私はオチがつけられない
鶴丸ひろ
私はオチがつけられない
「オチが無いと不安なんです」
家庭教師のアルバイトの時間だった。僕がいつものように授業を開始しようとしたら、塾生の愛ちゃんが世界の終わりのような顔をして言った。
「ねえ先生、助けてください。オチが無いと不安なんです。夜も寝られないんです」
「……オチ? 漫才か何かの話?」
僕はいつものように、愛ちゃんのすぐ横に腰掛けて、勉強を教える準備をしていた。
「違います。小説の話です。書きたい言葉や、伝えたい気持ちって言うのはあるんですけど、それを小説としてストーリーにしたときに、最終的なオチがないと、書き上げることができなくなって、完成しないんです。それが悲しいんです」
愛ちゃんはまだ中学二年生だ。僕は驚いた。
「はあ、まあ、そんなことよりも宿題はやった?」
「先生、真面目に聞いてください」
赤いヘアピンで前髪を留めている愛ちゃんは、今にも泣き出しそうに目が潤んで、力の入った口元は小刻みに震えていた。
「私、小説を書くことが本当に好きなんです。一年くらい、ノートに小説を書いているんです。将来は小説家になりたいんです」
愛ちゃんは息せき切るように話をした。普段はおとなしそうな感じとは全く違うので、僕は少しうろたえていた。
「へえ、小説家に。すごいね」
咄嗟にそんなことしか言えない自分が憎い。
「先生、他人事だと思ってるでしょ。私は真剣なんです。お願いします、ちゃんと話を聞いてください」
「いやでも、」僕は愛ちゃんの部屋の掛け時計を指さした。「ほら、今は勉強の時間でしょ。とりあえず約束の時間だけはちゃんと勉強しなきゃ、」
愛ちゃんが僕のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
「先生、私、こんなこと先生にしか相談できないんです。小説家になりたいって、先生にしか言ってないんです。本当に、これは私の人生相談なんです。お願いします」
愛ちゃんは真面目だ。僕は愛ちゃんの他に二人中学生を担当しているけど、その中でも愛ちゃんは一番礼儀が正しい。宿題もちゃんとやってくれるし、僕の言うことも理解しようとしてくれる。そんな愛ちゃんがこんなにも目を潤ませるなんて初めてのことで、たぶんよっぽどのことなんだろうなと思った。
僕はちらりと腕時計を盗み見た。家庭教師にも一応ノルマというか、その日その日の授業内容が事前に決まっていて、それができなければ始末書を書かなくてはいけない。ちょっとだけ悩む。――けれど、十分くらいならまあ、話を聞いても予定は崩れないだろう。
「わかった。詳しく教えてくれる?」
「……ありがとうございます」
愛ちゃんは、まるで命の恩人に感謝するかのように、慈悲深く頭を下げた。
「えっと、先生は小説って何のためにあると思いますか?」
突然壮大な問いをふられて、僕は少し呆気にとられる。言葉に詰まっていると、愛ちゃんはすぐに頭を下げて、
「あ、ごめんなさい。――えっと、最近そんなことを悩むようになって。あの、私は小説を読むのが好きなのは、先生知っていますよね」
「うん。まあ」
僕は彼女の部屋で一際目立つ大きな本棚を見上げた。ずらりと並ぶ文庫本。もともと国語や社会がものすごく得意なのだけれど、そのかわりに理系の科目が苦手なのも知っている。だからこそ、大学の数学科に通う僕がこうして家庭教師をしている訳なのだけれど。
「私、本当に小説が好きなんです。文章を読むことが、楽しいんです。何度読んでも鳥肌が立つほど感動する一文もあるし、泣いて笑って勇気をもらうようなストーリーもあります。それに魅せられて、私も小説を書くようになりました」
へえ、と僕は思った。愛ちゃんが自分語りをするなんて、初めてのことだった。
「最初は、やっぱり楽しかったんです。自分の思い通りにストーリーを動かす。登場人物の気持ちを考えて、それを文字にする。それは本当に楽しかったし、そうしているうちに、実生活でも目の前の人がどんな気持ちなのかなって考えたり、友達の何気ない一言からストーリーが浮かんだりして。それをノートに書くことが、すっごく楽しかった、——いや、楽しいんです」
うん、と僕は先を促すように相づちを打った。
「そうしているうちに、ノートの中にたくさん言葉のフレーズとか、キャラクターの場面とかが増えていくんです。それを基に、作品を書きたいなって思うんですけど、でもオチが浮かばなくて書ききれないんです」
ああ、ここでさっきの話ね、と僕は思った。
「別に、オチがなくても良いんじゃない? 書けるところだけで一つの物語にできるんじゃないの?」
愛ちゃんは俯いたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「ダメなんです。オチがないと、怖いんです。私の作品を読み終えたとき、『え、これで終わり?』って思われるのって、怖いじゃないですか。なにか最後に、ないと拍子抜けされるって言うか。それで、インターネットでオチのことを調べたら、夢オチとか、爆発オチとか、ループオチみたいな技法があることはわかったのですが、どれも自分の小説では生かせそうじゃなくて」
僕は首をかしげた。そんな物なのかな。あんまりそこら辺を意識して読んだことがないから分からないけれど。
「じゃあ、愛ちゃんは良いオチが浮かばないと作品を書けないの?」
「……いや、すごく良いオチが浮かんだら、それはそれで困るんですけど」
「え? なんで?」
愛ちゃんは少し黙っていた。どう言ったら良いのか、考えているようだった。
「その、せっかく浮かんだオチまで、読んでいる人に来てもらわなくてはいけないじゃないですか。テレビとかだったら良いですよ。勝手に流れますから。でも小説だと途中で飽きられたら切られちゃう。だから、始まりから終わりまで気が抜けない。そうなると余計肩に力が入ってしまって。それで、完成間近になって、そのまま放置したり、消去してしまうことになってしまうんです」
んー、と声を出して、愛ちゃんはぐちゃぐちゃと髪の毛をかいた。僕は驚いていた。こんなに熱い気持ちを持った子だったとは、知らなかった。
「私の考えた人物たちが話をしていて、それを書いているときは楽しいんです。でも、その後に読み返すと、そのやりとりってストーリーに必要だろうかって疑問に思うんです。ストーリーに関係のない会話をだらだらと続けても、楽しくないじゃないですか。それで、台詞を消したりするんですけど、でもストーリーに必要なことだけ喋らせると、キャラクターがただの操り人形に思えちゃって。淡泊になるというか。その境目が分からなくなって、なんだか難しく感じて、参考にしようと他の人の小説を読むんですけど、そうすればするほど、だんだん『小説ってなんだろう』って質問に行き着いちゃって」
僕は腕時計をちらりと見た。もう五分過ぎていた。だめだ、時間がない。
「ちょっと、難しく考えすぎじゃないかなあ。愛ちゃんが楽しいって思いながら書いていたら、それで良いんじゃない? だって、愛ちゃんが小説家になりたいのって、小説を書くことが好きだからでしょ?」
「それは、……そうです。でも、自分が好きなように書いているだけだと、ただの自己満足に、なってしまうようで、怖いんです」
「自己満足」僕は口の中で転がすように呟いた。僕が中二のときなんて、やることなすことが自己満足だったような気がするけど、愛ちゃんはそれを自覚して、そうなるのが怖いと思うほど自分を客観視しているらしい。ちょっと自意識過剰な気はするけれど、でも、教え子の本音を聞くというのは、なかなかためになるかもしれない。
「自己満足じゃダメなの?」
だめですよ、と震える声で愛ちゃんが言った。
「笑うかもしれないけど、でも私は本気でプロの小説家を目指しているんです。趣味で書くのとは違うんです。読んでくれている人に飽きられないように、面白いって思ってもらえるようにしなきゃ……」
うーん、と僕は唸った。
「でもまずは趣味でもいいんじゃないかな。小説を書くことが。ほら、野球をやっている人も、皆が皆プロ野球選手を目指しているわけじゃないでしょ。趣味として野球をやってる。それと同じようにさ、小説を書くことも、趣味の一つで良いんじゃないかな」
「それは私に夢をあきらめろって言っているんですか?」
「違う、違うよ」
僕は右手をぶんぶんと振った。
「小説家になるって夢は、すごくかっこいいと思う。僕は正直、愛ちゃんが大きな夢を持ってるって知って、ちょっとだけ見方が変わった。こんな熱い子なんだってことが分かってちょっと嬉しい。けど、そうじゃなくて、もっと気軽に考えたら良いんじゃないかなって思って。いま、愛ちゃんはものすごく真剣に考えているよね。小説家になるためにどうしようかって。どうやったら自分の書く小説が面白くなるかって。それはとっても素敵だし大事なことだと思う。だけど、そのせいで小説が書けなくなってたら、元も子もないんじゃない?」
愛ちゃんは、唇を堅く結んで、眉間にしわを寄せている。これは考えているときの愛ちゃんの癖。文章問題を解くときによくやるから、知っている。
「でも、小説家になるには、自分の好きなように書いているようではいけないと思うんです。ちゃんと読者のことを考えて、それぞれのシーンでどんなインパクトを与えるか、どんな感情を抱いてもらうかをきちんと考えて書かなきゃ、いつまでも上手にならないって思うんです。私が思う小説家の仕事って、読んでくれている人の心を、良い方向にも悪い方向にも、揺さぶることだって思っているので」
「うーん、なるほどね」
僕はぽりぽりと頭をかいた。
「でも、僕が思うに、小説家の一番大事な仕事って、どんな内容であれ、小説を書き上げることなんじゃないかな。だってどれだけ面白いアイディアがあっても、魅力的な文章が書けても、作品として完成しなきゃだれにも見てもらえないでしょ」
なんだか説教くさいな、と自分でも思うけれど、しかし仕方がない。今はとにかく愛ちゃんを納得させて、さっさと授業を始めなくてはいけない。始末書は絶対に嫌だ。
なんとなく理論が頭の中で整ってきたら、あとはそれっぽい例えにして言葉にするだけ。僕が二十年という時間を経て身につけた、相手を納得させる術だ。
「たとえば、――そうだな、今日は連立方程式の勉強をしようと思うけど、愛ちゃんがこの連立方程式の問題が解けるのは、小学校のときに足し算やかけ算、九九っていう基本を覚えたからだよね。小学校のときに、九九を何度も何度も繰り返し覚えさせられるよね。そしてその甲斐あって、今では考えなくても当たり前のように出てくる。それが、数学の基本。小説もそれが同じなんじゃないかな。どんな内容であれ、とにかく作品を書き終えること、それが小説家の九九なんだと思うよ。そして、その九九ができるようになるには、とりあえずたくさん書くこと。作品を書き終えること。それをたくさん繰り返して、当たり前のようにできるようになってから、初めてそういう技術を考えたら良いんじゃない? 今は好きなように書いたら良いと思うよ」
「好きに、……書いても大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫だよ」
僕は根拠もなく頷いた。
「そうやって、好きにたくさん書いていたら、いつか誰かが読んでくれるかもしれない。面白いって思ってくれる人もいるかもしれないし、これがダメだって指摘してくれる人がいるかもしれない。その繰り返しで、上手になっていくんじゃないかな」
愛ちゃんの眉間のしわが、ちょっとずつ和らいできている。よしよし、良い調子。いつもと同じ。問題が解ける三秒前の顔。こうなればあと少し。ポンと背中を押すだけで解決する。
「愛ちゃんは、これまでいくつ、小説を書いたことがあるの?」
「……まだ、一作だけです。短編を。未完成のものはたくさんあるんですけど」
「だったら、愛ちゃんは大きな一歩を踏み出しているんでしょ。自転車だって、漕ぎ始めが一番大変。一作書き上げているってことは、とても大きな壁を乗り越えたってこと。あとは何度も何度もそれを繰り返したら良い。これから二作にして、三作にして、だんだん回数を増やしていこう。何も考えなくても九九が口から出てくるように、当たり前のように作品を書けるようになろう。応用問題は、それからでも遅くないんじゃないかな。そうしたら『どうやったら上手に書けるんだろう』って今悩んでいることも、きっと生きてくるからさ」
愛ちゃんの曇っていた顔が、すうっと晴れた。そして、パッと顔を上げる。
「確かに……、確かにそうですね」
よし、決まった。僕は心の中でガッツポーズをした。
「よかった。愛ちゃんの笑顔が見れて僕は嬉しいよ」
僕はおもむろに筆箱から赤ペンを取り出した。
「よし、元気が出てきてくれたところで、勉強、始めようか。ね、勉強だって、同じ。中学の内容が高校の基礎になるんだ。ここを当たり前のようにできたら、高校に行ってからの問題だって楽勝だよ」
しかし、愛ちゃんは目をキラキラさせたまま、僕の方を見ている。
「先生、私の小説を読んで、感想をくれませんか?」
「え? ああ、うん。わかった。また後でね。とりあえず今は勉強の時間だ。忘れてると思うけど、僕は家庭教師で、愛ちゃんに数学を教えに来ているわけなんだから、」
「これなんです」
愛ちゃんはごそごそと机の中を探って、一冊のノートを取り出した。表紙には『小説ノート』とマジックで大きく書かれている。
「うん。だから後でね。じゃあ最初は宿題の答え合わせからしようか。先週やったこと覚えてる? 連立方程式の問題で分からないやつあったと思うんだけど、」
「私が唯一、書き終えた作品なんです。人に読んでもらうのも、これが初めてなんです。先生、先生が初めてなんです。私が唯一書き終えることができた作品。読んでください」
「ねえ、愛ちゃん?」
「お願いします」
ぐい、と僕の教科書の上にノートを押し込んだ。あれ、こんなに強引な子だったっけ。そろそろ僕の話をきちんと聞いてくれる思っていたんだけど。それに、僕なんて数学科に通うただの大学生なわけで、小説の感想を求めたところでなんの参考にもならないだろうに。
「短い話なので、そんなに時間はかからないはずです。お願いします。どんな評価でも良いんです。今日、この時間を、人に読んでもらうっていう、私の第一歩にしたいんです」
腕時計を見る。授業開始からもう二十分経っている。
僕はため息をついた。今日はもう無理かもしれない。こりゃ始末書だ。でもまあ、塾講で愛ちゃんの担当になってもう二ヶ月、ずっと予定通りやってくれたんだから、一日くらい予定外のことがあってもいいかもしれない。それに、他の誰にも相談できないことを、こうやって打ち明けてくれることは、僕自身にとって嬉しいことなのは間違いない。
「分かった。じゃあ読ませてもらおうかな」
僕はノートを手に取った。ありがとうございます、と愛ちゃんが丁寧に頭を下げた。
「ちなみに、この小説のオチは上手に書けたの?」
「いいえ。恥ずかしながら、オチが浮かばなかったので、『ループオチ』という技法を使わせてもらいました。うまくできているか、不安ですけど……」
ふうん、と呟いて、僕はノートをめくる。タイトルは、――ええっと、『私はオチをつけられない』。なんだか、聞き覚えのあるフレーズだ。というより、今しがた愛ちゃん本人から聞いた話だ。さっき、友人たちの発言を元に小説を書くといっていたし、身近なことからこの小説を書き始めたのかもしれない。
どうやら、この小説の主人公は家庭教師をしている大学生で、愛ちゃんに対して勉強を教えているようだ。
その話は、愛ちゃんのこんな一言から始まっている。
「オチが無いと不安なんです」
私はオチがつけられない 鶴丸ひろ @hiro2600
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