傍にいられるなら、犬でいい【10】

「――眞人さん」

「え?」


 近づいて、声をかける。

 わたしが寄って来ていたことに全然気づかなかったらしい。眞人さんは驚いたようにわたしを見て、それから周囲を見回した。


「クロは? シロひとりなのか?」

「さっきまで一緒にいたんだけど、先に帰ったの。横、座っていい?」


 訊くと、眞人さんが「……ああ」と頷いた。


「座れ。ここ、一番桜が綺麗に見えるぞ」


 横に腰かけ、空を見上げる。桜の花弁が静かに降っている。


「ほんとだ、綺麗」


 しばらく、見上げていた。そんなわたしに、眞人さんが「ありがとな」と言った。


「昼間、小紅に言ってくれたこと、嬉しかった」


 眞人さんの言葉に、首を横に振る。


「わたしが、自分の言いたかったことを言っただけ。でも、小紅さん、いつか、わたしの言ったこと、わかってくれるかなあ」


 いつか、分かって欲しい。そして今度は、ちゃんと誰かを愛して欲しい。


「信じてもらえないだろうけど、あの子は元はいい子なんだ。だから、きっと分かる日が来るだろう。まあ、時間はかかりそうだったけどな」


 くすりと笑った眞人さんが、新しい煙草に火をつける。すう、と吐いた煙が夜風に乗って消えて行った。


「眞人さん。あんな勢いで言ったけど、わたし、眞人さんのこと好きだよ」


 深く息を吐いて、静かに言った。

 心臓はこれ以上ないくらいにどきどきして、壊れてしまいそうだった。だけど、口に出してしまうと不思議と、落ち着きを取り戻していく。すっと空を見上げた。ああ、なんて綺麗なんだろう。


「小紅さんとのこと知って、眞人さんがひとを信じられなくなった理由も、分かった。だから、わたしの気持ちも眞人さんにとって迷惑なだけだと思う。『飼い犬』の顔をして安心させておいて、ごめんなさい」

「……ありがとう。シロの気持ち、嬉しいと思う。あんなに、想いを向けられることが嫌だって言ったくせに、シロからだと嫌悪なんて欠片も抱かなかった。不思議だな。嫌じゃ、なかったんだ。本当に」


 眞人さんが、ゆっくりと語りだす。眞人さんの方を見ず、背筋をすっと伸ばした。手を宙に差しだし、舞う花弁を掴もうとする。


「……うん」


 それは、嬉しい。冷たく拒否されることも考えていたのだから、とても嬉しい。

 だけど。

 眞人さんの口ぶりはとても躊躇いがちで、考えながら話していることが分かる。わたしの想いを受け取れないことをどう伝えるかと考えてることが、嫌って言うほど、分かってしまう。

 嬉しくて、でも、悲しい。やっぱり、ダメだったよ。梅之介。


「シロの強さが、好きだ。どんな酷い目にあっても、涙をこらえてニコニコ笑って頑張るお前が、俺にはいつだって眩しかった。俺の作るメシをいつでもうまそうに食う姿が、可愛いと思った。素直で真っ直ぐなシロが、俺も好きだ」

「……。うん」


 泣き出しそうになるのを、必死に堪える。

 どれだけ手を動かしても、花弁はひとひらもわたしの手の中に納まってくれない。こんなに、降り注いでいるのに。


「でも、それは、『飼い犬』への想いなんだ」


 果たして、眞人さんが言う。胸の奥がずきりと痛んだ。


「……う、ん」

「俺に懐いてくれるから、可愛いと思う。俺に素直だから、愛しいと思う。そんな感情なんだ。お前は、俺にとっては『飼い犬』なんだ」

「……ん」


 花弁はきっと、掴めない。諦めて、手を降ろした。膝の上に置き、ぎゅっとこぶしを作る。


「だから、その立場にいて欲しい。そこから出ないでほしい。お前とのせっかくの関係を、嫌なものに変えたくないんだ」


 大丈夫だよ、白路。こんなの、ショックを受けることじゃない。眞人さんに想いを受け入れてもらえるなんて、思ってなかったでしょう。

 拒否されなかっただけ、いいじゃない。


「悪いと、思ってる。だから……」


 眞人さんが困ってる。言葉を選んでる。それが、痛いくらい分かる。


「ごめんね、わたし、困らせてる、ね……」


 声が、震えた。気を緩めたら、張りつめてる気持ちがはち切れて、涙となって溢れてしまう。でも、ここで泣いたらダメだ。だって、眞人さんをもっと困らせてしまう。


「分かって、たの。言うつもりなんてなかったの。わたしは、『飼い犬』でよくて、本当にそれでよくて、なのに……」

「ごめん」


 黙って、首を横に振った。


「いいの……。ちゃんと話してくれて、ありがとう」


 ぐっとお腹に力を入れて、笑顔を作る。ここは、笑うところだ。眞人さんが真摯に向かい合ってくれたんだもの。わたしも、それに応えなくちゃ。


「お蔭で、すっきりした」


 声も、明るくする。そうしたら、眞人さんが少しだけほっとしたような息をついた。

 よかった、わたしの為に暗い顔をする眞人さんなんて、見たくない。


「わたし、あの家出て行く」


 宣言するように言うと、ひゅ、と眞人さんが息を飲んだ。

 驚く顔に、笑ってみせる。


「こんなことになったら、気まずいもんね。眞人さんのお蔭で引っ越し資金も溜まったし、近々出て行くよ」

「……そうか」


 眞人さんの手にした煙草の灰が長く伸びる。それはぽとんと地面に落ちた。眞人さんがゆっくりと足で踏む。

 それから、少しの時間を置いて、眞人さんが言った。


「俺も、榊さんのところに行こう、かと思う」

「……! そ、う」

「あのひとから貰い損ねたもの、全部貰ってきたいと思ってる」

「うん。きっと、いつかそう言うんだろうなって思ってた。それが、今なんだね……」


 泣くな。泣くな。わたしが家を出るって言ったのは、ついさっきのこと。眞人さんと離れるのは、もう決まっていたことじゃない。

 でも、距離を思うと気が遠くなる。二度と会えないんじゃないかとさえ、思える。

 離れたくない。だけど、わたしに眞人さんを引き止めることはできない。


「最後の機会だって言ってたもんね。頑張って、ね」

「ああ。店は当分閉めることになる。クロにも、言わなきゃな。あいつのこと考えると、相談なしに決めていいのかとも思うんだけど」

「大丈夫。梅之介も、出て行くって言ってた。自立、するんだって」

「……そう、か。じゃあ、三人バラバラだな」


 眞人さんの言葉に、涙が一粒だけ、堪えきれずに零れた。

 バラバラ。なんて、悲しい言葉なんだろう。あの満ち足りていた生活が、音を立てて崩れていくような錯覚を覚える。

 ぐい、と頬を拭って、わたしは眞人さんを見た。


「ねえ、眞人さん。眞人さんが行ってしまう日まで、わたしもあの家にいてもいい?」

「え?」

「もう、一緒にいられる時間が限られたでしょう? だから、そのギリギリまでいさせて。そして、その間だけ、わたしを『飼い犬』のままでいさせて欲しいの」


 せめて、お別れする間だけでも、あの温かさの中にいさせて。もう少しだけ、あなたの優しさに甘えさせて。だって、一緒の時間はもう、終わりがそこまできている。


「我儘だって分かってる。だけど、お願い。最後だと思って、きいて。わたし、最後までちゃんと『飼い犬』でいるから」


 眞人さんが、わたしを見る。

 束の間、見つめ合った。


「お願い」


 大好きな瞳がわたしを映す。そして、戸惑うように揺れる。


「……それで、お前はいいのか」

「うん」

「……わかった」


 眞人さんが、わたしの頭にそっと手を乗せた。


「それまで、仲良くしよう。シロ」

「ありがとう」


 あと僅かでもいい。この人の傍にいたい。

 大好きな顔を見ながら、わたしはそっと笑った。

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