傍にいられるなら、犬でいい【8】
その晩、二十一時を過ぎても眞人さんは帰って来なかった。
こんなこと、一緒に暮らし始めて初めてのことだ。
わたしがあんな告白をしたから、眞人さんは帰りづらいのかもしれない
わたしは部屋の隅で体育座りをして、延々と自己嫌悪の波に飲まれていた。
食事も摂ることなく、壁に向かって座ったわたしは延々と「わたしのバカ」と繰り返していた。口にしてはいけない想いだと分かっていて自分を戒めていたのに。なのにあんな場面で口にしてしまうなんて、最悪だ。
「ああ。もう、どうしよ……」
わたしがここにいたら、眞人さんはいつまでも帰って来られないかもしれない。
出て行った方が、いいのかな。でも、何も言わずに出て行くのも、違うよね。
眞人さんはわたしに本当に優しくしてくれた。その感謝を伝えてから、だよね。でも、お別れするなんて、心構えが全然できていない。何にも言えずに、絶対泣いてしまう。
「ほんとに、どうしよ……」
泣き出しそうになって、両膝に顔を埋めたとき、襖が鳴った。
「シロ? 僕だけど」
それは、梅之介の声だった。
そこで、はたと気づく。わたしはあれから、梅之介と満足に話すことなく自室に籠もってしまったのだった。眞人さんがいないいま、わたしが梅之介の食事の支度くらいするべきだったのに、そんなことも思いつかないなんて!
それに、小紅さんに自分の事情を不用意に明らかにされた上、傷の舐めあいと言われてしまったのだ。梅之介だって、きっと傷ついたに違いない。
なのに、わたしったら自分のことばかり考えていた。
「ご、ごめん! わたし……」
立ち上がり、慌てて襖を開ける。わたしを見下ろした梅之介は、「なんだ、意外に元気そうだな」と言った。
「まだ寝ないだろ?」
「……え? う、うん」
「夜桜、観に行かないか」
梅之介は、コンビニに誘うような軽さで言った。
「へ? よざくら?」
「うん。散り際で、綺麗だと思うからさ」
行こうよ、と重ねて言われ、頷いた。部屋の隅っこで悶々としているよりも、いいかもしれない。
「夜風は冷えるから、コート着てこいよ。玄関で待ってる」
「うん」
それから厚手のコートを着て、ポケットに小さなお財布を入れた。それから玄関へ向かうと、梅之介が待っていて「神社の方へ行こう。露店が出てるって話だぞ」と言う。
「やっぱり。だから、お財布持って来た」
「僕も。いか焼き食べようぜ」
「うん!」
それから、ふたりで並んで歩きだしたのだった。
平日とはいえ、神社の参道の桜並木にはたくさんの人がいた。みんな楽しそうにお酒を酌み交わしている。
「日本人は本当に桜が好きだな」
「だって綺麗だもん。夜桜も、風情があっていいよねえ」
わたしと梅之介は、途中の露店で買ったいか焼きとビールを手にのんびり歩いていた。
桜の花は散り始めており、風が吹く度に花弁が小雪のように舞った。外灯と提灯の光を受けたその光景はとても幻想的で、目を奪われてしまう。
「散り際は特に綺麗だよねえ。誘ってくれて、ありがとう」
やっぱり部屋に籠もってるよりずっといい。
盛り上がる花見の席を眺め、露店を冷やかしながらのんびりと歩いていると、梅之介がふいに「僕さ、眞人に会うまでは美容師してた」と言った。
「へ? 美容師?」
「そう。専門学校卒業して一年過ぎて、仕事を覚えて楽しくなってきたころだった。専門学校の時から付き合ってた彼女がいて、あと数年したら結婚とかしたいなあって考えてたんだ」
「……うん」
梅之介は、わたしに自分のことを話したかったのだろう。その為に、ここに誘ったのだ。それが分かって、わたしは静かに頷いた。
「美容師って、ほんと、驚くくらい給料安いんだけどさ。だけど、いつか自分の店を持って彼女とやって行きたいって思ってて。彼女もそれに賛成してくれてた」
「お家、日舞の家元なんでしょう? 家を継ぐとか、そう言う問題は、よかったの?」
訊くと、梅之介は頷いた。
「兄が二人いる。兄さんたちが家を継ぐことになっていて、僕は好きな道を歩んでいいって小さなころから言われてた。日舞はあんまり好きじゃなかったし、本当にそれは助かってたな。彼女もごくごく普通の家の子で、家に縛られることはないって言ったら喜んでたし」
「日舞って、難しいの?」
「まあね。シロには、難しいかもね」
ふふん、と笑う梅之介。むか、と声を上げたわたしの頭を手の平でポンポンと撫でる。
「でさ、まあ、結婚を見据えてたから、同棲とか始めちゃってさ。その流れで、両親に紹介したんだ。そこまでは本当に上手く行ってた」
「うん」
話を続ける梅之介の、綺麗な横顔を見上げる。夜空を見上げる顔は、辛い過去を思い出して歪んでいるわけではなく、どこか晴れ晴れとしていた。
「そんなある日、だよ。具合が悪くなって、仕事を早退したんだ。彼女はシフトが休みで部屋にいるはずで、だから僕は特に連絡もせずに帰った。当たり前だけど鍵を自分で開けて、中に入ったよね。『ただいまー』なんて、本当にお気楽に」
くすくすと梅之介が笑う。
「リビングに彼女の姿は無くて、だけどテーブルには二つのコーヒーカップが置かれてた。友達でも来て、そのまま出かけたのかな、なんて考えた間抜けな僕は、気分が悪かったからひと眠りしようと寝室に向かった。そこで見たものが、僕が帰ったことにも気づかずに抱き合ってるオヤジと彼女だったんだよね。ていうか、全裸の彼女がオヤジの上に跨ってた」
「う、あ……」
呻き声のようなものが出た。それってすごい修羅場だ。
自分のベッドの上で、別の男(しかも実父)が彼女と真っ最中だなんて、辛すぎる。ありえない。
自分がその立場だったらと考えるだけで、頭が禿げ上がってしまいそうだ。
「頭真っ白だったよね。だってそれはもうどんな言い訳もしようもない場面でさ」
「それで、梅之介はどうしたの?」
思わず訊いてしまう。本当だったら遠慮してしまう内容だけれど、梅之介が余りにもあっさり言うものだから、つられたのだ。
「ケータイ取り出して、ふたりを写メって僕の母親の携帯に送りつけた」
くつりと笑う梅之介に、口がぽかんと開いた。その場面で、それができるなんて、すごい。さすが梅之介と言うしかない。
「やめろ! なんてオヤジは言うんだけど、不幸にも狼狽えた彼女がまだ上に乗っかってるもんだから動けないでやんの。送信完了を確認してから、ケータイを二人に投げつけて出て来てやった」
手抜きも一切なしである。土壇場でのその判断力に、拍手を贈りたい。
「そんな流れだから、部屋にはもう帰りたくない。オヤジも寝てたベッドで寝るなんて、死んでもごめんだからね。それに、実家にも戻りたくない。友達を頼ろうにも、ケータイはあいつらに投げつけてしまってるから、連絡の取りようがない。バッグの中に入っていた財布だけが僕の全財産だったんだ」
「ほ、おお」
想像以上に、壮絶だった。
こんな話、そりゃおいそれと話して聞かせられないよ。いままで不用意に訊いて悪かったなと本当に反省する。
「で、とりあえず今後のことを考えようと目についた店に入ってご飯食べてたわけ。正直食欲なんて全然なかったんだけど、すげえ美味くてさ。気付いたら完食してた。それが、『四宮』だった」
それからの話は、いつかに眞人さんに教えてもらった内容と一緒だった。
「親も彼女も誰も信用できない。本当に、最初は世の中全部が憎かった。だけど」
ふっと梅之介が足を止めた。
話しながら歩いていて、いつの間にかわたしたちは境内まで来ていた。外の参道の騒がしさと切り離された境内は、静かに花見を楽しむ人が数人いるだけで空気がしんとしている。
耳を澄ませば、花弁の落ちる音まで聞こえるのではないかと思った、
梅之介が、わたしの頭に手を伸ばした。摘み上げるのは小さな花弁。
「それから今まで約一年半、あそこに住んでさ。すごく楽だったなあ。眞人はいい奴だし、ご飯は美味しいし。お前みたいな面白い同居人は増えるし。女もいい奴がいるよなって、思えるようになった」
「うん」
「だけど、いつまでも眞人に甘えているわけにも、いかないよなあ。昼間のブスの言葉、実は結構胸にきた」
ぽつんと言葉を落とした梅之介。昼間の小紅さんの言葉だろう。彼女は、梅之介を随分馬鹿にした。
「あんなの、気にすることないよ」
「いや、あのブス、悔しいことに正論なんだよな……」
口を噤んだ梅之介が、わたしをじっと見つめる。
「梅之介?」
「僕、四宮家を出て、一度実家に帰る。そしてあのクソオヤジとケリつけて、改めて自立するよ。美容師に戻る」
梅之介はわたしを見つめたまま、真剣な口調で続けた。
「もう、傷ついたって言って逃げ込むのやめる。あんな女に馬鹿にされるの、二度と御免だから」
「……頑張って」
心の底からそう思って、言った。だけど、心のどこかで悲しんでいる自分がいる。だってこれは、梅之介があの家を出て行くという決意の告白なのだ。
梅之介が、いなくなってしまう。もう一緒に生活ができない。それはなんて、寂しいことなのだろう。
だけど、わたしに梅之介の決意を止めることはできないし、何よりこれは止めることではない。応援するべきこと。
「わたし、応援するよ」
「うん。見てて。僕、白路に見ていてほしいんだ」
梅之介が、わたしの手を取り、摘まんだ花弁をそっと手の平に乗せた。
「白路に応援されているって思ったら、嫌なことも全部終わらせられる。だから、見ていてよ」
「任せてよ。わたし、全力で応援するから。梅之介の輝かしい第一歩だもんね」
花弁を握って、笑顔を作った。
梅之介には、これまでたくさん助けられてきた。梅之介のお蔭で、わたしはとても楽しい生活を送ることができた。その恩を少しでも返せるのなら、わたしはどれだけでも梅之介を応援しよう。
これは、梅之介の新しい門出なのだから。
一陣の風が吹いた。強い突風のようなそれは散った花弁をも巻き上げる。花弁が吹雪のように舞う。
「ひゃあ、すごい風だね……って、梅之、介?」
ぱちぱちと瞬きをしたわたしを、梅之介が見下ろしていた。その顔は、びっくりするくらい優しくて、そしてそっと微笑んでいた。
「お前、本当に、馬鹿だな」
口調も穏やかで、しかしその声音はとびきり優しい。
「……はっきり言わないとだめか。僕は、白路が好きだよ」
「梅……」
「気付いたら、すごく好きになってた」
「は」
頭が真っ白になる。
梅之介が、わたしを?
だって、いつもあんなにファンキーブスだとか愚図だとか言っていて。
そんな、嘘でしょう?
だけど、梅之介はいつだってわたしを助けてくれた。わたしを見守ってくれた。
それに、目の前の瞳は本当に優しくて、声も嘘なんか全然滲んでいない。ちゃんと、本心だって伝わってくる
驚きすぎて声にならない。全身に梅之介の本気が伝わっているくせに、頭の中では信じられないって叫んでいる。
口をパクパクさせるしかないわたしを見て、梅之介が言う。
「ああ、心配すんなよ? 返事をくれなんて言わない。お前の気持ちは知ってるし。僕が言いたくなったから、言っただけなんだ」
ああ、いや、と言い足す。
「ちゃんと自立してから、もう一度言うことにするかな。いまの僕は、あのヒモクズの元彼と同じようなスペックだもんな」
「そんな……。梅之介は、達也とは全然違うよ……」
そこだけはちゃんと訂正を入れなきゃ。のろのろと言うと、「当たり前だろ」と梅之介が唇を尖らせた。
「僕の方が断然かっこいいし。それに、頑張ろうという向上心だってあるんだぞ」
「は、はあ。ええと、はい」
どうしよう。なんて言えばいいんだろう。なんて反応すればいいんだろう。
おろおろしていると、梅之介が鼻を鳴らした。
「動揺しすぎだろ。お前、全然想定してなかったのかよ。何とも思ってない女に親切にするほど、僕は博愛精神に富んでないぞ」
「あ、あう」
そ、想定って何。そんなのするわけないじゃん。だって、そんなことあるなんて、思いもしないじゃない。
そんなわたしを見て、梅之介はため息をついた。
「まあ、分かってたけどさ。でも、少しくらい意識しとけよ、バカ白路」
「あ……ごめんなさい」
「いいよ別に。これでもう、知らん顔は出来ないだろうからな。これからは少しくらい、僕を意識して戸惑え」
ふん、と余裕ありげに笑う顔は、いつもの梅之介のものだった。
「ああ、すっきりした。さ、帰ろう。肌寒くなってきたし」
すっきり。すっきりって、わたしは全然すっきりしないんですけど。むしろ、もやもやが増えたんですけど。
これから、どんな態度で梅之介と接したらいいの。分かんないよ。
脳内で大騒ぎをしていると、梅之介がわたしに「ほら、帰るぞ」と言う。
「白路はもういい年なんだから、早く寝ないと肌がやられるだろ。目の下、縮緬ジワが出来るぞ」
「むか」
小じわ対策に勤しむ二十七歳に、なんて暴言を吐くのか。
「おねむの時間になった子どもに言われたくありません。子どもはもう寝る時間だもんね」
「きー! 心配して言ってやったっていうのに! なんだそれ」
梅之介が怒った顔をする。そんな梅之介にべ、と舌を出して見せながら、ほっとしている自分がいた。
ああ、今まで通りでいいんだ。梅之介は、今まで通りでいいって言ってくれてる。
わたしは狡い。
梅之介の気持ちはすごく嬉しくて、でも、それに応えられないって分かってる。なのに、梅之介と変わらず仲良くしたいと思ってて、こうして、『今まで通り』を許されたらそれに甘えてしまう。
だって、梅之介はわたしにとって、とても大切なひとなのだ。できれば、失いたくない。
「……ねえ、梅之介。わたし、まだ甘えてていいの?」
見上げて訊けば、梅之介は目を見開いた。それから、「ああ」と頷いた。
「いいよ。僕もお前の返事なんて聞きたくないし、お前と仲良くしていたい」
「……うん」
そっと笑って、「ありがとう」と小さくお礼を言った。
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