傍にいられるなら、犬でいい【7】
「は? 眞人、何言ってるの?」
「もうお前のことは愛していないと言えば理解してくれるか? 俺はもう、お前のことなんて何とも思ってないよ」
はっきりと眞人さんが言うと、彼女は「嫌よ!」と叫んだ。
「どうして? どうしてこの間からそういう意地悪を言うの? いつだって私の我儘を聞いてくれたじゃない! 私が一番だって言ってくれたじゃない! もうやめてよ!」
立ち上がり、ヒステリックに叫ぶ。その顔にははっきりと「信じられない」と書いてあった。彼女はここまでひとを踏みにじるような事をしていてなお、眞人さんに愛されていると思っている。
「ねえ眞人、もう意地悪しないでよ! 私がこんなに嫌がってるのに、どうしてわかってくれないの⁉ 私がここまでしてあげているのよ。わかってよ」
綺麗な顔を歪ませ、大きな瞳からぽろぽろと涙を零す。
彼女はきっと、愛されすぎて育ったんだろう。自分を否定されたことなんてきっとなくて、だから眞人さんの拒絶が理解できないでいる。
眞人さんを裏切っても、それでも愛されて当然だと思う彼女の愚かさが、哀しい。
「小紅さん。もう、帰りましょう。ここにいても、お互い傷つくだけです……」
浦部さんがおろおろと小紅さんを宥める。しかし彼女は泣きじゃくって、話を聞こうとしない。小紅さんが、眞人さんの後ろにいるわたしを見た。涙で濡れた目元をぐっと拭って、わたしをまじまじと見る。
「な、何ですか?」
「このひとのせいなの⁉」
小紅さんがわたしを指差した。
「ねえ眞人、もしかしてこのひととそういう関係なの? 私よりこんなひとの方がいいっていうの?」
涙声で眞人さんに迫る。しかし眞人さんはまだ冷静なままだった。
「誰かに心変わりしたとか、そんな簡単な話じゃない。いい加減分かってくれよ」
「やっぱりこのひとのせいなんだ! ねえ、どうしてこんなひとがいいの? 私より年取ってるし、ブスじゃない!」
眞人さんがため息をついて、「浦部さん」と言う。
「もう、話にならないって分かったでしょう? 彼女を連れて帰ってください。そして、もう二度とここに来ないでくれ」
「……考えなしだったのは、私でした。すみません。こんなことになるとは、思いもよりませんでした」
拾い上げた書類を胸に抱いた浦部さんが、深く頭を下げる。
「小紅さん、帰りましょう」
「嫌よ! ねえ、あなたが私から眞人を盗ったの?」
肩にかけられた浦部さんの手を振り払って小紅さんが言う。
「返してよ! あなたみたいなひとが眞人に何をしてあげられるっていうの? 何にもできないくせに!」
眞人さんが立ち上がり、「小紅!」と声を張る。その眞人さんを押しやって、わたしは彼女の前に出た。
「何よ」
「……あなたはもう、眞人さんに与える側じゃないよ。全てを奪った側なんだよ。優しさや温もり、そしてそれを信じる心を、あなたは眞人さんから奪ったの。あなたが今、眞人さんに与えているのは、哀しみと苦しみだけだよ」
わたしの言葉は、彼女には届かないかもしれない。だけど、私は続けた。
「そんなに眞人さんが欲しいなら、どうして彼をひとりにしたの。あなたはかつて、彼の欲しい物を全部あげられたのに、どうしてそれを嘘にしたの」
「たった一度の我儘よ! たったそれだけじゃない」
「たった? それだけ? それは、違うでしょ。たった一度の裏切りが、人の心を殺すんだよ」
小紅さんが浦部さんに縋って「このひとをどうにかしてよ」と言う。浦部さんは黙って首を横に振った。
「ねえ、小紅さん。あなたは本当に眞人さんのことが好きなの? 愛してるの? 本当に眞人さんを想っていたら、絶対やらない間違いをあなたは犯してるんだよ?」
「当たり前でしょ⁉ 私は眞人のことを本当に好きなの。あなたこそ私に偉そうにお説教してるけど、眞人のこと好きなの? 本当に大事に思ってるの?」
眞人さんがわたしを見るのが分かった。
考えたのは、一瞬だった。わたしははっきりと、彼女に向かって言った。
「わたしは世界中の誰よりも、眞人さんが好きだよ。大好き。あなたなんかよりよほど、想ってる」
はっきりと返されると思わなかったのか、小紅さんが目を見開いた。しかしすぐに、顔をひきつらせながら笑う。
「私より、なんておかしい事言わないで。私は眞人のことを誰よりも」
「誰よりも深く傷つけたんでしょ。そして、こんなとこまでやって来て、彼が塞ごうと努力していた傷口を無理やり開いてる。負け犬負け犬と言うけど、彼を傷つけたあなただけはその言葉を口にしないで。本当に眞人さんのことを想うのなら、今すぐ帰りなさい」
「嫌よ! 私に命令しないで!」
小紅さんが叫ぶ。ああ、やっぱり彼女にはなにも伝わらない。
前回のように無理やりにでも外に追い出してしまおうかと思った、その時だった。
店の引き戸がからりと開いた。
「みっともない。外まで声が聞こえましたよ。小紅、これはどういうことですか」
入って来たのは、江戸小紋をすっきりと着こなした四十すぎの女性だった。女性の後ろから、グレーのスーツを着た上品そうな初老の男性が続く。
「お母様!」
「旦那様、女将!」
小紅さんと浦部さんが揃って声を上げる。このふたりはどうやら、小紅さんの両親であるらしかった。
わたしたちに会釈をした母親らしき女性が、小紅さんの元へ行く。
「小紅、この騒ぎはどういうことですか。あなたには、四宮さんとの一切の接触を禁じていたはずでしょう?」
凛とした佇まいで、声にも張りがある。高級料亭の女将とはなるほどと思う貫禄だった。
さっきまで泣きじゃくっていた小紅さんが、涙を拭いて「でも……でも……」と口ごもる。小紅さんの母が眞人さんに頭を下げる。
「四宮さん、娘が申し訳ありません。すぐ、帰らせますので」
それから、娘に向き合った母は声音を厳しく言い放った。
「小紅。あなたの結婚話を纏めてきました。鶴岡県議の御子息です。さっきお会いして来たけれど、お優しそうなとても感じの良い青年でしたよ。秋には先方に嫁いでもらいますので、そのつもりでいなさい」
小紅さんが、涙を拭く手を止めた。大きな目を見開き「え?」と問い返す。
「私が、嫁ぐ? どうしてよ、お母様。私がいなくなったら。『華蔵』はどうするの? 跡取りがいなくなるわ」
「おまえの従姉妹の
父親が言い添えると、小紅さんの顔色が青くなった。唇がわなわなと震える。
「い、いやよ、お母様。嘘でしょう? 私は絶対嫁いだりしないもの。眞人を連れて帰るの。眞人と華蔵に……」
ね、眞人。と小紅さんが眞人さんに縋るような視線を投げる。眞人さんはゆっくりと、首を横に振った。
「そんな馬鹿げたことが、できるわけないでしょう。あんな別れ方をした男性がどうして結婚を了承するというの? 仮に結婚に持ち込んだとして、誰があなたを祝福してくれるというの。我儘娘がまた我儘を通したと、笑い物になるだけです」
ぴしりと言い捨てて、母親は続けた。
「あなたはあの愚行のせいで、全てのひとからの信用を失っているのよ。あなただけじゃない。私たちも、もちろん『華蔵』も。信用を取り戻すには、膨大な努力と時間が必要なの。後継ぎを香子にしたのも、新しい『華蔵』として信用を取り戻していく為よ」
「だからって、どうして私が結婚しなくちゃいけないの!?」
「嫌だと言うのなら、お断りしましょう。でも、それならば家をでてひとりで生きていきなさい。あの家はいずれは香子たち夫婦の物。あなたのいる場所は、なくなるのよ」
小紅さんが、ペタンと床に座り込んだ。両手で顔を覆い、「嫌よ、嫌よ」と繰り返しながら泣き始める。
「もっと早く、突き放すべきだったの。やっと生まれた一人娘のあなたを私たちが甘やかし過ぎたせいで、こうなってしまったのね」
子供のように泣きじゃくる娘を見下ろして、母親がため息をつく。
「ほら、小紅。外に車を待たせている。父さんと一緒に行こう」
父親が小紅さんの肩に手をかける。
「ほら、立ちなさい。ああ、浦部。君にはここまで付き合わせてすまなかったね。さあ、君も一緒に来なさい」
イヤイヤと首を振って泣く小紅さんだったが、父親と浦部さんに抱きかかえられるようにして立ち上がる。
「眞人!」
出入口を出る瞬間、彼女が振り返って眞人さんの名前を呼ぶ。眞人さんは、「元気で」と短く返しただけだった。
最後の希望を断ち切られた彼女が、再び泣き声を上げる。
しかしそれも、すぐに消えた。
引き戸が閉じたのを確認してから、小紅さんのお母さんが私たち三人に向き直った。
「娘がご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。二度とこのようなことはさせませんので、どうか穏便に済ませていただけないでしょうか」
「女将、顔を上げて下さい。これで終わったのなら、充分ですから」
眞人さんが慌てて言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。そっと笑う顔は綺麗で、小紅さんは母親似なのだと分かった。
「ありがとう。元気だった? 四宮くん」
「ええ、見ての通りです」
「あなたの活躍、耳にしていました。あれからも頑張っているのね。嬉しいわ。お店もきちんと手入れしてあって、好感が持てるわ。ただ、少し季節を感じさせるような小物を置くといいわね」
ぐるりと店内を見回して言う彼女に、眞人さんが少し恥ずかしそうに頭を掻く。
「はい、わかりました。まだまだ未熟な点が多くて、お恥ずかしい限りです」
「そんなことないわ。でも、完璧な料理人にして送り出したかったとは、思う。あの子のせいであなたの道を狭めてしまったこと、今でも申し訳なく思っているの」
「女将、さん……」
「今日ここへ来たのは、小紅を連れ帰るだけが目的じゃないの。私個人も、用件があったのよ」
小紅さんのお母さんは、ハンドバッグから一通の便箋を取り出した。
「長く『華蔵』の板場を仕切ってくれていた榊さんが、退職することになりました。田舎に戻って、奥様と二人で小さなお店を始めるんですって。もう、後進を育てることはしないと言っています」
「榊さんが、ですか……⁉」
「ええ。奥様とのんびり料理を作っていきたいというのを止められないでしょう? 『華蔵』にとっては大きな痛手だけれど、仕方ないわ」
哀しそうに笑って、お母さんは便箋を眞人さんに差し出した。
「それでね、お店の立ち上がりは色々忙しいだろうから男手が欲しいと榊さんが言っているの。料理の心得のあるひとを探してくれないかって頼まれたんだけど、私が思いつくのはひとりしかいなかった。これが、榊さんの連絡先よ。移住先の住所も書いてある」
「え……? それ、って」
言葉の出ない眞人さんに、小紅さんのお母さんがにこりとほほ笑んだ。
「ああ、まどろっこしい言い方はやめましょうね。はっきり言うわ。榊さんの唯一の心残りがあなた、四宮さんなの。それで、あなたさえよかったら、もう一度自分の下で学ばないか、と。このお店のこともあるだろうから、無理強いはしないと言っていたわ。だけど、榊さんの元で成長できる最後のチャンスだと思う。よく、考えて頂戴」
机の上に便箋を置き、彼女はもう一度私たち三人に頭を下げた。
「二度と、小紅をここへはやりません。御不快にさせて申し訳ありませんでした。では、失礼します」
優雅に会釈をして、彼女は店を出て行った。
訪問者のいなくなった店内で、わたしたち三人は言葉もなく立ち尽くした。
「……ちょっと、出てくる」
最初に言葉を発したのは、渡された便箋をじっと見つめていた眞人さんだった。テーブルに便箋を置き、ふらりと店を出て行く。わたしも梅之介も、その背中に声はかけられなかった。
引き戸が音もなく閉じられたのと変わらないタイミングで、梅之介が椅子にどさりと座り込んだ。天井を仰ぎ、「何なんだよ、この怒涛の出来事は」と言葉を吐きだす。
「色々一気に起こりすぎて、ついていけないよ」
はあ、と大きなため息をついた梅之介がわたしに椅子を押しやる。
「お前も座れよ」
「あ、うん……」
のろのろと腰かける。背もたれに体を預け、わたしもため息を一回吐いた。
沈黙が広がり、かちかちという時計の針の音がやけに大きく聞こえる。そんな中、梅之介がぽつりと言った。
「お前、言っちゃったな」
「……うん」
「弁解の余地、ないな」
「うん」
小紅さんの言葉の勢いにのって、言ってしまった。
そして、見てしまった。
わたしが眞人さんへの想いを口にした瞬間の、眞人さんの表情を。
わたしが自分のことを想っているなんて、思いもしなかったのだろう。ありえない、という顔をしていた。あんな顔させたくなかったのに。なのに、口にしてしまった。わたしはなんてバカなんだろう。
「わたし、眞人さんに嫌われちゃうかな……。だって、飼い犬ですーなんて顔して、本当は眞人さんのこと好きだったんだもん。裏切ったんだよね」
「好きになるのは、仕方ないだろ。ひとを好きになるのは、避けようがないんだからさ」
「ん……」
だけど、やっぱりわたしは眞人さんを欺いていたわけで、それが彼を傷つけていたらどうしようと思う。
梅之介ががたりと立ち上がった。テーブルの上に置かれたままだった便箋を取り上げて、開く。
「梅之介」
「いいんだよ。置いて行ったってことは、見ても構わないってことだから」
ざっと視線を走らせた梅之介が、片方の口角を歪に持ち上げる
「……ふん、青森かよ。すげえ、遠いな」
青森。その距離に絶望する。
もし眞人さんが行くのだとしたら、ここから確実にいなくなってしまう。
「行くのかな、眞人……」
小さく梅之介が呟く。
行くと、わたしは思う。だって、行かない理由がないもの。
でも、眞人さんが「行く」と決めたとき、それは三人でのこの生活の終わりを意味する。
わたしたちのこの生活が、終わり。背中がぞくりと冷える。そんなの嫌だ。だけど。
いつか来るかもしれないと思っていた終わりの日が、いきなりやって来たことに、わたしは何も言えずにいた。
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