凜花伝
坂本裕太
幕開け ―因(よって)―
里が燃える。人間のみならず、同胞である妖怪ですら震え慄かすほどの実力を保持してきた狐一族の里が、闇夜に爛々と燃え盛る炎の只中にあった。その実力を誇示して構えていた宮殿も、今や崩壊寸前を極めている。里を逃げ惑い、あるいは目の前の脅威に立ち向かう妖狐達は、前方より降り注ぐ矢の数々に次々と射抜かれていく。
この里に攻め入るは、妖怪退治を生業とする巫女一族。巫女装束を身に纏い、携えた弓と矢を以て「破魔の力」を用い、妖狐どもを滅す。長年幾多の争いを交えてきた狐一族との因縁を完全に断ち切るべく、今宵、一族を上げた総決戦を起こしていた。
戦況は一目瞭然である。開戦は巫女一族の火攻めによる夜襲に始まり、依然として狐一族は劣勢にあり、もはや窮地より後も前もない状況である。
宮殿内、その玉座に座していた狐一族の長、百三十五代目「九尾の狐」は憤怒と悔恨の最中にありながらも、徐々に敗戦の兆しを悟り始めていた。
「おのれ、巫女一族め! 所詮「破魔の力」なくして我らに抗えぬ人間風情が、調子に乗りおって! おい、妾の娘はどこじゃ!」
人の姿に化け、傍に控えていた妖狐一匹が「九尾の狐」に近寄る。
「ここに」
妖狐の腕にはまだ赤ん坊である妹・銀狐(ごんこ)が抱かれており、妖狐の足には幼き姉・金狐(こんこ)がぴったりとしがみついていた。事をまだ理解出来ぬ銀狐はただ泣きじゃくり、姉の金狐も今は堪えてはいるものの、いつ堰を切って泣き出すか分からぬ様子である。
「こん、良く聞くのじゃ」
なるべく娘を怖がらせぬよう気を鎮めるように努めて、「九尾の狐」は金狐に目線を合わせる。
「もう、ここはいつ巫女一族の手中に転がるか分からぬ。お前はごんを連れて、里の裏手から遠くへ逃げるのじゃ」
「お母様!」
急を要している事を理解しているため、金狐はその一言しか声に出す事が出来なかったものの、その目はお母様も一緒に逃げようと訴えていた。娘の意を察した「九尾の狐」は、金狐に穏やかな瞳を以て見返す。
「こん、母の言う事を聞いてはくれぬか? これは妾の、母の最初で最後の我儘じゃ」
「九尾の狐」は自分の体に金狐を引き寄せ、一度十分な間を取って娘の瞳をじっと見つめた後、深く抱き締めた。金狐は緊張で体を強張らせていたが、体に触れる母の温もりがこれで最後だと思うと、堪えていた涙をつと流し出し始めながら母の体を抱き返した。
大部分を火の手に蝕まれた宮殿内に、里のほとんどの妖狐を退治し終えた巫女一族の者達が続々と侵入し始める。宮内のそこかしこから、弓矢を射る音や妖狐の断末魔が鳴り響くようになり、狐一族の滅亡はもう間もなくというところまで迫っていた。
敵の侵入を知らせる妖狐の遠吠えが「九尾の狐」の耳に届く。
「もう来よったか! こん、早く逃げるのじゃ。お前は妾九尾の娘、御付きを付けぬでも良いな?」
「九尾の狐」は傍の妖狐の腕からひったくるように銀狐を抱え取り、金狐の腕に抱かせる。
「さあ、行け!」
金狐は腕に抱いた妹の顔をちらりと見てから、母の顔をもう一度見やる。自分の命の危機が迫っているというのに、母の温もりが名残惜しく中々踏ん切りがつかずに、どうしたらよいかとその場に立ち竦んでいた。
「何をしておる? 早く――」
「九尾の狐」が娘を急かそうとしたその時、一本の矢が空を切り、玉座の間に飛び込んできた。燃え尽きて崩れた入り口へ目をやると、そこには弓を構えた巫女が立ち、次こそは「九尾の狐」を確実に射止めんと手早く矢継ぎを行なっている最中であった。
「くっ、おのれ!」
「九尾の狐」は致し方なしと狐の姿へと身を変え、すかさず金狐の首根っこを咥えて、開いていた窓の外へ娘を放り投げた。次の瞬間、金狐が宮殿の外へ投げ出されるほうが早いか否か、巫女の放った矢が「九尾の狐」の右肩に鋭く突き刺さる。
「ふん、この程度の矢で妾を殺し果せると思ったか!」
炎で焼け脆くなった宮殿の天井が崩れ落ちる中、「九尾の狐」は勇ましくも体に突き刺さった矢をそのままに、視線の先に立ち次の矢を構える巫女に襲い掛かっていく。
一方、宮殿の外へ放り出された金狐は地面に強打した痛みに耐えながら、まずは腕の中の銀狐の身を案じた。衰弱の色を見せぬ元気な泣き声に気づくと、一先ずほっと一息吐いたのも束の間、次に宮殿に残された母の身を案じる。
宮殿を振り返ると、そこには煌々と赤く紅く燃え上がる木材の塊しかなかった。金狐の記憶には新しかった豪奢な宮殿も、これでは原型どころか面影すら窺え知れやしない。ただ一寸先の宵闇を照らす大きなその炎は、金狐の幼い瞳にはあまりにも明る過ぎた。いかに強大な妖力を持つ「九尾の狐」といえども、この炎の中で巫女に囲まれては存命の可能性などとても望めない。
「生き残りは残らず滅するのだ! 見つけ次第退治せよ!」
早くも狐一族の残党狩りを始めた巫女達が、里中を徘徊し始めた。
我が身の危険を感じ、何より母の思いを無駄にしてはならぬと半ば強引に決心した金狐は、初めて里に背を向け、ただひたすら遠くへと走り出す。煤だらけの体を擦る暇さえ与えることなく走り、目に涙を湛え、決して後を振り返ることをしなかった。妹・銀狐の泣きじゃくる声は、皮肉にも狐一族を滅亡に至らしめた炎の轟音と宮殿の倒壊音とに掻き消され、巫女達の耳に届くことはなかった。
宵はまだ更け始めたばかりだというのに、里周辺はまるで真昼のように明るかった。
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