好きと鳴かせて【1】
「白路、お弁当食べないの?」
「うん、食欲ない。真帆、全部食べていいよ」
「いいの? 全部? やった!」
夜桜の散り乱れる中で眞人さんにフラれた夜が明け、昼である。
ぼんやりしていたわたしの前から、ふたを開けただけだったわっぱ弁当が消えた。
嬉しそうな顔をした真帆が、早速お弁当に箸をのばす。
「あのイケメン大家のお弁当、最高に美味しいもんね。あー、この出し巻き卵大好き」
コンビニ弁当を完食していたというのに、真帆はどんどん食べ進める。あっという間に、おかずの大半が消えた。
「で、どうしたのよ、白路。なんか、今日のあんたおかしいよ?」
「真帆、安くてすぐ引っ越せそうなアパート知らない?」
「は? あんた、イケメン大家と別れるの?」
真帆が箸を止め、大きな声をあげる。
「もったいない! 早いとこ復縁しな。間に合うかもしれないよ」
「復縁も何も、付き合ってないって何回も言ったじゃん。あれは、松子を撃退するための演技だって」
「それは聞いたよ? でも、それにしてはあの時は本気を感じたんだよね。それにさ、ただの大家がそこまでしてくれる? 好意がなきゃしないでしょ」
「好意……好意ねえ。まあ、あったけどなかったのよ」
ペット的なものに向ける好意はあれど、生身の女に対してのそれじゃないのよね。
はは、と力なく笑うわたしの顔を、真帆が心配そうに覗きこんでくる。
「……なんか、深刻ね。本当に、出てくの?」
「うん。もう、あそこにはいられない」
「ふう、ん」
もぐもぐとお弁当を食べながら、真帆が考え込む。
「まあ、事情はよく分かんないけど。私、今住んでるアパートを近々引き払って、修平と一緒に暮らすのね。で、私の部屋に白路が入れないか、管理人さんに訊いてみようか?」
真帆の住んでいるアパートは職場からほど近い場所であるし、家賃も安い。わたしが探している条件を十分満たしていた。
「ほんと? 訊いてもらっていい?」
「いいよ。管理人さんも、空室を作るよりはすぐに入居者が見つかった方がいいんじゃないかな」
「ありがと」
この調子なら、部屋もすぐに決まるかもしれない。
眞人さんと離れる準備を、始めなくちゃ。荷物を纏めたり、新生活の支度を整えたり。そんなことをしていたら、きっと気持ちの整理もつく。そしたら、眞人さんに笑顔でお別れが言える、と思うから……。
仕事を終えたあとは、いつものように『四宮』で皿洗いに励んだ。
すっかり使い慣れた食洗機の横で食器を片づけながら、厨房内を見渡す。
……こうやって三人で仕事をするのも、あと少しなのか。寂しい、なあ。
「おい、白路。ぼんやりしてたら皿が溜まってく一方だぞ。さっさとやれ」
空のお皿を引いてきた梅之介に言われて、はっとする。慌てて笑顔を作った。
「ごめん、すぐする!」
「ほんと、トロくさいな」
「むか」
「あとちょっとだから、頑張れ」
眞人さんが、頭をポンと撫でる。その温もりを感じながら、わたしは「はい」と笑って答えた。
「ふうん。上手くいったんだ?」
スポンジを持って汚れた食器の山に取り掛かっていると、傍に来た梅之介が小さな声で訊いた。
「え?」
「え? じゃないよ。そういうことだろう?」
眉根を寄せて、眞人さんを指差す梅之介。
「おめでとうって言ってやろうとしてるんだけど?」
もしかして、梅之介はどういうわけだかわたしと眞人さんが上手くいったと、思ってる?
まさか。そんなこと、あるわけがないのに。
ぽかんとしていると、梅之介が眉根をきゅっと寄せた。
「どういうことだ?」
「それ、こっちの台詞」
梅之介が口を開きかけたとき、「すいませーん」と店の方で声がした。
「梅之介くーん、ビールの追加、お願い」
女性の声に舌打ちをした梅之介だったが、すぐに「はあい!」と明るい声を出す。
「後で話すぞ」
短く言い残し、梅之介は笑顔を作って外に出て行った。
閉店後の三人の賄の食事は、いつもより格段に静かだった。
筍ごはんに、菜の花とじゃこの入った出し巻き卵と鰆の塩焼き。若芽と筍のお吸い物に菜の花の辛し和えもあって、やっぱり美味しい。
黙々とお箸を動かしていると、眞人さんが「梅之介に話がある」と言った。
「何、眞人」
「俺、この店を一旦閉めて、榊さんのところに行くことにしたんだ」
「は」
お茶碗を置いた梅之介がわたしと眞人さんを交互に見る。
「ど、どういうことだよ」
「シロから聞いたけど、お前もここを出て行くつもりなんだろう? シロも、ここを出て行くことになった。だから、ちょうどいいと思うんだ」
「はあ⁉」
梅之介が立ち上がり、わたしを見下ろす。
「誰もいない家にわたしひとりいても仕方ないでしょ? だから、引っ越すの。アパートも、すぐに決まりそうなんだ」
「なんだよ、それ!」
怒りで目の周りを真っ赤にした梅之介が、眞人さんを見る。眞人さんは、梅之介の視線を真っ直ぐに受けた。
「何考えてるんだよ、眞人。こいつ、お前のこと好きなんだぞ? 分かってるだろ? それを捨てるのかよ」
「や、やめて、梅之介」
「シロはシロだ。俺は、恋愛感情なんて持ってない」
眞人さんが言うと、「はあ⁉」と梅之介が声を荒げる。
「何、逃げてるんだよ。馬鹿じゃないの? いいトシして、臆病になってんじゃねえよ!」
梅之介が、テーブルに力任せに手をつく。ばん、と大きな音がして、揺れる。汁椀が倒れて中身が零れた。
「あのクソ女と白路は違うだろ。こいつがお前を傷つける訳がないだろ!」
「やめて、梅之介!」
必死に、眞人さんに食ってかかる梅之介を止めた。
「わたし、納得してるから。これでいいの。だから止めて!」
「離せよ、白路!」
「好きになるのも自由だけど、好きにならないのも自由でしょ⁉ わたしは好かれなかった、それだけだから!」
今にも眞人さんに殴りかかりそうな梅之介の腕にしがみ付き、言う。
「バカ! 眞人はそんなんじゃない。こいつは……っ!」
梅之介が、ふっと力を抜いた。口を噤み、逆にわたしの手を掴む。
「来いよ、白路。もういい」
無理やりわたしを立ちあがらせて、梅之介は引いた。そのまま、店の外へと連れ出される。出て行く瞬間、眞人さんを見た。俯いた眞人さんの表情は、分からなかった。
「ま、待って……梅、之介。もっとゆっくり、歩いて!」
人気のない商店街をずんずんと歩き進む梅之介の足は速くて、追いつくのが精いっぱいだった。はあはあと呼吸をあげながら言う。
お店から随分離れた小さな公園でようやく、梅之介は足を止めた。錆びたブランコにわたしを無理やり座らせる。
わたしの前に立った梅之介は、ポケットからハンカチを取り出して、わたしに押し付けた。
「泣くなよ」
ハンカチを受け取ったわたしの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
「好かれなかった、とか、泣きながら言うなよ」
「ご、ごめ……」
ハンカチに顔を埋める。唇を噛んで、声を殺す。
好かれなかった。それは、本当のことだ。だけど、口にするだけでこんなに辛いとは思わなかった。
昨日必死に堪えた涙が、溢れて止まらない。
「お前、あいつに昨日なんて言われたんだ」
「……『飼い犬』として、好きだ、って」
歯を食いしばって、震える唇の隙間から言葉を落とす。
「それで、いいの。嫌われて、ないんだもん。だから、もういい、の……」
「バカか」
梅之介は吐き捨てるように言って、苛立ったように地面を蹴り上げた。
「で? お前は眞人のその言葉に納得しちゃったわけだな?」
納得? 納得、するしかないじゃない。こくりと頷いて答えた
「バカか」
もう一度吐き捨てて、梅之介は大きなため息をついた。わたしの隣のブランコにどさりと腰かける。
「僕には、訊く権利があると思う。昨日、どうなったのか言ってよ」
頷いたわたしは、しゃくりあげながら昨日の話をした。
「……飼い犬として傍に置いて、だって? 正気で言ってんのかよ」
梅之介が呆れた声を上げた。
「だって、もう最後だと思ったら……」
「そういうこと思いつくから、お前はあんなクソヒモ男にいいようにされるんだよ。もっと考えて物を言え。都合のいい女になるなよ」
梅之介はそう言って、頭を抱えた。
「眞人も眞人だ。それを認めるなよ……」
涙がようやく止まったわたしが、ず、と鼻を啜る。ごしごしとハンカチで涙を拭っているわたしの横で、梅之介はしばらく考え込んでいた。
結構な長い時間、梅之介は黙りこくっていた。そして、「もういい」と一言だけ呟いた。
「梅之介?」
「いや、なんでもない」
梅之介はすっと立ち上がって、わたしに手を差し出した。
「泣き止んだなら、帰ろう。薄着のままで出て来たから、寒いだろ」
「? うん」
手を取ると、梅之介が急にその手をぐっと引いた。よろけたわたしは梅之介の胸元に倒れ込む。
「わ、わあ!」
腕がするりとまわり、気付けばわたしは梅之介に抱きしめられていた。
「う、梅之介⁉」
「もう、眞人のことは忘れろ。僕が白路のそばにずっといる」
耳元で、梅之介が囁く。
「僕は、眞人も好きだよ。だから、白路が眞人と幸せになるのなら、それでいいと思った。自分の気持ちを伝えただけで満足してもいいと思ってた。だけど、眞人が白路を捨てるのなら、もう諦めない。かっさらってでも、僕のものにする」
「う、め……」
「何も言わないで。もう決めたから」
梅之介の肩越しに、夜空が見える。
わたしはそれを、呆然とする頭で眺めたのだった。
果てしなく感じた長い時の果て、梅之介がわたしを離した。
「梅之、介」
「『飼い犬』ごっこは、眞人がここにいる間だけだろう? その間、僕はもう何も言わない。眞人がいなくなるまでは、僕も、お前たちの馬鹿みたいな話に付き合ってあげる」
「いなくなる、まで」
「そう。それから先は、もう白路は僕のものだから」
有無を言わせない口調。真っ直ぐ射抜かれるような、強い意思のこもった瞳。しかしわたしはそれに頷くことはできなくて、ただ、梅之介を見つめ返していた。
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