好きと鳴かせて【4】

 リヤカーを引いて、わたしと眞人さんは家へと戻った。

 もう、二度と帰って来ることはないと思っていたのに。

 玄関先でぐしぐしと涙を拭いていると、眞人さんが「白路が出て行くとき、出会ったときのことを思いだしてた」と言った。


「え?」

「初めて会ったとき、雪に塗れて涙でぐしゃぐしゃで、すごかったよな。本当に捨てられた犬みたいに見えた」

「うう」


 否定できない。


「だけど、俺の作ったうどんを食べているときだけ、ほっとした顔をしてた。『美味しい』って、少しだけ笑ってくれた」

「……うん」


 そうだった。やっと巡り会えた温かさと美味しさに、わたしは本当に助けられたんだもの。


「可愛いなって思ったんだ。あの笑顔をもっと増やしてやりたいとも思った」


 驚いて、眞人さんを見上げる。


「うそ! わたし、あの時本当に酷い有様だったよ? 警察通報ものの怪しさだったよ? そんなこと思うなんて、眞人さんおかしいよ!」

「そうだな、でもそう思ったもんは仕方ない。それに、話せば話すほど、お前のことが面白いと思ったし、興味が湧いたから、インスピレーションみたいなものなのかもな」


 眞人さんがリヤカーを見て懐かしそうに言う。


「酷い状況だったもんな。話を聞けば聞くほど、腹が立った。だけど、それと同時にお前のことをすごいと尊敬もした」

「え、二股に気付かなかったのに?」


 眞人さんが優しく笑う。


「そこじゃないよ。お前は一度も、あの彼氏を悪く言わなかっただろう。憎んでも仕方ないはずの後輩との幸せを祝福しようとしていた。できることじゃないよ。小紅や、小紅と逃げた後輩のことを思いだしては憎んでしまう自分がちっぽけだなって恥ずかしくなったよ」

「小紅さんのこと、憎んでたの? わたし、眞人さんは小紅さんのこと憎みきれないんだろうなって思ってたのに」

「お前を見てたら、二年も前のことに固執してることが馬鹿らしくなっただけだ。最初の一年なんか、クロ以上に悪し様に言ってた」


 悪し様に言う眞人さんなんて、想像できない。


「女なんてみんな死ねばいい。打算的な醜悪なものに、二度と好意を持つものか。あいつらに関わって傷つけられるくらいなら、先にこっちが傷つけてやる。まあ、これくらいは常に考えてたかな」

「……それは、梅之介並みだね」

「だろ?」


 ふ、と小さく笑って、眞人さんはわたしの腕を取った。ぐいと引かれ、わたしはそのまま眞人さんの腕の中に取り込まれてしまう。


「いつから白路を好きになったかとか、分からない。そんなこと考えないようにしてたからな。だけど、出会った時からもう、俺はお前に影響を受けてたと思う」

「……うん」


 眞人さんの言葉に、耳を傾ける。


「『飼い犬』って言われた時は、正直嬉しかったしほっとした。好意を向けられるのも、向けるのも、それが理由になる。もう、何も考えなくてもいいんだと思った。その頃にはきっと、好きだったのかな」


 わたしのふわふわの髪を、眞人さんが何度も撫でる。心地よい温もりが、素直な告白が、涙を誘う。


「自分の中で、『シロ』がだんだん大きくなっていってるのが分かった。その存在はもう無視できないくらい大きくなって、戸惑った。自分の中にあるこの感情は『飼い犬』に対するものだからって何度も言い聞かせた。そんな時に白路が俺のこと好きだと言ったんだ」


 こくんと頷く。


「嬉しいと思った。その次に、怖くなった。『シロ』が『白路』に変わったことが、怖かった。『シロ』はいつまでも俺の傍にいてくれる気がしていたけれど、『白路』は俺を捨てていなくなってしまうかもしれない」


 眞人さんが、わたしを抱く腕に力を込める。

 わたしも、もそもそと手を動かして眞人さんを抱きしめ返した。


「情けなくてごめんな。でも、本当に怖くて、嫌だったんだ。だから、『飼い犬』のままでいて欲しかった。鎖に繋がれていてほしかった。でも、クロの言う通りで、鎖に繋がれて安心していたのは、俺の方だったんだな。お前が去って行ったあと、自分の持っていたはずの鎖が切れていることにようやく気付いた」


 眞人さんがわたしの頭のてっぺんにキスを落とす。二回、三回と位置を変えたキスはこめかみに落ちた。


「眞人、さ……」

 顔を上げると、眞人さんと目が合う。漆黒の瞳が真っ直ぐにわたしを見ていた。


「好きだ」


 ゆっくりと、眞人さんが言葉を紡ぐ。


「うん。わたしも、好き」


 そう言うと、顔が降りてくる。温かな唇が、そっとわたしの唇を塞いだ。柔らかく納戸が啄むようにキスをして、そっと離れる。眞人さんの唇がゆっくりと動く。


「ずっと、一緒にいて欲しい」


 瞳を交わす。

 言葉はこんなにもはっきりとしているのに、黒い瞳が不安そうに揺れた。

 ……ああ、この人の胸の中には、まだ傷がある。その傷を、わたしが全部覆ってあげたい。もう二度と開かぬように。いつかすっかりなくなって、傷があったことさえ忘れるくらいに。

 小さな子どもを抱きしめるように、眞人さんの頭を抱えた。ぎゅっと抱きしめて、撫でる。


「わたしも、好き。だから、わたしは捨てない。置いていかない。安心して。シロでも、白路でも、わたしはあなたが好きだよ」


 何度も繰り返す。そうすると、腕の中で、「ああ」とほっとしたような声がした。

 それから、鳥が睦み合うようなキスを再び繰り返しながら、私たちはベッドに潜りこんだ。互いの体に、幾つもキスを降らし、肌を触れ合わせる。

 いつかの晩、彼の全てが『白路』のために動けばどれだけ幸せだろうと思って泣いた。

 その時の自分を思いだし、わたしは小さく笑う。

 大丈夫。いつか、彼はわたしを見てくれるよ。ちょっと前の自分に、届かないメッセージを送る。


「……白路? なんで泣いてる?」


 嬉しいから、涙が出てしまう。わたしの頬を伝う涙に気付いた眞人さんが名前を呼ぶ。

 首に腕を巻きつけて、「ぎゅってして」とお願いした。


「痛いくらい、ぎゅってして。わたし、そしたら鳴くの。好きだよ、って。大好きだよ、って。眞人さんが安心して、安心しすぎちゃって、「もういい」って言うくらい鳴くよ。だから、ぎゅってして。この腕の中で、鳴かせて」


 眞人さんが、わたしを黙って抱きしめてくれた。

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