ナジャの話
水を汲み終わる頃には、タカが起きてきて、台所で小麦を練っていた。釜で焼いて薄焼きのパンを作るのだ。キラは鍋を火にかける。ニンニクと玉ねぎをを細かく刻み、羊肉を一口大に切り分ける。鍋に油を敷き、食材を炒めたら水を入れてグツグツと煮る。月桂樹の葉を入れて一煮立ちしたら、塩と胡椒で味付けだ。羊肉のスープの出来上がりである。
パンが焼き上がり、キラはマナナを起こしに行った。
「あら、もう出来たの? 今日は早いのね」
マナナは少し咳き込むと、ゆっくりとベッドから起き上がり、顔を洗うと長い髪を一つに縛って、台所へやって来た。焼きたてのパンとスープの香ばしい匂いが皆の鼻孔をくすぐる。
「じゃあ、頂こうかね」
タカがスープにスプーンを入れるのが食事の合図だ。水汲みをしてお腹がペコペコだったキラは、待ってましたとばかりにスープを掻き込んだ。
「これ、そんな風にがっつくんじゃないよ。ゆっくり味わって頂きなさい」
タカがたしなめる。キラはエヘヘ、と笑ってパンをちぎった。
「後でナジャがトマトを持ってきてくれるって」
「まあ、いつも有り難いわねえ。良い友達を持ったわね」
マナナが咳き込みながら言う。
「うん。ナジャは良い娘よ」
食事が終わり、キラが後片付けをしていると、ナジャがやって来た。
「今日は! トマトを持ってきました」
ナジャはザル一杯のトマトを抱えていた。
「有り難う」
キラがトマトを受け取る。
「ナジャちゃん、上がってコーヒー飲んでいきなさい!」
タカは台所から叫ぶと、お湯を沸かし始めた。
「お邪魔します」
ナジャは家へ上がって、居間のソファーに腰掛ける。キラも、台所のテーブルにトマトを置くと、ナジャの向かいに腰掛けた。
「いつも有り難うね」
「良いのよ、お互い様だから。それより、キラはウルの街って知ってる?」
「ウルの街?」
「そうよ。砂漠の向こうにある街ですって。この間、父さんの友達のレビが街へ行ってきたんだって」
「街へ行って、何をするの?」
「レビの家の窓ガラスが割れてね。村じゃ新しいガラスは手に入らないから、ウルの街へ行って、働いてお金を貯めて、ガラスを買ったんだって」
「ふーん」
キラは街を想像してみた。だがサッパリ何も思い浮かばなかった。当然と言えば当然である。キラは生まれてこの方、この砂漠の村しか知らないのだから。
「コーヒーお待ちどう」
タカがコーヒーを運んできた。
「有り難う。頂きます」
ナジャはコーヒーを一口啜ると、話を続けた。
「街にはそれは色んな物が沢山あって、お医者さんも居るんだって」
「お医者さん?」
「病気の人を治す仕事の人よ」
「シャーマンとは違うの?」
「違うらしいわ。薬とかを使って病気を治すんだって。シャーマンより効くって話よ。お医者に診てもらえば、キラのお母さんだって治るかもよ」
キラは少し考え込んだ。確かに、シャーマンではマナナは治せなかった。
「そのお医者に診てもらうにはどうすれば良いの?」
「街では何をするにもお金が必要なんだって。だから、レビみたいに街で働いて、沢山お金を手に入れれば、それでお医者に診てもらえるわ」
「ウルの街かあ……」
キラは呟いてコーヒーを飲んだ。
ナジャが帰ると、入れ違いにダンがやって来た。ダンは父親のガナルと羊の放牧をしている少年だ。良く日に焼けた褐色の肌に、短く刈り込んだ黒い髪、薄茶色の活発そうな目をしている。
「今日は~。羊肉どうぞ」
ダンは羊の脚を肩に担いでいた。
「あら、ダン。有り難う。でもこんなに沢山、良いの?」
キラは羊の脚を受け取りに玄関まで出てきた。
「良いんだ。一頭解体したんだけど、家じゃ食べきれないしね」
「そう。じゃあ有り難く頂くわ」
「そうしてよ。明日は父さんと羊の毛刈りさ」
「毛刈り………。ね、良かったら、肉のお礼に私に毛刈りを手伝わせてくれない?」
「うん。それは助かるな。父さんに言っておくよ。昼からやるから」
「分かったわ」
ダンは肉を渡すと帰って行った。
その日の夜、キラはベッドに潜り込んで、昼間ナジャが言っていた事を思い返していた。
「ウルの街には色んな物があって、お医者がいて……」
呟きながら窓から空を眺める。暗い空に無数の星が瞬いていた。この同じ空の下にキラが見たこともない街が存在しているのだ。母さんをお医者に診てもらうために、街へ行って働く、そんな考えが何度も頭を巡った。それは良い事の様に思えたし、ウルの街とやらをこの目で見てみたい、という思いにも駈られた。それはワクワクする事だった。だがどうやって街まで行けば良いのだろう? 大体街まではどれくらいかかるのか? 仕事と言っても、何をどうすればいいのだろう? 様々な疑問が沸いてきた。
あれこれ考えながら、キラは眠りに落ちていった。
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