第一幕 ―巫女一族―

 一人前の巫女へと昇格する事を目標とし、修行や鍛錬に励む修練者達の居住区、大場(おおば)。その一部にある弓場にいた弓千代は、修練者である小夜(さよ)の弓を引く姿を見守っていた。

 静まり返った広い弓場に、空を切る矢の音だけが鳴り響く。本来、今の時間は修練者達にとって数少ない休憩の時間であるため、この場に二人以外の人影はない。

 そんな時間に休む暇も惜しんで小夜が懸命に弓弦を引くのは、ひとえに一日でも早く巫女になりたいと思っているが故である。修練者という立場で限られた個人の時間を見つけては、彼女はこっそりと弓千代へと会いに行き、「破魔の力」や弓矢の扱い方について教えて欲しいと頼むのだ。彼女の事を特別気にかけている弓千代も時に修練者の休憩時間を見計らって、自ら小夜のもとへと足を運ぶほど、この光景は日常的なものであった。

 小夜が次の矢を継ぎ、一町ほど離れた遠くの的に狙いを定める。筋力が少し足りていないのか、弦を引く彼女の右手はかすかに震えていた。

「良いかい、小夜。矢の軌道は多少汚くなっても良い。ただ、標的を狙い澄ます執念と、矢に込める『破魔の力』を弱めてはいけないよ」

 小夜から二、三歩離れた位置に立つ弓千代は、彼女に向かってそう言った。

 と、小夜は堪え切れなくなったように弓弦を離す。直後、弓千代は矢の終着点を見た。小夜の弓から放たれた矢は風を切り、確かに的へ向かって飛んだものの、果たして的より一間ほど離れた土へと突き刺さったのだった。

 小夜と弓千代はほとんど同時に溜息を吐いた。申し訳なさそうな表情をした小夜が、そろそろと弓千代の顔を振り返る。

「すみません、弓千代様」

「そう気を落とす事はない。焦らず、着実に力をつけていけば良い。さあ、もう一度」

「はい!」

 元気な返事をした小夜は手早く的に向き直ると、次の矢を番え始める。

 弓千代は彼女の様子をじっと見守っていた。いくら単純な構造をした三枚打弓といえど、まだ十四の小夜にとってはかなり重いだろう。彼女の体格上、鍛えられる筋力には限度があるから、あとは弓の扱い方をものにできれば多少楽になるはずだ。

 弓千代の真剣な眼差しを受けながら、次の矢を放とうと小夜が弓弦を引いた時だった。

 弓場に一人の巫女が入ってきた。その巫女はそそくさと弓千代に近寄り、そっと声を漏らす。

「弓千代様、総巫(そうふ)がお呼びで御座います」

 言い終わると、弓千代は小夜から少しも目を離さず、巫女に対して片手で制した。

「分かった、しばし待て」

 使いの巫女を待たせ、小夜の手から弦が離れるのをじっと待つ。束の間、鳥の囀る声の聞こえるほど静寂が訪れた後、空を切る鋭い矢の音がその静寂を突き破った。それから間もなく、的に張られた膜の破れる気持ちの良いが鳴り響く。

「あっ、当たった! 当たりました、弓千代様!」

「良くやった」

 顔を輝かせ振り返った小夜に向かって、弓千代は目を細めて微笑み返した。この子の成長は決して早いものではないが、どんなに辛い修行や鍛錬にも挫けぬその強い意志を見れば、十分な見込みがある。この子が我が巫女一族に入門してから、もう四年も経つのだ。そろそろ、修練者から巫女へと位を上げてやりたいところだが。

 弓千代は一町ほど離れた、つい今ほど的に突き刺さった矢を見遣る。

 矢からは淡い紫色を纏った微量の光が出ていた。それを確認して数秒もしない内に、矢から漏れる光は空中へと消えて入ってしまう。

 弓千代は表情を僅かに曇らせる。やはり、まだ『破魔の力』が弱い。巫女になるためには弓の心得も必要だが、何より最も大事な要素は、妖怪を滅する『破魔の力』だ。その力を最低限身につけておかなければ、妖怪退治を生業とする巫女一族の中で生き残る事ができない。なんとか、彼女の『破魔の力』を存分に引き出す事はできないものか。

「弓千代様、そろそろ……」

 遠方へと目を遣っていた弓千代の耳に、先程から待ち続けている使いの巫女の声が入った。はっとした弓千代は、自分が総巫に呼ばれていた事実を思い出す。

「すまない、今行こう」

 使いをちらりと見遣り、次に小夜へ視線を向ける。気づけば、彼女は弓千代の目の前に移動していた。こちらの様子を窺うような顔色で見上げる小夜に目線を合わせるよう、弓千代は腰を屈める。

「私はこれから総巫のもとへ参らねばならなくなった。最後まで見てやれなくてすまない。また今度、時間がある時に見てやろう」

 弓千代が小夜の頭を優しく撫でると、小夜は照れるような表情で「分かりました」と答えた。

 本当に素直で良い子だ。そう思いながら柔らかい笑みを浮かべ、小夜の頭から手を離した弓千代は使いの巫女に目を向ける。

 先を促されている事を察したらしい巫女は、それまで待たされた事を咎める様子もなく、澄まし顔で歩き出した。弓千代も彼女の後に続き、回廊に出る。

 程よく雲の浮かぶ晴れ空から陽光の差す回廊には、二人以外の人の気がなかった。それもそのはずであり、ここ大場で一日を過ごす修練者達――小夜のような修行に熱心な一部を除く修練者の多く――が、折角の休憩時間を自室で体を休める事以外に使う訳もない。この時間、四人以上の人が横に並んで歩いてもまだ余裕のある回廊を歩くと、その静けさと広さがより一層強く感じられる。

 この環境は、弓千代が自分の思考に耽るのに十分な静謐さであった。

 弓千代はこの急な呼び出しに対して、少しばかり違和感を覚えていた。突然総巫から呼ばれる事自体はさして珍しい事ではない。修行に対する修練者の態度はどうかとか、近頃不穏な妖気の流れはあったかなど、そういった近況を抜き打ちで聞かれる事も時にあるからである。

 ただ、少しだけ気にかかったのは、この使いの巫女の後を歩く者が弓千代しかいない事であった。もし、弓千代を含む『護ノ巫女』全体に招集をかけているのなら、彼女より先に二、三人ほどの者が使いの後を歩いているはずなのだ。その姿が今回はない。

 いつもとは違う空気を感じつつも、弓千代は歩く途中で「変な勘繰りはするまい」と心に吐き、使いの後についていった。

 微かな風の吹き抜ける音さえ聞こてくる回廊をしばらく歩き、総巫の控える巫殿(ふでん)の前、集殿――大場などの宮や回廊に囲まれた中庭のような大広場――に差し掛かると、使いの巫女がつと足を止める。

「総巫には、弓千代様を集殿へとお連れした後、自分は速やかに下がるようにと申し付けられております故、ここまでとなります」

 使いの巫女は弓千代に向かって深く頭を下げてから、その場を静々と去っていく。

 弓千代は背中で使いの巫女を見送った後、青空の下に晒され乾いた土を巫殿に向かって踏み歩き始めた。やけに静かだ。そう感じた直後、弓千代は本来なら集殿にいるはずであろう見張り達がいない事に気づいた。やはり、これはただの呼び出しではない。

 巫殿の入り口前に来るとそこで一度立ち止まり、襟や紅袴の裾、桜の木と花々の刺繍が施されている織物風の腰巻きなど着ている物を一通り正して、巫殿の中へと入っていった。

 巫殿内は広々としており、外から見ると天井が低そうに見えるものの、いざ中に入ってみれば、外観から感じ取れる想像とは大きく異なっている。それも上下に対する広さではなく、前後に対する奥行きが充分にあり、大きな間隔を置いて均一に並んだ屋根を支える柱と、最奥にある上座以外にほとんど何も存在しないからである。加えて屋外からの音が不思議と聞こえないため、ここに初めて入る者の大半は、この厳かな雰囲気と広さに圧倒されたとばかりの顔になるのだ。

「……おお、やっと来たか」

 奥の方、床の一段ほど高くなった上座の畳に腰を据えていた総巫が、弓千代の入殿に気づいたらしく声を漏らした。巫殿内は広く奥行きがあるものの、総巫の嗄れた声は小さいながらもはっきりと弓千代の耳に届いていた。

 弓千代は総巫の前で両膝を床につけ、深々と頭を下げる。

「この弓千代、ただいま大総巫の御前に参りました」

「面を上げよ」

 許しを得た弓千代はゆっくりと頭を上げ、総巫の顔を見上げた。上座の御簾は上がっているため、歳を刻んだ顔の皺に加え、険しさを感じさせる眉間の深い皺といった総巫の顔色が細かく見て取れたのだった。

 弓千代が顔を上げても、総巫は中々口を開かなかった。何か言い難い事なのだろうか。そう思いながらも弓千代は、逡巡している様子を思わせる総巫の伏し目をしばらく見続けた後、自分のほうから思い切って口を出す事にした。

「この私めに、何か御用が?」

 この弓千代の言葉が堰を切ったのか、総巫は伏せていた目を上げて、弓千代の顔をじっと見つめる。

「そうじゃ。そなたにしか話せぬ重大な事なんじゃ」

 総巫は一息吐いて、次に慎重な面持ちでゆっくりと話を切り出す。

「弓千代よ、狐一族の事は知っておるな? 数百年前に我が一族の先祖が滅ぼしたと伝わっておる、悍ましくも非道を極めた忌まわしいあの妖怪。その生き残りが見つかったのじゃ」

「なんと、それは真で御座いますか?」

「ああ、わしがこの目でしかと見、その生き残りを捕らえたのじゃから。わしも信じたくはないが、事実なんじゃよ」

 弓千代はこの呼び出しが単なる招集ではないという自分の勘が当たっていた事を知った。よく見れば、大事を語った総巫の顔からはやや疲れている様子が窺える。身につけている巫女装束はどこか締りのなく、頭の白髪もいつになく濁っているようであった。

「我が一族の先祖が総出を挙げて滅ぼしたはずの狐一族。その生き残りがいたという事実を近隣諸国に知られれば、巫女一族の信頼は少なからず落ち込むはず。この事は我が一族の沽券にかかわる事である故、ついては一族内で最も信頼のおけるそなたに、生き残りの内密処刑を執り行ってもらいたい」

 総巫の真っ直ぐな視線を受け止めた弓千代は、今の話を聞いて浮かんだ少しの疑問を口にする。

「その信頼誠に有り難く、この弓千代、総巫御前直々のご依頼とあらば、慎んでお受け致しましょう。しかしながら、不肖私めが一言お聞きしてもよろしゅう御座いますか?」

「なんじゃ?」

「事が内密であるならば、何故私めなどにこれを?」

 確かに弓千代はこれまでに一族の掟や総巫の命を破った事はなく、今回のような総巫直々の頼みを聞く事も何度かあった。その信頼は理解できても、何故この重大な事を総巫自らが秘密裏に処理するのではなく、わざわざ弓千代に任せたりするのかがいまいち合点のいかなかったのだ。

 弓千代の問いに、総巫はふと肩を落とし、やや仰角の宙を見据える。

「わしも随分と年老い、耄碌しかけておる。それに因る「破魔の力」の衰えも必定。若かりし頃に退けた妖怪も、今再び相見えれば敵うかも分からぬ。じゃが、そなたは違う。我が一族内でも最大の「破魔の力」を秘めており、今も尚その力を着実に昇華させておる。なればこそじゃ」

 言い終わると、総巫は上座から降りて、上座の裏手にある裏戸へ向かって歩き始めた。弓千代は総巫の意を察し、その後に続いて裏戸から外へ出て、総巫より数歩後ろについて歩いていく。

 巫殿の裏手――正確にいえば、巫殿の一部に取り囲まれた隠し中庭――は周囲を壁に囲まれており、太陽の高く昇る時刻以外の時は湿ったような薄陰の中にある。しんと静まり返っているにもかかわらず、どこかで鳴いている鳥の囀りさえ聞こえない。

 裏戸より少し歩いたところ、中庭の隅の壁に、「破魔の力」の込められた鏃を突き立てた小さな戸がある。その手前まで来た総巫がそこに掛けられた錠前を外し、戸を開けて中へ入っていったので、弓千代もそれに続いた。それから、入ってすぐ左手にある地下へ通じる石階段を一段一段ゆっくりと下り始める。天井は大した高さもなく、右手と左手の壁の間隔も決して広くはないため、やや身長の高い弓千代は上半身を丸め、腰を屈めた恰好で階段を下りなければならなかった。

 弓千代は総巫の背中を見つめながら考える。お年を召されているとはいえ、総巫御前はいまだ充分な「破魔の力」を保持しているはず。いくら、かつては強大であった狐一族の生き残りであっても容易く滅せられるのでは、と。先程の総巫の答えに対していまだ納得できていなかった。

 階段を下り切った先は地下牢になっている。ここは世間あるいは一族内においても隠匿すべきである特質を持った妖怪などを囚えておく場所であるものの、ここ最近妖怪全体の活動が衰え始めているため、ほとんどの牢は空になっていた。それら空になった牢の前をいくつも通り過ぎた突き当り、そこにある牢の前まで来た弓千代は、自分の目に映ったものを見て驚いた。

「恐れながら、大変ご無礼である事を承知で総巫御前にお聞き致しますが。これが本当に狐一族の生き残りなのでしょうか?」

 弓千代の視線の先にいたのは、どう見ても二人の女童子であった。それ自体は別に珍しい事ではなく、妖怪が多種多様の人間に化ける事は弓千代も当然ながら知っている。彼女を驚かせた理由は、当時妖怪の中でも筆頭の妖力を誇っていた狐一族の生き残りであるこの童子から、妖力という妖力をあまり感じられない事であった。

「そうじゃ、それに相違ない。いや、それだけであれば、事はまだ単純であったじゃろう。……弓千代よ、この二匹はただの生き残りではないのじゃ。我が一族の先祖が総力を挙げて討ち滅ぼした狐一族の凶悪な長、百三十五代目『九尾の狐』の実の娘なのじゃよ」

 総巫の口から告げられた事に対して、弓千代は複雑な驚愕と動揺を隠し切れなかった。

「この童子が『九尾の狐』の娘? しかし、それにしては妖力があまりにも微弱な……」

「そなたがそう驚くのも無理はなかろう」

 思わず口元から漏れた弓千代の呟きに、総巫は口を挟んだ。

「初めてこの二匹を発見した時、わしもただの童子に化けた弱小妖怪としか思わなんだ。じゃが、その体に触れた途端、ただならぬ邪悪な気がわしの体に入り込んできたのじゃ。何事かと思うて二匹の体を調べたところ、なんとこの二匹には禍々しいほどの呪詛がかけられていたのじゃよ。本来であれば、体外へ放出されるはずの妖力がそれによって体内へ溜め込まれていたという事での。その訳を問い詰めれば、知らぬの一点張り、ただ自分達は平凡な人間だとやけに白々しい嘘をつくもので、何か良くない事があると思いさらに厳しく聞けば、本当のところ自分達は狐一族の妖怪だと白状したのじゃ」

 総巫の話を聞いた弓千代は、牢の中にいる二人の童子を改めて注意深く見つめた。

 一方は、歳が十四ばかりといった体格であり、肩にかかるかどうかの長さの髪に、芯を持った瞳をしている。もう一方はといえば、片方の童子の背中に隠れるような形でしっかりとくっついており、外見は歳十ばかりといったところで、怯えているためか長い髪の陰から覗く両目を瞼で固く閉じていた。髪の短い童子は髪の長い童子を庇うような気配を醸し、強い意志の窺える目つきで弓千代の方を見ているのだった。

 弓千代はこの目つきをする童子になんともいえぬ、微弱な妖力からではとても想像し難いただならぬ雰囲気を感じた。見た目はいかにもか弱そうな童子であるのに、この感じは一体なんであるのか。

 と、考えに耽けようとしていた弓千代の肩に、総巫の手がかけられる。はっとした弓千代は総巫の顔を振り返った。

「よいか、弓千代。事は内密、処刑は皆が寝静まった今宵の更けに執り行ってもらう。それまではこの二匹の見張りを任せる。何事も起きぬよう、一時も目を離さぬように見張るのじゃぞ。今でこそ、この二匹は人の皮を被り、あたかも人であるかのように化け装っておれども、所詮は妖狐。決して情けをかけてはならぬ」

 眉間に深い皺を刻んだ顔のまま、総巫は弓千代の肩から手を離すと、彼女に背を向け元来た道を戻っていった。

 総巫の姿が見えなくなった後、弓千代は帯刀を外し、有事の際にすぐ抜刀できるようにと左手に持つ。今、弓と矢が手元にない以上、この刀が唯一の武器となる。牢内の様子が一目できる事を考え、牢を正面に捉えるようにして傍の壁に背中を預けた弓千代は、二人の童子を見据えた。

 髪の短い童子も弓千代を見返していた。童子がどういった感情を以って見返しているのかは分からない。が、弓千代はそんな事など分からなくとも構わず、想定し得る有事を一通り思い浮かべてはそれに対する適切な方法を考え、どんな事体になろうと即座に反応できるよう備えていた。

 そのまま、ほぼ無音の状態が少し続いた時の事である。

「あの……、巫女さん」

 地下牢に女童子の幼い声が小さく響いた。沈黙を破ったのは髪の短い童子である。

 これが妖怪ではなく本当の童子から発せられた声ならば、この地下牢に如何に似つかわしくない事か。そう思った弓千代は返事をしなかったものの、一応彼女の声に耳を傾けた。

「貴女、『護ノ巫女』ですよね? その腰巻き、私のお母様に矢を放った巫女の方も同じようなものを身につけていました。以前、ご存命だったお母様から聞いた事があるんです。なんでも、巫女一族の中でも優秀な才を持つ者が襲名する役職だとか……」

 髪の短い童子は初めて弓千代から目を逸し、滑るようでありながも微かな震えを帯びた声色で言葉を綴り始めた。

「そんな方にこんな事を頼むのは無理な事だと、重々承知しているのですが。どうか、私達を見逃してはくれませんか? 私達は確かに狐一族の末裔でありますが、もう悪行は一切行っておりません。現に、私も妹も人里を襲った事はありませんし、ましてや人を喰らった事など一度たりとてありません」

 弓千代は言葉を返さず、ただ相手の言っている内容だけを把握していた。どうやらこの妖狐二匹は姉妹関係であり、今の話から察するに髪の短い童子が姉、もう一方が妹なのだろうと彼女は判断する。

「どうしても処刑するというのなら、どうか妹だけでもお見逃しを!」

 姉の方は牢の木柵をすがるように掴み、弓千代に訴えかけてきた。その命乞いをする言動を見聞きして、弓千代は声や表情には出さずとも心の中で冷たく嘲笑った。

 人を震え慄かせる存在である妖怪が人間に命を乞い願うとは、実に無様だ。身内の界隈だけで満足していれば良いものを、妖怪は愚かにも人間の生活にまで手を伸ばし、恐怖や悲しみ、怒りや怨恨といった負の感情を植え付けている。人の大事なものを散々奪っておきながら、自分の身が危ぶまれれば己がのみ助かろうなどとは虫の良すぎる話。

 妖狐の命乞いによって、弓千代の胸中は大分穏やかではなくなっていた。姉の方の言動が起因となり、弓千代の忌まわしい記憶を揺さぶり起こしていたからである。

 そんな弓千代の胸中を知らぬ姉の方は、さらに言葉を続ける。

「妹には一切の罪がないのです。妹が赤子の時にお母様は亡くなられ、こうして物心のつく頃には私しかおりません。妹にはもっと長く生きて、色んな事を学び、楽しい事をたくさん知って欲しいのです。私が処刑されるのは構いません。ですが、どうか、妹だけは……」

 その言葉が言い終わる前に、弓千代は抜刀と同時に牢の前まで距離を詰め、木柵の合間を通した刀の切っ先を姉の方の首元へと向ける。

「黙れ、冷酷残忍な妖狐。貴様らの過去の悪行は、我が一族に伝わる書簡でしか見た事がない故、私自身とやかく物申す事はできぬ。だが、貴様らが狐一族の生き残りである前に、一匹の妖怪である事実は相違ない。我が巫女一族の事ぐらい分かっておるのだろう? 妖怪は悪であり、これを全て滅するが我が巫女一族の命。今すぐ、その無駄な命乞いを止めねば、次には口利きのできぬ喉になっているやもしれんぞ」

 突然の事に誰の目にも明らかな恐怖の色を浮かべた姉の方は、腰の抜けたように尻もちをつき、口を半開きにしたまま黙ってしまった。その姉の傍に妹が擦り寄り、すすり泣くような小さな声を断続的に漏らし始める。

 これも同情を誘う姦計だと思った弓千代は一切を無視して納刀し、元の位置に戻った。

 そうして時間が過ぎていく中、ほとんど無心に近い状態で監視を続けていた弓千代の耳に、こちらに向かってくる誰かの足音が入ってきた。その気配に気づいて振り向くと、そこには総巫の姿があった。

 総巫から処刑の時間が来た事を知らされる。いつの間にか夜になっていた事を知った弓千代は、牢の中から妖狐の姉妹を出し引き連れていく総巫の後を追っていく。

 処刑は巫殿の隠し中庭で行われる事になっていた。地上に出ると、中庭には宵闇を照らすいくつかの松明と地面に打ち立てられた太めの木の棒二本が用意されていた。木の棒にそれぞれ抵抗する妖狐の姉と妹を縄で縛り付けた後、総巫が弓千代に「護ノ巫女」の持ち弓である「破魔以打妖(はまもちのあやかしうち)」と矢を手渡す。

「さあ、弓千代よ。この妖打を以って狐一族を滅するのじゃ」

 弓千代は妖狐を縛り付けた木の棒から「破魔の力」を込めるのに充分な距離を置き、慎重ともいえる徐ろさで矢を番える。彼女が最初に矢先を向けたのは、姉の方であった。妹の方に比べて、今程から姉の方は頭を垂れてやけに静かである。

 ようやく観念したか、それとも何か企みがあるのか。弓千代は弦を引き絞り、全身全霊を込めた「破魔の力」を矢に集中させる。いや、余計な事は考えるまい。姉の方の様子に若干の違和を感じながらも、それを振り切ってただ目先の妖怪を滅する事のみを考える。

「覚悟!」

 弓千代が矢を放った、その瞬間であった。

 なんの前触れもなく突風が発生し、総巫と弓千代の身を襲ったのである。その突風はあまりにも強力であり、弓千代の体を傾倒させ、周辺の松明の火を吹き消すほどであった。巫殿の壁の軋む音も風の轟音に掻き消されてしまっている。

 這いつくばるような体勢を強いられた弓千代は、風に煽られぬよう注意しながら顔を上げると、今までに見た事のない禍々しい妖気をその目で見た。

 人の皮を剥ぎ妖狐の姿へと転じた姉の方からは、明かりの消えた宵闇の中でもはっきりと分かるほど黒々とした煙のようなものが立ち上がっており、風とはまた別の圧のような力によって周囲の外気を微量ながらも震わしていたのだ。その光景をじっと見つめる間もなく、妖狐に生えた六尾から青々しい狐火が乱射され、途端に火中となった中庭から、妹を口に咥えた姉の妖狐は宵闇の向こうへと消え去っていった。その直後、あれほど強かった風は止み、その場に残されたのは煌々と爆ぜる青い火炎のみである。

 火花を散らす音の中、弓千代は言葉を忘れ、あの金色に輝く妖狐の消え去った虚空をまじまじと見据えていた。あれほどの妖力を秘めた妖怪がいまだにいようとは。これでは総巫御前があのように仰ったのも無理はない――いや、私ですら敵うかも分からぬ。今まで見てきた妖怪とは比べ物にならない力を目の当たりにし、弓千代はただ呆然とするしかなかった。

 その夜、騒ぎを聞きつけた「護ノ巫女」達によって、なんとか火事は鎮火され、巫殿より周囲に火の手の広まる事体は免れた。しかし、この惨事を秘密裏に処理する事はもはや望めなくなっていた。その場に駆けつけた「護ノ巫女」達に加え、緊急時に対応しようと集まった巫女達を前に、半端な誤魔化しは通用しないからである。問題となった妖狐の逃亡もあり、致し方無しとした総巫は翌日の明朝、集殿に巫女一族総員を集めてから事情を説明した。狐一族の生き残りがいた事、その狐姉妹が暴走し逃亡した事。一族全体に事の全てを明かし、次のような命を下す。

「事は重大。逃亡した妖狐の姉の方には、今にも溢れ出んばかりの狐一族の怨恨が込められておる。恐らく、狐一族が滅びる直前に、我が一族を祟り殺すようにと呪詛をかけていたのじゃろう。このまま野放しにしておけば、あの妖狐がいつ凶悪な『九尾の狐』と化し、大昔のような災いをもたらすかも分からぬ。よって、これより皆に、妖狐二匹の捜索および討伐を命じる」

 ただし、この「皆」とは一定以上の実力を認められた巫女と「護ノ巫女」のみを指しており、一族の総力を挙げるものではなかった。ここで巫女一族が大規模な行動を起こせば、巫女一族の治める大社ノ耶国(おおやしろのやぐに)内だけでなく、その他近隣諸国にこの事を知られてしまう恐れがある。事の周知はあくまで必要最小限に留め、なるべく表沙汰にならぬ間に解決するのが総巫の望むところであった。

 これを受けた弓千代は他の誰よりも先に狐姉妹を見つけ滅する決意をし、早速行動に移す。その命が下った日の内に、大山の麓に馬を用意しておくようにと使いを出し、金銭や食料といったものを麻の小袋に詰めて、総巫の下に一度断りを入れにいった。昨夜刑を執行し損ねた事に対する詫び、加えてこれからここ守護大社を離れ、狐姉妹の討伐へと身を投じる旨を総巫に伝える。

 弓千代の言葉を聞き終わった総巫は静かに頷く。

「くれぐれも頼むぞ。あれは我が一族だけでなく、多くの人間に災いをもたらすものじゃ。狐一族の血は、なんとしてもここで完全に断ち切らねばならぬ」

 そう言った後、ふと気づいたように「もし必要であれば、他の者をいくらかお供につけると良い。あれは凶悪な妖狐故、一人では何かと難しかろう」と言い加えた。

 弓千代は「承知致しました」と短く答え、総巫の前から退場する。彼女は承知したと答えたものの、心の中では誰も連れていかない事を決めていた。それは「護ノ巫女」としての自尊心や驕りからくるものではなく、もともとこの事は自分に任されていたものであり、また巫女一族の総本山である守護大社の守りを割く訳にもいかないという彼女なりの考えからくるものであった。

 巫殿を出て、集殿を通り抜けてから回廊に上がった時、近くに立っていた人物に気付いた弓千代は足を止める。

「どうした、小夜」

 目の前にいた小夜は真剣な面持ちで、一尺ほど身長差のある弓千代の顔を見上げていた。

「弓千代様。これから妖狐退治へ赴かれるのでしょう? あの……、無理な事だとは思うのですが、私もお供させて頂けませんか?」

「駄目だ。これは有象無象の妖怪を滅するのとは訳が違う」

 弓千代は再び歩き出し、小夜の横を通り過ぎる。

「私、絶対に弓千代様の足手まといになりませんから」

 そう言いながら、小夜が駆け足気味に弓千代の後ろに追いつくと、その後を二、三歩ほどの距離を保ちつつもついてくる。弓千代は足を止めず、歩調を整えたまま歩き続ける。

「小夜、そういう問題ではない。これはかつて全土に悪名を轟かせた狐一族と干戈を交えるもの、つまり己の死をも覚悟しなければならない。巫女として未熟なお前が一線を越え、命を落とすかもしれぬ」

「でも、未熟だからこそ、私は実戦に身を置く弓千代様の背中から多くを学びたいのです。どうか、お傍に置かせて頂けませんか?」

 小夜の声色は必死であり、真剣そのものであった。決して生半可な気持ちでこのように申しているのではない、そう思えるほど彼女の意志を感じられる。

 その様子を窺い、弓千代は少し考える。今日までの修練による経過を踏まえてみれば、小夜を実戦に投じる事によって、あるいはその未発達な「破魔の力」が飛躍的に向上するかもしれない。しかし、これは特段、今回のように危険な状況下で行う必要もないはずだ。必要ではないが、小夜が修練者という最下位の立場である以上、有意義といえる実戦に恵まれる機会がそうある訳でもない故、危険ではありながらも今回の実戦はまたとない機会ともいえるだろう。何より、この四年間、他のどの修練者よりも慣れ親しんできた小夜の性格を考えると、一度決した意志を簡単に変えるはずもない事は分かり切っている。

 熟考した末、一つ結論を出した弓千代はすっと立ち止まり、小夜の顔を振り返る。

「分かった。ただし、自分の身は自分で守る事、そして死を間近に感じたら私に構わず逃げる事。約束できるか?」

 自分の申し出が通った事を知った途端、小夜の顔がみるみる明るくなり、嬉々とした表情へと変わっていった。

「はい! ありがとう御座います」

「よし。では、念の為、総巫に話を通してくるから、お前は準備をして参道の鳥居で待っていなさい。それと、誰か使いの者に頼んで、麓に自分用の馬を用意しておくように。私の名を出せば聞いてくれるだろう」

「分かりました」

 弓千代の言葉を最後まで聞いた後、返事をした小夜は軽くもしっかりとした足取りで大場の方へと回廊を歩いていった。そんな彼女を少し目で追ってから、弓千代は総巫のもとへ今一度戻った。

 総巫の前で弓千代が先程決めた事を話すと、総巫は何故「護ノ巫女」ではなく修練者をお供に選んだのかと言いたげな表情を見せたが、次には「まあ、修練者の事はおぬし達『護ノ巫女』に任せておる。良かろう」と返し、小夜をお供にする事を許した。これを受けた弓千代は総巫に礼を言い、小夜の待つ参道の鳥居に向かっていった。

 宮を出て、本殿、拝殿の横を通り過ぎ、参道に沿って歩いたところ、鳥居の傍で小夜と合流した弓千代は、彼女と一緒に大山を下る。守護大社は大山の頂上にあるため、麓まで下るには延々と続く石階段を――山の中腹にある中社、麓より少し登ったところにある下社を経由しながら――下りなければならない。そのため、普段から鍛錬を怠らない弓千代はともかく、四年前に巫女一族の門を叩いて以来、一度も登り下りをしていなかった小夜は半分の半も下り切らない内に疲れてしまい、麓に着く頃にはどっと汗をかいていたのだった。

 麓に用意されていた馬に跨った弓千代は、付近に漂っている妖気を探った。浄化されている大山の麓だというのに、周囲には幽かながらも確かな悍ましさを秘めた妖気があり、午(うま)の方角へと続いていた。

「小夜、妖狐はまだそう遠くへは行っていないかもしれん。少し馬を急がせるぞ」

「あ、はい!」

 弓千代が馬を出すと、乗り慣れていない馬にようやく跨った小夜もそれに続く。

 ここから先はしばらく森の中になる。ある程度踏みならされているとはいえ、険しい獣道を一歩外れれば草木が鬱蒼としており、それらの自然が辺りに漂う妖気をじっくりと時間をかけながら散らしている。それによって妖狐の足取りを示す妖気が薄まらない内に、なんとかしてあの狐姉妹に追いつこうと弓千代は考えていた。短期間の内に狐姉妹を滅し、起こり得る被害を出来る限り最小に抑えなければならない。森の中に残留する妖気を肌で感じながら、弓千代は木々の葉を揺らす風から察せられる不安を中々拭い切れずにいた。

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