好きと鳴かせて【3】

 十八時ぴったりに、わたしは店に移動した。

 厨房に入ると、お出汁の香りが鼻を擽る。

 

 ああ、この香りを嗅ぐのも、これが最後なんだ。

 くるくる動き回っていた眞人さんが入ってきたわたしを認めて「お。時間に正確だな」と笑った。


「何か、手伝うことある?」

「いや、ないよ。今日は、俺がお前たちをもてなす側だから。向こうに行って、座ってろ」


 追い立てられるようにして、店の方へ移動した。

 中央の席が綺麗に設えられている。しかしそこには二人分の支度しかない。

 どうして? と見渡すと、端っこの席に梅之介が座っていた。自分の分だけ移動させたのだろう、箸置きやお箸、グラスが適当に散乱していた。


「あ、梅之介。どうしてそんなところにいるの?」

「見送りが湿っぽいなんて言うくせに、三人仲良く最後の晩餐なんて、矛盾だろ。僕はここでいい」

「なにそれ」


 梅之介の方へ行き、「一緒に食べよう?」と言った。


「ね?」

「ここでいい」


 梅之介の意思は、固いみたいだった。

 ……これが本当に、最後なんだけどな。

 そんな寂しい思いが、わたしの顔に出ていたのだろうか。

 梅之介が、大きなため息をついた。


「最初は、僕はこうして別の席に座っていたはずだ。だけど、ちゃんと最後まで食事を摂っただろ。それで、納得してくれよ」

「いてくれるの?」

「だからここにいるだろ」


 つん、と顔を背けて、梅之介は続けた。


「この、馬鹿みたいな『ごっこ』には最後まで付き合うって決めたからね」

「……ありがとう」


 頭を下げると、「早く座れよ」と梅之介が言う。


「うん」


 それから、用意された自分の椅子に座った。

 食前酒として用意されていた梅酒をちろりと舐める。


「さて、用意できたから、出すな」


 お盆を抱えた眞人さんが来た。


「懐石料理。ふたりの好きなもので構成したから、季節感やしきたり無視だけど、許してくれ」


 そう言って置かれた小盆には、お刺身好きの梅之介の好物ばかりが載っていた。鯛の菊花和えに、平目の明太子和え。それに、炙り河豚。


「ふん、秋物ばっかり。本当に、無視だね」


 鼻を鳴らした梅之介が、箸をつける。思わず、梅之介が口にするのを見守ってしまう。

 一品ずつ、順に口をつける。相変わらず、その仕草は品がある。静かに咀嚼して、梅之介は「美味い」と零した。


「いいんじゃないの。旬の物ではないけど、美味しいよ」

「そうか。よかった。まだあるから、いっぱい食ってくれ」


 眞人さんがほっとしたように笑う。その瞬間、空気が柔らかいものに変わった。

 わたしも、目の前のお皿に箸をのばした。

 食事は、ゆっくりと進む。

 時折、梅之介と「美味しいね」と言い合いながら食べるのは、とても幸せだった。


「さて、次はシロの好きなものだな」


 そうして、かいがいしく動く眞人さんがわたしの前に置いたのは、扇形の、翡翠色をしたお皿だった。

 美味しい食事というのは、どうしてこんなにも心をほぐすのだろう。

 気付けば、あんなにしかめっ面をしていた梅之介までもが笑顔になって、箸を動かしていた。ビールを飲み、眞人さんと軽口を交わす。

 時折私わたしも混じって、三人で笑い合った。

 ああ、なんて贅沢で素敵な時間を、わたしはここで過ごしてきたんだろう。

 笑い過ぎて目じりに滲んだ涙を拭いながら、この時間がいつまでも続けばいいのにと思う。

 いつまでも、いつまでも。

 三人でこうして、美味しいねって笑い合っていられたら。

 だけど、いずれ終わりは来るのだ。


「……もう、おしまい」


 最後の料理である、紫芋の葛饅頭を食べ終えたわたしが、ぽつりと呟いた。それは、誰かに聴いて欲しかったわけではなく、思いが口から勝手に零れただけのことだった。


「……そうだな」


 梅之介が、応える。


「最後の食事は、これにて終了、だ」


 ぱちりと、梅之介がお箸を置く音が響いた。それは、終了の合図でもあった。


「これで、おしまい。今まで、ありがと、ね……」


 涙が勝手に溢れる。それはすぐに、ぽたりと落ちた。

 ず、と鼻を啜り、涙を拭う。

 そんなわたしの頭に、大きな手のひらが乗った。


「泣くな」

「ありがと……、眞、人、さん。わたし……」


 もう、言葉が出てこない。ただ、何度も何度もお礼を言った。


「俺こそ、ありがとう。もう家族なんて持つことはないと思ってたのに、お前たちみたいないい奴らと出会えて、一緒に居られて、よかった」


 眞人さんの言葉に、何度も頷く。

 わたしも、そうだ。家族のいないわたしには、この温もりはとても心地よかった。もうとっくの昔に失って、もう二度と手に入らないかもしれないとも思っていたもの。


「泣くなよ、白路。終わりだってことは、もう分かってたことだろ」


 梅之介が少し怒ったように言う。


「あ、ごめん。そうだよね、うん」


 どうにか涙をこらえ、手の甲で濡れた頬を拭う。

 頭に乗った眞人さんの手を取り、それからそっと押し返した。笑顔を作る。


「じゃあ、『飼い犬』も、もうおしまいだね」


 そう言うと、眞人さんが息を飲んだ。


「今まで、ありがとうございました」


 深く、頭を下げた。


「眞人、さん?」


 長くそうしていたけれど、返事がない。無言に訝しさを感じて顔を上げると、眞人さんが奇妙に顔を歪めていた。


「どうか、した?」

「……いや、なんでもない。そうだな、おしまい、だな」


 はは、と力なく笑って、眞人さんがジョッキを取る。中身を飲み干して息をついた眞人さんは、もう一度虚ろに笑った。


「どうしたの?」


 訊くと、梅之介が「バカだ」と吐き捨てた。


「気付くのが遅いんだよ、バーカ」

「え? 梅之介?」

「白路の口からおしまいって言われて、動揺してんじゃねえよ」


 梅之介の方を見る。唇を歪ませて、笑っていた。


「『飼い犬』なんて言葉に一番縋っていたのは、誰だ? 言葉で、繋がりを確かにしようとしてたのは誰だ? 『飼い犬』って鎖に繋がれて安心してたのは、僕らじゃない。おまえだろ、眞人」

「う、梅之介、どうしたの。意味分かんない」


 わたしの問いに、梅之介は耳を貸さない。眞人さんを見据えて、言いつのった。


「家族が欲しかったんだろう? 甘えたかったんだろう? 僕たちが、白路が大事なんだろう?」


 甘えたかった? 眞人さんが?

 驚いて、眞人さんを見た。だって、眞人さんはわたしたちを甘やかす方で、決して甘えるなんてことはなかった。


『……ただ、甘え方を知らなかった』


 ふっと思い出した言葉に、息を呑む。

 一緒に眠った夜の合間に、眞人さんは確かにそう言った。

 甘え方を、知らなかった。それは、いまも……?

 眞人さんは、何も言わない。視線を梅之介から外した。眉間に深い皺を刻み、何かを堪えるように強く唇を引き結ぶ。


「誰よりも寂しがりで臆病なんだよ、眞人は」


 梅之助が口調をぐんと和らげる。


「もう、分かるだろ、眞人。分かるなら、どうしたいか言えよ」


 沈黙。眞人さんは、やはり何も言わなかった。

 眞人さんの返事を静かに待っていた梅之介だったが、いずれ辛抱が切れた。「それがお前の答えなんだな」と低い声を落とした。


「もうおしまいだ、白路。もう、行くぞ」

「え? え?」

「この家を出る」


 梅之介が、椅子に座り込んだままのわたしの元へと来て、腕を掴んだ。


「僕は、最後までこの茶番に付き合った。だから、もうおしまいだ。もう、出るぞ」

「え? え?」

「これ以上、もうイライラしたくないんだよ。お前も、明日出るのも今夜出るのも一緒だろ」

「だ、だって」

「それに、僕はもうお前が他の男との別れを惜しんで泣くのを見たくないんだよ!」


 梅之介の最後の言葉に反応して、眞人さんが顔を上げる。梅之介は眞人さんを見下ろして、続けた。


「僕、白路とこれからも一緒に生きてく。お前はそれを羨ましがりながら青森でもどこでも行けよ」


 行くぞ、と梅之介がわたしを引っ張っていった。

 リヤカーに、梅之介はどんどんわたしの荷物を載せていく。

 少しずつ移動していたから、思いのほか荷物は少ない。あっという間に、支度は終わった。


「う、梅之介。こんな、早いよ。どうせ、明日は出て行くんだから、何も無理にこんな」

「嫌なんだよ。白路を泣かせるのが嫌だ。こんなにはっきりと答えを教えてあげているのに動かない眞人を見るのも、嫌だ。幻滅したくないんだよ」


 梅之介は、わたしの言うことなど聞いていないようだった。わたしの物を詰め終わると「行くぞ」と言った。


「で、でも」


 こんな喧嘩別れみたいな真似はしたくない。せめて最後くらい……。

 そんなわたしの思いが分かったのだろう。梅之介が唇を歪ませた。


「もう、どんな形で別れたって、白路は納得できないさ。それなら、躊躇う前に出た方がいい」

「……そ、んな」

「そんなことないって、言う? 言えないだろ。それなら、行こう」


 リヤカーの前で立ちすくむわたしに、梅之介が言う。


「行こう、白路。……ああ、ちょうどよかったじゃないか。ほら、見送りが来たぞ」


 梅之介が、わたしの背後に視線をやって皮肉に言った。振り返れば、眞人さんがいた。

 無表情の眞人さんは、荷物の乗ったリヤカーをじっと見ていた。


「あ……」

「眞人。お世話になりました。僕と白路は、出て行きます」


 梅之介が、高らかに言う。


「青森で、頑張ってよね」

「……ああ」

「元気で。行くよ、白路」


 ああ、もう、本当に、最後なんだ。

 もう少し、もう少し一緒に、と思うけれど、そんな事を言い出したら、わたしはずっと離れられない。

 梅之介の言葉に従って、ここを去った方がいいのかもしれない。

 心を決めて、眞人さんと、向き合った。

 大好きな瞳を、真っ直ぐに見る。

 わたしを助けてくれた、とても大好きなひと。

 あなたに会えてよかった。

 ずっと。ずっと甘やかして欲しいと願ったこともあったけれど。それは、叶うはずのない夢。

 束の間でも、あんな時間を与えてもらったことを幸福だと思おう。


「眞人さん」

「ああ」

「今まで、ありがとう。わたし、ここでの生活を忘れない」

「……ああ」


 眞人さんの顔が、歪んだ。

 少しくらい、わたしのことを想ってくれたのかな。

 別れを、惜しむくらいには。

 それは、すごく嬉しいよ。


「……『飼い犬』として、本当に幸せだった。じゃあ、」


 ぐっと喉元に熱が込みあげる。それを必死で堪えて、笑顔を作った。


「さようなら」


 最後くらい、笑っていたい。その一心で、わたしは顔を作った。


「さよう……なら」


 眞人さんが、別れの言葉を口にした。


「行くぞ、白路」


 リヤカーを引いた梅之介が言う。


「うん」


 踵を返して、先を行く梅之介の後に続く。

 門を出て、薄闇の広がる商店街へと歩き出した。

 数ヶ月前、雪の中泣きながらリヤカーを引いた。世界で自分が一番不幸だと泣いたわたしだったけれど、いまの方が辛い。

 ぼろぼろと零れ落ちる涙を拭う力もなくて、わたしはただ、梅之介の後ろを歩いた。

 梅之介は何も言わずに、いうことをきかないリヤカーを引いてくれた。どれだけわたしがしゃくり上げようとも、「泣くな」とは言わなかった。それはきっと、どれだけでも泣いていいということなのだろう。

 すっかりなじんでしまった、商店街を抜けようかというころだった。

 駆けてくる足音が聞こえた気がした。

 何だろう、と振り返ろうとした、そのときだった。


「……白路!」


 肩を乱暴に掴まれた。力任せにわたしを振り向かせたひとは。


「行くな。行くな、白路」


 眞人さんだった。


「……え?」

「俺を置いて、行くな。頼む」


 必死に言葉を重ねて、そのまま、眞人さんはわたしを抱き寄せた。

 大きくて逞しい胸に、抱き留められる。

 ……どうして?

 わたしを抱きしめたまま、眞人さんが言う。


「嫌だったんだ。また、小紅みたいにいなくなってしまうんじゃないかと不安になるくらいだったら、拒否した方が楽だったんだ」


 髪に眞人さんの手が触れる。痛いくらいに掴まれる。


「ま、眞人、さ……」

「クロの言う通りだ。『飼い犬』なら、いなくなることはないって安心できた。心の距離を持てた。だから、お前を『飼い犬』なんてカテゴリに入れ続けた。そうしたら、もう捨てられることはないって思えたんだ。急にいなくなって、俺をひとりしないって、思えたんだ」


 眞人さんが、言葉を連ねる。わたしは、眞人さんの腕の中で呆然とするしかなかった。

 これは、何? 夢? こんなこと、あるはずがない。

 ああ、もしかしたら、松子の時と同じように、演技?

 でも、こんなにも眞人さんの胸の鼓動が激しい。演技じゃ、ない。

 眞人さんの腕に、ひときわ強く、力が籠もる。わたしを抱いて、眞人さんは切なげに言葉を吐きだした。


「お前のことが好きなんだ」

「え……?」

「何度でも言う。好きだ。失いたくない。だから、俺を置いていかないでくれ」


 新しい涙が、溢れて流れた。

 こんな都合のいい夢、あるはずがない。


「好きなんだ、白路」


 全身が、震えた。涙が溢れて、世界が波に飲まれる。いっそこのまま、飲まれて死んでもいいと思う。

 だらりと垂らしていた手に、力を入れる。そっと動かして、眞人さんの背中に回した。広い背中を抱きしめる。


「わたしも……わたしも、好き。大好き。犬でも、なんでもいい。そばに、いさせて……」


 腕の力を抜けば、眞人さんがふっと消えてしまうような気がする。幻を現実に留めたくて、わたしはしっかりと抱きしめた。

 眞人さんも、苦しくなるくらいにわたしを抱きしめ返してくれる。

 息苦しさを覚えて、しかしそれが、現実を教えてくれた。

 ガタンと音がしたのは、それから少ししてからのことだった。


「……よかったね、白路」


 低い声にはっとする。顔を向けると、リヤカーから離れたところに、梅之介が立っていた。


「クロ……、俺」


 わたしを離した眞人さんに、「いい年して、臆病すぎるよ。眞人」と梅之介は優しく言った。


「ここまでしてあげないと動けないって、ちょっとひくよ? 追いかけてこなかったらどうしようかとひやひやしてた」

「梅之介、お前……」

「もう、ずっと前から白路のことが好きだったくせに、捨てられたらどうしようなんて不安がってたんだよね。白路はそんなことしないって、ちょっと考えたらわかるじゃないか」

「……ああ。本当だ。俺が、バカだった」

「いくら怖くても、信じてあげてよ。『飼い犬』だなんて、そんな檻にいれなくても、白路は逃げたりしないよ。だって白路は、眞人しか見てなかった。僕が、悔しくなるくらいに」


 梅之介の声が、僅かに震えた。だけど、梅之介はにっこりと笑って、わたしの方を見た。「白路」と名を呼ぶ。


「お前のお蔭で、情けない僕から踏み出せた。ありがとう」


 そんなこと、言わないで。お礼を言うのは、わたし。だって、梅之介はわたしのことをいつだって見てくれて、助けてくれた。


「梅之介……ごめ……わたし……。ごめ……さ……」


 あんなに、優しくしてくれたのに。わたしを想ってくれたのに。

 なのに……。


「お前の純粋なところとか、無邪気なところ、本当に好きだよ。だから、ずっとそのままでいてよね」


 じゃあね、と梅之介は手を振った。


「今度こそ、僕は行くよ。今までありがとう。さようなら」

「梅之介!」


 梅之介は、わたしたちに背中を向けて歩き出した。

 真っ直ぐ歩く、一度も振り返らない背中に「ありがとう」と叫ぶ。


「ありがとう! わたしも、梅之介が大好きだよ! 本当に、好きだよ!」


 本当に、本当に好きだよ。梅之介はわたしにとってかけがえのない大切なひとだよ。


「俺にとって、お前も大切なんだ! すまなかった、ありがとう!」


 眞人さんが叫ぶ。

 遠くから、「わかってるよ」と声が返ってきた。


「心配しなくっても、僕もふたりが好きだよ。落ち着いたら、会いに来るさ」


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