子を見て、これ以上の危険がないと分かれば、早々に狐姉妹の追跡に身を戻すつもりであった。
小夜と弓千代は一軒の平屋に案内された。その家付近にある木の幹に引いてきた馬の手綱を括りつけ、平屋の中に入る。広いとはいえない土間を抜け、一段底の上がった先は囲炉裏を設けた木張り床の一室に、丁度日の入る方角に向かって開放された縁側があるという、とても簡素な造りになっていた。一室の中央にある囲炉裏や土間にある竈も、つい最近使われた跡があり、一見空き家ではないようである。
気になった弓千代がこの家の事について尋ねる前に、案内役の若衆一人がこう話し始める。
「ここは親無しの一人っ子の娘が使っとるんですが、今晩は弓千代様とお連れ様にお貸し致しますだ。何、その娘の事は心配せんでも大丈夫ですよ。彼女は別のもんの家で寝泊まりしますんで。昔から、その子は戦から落ち延びた方や旅のために疲れ切った方なんかに、よく自分の家を貸すもんでして。いやあ、とても心優しい娘なんです」
「ああ、それでは後程、その娘さんにお礼を言わねばなりませんね」
若衆の話に対して、弓千代は微笑みを湛えた表情で言葉を返した。
若衆がその場から去った後、弓千代は妖打を携えたまま家の縁側に出て、そこに腰を下ろした。鬱蒼と広がる森を右手に、村の短めな大通りとも言える広い表を左手に見る事の出来る縁側は、村の様子をある程度把握するのに最適であり、弓千代にとってそこそこ都合の良い場所であった。
ふと、弓千代が自分の肩越しに後ろへ目を向ける。彼女から少し離れた位置に、小夜が緊張気味に肩を強張らせた様子で立っていた。弓千代は自分の左隣の床にとんと左手を置き、緩ませた頬を小夜に見せる。
「どうした、お前も座らないか」
気さくに話しかけたつもりの弓千代であったが、緊張していた小夜の肩をさらに硬くさせたようだった。
「いえ、そんな……」
「小夜、少し硬くなり過ぎだ。今回の事は、確かに気を引き締めてかからねばならない大事ではあるが、必要以上に仰々しく振る舞う事はない。それにここは大社の中でないのだぞ? いつもの、元気で人懐っこいお前らしい姿を見せてくれ」
弓千代は柔らかな目元と澄んだ声を小夜に向けた。それを受けてか、いくらか肩の力を抜いたらしい小夜は、まだ若干残るぎこちない所作で弓千代の隣に近寄り、顔を俯かせるようにしながらそこへ腰を下ろした。そんな小夜の様子を見た弓千代は口端を微かに緩ませる。
今の時刻から床へ入る更け頃までの予定としては、どんな些細な妖気の流れや不穏な空気も取り逃さぬよう周囲に注意を張り巡らし、村の様子を観察する事である。今日一日はそれ一点にのみ集中する事になるだろうと、弓千代は思っていた。
が、そうもいかないようである。
弓千代が縁側に腰を下ろしてからしばらくもしない内に、歳を召した村人数人が彼女のもとへと集まり始めたのだった。彼らはえくぼを強調させるような笑みを浮かべながら、「巫女一族の弓千代様。ご足労の上に重ねてお願いするのは申し訳ないのですが。よろしければ、我々に貴方様のご加護を頂けませぬか?」と腰を低くして口にする。その村人達の申し出は、巫女一族の守護大社――および中社や下社、各村への調査の際など――で行っている「破魔の力」によるお清めの事を指していた。
弓千代は彼らの願いを断る事など一切考えず、快く受け入れた。人一人の身を清めるには少量の水と榊、加えてそれを行う巫女の充分な「破魔の力」が必要である。弓千代は小夜に簡単な手伝いをさせ、村人一人一人に対して丁寧なお清めを施していった。老人達による僅か数人の列は、どこからか弓千代の行っているお清めの事を聞いたらしい他の者も加わり、やがて若衆までも並び始めて数十人のものとなった。小夜は弓千代の手伝いをしている傍ら、いつの間にか長蛇となっていたその列を横目にひっそりと目を瞠っているようであった。
何刻かして、ようやく列の最後尾に並んでいた若い女性のお清めが終わり、一息吐こうかと思っていた弓千代のもとへ、今度は村の子供達がぽつぽつと集まり始める。小さな女童子を後ろにぴったりとくっつけている男子やおでこを見せた好奇心有りげな女子、子守をしている慎ましい佇まいの娘など、年齢の幅はそこそこある子供達であった。体格や恰好などにばらつきはあったものの、弓千代に対する物珍しげな視線に関しては皆一様の有様である。
弓千代は自分に集まってくる子供達を嫌悪する訳でもなく、彼らに対してゆったりと相好を崩し、怖がらせぬようにと丸みを帯びた視線を返した。
「何か、私に用でもあるのかい?」
弓千代の呼びかけに、小夜の半分程の歳頃であろう男の童子が彼女の前の前と歩み寄ってくる。以前この村をお訪れた時にはいなかったように思うその子は、「弓千代さまは、巫女なんでしょ?」と一言だけの問いかけをした。弓千代は自分の目線を彼の目線の高さに合わせるよう上半身を少し折り、鮮明とした声で「ああ、そうだ。私のこの装束が珍しいのかい?」と返す。その男の童子は返事をするでもなく、子供特有の何とも考えているのか分からぬ表情で弓千代の顔を見返していた。
弓千代は子供達を見ていて、ある事に気づく。いつの日だったか以前にここへ調査で来た際には見かけなかった子が、彼らの中に何人か混じっているようであった。もしかすると、他所の村から移ってきた村人の子だろうか。大山の麓に点在する村々の人々は皆流動的な生活をしているため、村人の大半が入れ替わっていても別段珍しい事ではない。
弓千代が巫女である事以前に、他所から来た人間である事に興味津々らしい小さな童子などは、彼女へ遊び相手になるようせがんできたのだった。弓千代はあまり子供の相手に慣れていないものの、嫌だと突き返しては可哀想だと思い、仕方なく童子の遊びに付き合う事にする。幾人かの子供に袴の裾を引かれながら、村の中をあっちへこっちへと連れ回されるたびに、彼女は子供達から取り留めのない話を聞かされた。
そういった訳で、当初の「村の様子を観察する」だけになるはずだった予定は大きくずれ込み、ほとんどの時間を村の人達との交流に費やしてしまった。だからといって、弓千代は決して周囲への注意を疎かにしていた訳ではない。腰を据えて村周辺に不穏な動きがないかと監視できるようになる頃には、すでに日が傾き始めており、しばらくもすれば床へ入る更け頃になっていたのだった。
借りた平屋の縁側に腰を下ろしていた弓千代は、森の奥から聞こえてくる虫達の鳴き声に耳を傾けていた。室内にある蝋へ明かりを灯した小夜は、就床の準備として二人分の敷布団を用意し終えてから、弓千代の傍へと歩み寄る。
「弓千代様、隣に座ってもよろしいですか?」
小夜の声に振り向いた弓千代は「ああ」と返事をする。それを聞いて、小夜は彼女の隣に腰掛ける。
「やっぱり弓千代様って、すごいですね」
小夜の言葉の意図をうまく汲めなかった弓千代は、小夜の顔を見やる。
「どうして、そう思うんだ?」
「だって、弓千代様は巫女一族の中では群を抜いた『護ノ巫女』だし、総巫からも認められる強い『破魔の力』も持っています。それに、そういった強さだけでなく、村人から崇め慕われる人望もあります。……知っていますか? 一族内では、皆口々に『次期大総巫の座には弓千代様が据えられるだろう』って噂を立てていますよ」
弓千代は半ば自嘲気味に薄く鼻で笑い、夜空を仰いだ。
「そうだろうか。私は未熟者だ」
「弓千代様が未熟者だったら、私なんて未熟にすら届いていない小心者になってしまいますよ」
小夜が気を落とすように視線を足元へと向ける。彼女の落ち込む様子を見て、弓千代は自分の発言が軽率であったと少し焦った。
「そんな事はない。巫女一族に入門したばかりだった数年前に比べれば、弓の扱いも上手くなって、一族に相応しい佇まいに成長している。あとは『破魔の力』を思うように使いこなせるようになれば、晴れて修練者を修了して、正式な巫女になれるさ」
それは弓千代の嘘偽りのない言葉であり、励ましというより小夜の現状をほとんど正確に言い表していた。淀みない弓千代の表情を、小夜はやや不安げに見返す。
「本当ですか?」
「ああ、本当だ。お前と長く付き合っている私が言うのだから、安心して良い」
「……ありがとう御座います」
小夜は照れくさそうに肩を縮めながら、弓千代から視線を逸らした。小夜の明るい表情を見た弓千代はほっと心を和ませ、それから目元を引き締めながら夜空へと視線を戻す。
「ただ、私は自分の力に満足していないだけなんだ。もっと己の「破魔の力」を磨き上げて、この世に蔓延る妖怪全てを調伏し、かつて存在したとされる人の世の泰平を取り戻さねばならぬのだ。それが巫女一族の使命であり、私自身の使命でもある」
弓千代は一息吐いて続ける。
「妖怪は絶対悪、奴らは例外なく人の命を踏みにじり、人の安らぎを奪っていく存在だ。お前も、我が一族の教えを嫌という程聞かされてきたから、よく知っているだろうが。我々巫女一族はその初代から現代に続くまで、数多の妖怪を滅し、奴らに対する徹底な排他的態度を一貫させてきた。だからこそ、奴ら妖怪も我ら一族に対して、より強い敵対意識を持っているはずだ。かつて妖怪の筆頭に君臨していた狐一族の生き残りが発見された今、恐らく妖怪共はその生き残りを担ぎ出し始め、今まで鳴りを潜めてきた弱小中小の魑魅魍魎でさえ勢いづくに違いない」
弓千代の最も大きな懸念はそこにあった。狐一族の生き残りを後ろ盾に、全土の妖怪を総出させ、これを機にと巫女一族への総攻撃を開始するのではないか。もしそうなれば、今日に至るまでに維持してきた巫女一族の優位性が瓦解しかねない。最悪の場合、巫女一族内に伝わる文献にあったような、妖怪が人間の国主や将軍に成り代わる時代になるかもしれない。それだけはなんとしても避けたいところである。
「小夜、今日はもう床に就こう。明日明朝に村を発ち、一刻も早くあの妖狐に追いつかねばならぬ」
弓千代は立ち上がり、用意されていた敷布団へ入っていった。小夜も静かに腰を持ち上げると、室内の蝋に灯した明かりを消してから彼女と同じように布団へ入った。
夜に鳴く虫達の声だけを聞く内に、早くも小夜の寝息が聞こえ始めた。依然として気を張っていた弓千代であったが、細々と耳に入ってくる小夜の静かな寝息に誘われるよう少しずつ眠気を覚え始め、次第に彼女の意識は遠のいていく。
と、身の危険を直感した弓千代は大きく跳ね起き、布団の中から飛び出した。彼女は縁側から距離を置き、障子を開け放してあった縁側より外へ目を向ける。
「誰だ?」
闇に溶けた外へ目を凝らしつつ、弓千代はさっきまで自分の入っていた敷布団を一瞥する。敷布団には外の闇より伸びた白く太い糸のようなものが張り付いていた。まるで絹のように木目細かでありながらも強い粘り気を感じさせる糸を辿り、縁側を覆う深い影に行き着くと、そこには歪な形をした異形のものがいたのである。
次第に宵闇の中へ目を慣らしていった弓千代は、その異形の姿を徐々に捉えていった。
縁側を覆うほど巨大な体躯は蜘蛛そのものの手足に、虎のような見た目の胴体を持ち、その先には絵巻に出てくるような鬼の形相をした顔がついていた。敷布団に張り付いた糸は、そんな鬼の顔にある口の中から伸びていたのである。
まさか、土蜘蛛? 山や洞穴を主な住処とする土蜘蛛が何故、こんな森の中に現れるのか。近くに住処があるとすれば守護大社のある大山しかないのだが、その周辺の森を含む大山全土は浄化されているから、そこから下りてきたとは考えにくい。
「貴様、どこの妖怪だ?」
弓千代は問いかけるも、土蜘蛛は鬼の形相を一変もさせぬまま一向に答えなかった。
「なるほど、口が利けんのか。それとも、私のような巫女には話す事もないのか?」
土蜘蛛の様子を窺いつつ、弓千代は矢筒と妖打を立てかけてある壁の方へ摺り足で擦り寄っていく。彼女の動きを、土蜘蛛はその黒く染まった丸い目で追っていく。
お互い無言の状態の中、弓千代の手が矢筒と妖打まであと少しと迫ったところ、突如土蜘蛛が動いた。自分の体躯などお構いなしに縁側から室内へ押し入り、そこより崩れ去っていく平屋の瓦礫を被りながら、怒涛の勢いで弓千代へ狂い寄ってきたのだ。彼女の背後にはいまだ形を保った壁がある。弓千代は咄嗟の判断で土間へ走り抜け、村の中央、広めの通りへ出た。
すでに原型をなくしてしまった平屋の方へ振り向くと、その場で立ち止まった土蜘蛛が、のっそりとした動作で弓千代の方へと顔を向ける。奴の顔はある程度の理性が残っていそうに見えるものの、正気というものはほとんど感じさせなかった。
弓千代は土蜘蛛の様子からこう考える。恐らく、この土蜘蛛の元はその辺に散らばる有象無象に過ぎなかったのだろう。それがあの妖狐の妖気に酷く当てられ、土蜘蛛へ変貌し凶暴化、これほど邪悪で巨大な様相に変わり果ててしまったのだ。そんな妖怪の気配に、あれほど接近されるまで気づかなかった理由も今分かった。本来、妖怪の体より放たれ周辺へ充満するはずの妖気が、土蜘蛛の体に纏わりつくような形で癒着している。なんとも奇怪な。
弓千代はふと小夜の事を思い出し、崩れた平屋から彼女の姿を見つけ出そうとするも、間もなく彼女の心配は安堵に変わる。土蜘蛛のすぐ傍で、目の前の妖怪に腰を抜かすようにして尻餅をついた小夜の姿があった。
弓千代はそんな小夜と土蜘蛛を交互に見て、一つの予測をする。すぐ近くにいる小夜を襲わないところを見るに、あの土蜘蛛、もしや私のみを狙っているのか。ならば……。
弓千代は村の外、つまりは森の中へと向かって走り出す。
「小夜! 私の弓と矢を持って、子(ね)の方角にある村の入り口へ行け!」
そう言いながら、小夜の応答を待つ暇もなく弓千代は午の方角へ走っていく。彼女の行動に呼応するように土蜘蛛も動き出し、弓千代の後を追う。
静かだった夜の森に、荒々しい土蜘蛛の足音が響き渡る。土をえぐる地響きの音に、やがて木々を無理矢理薙ぎ倒す騒音が混じり出す。眠っていたらしい鳥達も驚いて、叫ぶように鳴きながら飛び立つ羽音を響かせていた。
森の中を弓千代はひたすら走り抜ける。村を主軸にするようにして、その外周を沿いつつ子の方角へと目指していた。後ろからは土蜘蛛が大きな獣道を作り、彼女に向かって糸を吐き飛ばしながら迫り来る。森の木々が土蜘蛛の勢いを僅かながらも削ってくれてはいるものの、人間である弓千代に比べれば、相当の速度と歩幅を持っているため、いつ追いつかれてもおかしくない状況である。
いくら「破魔の力」を持っている弓千代でも、強大な妖気を持った土蜘蛛と一人で対峙するのに丸腰では歯が立たない。土蜘蛛に距離を詰められる前に、なんとかして奴に対抗しうる妖打を手にしたいところである。
肩を寄せひしめき合う木々の間を縫うように走りながら、弓千代は手早く後ろを確認する。
土蜘蛛は彼女の予想以上に早く、もうそこまでというところまで迫っていた。奴の口から放たれる糸は意識して避けようとせずとも、彼女の後ろへ流れていく木々が受け止めてくれる。今のこの状況下では奴の攻勢をなんとか凌げているものの、一度気を抜いた瞬間に追いつかれその糸に絡め取られてしまうだろう。
村自体が小規模であったおかげか、弓千代はようやく子の方角にある村の入り口に回り込む事が出来る。木々の合間の先に、村の中央にある広めの通りで矢筒と妖打を腕に抱えた小夜の姿が見え始めてきた。弓千代の背後からは土蜘蛛が着実に迫っており、森を完全に抜ければ、奴の吐く糸を遮る木々もなくなってしまう。
このままでは間に合うかも分からぬ。そう思った弓千代は村に入り、これが限界だと考えられる距離まで小夜に近づいてから、こう叫ぶ。
「小夜! 矢を一本取って妖打と一緒に私へ投げろ!」
弓千代の唐突な指示に、小夜は慌てながらも矢筒から一本の矢を抜き取り、その矢を添えた妖打を弓千代に投げ放つ。それを弓千代は走りながら受け止めると同時に矢を番えつつ足の向きを急転させ、目の前に迫り来る土蜘蛛へとその矢先を向ける。
「覚悟!」
そう言い放つが早いか、弓千代は引き絞った弦から手を放す。「破魔の力」の込められた矢は振れる事無く真っ直ぐと飛び、土蜘蛛の顔から胴体を見事突き抜ける。
体を射抜かれた土蜘蛛が崩れるように倒れ伏したのは、丁度奴が弓千代の鼻先まで勢い良く詰め寄ってきたところだった。「破魔の力」によって浄化され、その体を完全に消滅させるその瞬間ですら、奴が鬼の形相たる面持ちを一切変える事はなかった。
その夜、眼前の脅威を払いのけた弓千代は一睡もする事無く、外の騒ぎのせいで起きたらしい村人達一人一人に事情を説明した後、村長の家の一室で気の晴れぬ朝をいち早く迎えたのだった。
早朝、土蜘蛛によって村周辺の森が荒らされたせいか、ここら辺ではよく鳴いているはずの野鳥の声が聞こえてこなかった。身支度を済ませた弓千代は小夜と一緒に村の子の出入口に立っていた。彼女達の周りには村人が集まっており、その集団の一歩前には村を代表した村長が進み出ている。
「弓千代様。昨日は日中や夜の騒ぎといい、色々とお世話になりました。折角この村にお立ち寄り下さったというのに、碌なおもてなしも出来ず本当に申し訳ありません」
村長の頭を下げるのを見た弓千代は、非のあるのはこちらの方だと頭を下げ返した。
「いえ、謝らなければならぬのは私の方です。村の娘さんからの善意で借りていたというのに、その彼女の大事な平屋を壊してしまいました。後日、我が一族から必ず修理の者を遣わせますので……」
「そんな滅相もない」
弓千代の謝罪に対して、村長は多少動揺するように頭を上げる。
「あれは弓千代様のせいではないですから、何も気に病む必要はありません。ほれ……、この娘もその事は分かっておりますよ」
そう言って、村長は後ろをちらりと振り返り、弓千代に平屋を貸した当の若い娘を目で指した。それを受けた若い娘は村長の言った事を肯定するように、弓千代に向かってどこかたどたどしく、けれども深々と一礼をする。
そういったやり取りをいくつかした後、小夜と弓千代は村人達に見送られながら、追うべき妖狐の残した幽かな妖気の続く子の方へ歩き出した。
ここからは村の出入口より子の方角へと続く獣道である。獣道といっても、この道は今程の村と森を抜けた先にある大きな里との交易が目的で使用されているため、昨日馬で走ってきた獣道よりも平坦であり、なおかつ馬車が余裕を持って通れるほどの幅もあるため、とても歩きやすくなっていた。
ただ、これほど馬を走らせるのに適した道だというのに、弓千代は徒歩を強いられていた。というのも、昨日まで乗っていた馬が昨晩の土蜘蛛騒動によって片方は死んでしまい、もう片方はどこか森の奥へ忽然と姿を消していたからである。一時でも早く妖狐に追いつきたいと思っている弓千代にとって、それは手痛い損失であった。あの妖狐の残した痕跡がいつ消え去ってしまうかも分からぬ状況の中で徒歩による追跡を強いられるという煩わしさに、弓千代の足は自然と逸っていた。そんな彼女の心境を察しているのか、小夜も弓千代の後を黙々とついているようであった。
森を抜けた先の里まではそう遠くない。その里に到着し次第、弓千代はその里の者達にある程度の聞き込みをするつもりでいた。そこであの妖狐の足取りに関する手がかりが得られれば良いが。出鼻を挫かれたような気持ちを覚えた弓千代は、事態が少しでも好転してくれる事を願うばかりであった。
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